昭和19年10月25日、フィリピンのレイテ島沖で米空母群に体当たり攻撃を敢行した「神風特別攻撃隊敷島隊」5人の追悼式が命日の25日、敷島隊の隊長、関行男中佐(戦死時は海軍大尉、2階級特進して中佐)のふるさとにある愛媛県西条市の楢本神社の慰霊碑前で行われ、秋空の下、遺族や市民約300人が白菊を献花し、祖国を守るため特攻に殉じた多くの若者たちをしのんだ。
特別攻撃隊
関中佐は西条中学(現愛媛県立西条高校)から海軍兵学校(第70期)へ。霞ケ浦海軍航空隊教官を経て、昭和19年9月、フィリピン・ルソン島のマバラカット基地にあった第一航空艦隊第二〇一航空隊に着任した。当時は日本軍の戦況は圧倒的に不利。残された航空機は数少なく、日本海軍艦隊がレイテ湾に突入する作戦を支援するため、同年10月、第一航空艦隊司令長官、大西瀧治郎中将の命により、同基地で特別攻撃隊が編成された。
零式艦上戦闘機(零戦)に250キロ爆弾を取り付け、もろともに空母に突っ込む。大西中将自身が「特攻は統率の外道」と呼んだほど異常な戦法だった。それでも、空母の甲板を破壊するには有効とされ、実際に一時は米軍を恐怖の混乱に陥れた。
関中佐が神風隊の指揮官に任命された理由は、あまりにも非常識な戦法のため、海軍兵学校出身の士官を隊長にしなければ、部下である兵士たちの納得を得られない-などといった事情があったとされる。関中佐は戦闘機ではなく艦上爆撃機のパイロットだったものの技量は抜群。同基地にいたため白羽の矢が立った。
関中佐の慰霊碑建立に協力した元航空幕僚長で参院議員だった源田実さん(平成元年死去)によると、神風隊は「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」に分かれ、関中佐は敷島隊の一番機(隊長)でもあった。当日、出撃したのは18機。半分は直掩(ちょくえん)機だったという。慰霊碑撰文で源田氏は「六機は敵護衛空母に命中し、三機は至近弾となって敵艦を損傷した。中でも関行男大尉は敵の護衛空母セント・ロー(一万四〇〇屯)に命中。同艦は火薬庫の誘爆を起し、艦体二つに折れて轟沈するという偉功を奏した」と記している。
特攻記念館建築の計画も
その壮烈な戦闘は国策として大きく国内で報道された。「軍神」となった関中佐だったが戦後は忘れられた存在に。「関行男慰霊之碑」が建てられたのは昭和50年になってからだった。その後、56年には敷島隊5人を合わせ、五軍神の碑として現在の形となった。
5人は、1番機=関行男中佐(23歳、愛媛県出身)▽2番機=中野磐雄少尉(19歳、福島県出身)▽3番機=谷暢夫少尉(20歳、京都府出身)▽4番機=永峰肇飛行兵曹長(19歳、宮崎県出身)▽5番機=大黒繁男飛行兵曹長(20歳、愛媛県出身)。
さらに平成9年からは愛媛県関係の特攻戦没者93人も合祀(ごうし)されるようになった。
この日の「神風特攻敷島隊五軍神・愛媛県特攻戦没者追悼式典」には、遺族や自衛隊関係者ら約300人が出席した。会場上空に民間有志の操縦する航空機3機が飛来し、翼を振って追悼の意を表し、全員で黙禱(もくとう)した。
主催の同追悼奉賛会会長、村上俊行さんは「79年目の命日となるが、戦後は無駄死にと評され、現在は忘れられようとしている。特攻隊員たちは愛する家族、国を守るために戦った。私たちは特攻隊員の心情や当時の状況に思いを寄せ、感謝しなければならない」と述べた。また、村上さんは今後、関中佐ら5人の遺品などを収める特攻記念館の建築に取り組む計画を明らかにした。
同追悼奉賛会の近藤千恵子さんは「特攻隊員の心中いかばかりか、今の私には想像もできない。祖国日本を守るため、命を賭して散った若者は今の日本をどう思うだろうか。今日の平和と繁栄は数多くの犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけない」と追悼の言葉を述べ、世界の平和を祈った。
海上自衛隊呉地方総監部幕僚長、貴田幸典海将補をはじめ出席者全員が献花したのに続き、地元の女性でつくる「みかんアンサンブル」が大正琴で「若鷲の歌」「暁に祈る」を演奏、「エコーおおまち」は歌声で「同期の桜」「関中佐功績顕彰歌」をささげ、全員で「海ゆかば」を斉唱した。
正しく学び、バランスある歴史を
特攻戦没者の遺族を代表して謝辞を述べた桑村周二さんは、「19世紀後半、日本は欧米列強に対峙(たいじ)し、火の玉となって奮戦した歴史がある」と指摘。「戦後は戦争の罪ばかり教えられているが、検証するのはよいことだ。正しく学び、バランスの取れた歴史を残すのがわれわれの責務だと思う」と述べた。桑村さんの親族の海軍少尉、桑村坦さんは昭和20年3月11日、神風特攻菊水部隊梓隊として艦上爆撃機「銀河」を操縦、カロリン諸島(ミクロネシア)のウルシー湾へ突入し、戦死した。
日本陸・海軍の特攻は戦争終結時まで続き、航空機のほか、人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」、小型ボート「震洋」など合わせて約7千人が命を落としたとされる。
慰霊之碑の副碑には、昭和50年3月21日の日付で、当時の楢本神社宮司、西条市海軍会会長、石川梅蔵さんにより「依りて、世界恒久平和の魁として鎮護されむことを」の文字が刻まれている。