朝ドラの暗黙のルール
実在の人物を主人公にしたドラマと言えば、大河ドラマがあり、今年は明智光秀を主人公にした『麒麟がくる』が制作・放映されている。
明智光秀は詳しい史料に乏しく、とくに信長の家臣になる前は、よく分かっていない。
『麒麟がくる』は多くの架空の人物をも登場させた、フィクションの要素の強いドラマだが、実在した人物は、明智光秀、織田信長、足利義昭など、みな実名で登場している。
しかし、『エール』の登場人物の名は、主人公以下、大半が実名を模した別名になっている。「古関裕而」は「古山裕一」、古関の妻「金子」は「音」となり、少年時代からの親友、歌手の「伊藤久男」は「佐藤久志」、作詞家の「野村俊夫」は「村野鉄男」となる。
さらに、作曲家「山田耕筰」は「小山田耕三」、オペラ歌手「三浦環」は「双浦環」、作曲家「古賀政男」は「木枯正人」、人名だけでなく、古関裕而が専属になっていたコロンビアレコードも、コロンブスレコードだった。
このように、実在の人物を実名を模した名で登場させるのは、日本の演劇のひとつの伝統かもしれない。
徳川時代は、同時代の出来事をストレートに演劇にするのが禁じられていた。歌舞伎『絵本太功記』では、明智光秀が「武智光秀」、豊臣秀吉(羽柴秀吉)が「真柴久吉」、織田信長が「小田春永」、『仮名手本忠臣蔵』では「大石内蔵助」が「大星由良之助」となっている。こうしてフィクションだというタテマエを貫いて、演劇を作っていた。
しかし、徳川時代より前の場合は実名でよく、源氏と平氏の時代を描く『義経千本桜』は、物語は完全なフィクションだが、源義経や平家の武将たちが実名で登場する。
これにならったのか、遠い過去の戦国時代や幕末を描く大河ドラマは登場人物は実名でいいが、昭和以降を描く朝ドラは別名にするという暗黙のルールがあるようだ。
フィクションなのに実在の曲?
たしかに、昭和の人物の場合、当人は亡くなっていても、子どもや孫は存命しているケースが多いので、実名で描くと、クレームがくる可能性がある。そのため別名にして、「この物語はフィクションです」としたほうが、無難である。
「古関裕而」を「古山裕一」として、フィクションとして描くことには、問題はない。
だが『エール』では、フィクションのはずなのに、作中で「古山裕一」が作曲する曲は、実在の「古関裕而」が作曲した曲をそのまま使っている。
これは、不自然だ。古関裕而の曲をそのまま使いたいのであれば、役名も古関裕而とするべきだろう。