150.婚約者は目覚める。
…記憶は、朧げだ。
ワインを手に微笑んだ弟達。
気がつけば僕の口へ無理矢理注がれた酒。
酒場と、民の笑顔。
郷愁と、込み上げた恐怖と絶望。
暗転と男の声。
……
「では、レオン王子。このまま馬車で城まで移動致します。」
ステイル様に触れた瞬間、視界が変わり僕は馬車の中に立っていた。
フリージア王国民特有の特殊能力。プライドが予知能力を持つのと同様に、彼もまた瞬間移動の特殊能力者だった。できれば御内密に、というプライドの言葉に僕は頷いた。
…目を覚ました時、見知らぬ部屋に僕はいた。
訳もわからず、混乱する頭で理解できたことは、僕がプライドとの約束を破ってしまったということ。そして大事な出国の予定だった。
プライドに知られ、もう言い訳など意味を成さないと思った。あろうことか婚約者の前で醜態を晒し、約束まで破ってしまった。
僕のせいで、アネモネ王国にとって大事な婚約が白紙に戻りかけているというのに…こんな不義まで犯してはどうしようもない。第一王子としての恥を捨て、彼女へどうか穏便にと謝罪し、願おうとする僕を彼女は止める。
『いけません、レオン様。…王族が無実の罪でそのように頭を下げるなどあってはならないことです。』
〝無実の罪〟
何を言っているのかと、思った。
僕は約束を破り、事実上は酒場で沢山の女性達とも共に居た。つい先日に婚約をした身にも関わらずだ。僕にどれほど意思が無くとも、本人の知らないところで他の女性と関わるだけでも十分な裏切りであることは、既に僕は理解している。
そう、僕は彼女を裏切ったのだ。
同盟国の第一王位継承者である彼女を。
フリージア王国の多くの民に愛された第一王女である彼女を。
現時点で婚約者である彼女を‼︎
謝罪の言葉も上手く出ず、己が状況の恐ろしさから手が震えた。それなのに、彼女は語る。
『全てわかっている』と。
僕の無実を、他でもない彼女は全て知り理解してくれていた。更には、城下に広まる女性関係の噂すら事実無根であることも。
僕だけでなく、彼女の背後に控えるステイル王子や騎士達も息を飲み目を見開いた。
何故、彼女はそうも冷静でいられる?噂とはいえ、そんな不義な噂のある婚約者と知って尚、僕を信じ、許すというのか。
僕は、疑われることが当然の立場にいるというのに。
彼女は語る。弟達が僕に薬を飲ませ、陥れようとしたのだと。
…陥れられたことよりも、僕のような人間はとうとう弟達にまで見放されたのだと。そちらの方が酷く胸に刺さった。
弟達を糾弾しようと言われても、…気がつけば首を横に振っていた。
弟達は悪くない。きっと、僕のような欠陥のある人間が王族としていること自体が彼らは許せなかったのだろう。だからこそ、僕を排除しようとした。それだけだ。
愚鈍な王と成り得る存在を排除することは、民を守るべき王族として当然の義務なのだから。
なのに、僕が騒ぎ立てたことで逆に民のことを想って行動した彼らが罰せられれば…この国には王位継承者が本当に居なくなってしまう。それだけは絶対にあってはならない。そのせいで僕のように悪い噂を立てられてしまえば、彼らが民の信用を失ってしまうかもしれない。
だが、彼女はそんな僕を何度も叱責した。
僕の考えを否定し
目を覚ませと僕の名を呼び
僕自身の意思と望みへと訴えかける。
まだ、僕の言葉は届くのだと。
何故、彼女はそれ程までに僕のことで必死になるのか。単なる同盟国と婚約者という理由だけで、ここまで。
『レオン様、貴方の最も愛する者は何ですか?』
…わからなかった。
僕が今一体、何を愛するべきなのか。
彼女はあの夜、僕らとの間に愛は不要だと言った。ならば、僕は何を愛せば良い?
感情という感情が次々と零れ落ち、恐怖や胸の痛みばかりがこの身に留まる。あと僕に残されたのは穢れた欲求だけだ。
隠せ。
僕の心臓が、考えよりも先に警報を鳴らした。
例え誰に愛されずとも、僕が愛すべきはプライドのみ。
最後まで僕は望まれる通りに演じる義務がある。
せめて婚約を白紙に戻される、その時までは。
『いい加減になさい、レオン。』
…彼女の氷のような声に、一瞬で身体中が冷え切った。そのまま続けてナイフのように鋭く彼女の言葉が僕の心臓へと刺さる。
僕の心は、そこにはいないと。
その言葉だけでも心臓が止まるかと思ったのに、次の言葉で僕は完全に恐怖が込み上げた。
『貴方が愛するのは、私ではありません。己が欲求を受け入れなさい。』
〝欲求〟
その言葉は一番僕が指摘されたくない言葉だった。
嫌だ。
それだけは、駄目だ。
この穢れた心の内を彼女に、もう誰にも知られる訳にはいかない。
受け入れてはいけない。認めてはならない。
穢れた欲求と知りながら、己が快楽だけを優先して許し、肯定するほど恐ろしいものなどありはしない。
耐えて、耐えて、耐え続けなければならない。
守られるべき民を、この僕から守る為に。
それでも、彼女は逃げる僕を許さない。
今しかないと。全てを溢れ落とす前に向き合えと。
今までの人生で、ここまで誰かに強く咎められたことなどなかった。
その人の望むように振る舞えば、皆は全て満足してくれたのだから。
なのに、彼女の求めてくれる僕はそれまでの誰かと全く違った。
『レオン様、貴方が心の底から愛して止まないのはっ…』
彼女の口が開かれる。
〝心の底から愛して止まないもの〟彼女の口から僕自身もわからなかった答えが、紡がれる。
その瞬間だけ、全てを忘れて彼女の言葉に耳を澄ませた。知りたい、と。気がつけば今までに無い、新しい欲求が僕の全てを支配し
『この国の、民でしょう⁈』
…胸が、張り裂けそうになった。
言葉にされた途端、感情が唸りを上げて僕の内側で暴れ出すのを感じた。
〝愛している〟と。この想いの正体を知ってしまった瞬間、堪えられなくなった。
愛している。
この国を、民を。
甘い言葉程度では表現しきれないほどに。
…駄目だ。
この感情が愛だというのならば、余計に僕はこの国から離れるべきだ。
〝愛する〟ことは怖い。時には暴力的だ。
僕が愛ゆえに民へ穢れた欲求をぶつけるのならば、いつかきっと彼らを傷つけてしまう。
〝承認欲求〟〝自己愛〟〝独占欲〟
エルヴィンに指摘されたその欲求を、僕がこれ以上、愛する民に押し付けてしまうその前に僕は
『貴方の何処にそのような欲求があるのですか。』
心臓が一瞬止まり、次の瞬間激しく脈打った。
驚愕と、微かな期待。
それが僕の胸に刺しこまれた。
彼女に握り締められた手が、指先が温かく、静かに全身の血液が巡り出すのを感じた。
『貴方の欲求は何も汚れてなどいません。貴方が認められたいのは誰にですか?…民にでしょう。』
パキィ、と。
まるで身体に巻き付いた枷がひとつ一つ外されたような感覚がした。身体が、心が、鎖一本分軽くなる。
ずっと、そう言って欲しかった。
『〝民に王として認められたい〟と…〝民に望まれる王になりたい〟と望むことの何が罪なのですか。』
パキィ。
また、幻聴が聞こえた。
見えない鎖がさらに砕け、消えた。
肌が酷く泡立ち、全身が痺れるような感覚に襲われた。
『貴方がいつ、自己を愛したというのです。常に民を愛し、触れ合い、心を傾けた貴方が。それとも…貴方は民と触れ合う己の姿に悦に浸っていたというのですか?』
違う。そんなこと一度もなかった。
むしろずっと、僕は彼らと触れ合う自分の姿が嫌だった。いけないと、わかっていながらも耐えきれずに求めてしまう僕自身が。
『何が〝独占欲〟ですか。貴方が、他の誰でもなく貴方自身が民に愛されたいと望んだことですか?そんなのは当然のことでしょう⁈』
心臓が脈打ち過ぎて痛い。
それでもその痛みが、今は微かに心地良い。
この身体ごとでも構わない。
どうかこの鎖を砕いてくれと心が叫ぶ。
『貴方は、それほどまでに民を愛し!愛し‼︎愛し続けたのですから‼︎』
僕の〝愛〟が初めて肯定された。
僕の〝欲求〟が初めて許された。
鎖が砕け、重みで千切れかけた四肢が解放される。
胸の奥底が今まで以上に揺さぶられて、一言では言い表せない混ざり合った感情が暴れ出し、涙が溢れた。
『独占欲などではありません。貴方はひたすら民の幸福の為にその身を何度も捧げ、だからこそ愛されたいと願った。そして、例え民に貴方自身が愛されずとも…それでも貴方は民の為にその身を削り続けることのできる尊い人間です。』
違う、と言ってくれた。
今まで高潔を保ちながらも、〝穢れた欲求〟に苛まれ、呪われ続けた僕を〝尊い人間〟と…そう言ってくれた。
だから、僕は問う。新たに産まれた小さな欲求を、彼女にもう一度。
この欲求が、穢れてはいないのかと。
『そうです。貴方はもっと求めて良いのです。貴方の高潔なるその心が、きっと正しき道に誘ってくれます。』
〝求めて良い〟〝高潔〟と。
まるで僕の心を全て覗き込んだようなその言葉に、再び心が酷く叫び出した。
鎖が、全て砕け散る。
まるで呪いのように纏わりついた何かが、嘘のように消失した。
これを〝感情〟と呼ぶならば。
これを〝愛〟と呼ぶならば。
この欲求を、許されるというのならば。
僕の、本当の僕の望みは
『アネモネ王国をっ…離れたくない…‼︎』
初めて、欲求が言葉となって声に出た。
想いが、欲が、願いが、一つ言葉にした途端に堰を切る。
潮のように内側へ引き続けた想いが何倍にもなって満ち、溢れ、津波となって僕を襲う。
もう、止まらない。
押し殺し続けた僕の全てが表へ出ようと暴れ出す。
言葉にすればする程、民への愛しさが止まらない。
彼らの言葉が、笑顔が、頭から離れない。
こんなにも僕は、彼らを愛してしまったのに。
なのに、離れるなんて嫌だ。
今ならわかる。
民へ会うたびに揺さぶられたあの感情こそが、僕の幸福で、喜びで、嬉しくて、癒しで、楽しくて、…愛しかった。
僕の感情は、心が産声を上げたあの時から確かにここにあった。
彼らのこれからを見続けたい。
彼らの平和を、幸せを守りたい。
彼らの願いを、夢を、望みを叶えたい。
もっと、もっと幸せになって欲しい。
この国に産まれて良かったと、そう思って欲しい。
だから、ずっとこの国で彼らと共に生きていたい。
王になれなくても、せめてこの国で生きていたかった。
フリージア王国は良い国だ。
豊かで、広大で、特殊能力という魅力と個性に溢れ、城下の人々も良い人ばかりだった。
でも、フリージア王国はアネモネ王国ではない。
アネモネ王国の代わりになどなれない。
僕が何より大事で、愛しくて愛しくて堪らないのは〝アネモネ王国〟という国と民なのだから。
大事な人の代わりが他の誰かで代替えできないように、僕にとってもアネモネ王国の代わりになるものなど存在しない。
例えこの世界にどれほど素晴らしい国があろうとも、僕はこの国が好きだ。死ぬまで離れたくはない。この地で生き、この地の為に死にたい。
『…そうです。それこそが貴方の本当の望みで、…本当の幸福です。』
抱き締めてくれた腕は、今までのどの女性よりも力強く、優しかった。
わかっている。
これは僕のエゴだ、我儘だ。
僕個人の意思では叶わぬことだと知っている。
その望みを、こうして理解し受け止めてくれただけで僕は
『レオン様。だから、私は…。』
彼女の言葉はまだ続く。
抱き締めた僕を引き離し、しっかりと正面からこの目を捉えて。
『貴方に、その全てを取り返す為にここまで来たのです。』
〝全て〟
その言葉の意味を、僕は今度こそ正しく理解する。
彼女が、これからどうするつもりなのか理解し、自分でも信じられずに彼女の姿が瞬いて見える。
まるで、救世主のようなその姿に胸が高鳴った。
『共に行きましょう。私達が付いております。貴方がその意思を持って私の手を掴むのならば、この私が必ず貴方を幸せにしてみせます。』
僕の、意思。
今ならばわかる。
僕の望み、願い、あるべき場所。
未だ取り返しのつく場所に留められた僕が、この国の第一王子としてすべきことは。
伸ばされたその手を取る。
強く握り締めれば、彼女も応えるように更に強く握り返してくれた。
もし、本当に彼女が僕に全てを取り戻そうとしてくれるのならば。
他ならぬ彼女が、それを僕に許してくれるのならば。
僕もまた、意思を持って己が望みを求めると、彼女に誓って。