「らんま」がなぜ特別なのか 仮説とジェンダー・アイデンティティー
Re:Ron連載「ことばをほどく」(第10回)
「らんま1/2」(以下「らんま」)が再アニメ化され、放送・配信が始まった。これがきっかけで、久しぶりにあちこちで「らんま」の話題によく触れるようになった。「らんま」は私の青春のような作品で、ついいろいろと思い出してしまう。そんなわけで、今回は私が子どものころに愛した漫画やゲームのこと、そしていま振り返って思う、それらと私自身のアイデンティティーの関係について語ってみたい。
「らんま」は1987年から1996年にかけて週刊少年サンデーに掲載されていた高橋留美子さんの漫画で、1989年から1992年にアニメ化もされている。1985年生まれの私にとってはあまりリアルタイム世代という実感はなく、長らく漠然と「面白いパンダが出てくるアニメ」というイメージだけを持っていた。
そんな私だが、高校生になっていきなり高橋留美子さんにドはまりした。「うる星やつら」「めぞん一刻」「人魚シリーズ」「1ポンドの福音」などを読みあさり、短編集も読んだ。そして当然、「らんま」も全巻集めて読んだのだった。
「らんま」に私は夢中になった。水をかぶったら女の子になる男の子、パンダになるおじさん、豚になる男の子、などなど……。なんて楽しい設定だろう! そもそも私は変身の話が好きだ。こんなにも誰も彼もが変身する漫画が楽しくないはずがない。そのなかでも何よりも心ひかれたのは、何といってもやっぱり主人公の早乙女乱馬だった。
乱馬は父親とともに拳法修業の旅をしている途中で、中国の呪泉郷というところに立ち寄り、かつて女の子が溺れ死んだという言い伝えのある泉に転落し、呪われてしまう。その呪いのために、乱馬は水をかぶると女の子になり、もとに戻るにはお湯をかぶらなければならなくなったのだ。この漫画ではいろんなキャラクターが変身するが、みなこの呪泉郷で呪いを受けている。
最初は、乱馬が可愛らしいことにときめいているのかなと思っていた。というか、それは実際にそうだったのだと思う。乱馬がナルシシストで、男の子のときのかっこよさにも女の子のときの可愛さにも自信満々なところなども好きで、そんな乱馬が女の子に変身していたずらっぽく周りの男の子をほんろうしたりするのもたまらなく楽しかった。
そんなふうに繰り返し「らんま」を読みながら、私はだんだんと乱馬というより呪泉郷に憧れるようになっていった。もし呪泉郷に行けたら、私もぜひ乱馬と同じ泉で溺れてみようと空想し、「らんま」はもちろんフィクションだけれど、せめてモデルになった場所くらいないものかと地理の教材を引っ張り出してきて中国のあたりの地図を眺めたりしていた。
「らんま」が好きな人は多くても、がんばって呪泉郷を探したりするというのはどうやらそこまで多数派ではなかったらしい、というのはあとになって気づいたことだ。
トランスジェンダーがよく向けられる質問に、「どうして自分が〇〇だと思うようになったの?」というものがある。私もトランスジェンダーだとおおやけにしているが、私の場合は「どうして自分が女性だと思うようになったの?」だ。
○○だから××と言えない
よくある答えは「子どものころから女の子とばかり遊んでいて」「スカートをはきたいと泣いたことがある」「メイクをして初めて本当の自分になれた気がした」といったものだろう。私の場合はどうなるだろう? 別に女の子の友達が多かったわけではないし、スカートがはきたいと泣いたこともないし、メイクはどちらかというと性別移行がだいぶん進んでからちゃんとするようになったし、あまりこういったわかりやすい話は出てこない。「子どものころから『らんま』に憧れていて、呪泉郷で溺れるのが夢だった」と答えたら、いくらか納得してもらえるだろうか? いや、どうだろう。
性別に限らず、自分のアイデンティティーの説明というのは、そもそも厄介な問題だ。私は職業として研究者であるというアイデンティティーを持っている。「なぜそう思うの?」と言われても、ちょっと答えに困る。
「大学院に進み、今に至るまで研究を続けていたから」
「でも、研究者じゃなくてもずっと趣味で研究をしているひとはいるんじゃない? そういう人とはどう違うの?」
「私は研究費ももらっていて……」
「研究費が得られないでがんばっている研究者も、研究プロジェクトに研究者以外の立場で参加して研究費をもらっている人もいるでしょ?」
などと問答をしていくと、決定的な根拠は特に出せなさそうで、最終的には「でも私は事実として研究者だし、私はそれをわかっているのだ」と言って済ませたくなってしまいそうだ。
性別もそうで、女友達が多かろうが、スカートをはきたがろうが、メイクに大きな意義を見いだそうが、呪泉郷で溺れて女の子に変身することを夢見ていようが、決定的にその人のジェンダー・アイデンティティーを告げてくれるわけではない。「〇〇だから××に違いない」と言えないところが、アイデンティティーにはありそうに思える。
これは、私自身の実感としてもそうだ。呪泉郷での変身に憧れることが即座に「本当は女の子なのだ」ということの証しになるのであったら、その当時から私も自分が本当は女の子なのだと思っていただろう。でも、実際はそうではなかった。はっきり言って、私は当時、そんなこと想像してさえいなかった。自分でもそれとわからなかったのだから、他人にはなおさらだろう。
思えば、こういうことはたくさんあった。私はテレビゲーム、特にロールプレイングゲームが好きだった。印象に残っているゲームに、1995年に発売された「クロノ・トリガー」がある。幼なじみが偶然作り上げた時間転送装置によって過去や未来を行き来するようになった少年が、破滅的な未来を回避する方法を探して冒険をするゲームだ。私はこのゲームで、特に空魔士マヨネーというキャラクターが好きだった。中世の時代に暗躍する魔王の配下のひとりだ。美しい女性の姿で色仕掛けのような攻撃をしてくるちょっとコミカルな敵キャラだが、大人になってから周りのゲーム好きに「『クロノ・トリガー』と言えば、マヨネーだよね!」と語ったところ、「誰だっけ、それ?」と返されてがくぜんとした。マヨネーは、いわゆる「オカマ」キャラだった。
本当に、いくらでも例がある。「うる星やつら」では、藤波竜之介と潮渡渚がお気に入りだった。竜之介は男の子として育てられ、男性的な見た目としぐさをしている女の子で、渚は女の子として育てられ、女性的な見た目としぐさをしている男の子として描かれている。ふたりは親の決めたいいなずけでもある。「るろうに剣心」と言えば、もちろん本条鎌足だ。外見も声も美しい女性で、大きな鎌を武器に使う「オカマ」キャラだ。
あとになって周りの人と話すなかで、こうしたキャラクターにとりわけ強くひかれるというのはそれほどよくあることではないと知り、明らかに一定の傾向があるということを意識するようになった。でも、当時はまったくわからなかったのだ。
そうしたキャラクターの好みだけでなく、いわゆる「女性的」とされる好みも、「いま思えば」というものがある。私が小学生のころ、クラスの女の子たちのあいだでミルキーペンという文房具がはやったことがある。パステルカラーのインクのボールペンだ。私も喜々として買い集めたのだが、学校では「女かよ」と笑われた。男性アイドルの話を喜んでしていたときにも、美形男性たちが旅をする「最遊記」という漫画にはまっていたときにも、似たようなことを言われた。大学に入って女友達と買い物に出かけるようになると、自分の服を見るよりも女性服のコーナーで友達に似合いそうな服を探すほうが好きだった。でも、これらの出来事だって当時の私に「じゃあ、私は女の子なのだ」と思わせたわけではない。本当にわからないのだ。当時は周りから言われる通りに自分を男の子だと見なしていて、単にそういう好みなだけだと思っていたし、学校になじめないことも、思春期を迎えるにつれて心身の調子を崩したことも、単にそういうものだと思っていた。
人生の「仮説」を試して、棄却して
では、女性としてのアイデンティティーはどういうふうに見いだされたのだろう? これは研究者として専門的に考えていることというよりも、私が日常を生きるうえで抱えている素朴な感覚に近いが、私は一般的にアイデンティティーを「仮説」という面から理解している。
アイデンティティーが「仮説」であるというのは、それが仮説形成(アブダクションとも呼ぶ)という推論プロセスによって見いだされているということだ。推論には三つの種類があると言われることが多く、仮説形成はそのうちの一つだが、要するにいくつかの説明すべき物事があり、それらを説明する最良の仮説を探るような推論のことだ。いつもは遅刻しないはずのAさんが会議に珍しく遅刻していて、Aさんは車で来るはずだとわかっていて、しかもAさんが来る予定のルートが事故で渋滞していたのなら、私たちは自然と「Aさんは渋滞に巻き込まれて遅れているのだろう」と推論するだろう。これは仮説形成の一例となる。
仮説形成には、情報が増えるにつれて以前の結論が撤回され、新たな結論に向かうことがよくあるという特徴がある。先ほどの例で言えば、Aさんが予定よりも早く家を出て事故が起こる前に通り過ぎるだけの余裕があったと発覚したなら、「渋滞に巻き込まれている」という仮説は撤回され、新しい仮説が探られることになる。ここにさらに、Aさんの車らしきものを病院の近くで見たという情報が加われば、「Aさん自身の体調に問題が生じたのか、それとも途中で病人を見かけたかして病院に行っているのかもしれない」という新しい仮説が思いつく。そんなふうにして仮説を修正していき、これ以上情報が付け足されてもある程度安定して維持できる仮説に行き当たったら、私たちはそれをひとまず受け入れる。
アイデンティティーがこういうものだというのは、米国のコミック作家、マイア・コベイブのグラフィック・ノベル『ジェンダー・クィア 私として生きてきた日々』(小林美香訳、サウザンブックス)にわかりやすく描かれている。この自伝的な著作のなかで、著者は女の子にひかれる自分をレズビアンなのかもしれないと考えたり、ゲイカップルを思い浮かべるファンタジーを好んだりする自分は「女の子の体に閉じ込められたゲイの男の子」なのだろうかと考えたりする。レズビアンの女の子なのか、ゲイの男の子なのかではかなり大きな違いに思われるかもしれないが、本作ではそのどちらもが、著者のいくつかの経験に対する部分的に有効な仮説であることが読者にも見て取れるようになっている。著者はその後も大量の本を読んだり、しっくりくる人称代名詞を探したりしながら、たくさんの経験を重ねていき、やがてノンバイナリーとしてのアイデンティティーを見いだす。
これが、ジェンダー・アイデンティティーとその人の過去のエピソードの関係の説明としてしっくりくる、と私は感じる。ひとつひとつのエピソードを取り上げると、その人のアイデンティティーの発見にも説明にも不十分に見える。私が「らんま」の呪泉郷に憧れていた? それって単なる変身願望を持った男の子ってだけじゃないの?と言いたくなる。それもそれで一つの仮説だ。でも、その後の人生を生きていくなかで、私はたくさんの経験をする。学校であったこと、映画を見て感じたこと、友達とのやり取り、家族との会話……。そのひとつひとつがデータになり、それまでの仮説の検証を迫られる。そうして繰り返し仮説をつくってはそれを反証し、ようやくある程度落ち着いたのが「トランスジェンダーの女性なのだ」という仮説だった。これが私の実感だ。
こんな漫画が好きだった、こんなゲームが好きだった、こんな文房具に憧れた、こんな服装を好んだ、こんなことをしたらしっくりきた。そのどれをとっても、ひとつひとつはそのひとのジェンダー・アイデンティティーを決定的に示しはしないのだろう。でも会話のなかであまり長大な説明はできないから、「どうして自分がその性別だと思うようになったの?」と聞かれれば、そうした個別のエピソードを一つ、二つ積み上げて語ることしかできない。そうすると、人にとっては途方に暮れる説明になってしまう。「なぜ可愛い文房具が好きな男の子ではダメだったの?」という具合に。
どうしても簡単には説明できない私の実感は、率直に言えば「その仮説はもう試して、そして棄却されたからだ」となる。実際、私は自分が単にフェミニンな男性なのではないか、ゲイなのではないか、醜形恐怖症なのではないか、などなどたくさんの仮説を立ててきた。けれど、私の人生の膨大な、他人にきちんと語るには入り組んだたくさんの経験のなかで、それらの仮説はひとつひとつ棄却されてきた。そしてその過程を本当に説明しようとしたら、それこそ『ジェンダー・クィア』のように、自分の人生を丸ごと本にでもするしかない(たぶん、それでも足りないだろう)。
「らんま」が好きだった私は、そのときの自分が女の子であるとも、だから水をかぶるだけで女の子になれる乱馬をうらやましかったのだとも、特に意識的には思っていなかった。けれど、「らんま」を好きだった経験は、それでも私のトランスジェンダーとしての、そして女性としてのアイデンティティーを形成している一部だとも思う。それは私の人生に起こったたくさんの出来事のなかで、自分がトランスジェンダーの女性であるという仮説を支えるいくつものデータの一つなのだ。
このことを言い表すのは難しい。「らんま」はトランスジェンダーの女性としての私を決定的に作り上げたわけではないけれど、けれどそんな私のアイデンティティーを支えるものの一つであって、だから私にとっては大事な作品だ。この言葉にしにくい「大事さ」を抱えつつ、「久しぶりに『らんま』を読み返してみようかな」などと最近思っている。(哲学者・三木那由他=寄稿)
みき・なゆた 1985年、神奈川県生まれ。哲学者、大阪大学大学院講師。専門はコミュニケーションと言語の哲学。単著に『言葉の道具箱』『言葉の風景、哲学のレンズ』『言葉の展望台』(講談社)、『会話を哲学する』(光文社)、共著に『われらはすでに共にある 反トランス差別ブックレット』(現代書館)など。
月1回程度、更新します。「朝日新聞デジタル」アプリで連載フォローすれば、新着記事を読み逃しません。
言論サイトRe:Ron(リロン)
編集部への「おたより」募集中:https://forms.gle/AdB9yrvEghsYa24E6
「朝日新聞デジタルを試してみたい!」というお客様にまずはお得にお試し体験
- 【視点】
三木さんと私とは同じ世代のトランスジェンダーなので、「あー、分かるー」という部分と、「ここは私とは違うなぁ」という部分を感じながら、おもしろく読ませていただきました。 トランスと一言で言っても、人によってアイデンティティーの形成のしかたやタイミングはそれぞれ違うものですから。 私は「らんま1/2」の乱馬や良牙の造形はかっこいいと思ったものの、呪泉郷それ自体はあまり刺さらず、むしろ世界観がめっちゃ異性愛的だなあと感じたタイプ。(そもそもラブコメというジャンルがだいたいそうなのですが。) あと、私が好きだったのは、「ミルキーペン」ではなく、ドラゴンクエストの「バトルえんぴつ」。めっちゃ男の子趣味やんけ。 逆に、「最遊記」や「るろうに剣心」の本条鎌足には「あー、分かるー」と思ってしまいました。 私は三木さんのように自分の内面を緻密に考えていくタイプではないので、自分がトランスしていくときの感覚をざっくり表現すると、「自分の本来あるべき姿に戻りたかったから」。 それが男か女か、トランスジェンダーという言葉で表現できるものなのか、というのは一種の後付けです。 原因も理由も分からないものの、自分の求めた自分が、たまたま世間で言うところの「女性」として表象されるものであり、「トランスジェンダー」として言い表されるものだった、という感覚が近いです。 おそらくここらへんの感覚や自我の形成過程は当事者によってそれぞれ違っていて、だからこそおもしろい。 最後に、私の”バイブル”を挙げるとすれば、世代ではないものの、小さい頃に再放送で見たアニメの「パタリロ!」です。 女のようで男?男なのに女の格好をしている?男なのに恋人は男性のバンコラン!?と幼少期の私を混乱させた「マライヒ」というキャラクターですね。 それがどういう感情なのかは未だによく言語化できないのですが、幼少期に抱いた不思議な衝撃が私の原点にあります。
…続きを読む