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識字教育は終わらない(2)(2024)

6 文字の登場
 文字の読み書きは学校教育を通じないと習得するのが難しい。そう考えると、文字の共時的・通時的共有は教育制度が可能にしている。そういった教育システムを持たなければ、たとえ生まれたとしても、文字は存続できない。

 四大文明で文字が使用されていたとすれば、そこにはそれを教え学ぶ教育システムが機能していたことを推測させる。比較的規模の大きい国家が政治・宗教・経済を維持運営するために文字を必要だとしても、インカ帝国はそれを持っていない。支配者層はキープと呼ばれる色鮮やかな結び縄を用いて行政管理や徴税記録、商取引を行っている。キープは色や太さが異なった紐を結んで作られ、色や結び目で数を表現している。しかし、それは言語に依存しない記号なので、文字ではない。キープは特定の用途に限定された非言語的記号で、かつての証券取引所の場立ちが使っていた手サインと似たようなものであり、計算はともかく、習得に何年もかかるものではない。帝国のエリート層は「ヤチャワシ(Yachaywasi)」と呼ばれる施設で教育を受けている。文字がなく、読み書きを学ばないので、天文学や歴史などの知識や情報の学習は丸暗記である。口伝なので、筆記用具も教科書もない。インカ帝国は文字を使わず、広大な領域を支配している。

 文字の使用には教育コストがかかるが、それを上回る利得が共同体としてあるから、四大文明はある時代にその言語的記号体系を持つようになったのだろう。四大文明で文字が使用されていたとしても、時期を始め特徴が異なっている。ただし、使用していたのはエリート層だけで、内容や用途は、不明な点もあるが、おそらく宗教や行政、経済だったと思われる。

 エジプト文明の象形文字はヒエログリフとヒエラティック、デモティックに大別され、前320年~後400年ごろに使用されている。使われた期間が長いため、他の言語・文字と併記された史料が発見され、それを手掛かりに解読されている。

 メソポタミア文明の楔形文字は前3500年~後1世紀に使用されている。これはシュメール人が自らの言語を表記する目的で使っていたが、周辺地域に伝播、各民族が自身の言語用に改良を加えたため、さまざまなバリエーションが生まれている。長い使用期間により他の言語・文字と併用した史料が遺されており、それを手掛かりに解読が進んでいる。

 インダス文明のインダス文字は前2600年~前1900年頃に使用されていた文字である。他の言語・文字との併用した史料が見つかっていないこともあり、ある程度文法についてわかっているものの、未解読である。

 中国文明の甲骨文字は前1300年頃に使用され、漢字のルーツの一つである。すこし後の青銅器に記された金分や石碑に刻まれた石文、司馬遷の『史記』などを手掛かりに解読が進められ、6割程度達成している。

 このうち、楔形文字に関してはそのお前史から比較的解明されている。それは文字の読み書きについて考える際に示唆を与えてくれる。

 世界最古の文字とされているのは、メソポタミアで誕生した「ウルク古拙文字」である。これは絵文字もしくは記号のようなもので、時を経てて楔形文字の体系が形成される。文字誕生のきっかけと考えられているのが紀元前8000年ごろから使われてきたトークンである。「トークン(Token)」は「印」や「代用貨幣」という意味で、農作物や家畜、工芸品などの取引や管理に使用されている。それは財の出納管理が文字に代わる前3000年ごろまで使われている。

 トークンの材質は粘土で、サイズは1~5センチメートルのものが多い。初期のトークンは球や円錐、円盤、円筒などの形で、各々が物品の種類や数量を示している。その後、 社会が発展し、取引が複雑化するにつれ、トークンの形状が多様化、さらに線や模様が彫られるようになる。前者をプレイン・トークン、後者をコンプレックス・トークンと呼ぶ。

 トークンの使用例を紹介しよう。種まきの時期なのに、大麦が不足したので、3単位量を借りるとする。借り手は大麦を受け取る代わりに貸し手二トークンを渡す。円錐形のトークン1枚が大麦1単位を表わす。収穫を終えたら、債務者は債権者に借りた大麦を返し、その代わりにトークンを受け取る。

 ジョン・メイナード・ケインズは『貨幣論』において貨幣の起源を借用の印に見出している。売買取引ではなく、信用取引から貨幣が生まれたというわけだ。もしそうなら、貨幣と文字は同じルーツを持っていることになる。

 このように、トークンは借用書としても利用されている。貸し借りには勘違いやごまかしがつきものなので、トークンを「ブル」と呼ばれる粘土袋の封筒に入れてそれを防止するようになる。けれども、封印してしまうので、中に何が入っているかは開けてみないとわからない。そこで、前3500年頃、ブルの外側にトークンの形状を刻印する方法が用いられる。さらに、前3100年頃になると、トークンの記号を粘土板の表面に直接刻む方法が登場する。これにより、物理的なトークンを使わずに取引内容を記録することが可能になる。 これが進化して、楔形文字の誕生に寄与する。

 前3400年~3300年頃、ウル九で、「ウルク古拙文字」と呼ばれるピクトグラムが使用され、この絵文字が楔形文字誕生のステップとして機能する。ウルク古拙文字は 牛や穀物、容器など具体的な形状を持つ物を簡略化した絵で表わすもので、粘土板に刻んで使われる。用途は主に経済的な取引や徴税、行政管理の記録である。その後、ピクトグラムがより抽象的な形に変化し、物や概念をより効率的に表現するための簡略化が行われる。この過程の中で直観的に理解できる具象的な記号から言語と結びついたものへと変わっていく。前3200年頃、絵文字がより抽象的な記号に進化し、粘土板に刻まれる際に楔形の印象を持つようになる。これはスタイラスと呼ばれる先の尖った葦の茎を使って粘土に押しこむ筆記法の発明から発展している。 記号がより明確かつ一貫して表現できるようになり、初期の経済的記録から法律や文学、行政文書、科学的記録などさまざまな用途に使われ始める。前3000頃年~前2500年頃には、 楔形文字はさらに洗練され、音節文字や表意文字としても使われ、より複雑な概念や言語表現が可能となる。文法規則や構文が発展し、文学を始め複雑な文章を記述する可能性が広がっていく。

 トークンから楔形文字への歴史をたどると、他の文字も同様の過程を経るかはともかく、文字誕生の軌跡が見えてくる。直観的に理解できる具象的記号が社会の多様化・複雑化に伴い、その変化に対応するため、簡略化・抽象化へと進む。それは直観的理解から離れるため、言語に接近していく。かくして記号は言語を視覚的に表現する文字へと進化する。ただ、当初は必要最小限の情報の記録で、単語や短文の記載程度である。しかし、文字を言語により対応させるため、文法を明示化する。それを経て、文字による表記は書き言葉として発展する。

 キープは、絵文字に比べて、抽象度が高い。色と太さの組み合わせで物品の種類や数量を示す結び縄は多様化・複雑化に対応できるので、文字へ発展する動機付けがない。習得も、文字を使いこなせるようになることと比較すれば、容易である。それは国家としての教育コストをを費やす必要がない。あまりに合理的なキープを発明したがゆえに、インカ帝国が文字を持たなかったとしても、不思議ではない。

 すでに述べた通り、文字が共時的・通時的に共有されるためにはそれを学ぶ教育システムが必須である。言語に依存しない記号であれば、そうした学習は必要ない。しかし、『ギルガメシュ叙事詩』のような文学作品を記述するには、読み書きの学習が不可欠である。

 古代メソポタミアには文字の読み書きを教える学校「エドゥッバ(E-dubba)」が存在している。それは「粘土板の家」を意味し、粘土板に書かれた文字の読み書きや記録の方法を学ぶ場で、主に書記官を養成するための教育機関として機能している。

 エドゥッバは都市国家の中心部に設置され、寺院や王宮に付属することが多い。これらの学校は宗教や国家行政と密接に関わっている。 初期の段階では、学生たちは楔形文字を粘土板に刻む技術を学ぶ。カリキュラムはピクトグラムから楔形文字、文法、文章構成まで幅広い。 書記官としての役割を果たすために、数学や法制度、商業記録、文学なども教えられている。また、 神話や詩、賛歌などの文学作品も扱い、宗教的なテキストや儀式の記録にも対応できるようになる。

 教師は経験豊富な書記官や学者で、彼らが持つ知識と技術を次の世代に伝える。 主に上流階級の子供たちが通い、将来の行政官や書記官としてのキャリアを目指している。教育は厳しく、学生たちは長時間にわたり訓練を受けている。筆記用具は粘土板にスタイラスである。さまざまな分野を文字によって学ぶのだから、大量に文章を書く必要がある。そのため、教育で使われた粘土板の多くが発掘され、それらが古代の教育内容や方法を現代に伝えている。既存の文書や定型文、法律文書、文学作品などが手本として使われ、学生はこれを模写して学んでいる。読み書きの学習は手間暇だけでなく、筆記用具や手本の資源も要るので、そのコストの負担に耐えられる豊かさが国家には不可欠だ。

 古代人は、近代人と違い、自身の内面を表現するために文字を使ったりはしない。彼らは共同体主義の時代を生きている。共同体が先にあり、それが認める規範を共有する個々人がそこに内属する。規範を守る義務の対価として権利が共同体から個人に付与される。規範の説くよい生き方をすることが個人にとっての幸福だ。政治も経済もその徳の実践をすることが目的である。

 文字によって書かれた文章も共同体の規範に従っていなければならない。特定の用途に限定されていた記号が言語と結びつく時、それは汎用性を獲得する。しかし、文字の使用は私的ではなく、公的場面に限定されるので、内容は儀礼的にならざるを得ない。それは定型的である。文字の読み書きの学習は定型文の習得である。

 現在でも、書式鑑《しょしきかがみ》や書鑑《しょかがみ》と呼ばれる仏教関連の書籍が出版されている。これは仏教の各宗派が用いる書翰・拝請文、及び法要・行事に用いる書式を集めた本である。目的や状況、立場に応じて挙げられている語句を示された順序に従ってつなげていくと、仏教儀礼にふさわしい形式の整った礼儀正しい文章が出来上がる。

 こうした定型文を手本として繰り返して朗読・模写することで読み書きを学習する。これは古代から前近代全般に通じる識字教育のスタイルだろう。言うまでもなく、それが型通りに正しいかどうか添削指導する教師も必要だ。こういう教育システムの存在が文字を可能にする。文字の誕生は意図的教育の制度を前提にする。そういう教育を受ける人が少ないのdから、前近代の識字率は低い。

6 『一匹と九十九匹と』
 文字が共時的・通時的に共有されるためにはカリキュラムに基づく教育システムが必要である。しかも、自由に読み書きができるようになるまでに長い時間を要する。前近代において文字を持たない国家や共同体も多い。また、文字の使用されている社会であっても、識字力があるのはエリート層だけで、概して庶民にはない。

 もちろん、例外もある。既存の文字を参考に、共同体が独自の文字を発明し、内部の意思疎通・情報共有に用いるケースもある。中国の湖南省江永県上江墟郷一帯で発見された女性だけに伝わる女性文字「女書(ニューシュ)」はその好例である。斜めの菱形をしており、漢字の変種とみられる字形だが、表音文字である。女性たちの間で文字習得の学習システムが機能している。

 近代は文字を前提にした時代で、公教育における読み書きの学習を最重要視している。これには近代の理念や国民国家の目標が絡み合っている。いずれにしても、近代の政治・経済・社会は人々の間の識字力の拡充と共に発展している。

 それは文学も同様である。文学作品は、作家が文字を通じて書き、読者に届けられる。書き手は自らの思想や心情を文章で表現し、それを読み手が文字を通して理解する。読者が作品を読む能力がなければ、文学は人間の経験や感情の表現を共有することができない。前近代では口承文学も共同体において重要な役割を果たしているが、近代に入ると、それを文字として記録する試みが進められる。近代文学は文字によって文学史を再構成する。

 近代において、印刷技術の発展や出版業の成長により、文学作品は広く流通するようになる。小説や詩、批評などが大量に出版され、多くの人々に読まれるようになったことで、文学が文化や社会に与える影響も拡大する。文字は、その読み書きができるのであれば、人や場に依存しないため、時空間が障壁になりにくい。

 その近代文学作品自体が読み書き教育のテキストとして用いられる。それは教育の一環として教科書や資料に取り上げられ、学校で学ばれる。文学作品は歴史、文化、倫理、心理学など多様な観点から教育的に重視されている。価値観の選択が個人に委ねられている近代の文学は、読者が作品を読み解き、解釈することが求められる。読み手が自分なりの理解を持ち、それを他者と共有することで、文学は生きた文化として機能する。こうした文学作品を理解することが現代人にとっての不可欠なリテラシーというわけだ。

 このように、近代文学はリテラシーを基本にしており、これが文学の創作・鑑賞・消費・普及・教育において重要な役割を果たしている。しかし、その識字に対する認識が近年の日本文学には乏しい。読み書きのできない人が社会に少なくないという状況に応える作品をあまり見かけない。

 しかも、それは政治の動きよりも鈍い。かつて福田恆存は『一匹と九十九匹と』において、『ルカによる福音書』15章4節の「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」を引き、文学と政治の役割の違いについて論じている。今や文学はそれを軽視しているように見える。

 福田恆存は、一般的なキリスト教解釈と異なるだろうと前置きしつつ、その件について次のように述べている。

…かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのに相違ない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか──イエスはさう反問してゐる。…ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかゝづらはざるをえない人間のひとりである。もし文学も──いや、文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。

 この1947年の批評は当時勢いづくプロレタリア文学派の政治性に対する批判を意図している。文学は政治に奉仕すべきだとして特定のイデオロギーに沿った作品を彼らは提唱する。しかし、政治目的の下に図式化された内容の作品では、「この失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか」と 福田恆存は問いただす。

 政治と宗教が一体化した宗教戦争の惨禍を教訓に、近代は政教分離を最も基本的原理とする。政治は公、信仰は私の領域に属し、相互に干渉してはならない。これは価値観の選択が個人に委ねられたことを意味する。近代文学はこの原理に則って内面の自由として独自の価値観を表現する。

 政治は正義、すなわち社会的公正さを実現するために行動する。政治権力が自身の私的な価値観のために政策を実施してはならない。民主主義においてそれには社会的コンセンサスを必要とする。そのため、政治が扱う問題は定量的で、一定数以上の人々の苦境を前提にする。今期の議論では「失せたる一匹」を少数派の比喩として捉えるべきだろう。

 しかし、福田恆存は、その限界を自覚しているのが「善き政治」であり、それを文学が補完することを期待していると次のように述べている。

 善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名分のもとにおこなはれるのである。…善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。

 政治は公的領域を扱うので、「九十九匹」を見ていなければならない。しかし、「善き政治」は「失せたる一匹」を認識し、文学がそのために行動することを期待する。他方、「悪しき政治」は「失せたる一匹」を無視し、文学にもその同調を要求する。従順して振舞うのは「悪しき文学」だ。社会には九十九匹しかいないと認知行動するのは政治にとっても文学にとっても悪である。

 「失せた一匹」は1%だが、義務教育未就学者は0.7%である。そのために、政治が動いている。識字は近代文学にとって最も基礎的な前提であるのに、むしろ、日本文学の反応は鈍い。社会派や用化しているから、作家として扱いテーマは山とあるだろう。けれども、リテラシーは近代文学の大前提だ。今日、文学が政治に奉仕すべきだという主張はもはや聞かない。政治に」九十九匹」しかいないと同調を強いられていないにもかわらず、「文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感」しているようには見えない。識字をめぐる最も感動的なエピソードはヘレン・ケラーの「井戸端の奇跡」である。彼女が井戸の水に触れた時、アン・サリバン先生指で”water”と何度も綴り、奇跡の人はそれを理解している。今も、こうした「失せたる一匹」がいる。

 こゝに「ひとりの罪人」はかれにとつてたんなるひとりではない。かれはこのひとりをとほして全人間をみつめてゐる。善き文学と悪しき文学との別は、この一匹をどこに見いだすかによつてきまるのである。
(福田恆存『一匹と九十九匹と』)
〈了〉
参照文献
市川伸一、『学力と学習支援の心理学』、放送大学教育振興会、2014年
遠藤織枝、『中国の女文字: 伝承する女性たち』、三一書房、1996年
千葉俊二=坪内祐三編、『日本近代文学評論選【昭和篇】』、岩波文庫、2004年
中田一郎、『メソポタミア文明入門』、岩波ジュニア新書、2007年
三宅芳雄=三宅なほみ、『教育心理学概論』、放送大学教育振興会、2014年
渡部森哉、『インカ帝国-歴史と構造 』、中公選書、2024年

「天風録 識字率神話」、『中國新聞デジタル』、2023年3月16日配信
https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/281873
多知川節子、「『読み書きできない』隠れる実態 『識字調査を』研究者訴え」、『朝日新聞DIGITAL』、2023年5月9日 16時30分配信
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15632163.html
大久保昂、「日本人の読み書き能力、本当に高かった? 最新研究で揺らぐ常識」、『教育新聞』、2023年12月15日配信
https://search.app/Fxz9djYMa6RoTp9bA
神田剛、「60代で一から学んだ文字で妻へラブレター 鶴瓶さんら主演の映画に」、『朝日新聞DIGITAL』、2024年4月4日12時00分配信
https://digital.asahi.com/articles/ASS423FS5S3QPOMB002.html?iref=pc_ss_date_articl
文部科学省
https://www.mext.go.jp/

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識字教育は終わらない(2)(2024)|Saven Satow
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