「賄い茶漬け」。こんなにも愛おしくて馬鹿馬鹿しい言葉はなかなかない。この言葉と真剣に向き合ったのは今日が初めてであるが、私はこの言葉が持つ底抜けのパワーに早くも心酔している。本当は賄い茶漬けに関する私の体験談を書くつもりだったのに、記事の推敲を脳内で行ううちに「いや、そもそも賄い茶漬けって何だよ」となってしまい、気付けば私はこの言葉の虜になっていた。そこで今日の更新は「この語彙がいかに狂気じみた日本語であるか」という話にするとして、体験談の方はまた後日改めて書くことにする。
さて、先程私は「賄い茶漬け」という言葉が馬鹿らしいと言ったが厳密に言うとこの言い方は語弊がある。より事実に即した言い方をすると「"賄い茶漬け"という名称」が酷い、と言った方が正しい。「こいつは何を言っているんだ」と思われたかもしれないが私は至って真剣である。今私のことを戯言吐き散らすアホだと冷笑している画面の前のあなたも、この文章をすっかり読み終える頃には「なんなんだ賄い茶漬けって」と誰にともなく言うに違いない。
この5文字が如何に阿呆臭いか、という核心部分に触れる前に、先ず「そもそも食品としての"賄い茶漬け"とはなんぞや」という話からせねばなるまい。字面通りに受け取るなら「飲食業に従事する労働者に振る舞われる、比較的簡単な製法のお茶漬け」である。"賄い茶漬け"で検索すると出汁に漬かった白ごはんの上に魚の切り身とネギなどの薬味が乗った、なんとも食欲を唆る画像が大量に出てくる。料理サイトに漁師が云々の記載があったので、恐らくは船の上で海の男達がカッ喰らう、無骨な漁師メシなのだろう。そう、「賄い茶漬け」という食品自体は何も可笑しくない。寧ろ職人肌の格好良い食物である。そもそもお茶漬けという料理の本質は「やすくてはやくてうまい」だ(と私は勝手に思っている)。言わば日本のファストフードである。そこに"素朴"といった風なニュアンスを内包する「賄い」という言葉が重なることで、お茶漬けという食べ物が持つ良い意味での雑さが引き立てられ、我々日本人の本能に強力に作用する。「賄い茶漬け」という日本語はとても奥ゆかしく、美しい言葉だ。
今の言い回しで画面の前のあなたはさぞ困惑したことだろう。「阿呆みたいな言葉だと貶してみたり美しい語彙だと褒めそやしてみたり、お前は一体なんなんだ、自分で書いたことすらマトモに覚えていないのか?」と。だが先程も言った通り、私が疑問に感じているのは「賄い茶漬け」という語彙そのものではなく「"賄い茶漬け"という名称」である。確かに賄い茶漬けは素晴らしい日本語だが、これが「商品名」になってくると話は一気に拗れてくる。賄い茶漬けのキモは"素朴さ・飾らない高潔さ"にある。しかし商品名に「賄い」という文句を採用してしまうと「素朴さを商魂たくましくウリにしている」という自己矛盾に陥ってしまうのだ。
早い話が「チープな味わいだがそこが逆に良いヌードル」という商品名でカップ麺が売られていたら鼻につくだろう、というコトである。誰だってそんな薄ら寒い商品買いたくないだろう。少なくとも私は嫌だ。スーパーのカップ麺コーナーでそんなものを視界に入れてしまった日には、私は強かに舌打ちをしてから徐ろにそのカップ麺を手に取り、裏側の情報表示から社名を探しだしてから「お前のとこの商品は今後何があっても買わんからな」と小さな声で呟くだろう。しかしチープヌードルとほぼ同じ理屈で命名されたであろう「賄い茶漬け」は何故か世間によって糾弾されることがない。みんながみんな「あぁはいはい賄い茶漬けね」と聞き流しているのだ。みんな目を覚ませ。こんなサブい言葉が公然と罷り通っているんだぞ。「従業員に振る舞われるモノ」という大前提を無視してまで魚の乗ったお茶漬けを「賄い茶漬け」と呼称する意味が分からない。
ここまでの解説で大多数の読者が「賄い茶漬け」という言葉が孕む狂気に気付いてきた頃合いだと思うが、この期に及んでまだ「もともと賄いとして振る舞われていたお茶漬けが一般の層にも浸透し始めたというだけのことだろう、なにもおかしくないではないか」と下らない弁護を宣うパッパラパーが居るかもしれない。黙れ。お前は何も分かっちゃいない。だったら世に広まり始めた時点で穏当な料理名をつけてやれば良いではないか。この記事でさんざっぱら槍玉に挙がっている賄い茶漬けだって「漁師風茶漬け」なりなんなり、なんとでも言い様がある。それなのに巷ではあの茶漬けのことをヤレ賄いだなんだなどと呼んでいるのだ。アレを賄い茶漬けと呼んでいいのは本来本当にあの食品を賄われている漁師の方々だけの筈だ。まだ日も昇らぬ底冷えするような早朝に起きだし、荒波に喰らいつく漁船に乗り込み、深い海の底に重い網を投げ込んだこともないパンピー共が何をいけしゃあしゃあと馴れ馴れしく「賄い茶漬け」などと呼んでいるのだこのウスラトンカチ。そもそも「賄い」という言葉は単品では褒め言葉でもなんでもない。寧ろ有り合わせでチャチャっと作りました感が半端ない言葉である。お茶漬けという料理が持つラフなイメージとマリアージュすることで耳触りのいい言葉になっているだけだ。日々料理についての研鑽を重ねている料理人が腕によりをかけて作った一皿を指差して「これは賄いですか?」と問うたら恐らくブチギレるだろう。自分の努力の結晶が余り物で拵えたアマルガム呼ばわりされて気分の良い者などいるはずがない。それを「賄い茶漬け」体裁側は「賄い」を自己プロデュース要素として捉え、あまつさえ商品名にまで起用してしまうのだ。これを日本食文化に対する冒涜であり侵略であると言わずしてなんと形容しろと言うのだろうか。
そういえば、私は以前にもコレと似た違和感、ひいては嫌悪感を覚えたことがある。"自称天然"である。思えば、上記の賄い茶漬けという概念を取り巻くイカれた状況をあの手の人種に当て嵌めて考えてみると驚くほど合致する。本来褒め言葉でもなんでもない"天然"というモノを自己プロデュースの材料として捉え、事ある毎に天然アピールをして周囲の顰蹙を買ってしまうのだ。本物の天然は天然呼ばわりされると怒る。彼ら彼女らは自らのパーソナリティに良い意味で誇りを持っていないので、その荒削りさが味となり人間的魅力となるのだ。ハナから天然という概念を対人の道具としか見做していない自称天然とは格が違う。自分のコトを天然と言ってしまう層とお茶漬けを賄い茶漬けとしてプロデュースする層は実は同じなのかもしれない。
しまった。「賄い茶漬け」に物申すという斬新なテーマで記事を書いていたのにいつの間にやら「自称天然はイタいしキモい」という至極普遍的話題に着地してしまった。それを言うだけならこんな長くて目の滑る文章を書く必要などなかったではないか。嗚呼もう全く、「なんなんだ賄い茶漬けって」。
この記事はフィクションかもしれないしノンフィクションかもしれません。実在の人物・団体とは関係があるとも言い切れないしないとも言い切れません。
さて、先程私は「賄い茶漬け」という言葉が馬鹿らしいと言ったが厳密に言うとこの言い方は語弊がある。より事実に即した言い方をすると「"賄い茶漬け"という名称」が酷い、と言った方が正しい。「こいつは何を言っているんだ」と思われたかもしれないが私は至って真剣である。今私のことを戯言吐き散らすアホだと冷笑している画面の前のあなたも、この文章をすっかり読み終える頃には「なんなんだ賄い茶漬けって」と誰にともなく言うに違いない。
この5文字が如何に阿呆臭いか、という核心部分に触れる前に、先ず「そもそも食品としての"賄い茶漬け"とはなんぞや」という話からせねばなるまい。字面通りに受け取るなら「飲食業に従事する労働者に振る舞われる、比較的簡単な製法のお茶漬け」である。"賄い茶漬け"で検索すると出汁に漬かった白ごはんの上に魚の切り身とネギなどの薬味が乗った、なんとも食欲を唆る画像が大量に出てくる。料理サイトに漁師が云々の記載があったので、恐らくは船の上で海の男達がカッ喰らう、無骨な漁師メシなのだろう。そう、「賄い茶漬け」という食品自体は何も可笑しくない。寧ろ職人肌の格好良い食物である。そもそもお茶漬けという料理の本質は「やすくてはやくてうまい」だ(と私は勝手に思っている)。言わば日本のファストフードである。そこに"素朴"といった風なニュアンスを内包する「賄い」という言葉が重なることで、お茶漬けという食べ物が持つ良い意味での雑さが引き立てられ、我々日本人の本能に強力に作用する。「賄い茶漬け」という日本語はとても奥ゆかしく、美しい言葉だ。
今の言い回しで画面の前のあなたはさぞ困惑したことだろう。「阿呆みたいな言葉だと貶してみたり美しい語彙だと褒めそやしてみたり、お前は一体なんなんだ、自分で書いたことすらマトモに覚えていないのか?」と。だが先程も言った通り、私が疑問に感じているのは「賄い茶漬け」という語彙そのものではなく「"賄い茶漬け"という名称」である。確かに賄い茶漬けは素晴らしい日本語だが、これが「商品名」になってくると話は一気に拗れてくる。賄い茶漬けのキモは"素朴さ・飾らない高潔さ"にある。しかし商品名に「賄い」という文句を採用してしまうと「素朴さを商魂たくましくウリにしている」という自己矛盾に陥ってしまうのだ。
早い話が「チープな味わいだがそこが逆に良いヌードル」という商品名でカップ麺が売られていたら鼻につくだろう、というコトである。誰だってそんな薄ら寒い商品買いたくないだろう。少なくとも私は嫌だ。スーパーのカップ麺コーナーでそんなものを視界に入れてしまった日には、私は強かに舌打ちをしてから徐ろにそのカップ麺を手に取り、裏側の情報表示から社名を探しだしてから「お前のとこの商品は今後何があっても買わんからな」と小さな声で呟くだろう。しかしチープヌードルとほぼ同じ理屈で命名されたであろう「賄い茶漬け」は何故か世間によって糾弾されることがない。みんながみんな「あぁはいはい賄い茶漬けね」と聞き流しているのだ。みんな目を覚ませ。こんなサブい言葉が公然と罷り通っているんだぞ。「従業員に振る舞われるモノ」という大前提を無視してまで魚の乗ったお茶漬けを「賄い茶漬け」と呼称する意味が分からない。
ここまでの解説で大多数の読者が「賄い茶漬け」という言葉が孕む狂気に気付いてきた頃合いだと思うが、この期に及んでまだ「もともと賄いとして振る舞われていたお茶漬けが一般の層にも浸透し始めたというだけのことだろう、なにもおかしくないではないか」と下らない弁護を宣うパッパラパーが居るかもしれない。黙れ。お前は何も分かっちゃいない。だったら世に広まり始めた時点で穏当な料理名をつけてやれば良いではないか。この記事でさんざっぱら槍玉に挙がっている賄い茶漬けだって「漁師風茶漬け」なりなんなり、なんとでも言い様がある。それなのに巷ではあの茶漬けのことをヤレ賄いだなんだなどと呼んでいるのだ。アレを賄い茶漬けと呼んでいいのは本来本当にあの食品を賄われている漁師の方々だけの筈だ。まだ日も昇らぬ底冷えするような早朝に起きだし、荒波に喰らいつく漁船に乗り込み、深い海の底に重い網を投げ込んだこともないパンピー共が何をいけしゃあしゃあと馴れ馴れしく「賄い茶漬け」などと呼んでいるのだこのウスラトンカチ。そもそも「賄い」という言葉は単品では褒め言葉でもなんでもない。寧ろ有り合わせでチャチャっと作りました感が半端ない言葉である。お茶漬けという料理が持つラフなイメージとマリアージュすることで耳触りのいい言葉になっているだけだ。日々料理についての研鑽を重ねている料理人が腕によりをかけて作った一皿を指差して「これは賄いですか?」と問うたら恐らくブチギレるだろう。自分の努力の結晶が余り物で拵えたアマルガム呼ばわりされて気分の良い者などいるはずがない。それを「賄い茶漬け」体裁側は「賄い」を自己プロデュース要素として捉え、あまつさえ商品名にまで起用してしまうのだ。これを日本食文化に対する冒涜であり侵略であると言わずしてなんと形容しろと言うのだろうか。
そういえば、私は以前にもコレと似た違和感、ひいては嫌悪感を覚えたことがある。"自称天然"である。思えば、上記の賄い茶漬けという概念を取り巻くイカれた状況をあの手の人種に当て嵌めて考えてみると驚くほど合致する。本来褒め言葉でもなんでもない"天然"というモノを自己プロデュースの材料として捉え、事ある毎に天然アピールをして周囲の顰蹙を買ってしまうのだ。本物の天然は天然呼ばわりされると怒る。彼ら彼女らは自らのパーソナリティに良い意味で誇りを持っていないので、その荒削りさが味となり人間的魅力となるのだ。ハナから天然という概念を対人の道具としか見做していない自称天然とは格が違う。自分のコトを天然と言ってしまう層とお茶漬けを賄い茶漬けとしてプロデュースする層は実は同じなのかもしれない。
しまった。「賄い茶漬け」に物申すという斬新なテーマで記事を書いていたのにいつの間にやら「自称天然はイタいしキモい」という至極普遍的話題に着地してしまった。それを言うだけならこんな長くて目の滑る文章を書く必要などなかったではないか。嗚呼もう全く、「なんなんだ賄い茶漬けって」。
この記事はフィクションかもしれないしノンフィクションかもしれません。実在の人物・団体とは関係があるとも言い切れないしないとも言い切れません。
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