134.義弟は見定める。
「ステイル。今日は昼食後にレオン王子が城下を案内して欲しいらしくて。アーサーに稽古で会った時に伝えておいてくれるかしら。」
「勿論です。プライドの大事な婚約者ですから。当然、俺も補佐として同行します。」
昨日よりも心なしか表情が明るくなったプライドが、ありがとうと優しい笑みを俺に向けてくれる。
だが、その後すぐに侍女からレオン王子がプライドを探して部屋の前まで来ているという報告を聞き、急いで彼女は自分の部屋へと戻っていった。
今日でレオン王子がプライドの婚約者として城に訪れて三日が経つ。今日一日さえ過ぎれば一時的にとはいえ、レオン王子は自国のアネモネ王国へ帰国する。一週間後に今度こそ次期王配としてこの城に移り住む、その準備の為に。
実に腹立たしい。
誕生祭で最初にあの男が現れた時から、常に行動は把握していた。既にその時から、見目の麗しさから多くの来賓女性の注目を浴びていた。
アーサーには打ち明けたが、あの男は自国では有名な女誑しだ。真偽の程は確かではないが、プライドの誕生祭では母上からの発表前に手慣れた様子でプライドを外まで連れ出し、一日で二度もその手の甲に口付けをした。
更には昨日も常に俺やティアラの前でも御構い無しに甘い言葉をプライドへ唱え続け、そして「二人きりで」と限定し、庭園ではプライドと憩いの時を過ごしていた。何を話しているかまではわからなかったが、プライドの手を取り語り合い、微笑み合う姿に胸が焼き切れるかと思った。庭園の椅子でプライドを抱き寄せ、その身を奴に預ける姿を目の当たりにした瞬間には拳を握り、気づけば顎が痛む程に歯を食い縛っていた。
あの男が女誑しだという噂を知ってしまっているからか、それとも単に補佐である俺を差し置いてプライドの隣にいることへの嫉妬か。…何度頭を巡らしてもわからなかった。
一緒に城の窓からその様子を眺めていたティアラも、「お姉様とレオン王子に、…もう私達はお邪魔なのかしら」と遠く寂しそうな目を向けていた。そんなことはない、それにきっと夜は共に過ごせる。そう言って大事な妹の両肩に手を置けば、ティアラの目が少し光を取り戻し、そのまま笑ってくれた。
そう、夜まで奴と過ごさせてたまるか。
だが、レオン王子はあっさりと代わりにプライドと明日の晩の約束を交わしてしまった。…躊躇いなくそれを受け入れたプライドの真意は、その後にティアラの部屋で話を聞いた時にもわからなかった。庭の植物の話や自分のことを色々聞いてくれたと、とても素敵な方だと…そう笑んでいたのを見た時には胃が燃えるように痛んだ。
わかっている、プライドは自身が辛くてもそれを容易に零すような人間ではない。
例えもしレオン王子に不安や不満があっても彼女は自国の為にそれを隠し続けるだろう。俺達に心配をかけない為に、例え嘘でも幸せな振りをするだろう。
…正直、もうわからなかった。
レオン王子は少なくとも表面上はプライドを大事に扱い、愛情を向けているようにも見える。それを俺は警戒しているのか、それとも単にこじつけと独り善がりでレオン王子を悪く見ようとしているだけなのか。
そして昨日、レオン王子へ顔を火照らせていた姿こそがプライドの、彼からの愛の囁きへの答えなのか。時折見せた気がする切なげな表情も、単なる俺の思い込みでしかないのか。…それすらも、今の俺にはわからなかった。
俺は、その日のアーサーとの稽古にも全く身が入らず、…アーサーもまた同じだった。
昼食後、馬車にプライドとレオン王子、そして俺とアーサーが乗った。ティアラも同行させてやりたかったが、名目上はプライドと婚約者との憩いでもある。補佐の俺や近衛のアーサーと違い、ティアラを同行させる訳には行かなかった。俺達を馬車まで見送ってくれたティアラは、今までで一番悲しそうな笑顔で手を振ってくれた。その姿だけでも十分に胸が痛んだ。
「プライド、君と居るとただこうして馬車に揺られているだけの、この時間ですら幸福だと…そう思えるよ。」
馬車で移動中も、レオン王子は常に優しくプライドを自身へ抱き寄せ、愛を囁いていた。
そしてプライドもまた、昨日より大分穏やかに落ち着いた笑みを見せていた。その横顔が以前より少し大人びたようにも見え、目の前にいる筈のプライドが遠い存在に思えた。その間始終アーサーの顔色が曇っていたのは、俺の気のせいではないだろう。
馬車に乗る手前、プライドからレオン王子に紹介はされていたが殆ど覇気がなく、一度挨拶の為にレオン王子と目を合わせた後はずっと顔を俯かせていた。馬車の中でも時折、顔を上げてはプライドとレオン王子を隠れるように覗き見ていたが、その時の眼だけがアイツにしては珍しくどこか鋭く燃えていた。
城下でレオン王子は、様々な場所に興味を持った。民が集う市場や広場、表通りや民の憩う酒場、丘や外れの森と隅々まで巡っていた。
俺やプライドの説明に、何度も興味深そうに耳を傾けていた。特に民の暮らしについては積極的に質問を重ね、我が国の在り方を理解しようとしているようにも見えた。時にはプライドや俺の許しを得てから馬車を降り、直接民と触れ合っていた。てっきり最初は女性に声を掛けるのではと警戒したが、彼はそれこそ老若男女問わず様々な民と手を握り合い、挨拶を交わし、直接彼らの話にも真剣に耳を傾けていた。
「…レオン王子殿下の国の民と我が民はどう違いますか。」
レオン王子の意欲に押されるように、俺からも彼に問い掛ける。彼は滑らかに笑みながら、自国の民の生活を教えてくれた。独自の文化や流行、彼はそれを民の貧富の関係なく熟知していた。優秀だという評判通り、客観的な視点や民の暮らしに分けた視点も含めてこの先の見通しから、我が国との同盟関係の在り方についても語ってみせた。
「…民を愛されているのですね。」
負けを認めるように伝える俺の言葉に、彼は笑みを返しながら「この国の民も愛しております」と言い、自然とプライドの手を握った。そのままプライドへ顔を近づけ、至近距離から覗き込むように笑んだ。プライドもそれに答えるように静かに笑み、「…ありがとうございます」と彼の手を握り返した。
…冷静な目で見れば、この上なくお似合いだ。
民を愛すこの二人が女王と王配になれば、きっと良い国を築いていけるだろう。帰りの馬車に揺られながら、俺はとうとう最後に本題ともいえる問いを投げかけた。
「レオン王子は、自国でも積極的に城下に降りられているという話を耳にしましたが。」
もし、噂通りの疚しい理由ならば言い訳の一つや否定の一つはしてくれる筈だと思いながら俺は彼を真っ直ぐに見つめる。
…が、彼は全く動じなかった。
さっきまでの質問と同じく滑らかに笑み、プライドを抱き寄せ、その手を取りながら答える。
「ええ。民の暮らしを知る…その為に直接足を伸ばし、声を聞き、この手で触れ合うことが彼らを導く者として何よりも大事なことだと思っています。紙を通すよりずっと良い。」
見事な返答だ。
そう、城下に降りること自体は何も悪いことではない。むしろ民に関心がある証拠だ。彼をこうして知れば知る程、…非の打ち所がない人間だと思い知らされてしまう。
俺もそれに「素晴らしいお考えです」と返して笑んでみせれば、また完璧な返答が返ってきた。
「ステイル第一王子殿下も素晴らしいです。若くして聡明な方だとは聞き及んではいましたが、噂以上だ。貴方が摂政となった暁にはきっとプライドも安心でしょう。勿論、僕も。」
…だめだ。やはり噂は所詮噂だったらしい。
彼は素晴らしい第一王子だ。民を思い、聡明で、全く驕り高ぶる様子もない。そしてプライドを愛してくれている。まさに彼女の相手に相応しい。最初はこんな男にプライドを渡すくらいならばアーサーや騎士団の誰かの方が幾分もマシだと、…いっそアーサーが何かの手違いでなり変わって仕舞えばとまで思った程だが、考えを改めなければならない。少なくともジルベールやヴァルよりはずっとふさわしい伴侶だ。そしてそれはつまり…
俺はこれから先、プライドと彼を祝福し、支える義務があるということだ。
将来女王となる、プライドの幸せの為にも。
そう思った途端、今度は胸が焼けるように痛んだが、目を閉じて耐えた。
ふとアーサーのことが気になり、目を向ける。会話に入りにくいというのもあるのだろうが、通常アイツは王族の人間と気軽に会話できる立場ではない。俺の友であり、プライドやティアラにとっても親しい仲だからこそ今まで会話を重ねていたが、やはり真面目なアイツは王子の手前、会話を謹んでいるのだろう。
そう思い、アーサーを見れば顔を俯かせ、表情が全く見えなかった。変に声を掛けてプライドやレオン王子の注目を浴びせては悪いと思い、そのまま俺だけが気づかれないように目を配ることにする。
城までの道のりも、アーサーはずっと顔を伏せたままだった。そして、馬車が城に到着して動きを止めた時にある事に気付く。最初は馬車の揺れで気づかなかったが、剣を握る手と、膝に置いたまま握り締められた手が両方、酷く小刻みに震えていた。
馬車を先に降り、俺やプライド、レオン王子に扉を開いている間もずっと顔を俯かせたままだった。
『アネモネ王国では有名な女ったらしが、俺の姉君の婚約者だ…‼︎』
…俺も気が立っていたとはいえ、悪いことをした。
アーサーは俺などとは違い、あの時にはとうに覚悟が決まっていたというのに。
俺が不要なレオン王子の悪評を伝えてしまったせいで、きっと馬車中でも余計な不安や心配を煽ってしまったのだろう。今夜にでも彼の部屋へ訪ね、誤解を解かなければ。
…それとも、彼の非の打ち所の無さに打ちのめされただけなのか。俺と、同じように。
プライドも、アーサーの異変には気づいていたようだったが、俺と同じくレオン王子の手前、なにも言えないようだった。
レオン王子に肩を抱かれ、衛兵のジャックとともに去っていくプライドや俺達へ挨拶をする時以外、始終アーサーは顔を上げることすらできていなかった。その上、挨拶の際に一度上げた顔は完全に顔面蒼白といってもいい顔色だった。
俺達がアーサーに背中を向けた時、プライドとレオン王子の背後を歩いた俺がそっと振り返ると、アーサーは力の限りにその場から走り去っていく瞬間だった。
…本当に、悪いことをした。
アーサーへの罪悪感で更に胸が痛んだ。アイツが俺と同じようにプライドを慕い、その身を案じてくれていることを他の誰よりもこの俺が理解していたというのに。
城に入った途端、ティアラが迎えてくれる。
すぐ夕食ですよ、と笑ってくれたがやはり見送ってくれた時と同じく影が差していた。プライドは駆け寄ってくるティアラを受け止めてくれたが、すぐにまたレオン王子と並んで去って行ってしまった。
仲良く並ぶ二人を邪魔してはならないと気にしたらしく、いつもは一度プライドに抱きとめられたら決して離れないティアラが、自ら身を引いた。
プライドがティアラを心配そうに振り返るが、すぐにレオンに肩を抱かれるまま前へと進んで行ってしまう。代わりに俺がティアラに寄り添い、肩を抱き寄せるとそのまま裾を握ってきた。妹の憂いを帯びた瞳に息が苦しくなった。
そうして二人でプライドとレオン王子の後ろ姿を見つめながら、共に歩む。
わかっていた。
こんな日がいつかは来ることは。
プライドが、将来伴侶となる男と手を取り合い歩いていくその姿に胸が締め付けられる。
…俺、だけだろうか。
今まで当然のように歩いていた筈の三つの影が、今は全く変わってしまったことを。
〝寂しい〟と。…そう思ってしまうのは。
夕食を終え、昨晩約束していたレオンが今夜こそ是非にとプライドの手を取った。プライドも笑顔でそれに答え、
そして彼女はレオン王子の寝室へと躊躇うことなく姿を消して行った。
バタン、と静かに閉じられるその扉の音で視界が一瞬揺らぎ、胃が、胸が同時に締め付けられた。
込み上げる感情を抑えるように俺もティアラもそれぞれの部屋に戻った。俺だけでも傍にいようかと言ったが、ティアラは無理した笑みで「大丈夫」と断り、自ら部屋に篭った。俺も部屋に戻り、眠る支度を終えてから侍女達に挨拶を済ませて扉を閉めさせた。
一人きりの部屋で、深呼吸をする。
灯りも消し、真っ暗な世界で少し心が落ち着いた。…だが、この暗がりで今プライドが何をしているのかと思えば、身を千切られるような痛みが走った。
大丈夫だ、レオン王子は素晴らしい人間だ。今はただ、プライドに素晴らしい伴侶ができたことを弟として喜ぶべきだ。
もう一度、息を整えて覚悟を決める。そして、このまま瞬間移動をしようとした瞬間
ピィィイィィィィイイイッ…
口笛が、聞こえた。この鳴らし方はアーサーだ。…まさか先に呼ばれるとは思わなかった。ただでさえ、アーサーは王族である俺を合図で呼ぶことに抵抗があるというのに。
それほど今日のことで思い詰めてしまったということだろう。ちゃんと謝らなければ。
特殊能力を使い、視界が変わった途端そこは騎士団にあるアーサーの自室だった。
アーサーは椅子に逆向きに座り、背もたれに両腕を掛け、突っ伏すようにして顔を下へ俯けていた。
「アーサー。」
まだ、落ち込んでいるのか。胸を痛めながら彼の名を呼ぶ。アーサーは俺の声に小さく顔を上げた動作をすると「ステイルか」と呟き、顔を見せないまま再び突伏してしまった。…言わなければ。
「アーサー、レオン王子は」
「俺は。」
噂と違った人間であったことを認め、詫びようとした瞬間、俺の声を上塗りするようにアーサーがはっきりとした声色で口を開いた。
アーサーの言葉を聞こうと、俺が先に口を噤む。すると、それを汲んだようにアーサーが再び口を開いた。
「俺は、…プライド様がレオン王子と結婚するのは嫌だ。」
微妙に震わせながらのその声に、どう言葉を掛ければ良いかわからなくなる。その間も、アーサーは続ける。
「レオン王子がプライド様の伴侶になるくらいならステイル、お前や騎士の先輩…っつーかステイル、お前の方が万倍も良い。」
どこか覚えのある台詞に「世辞などやめろ」と返すが、それに対しての返答は返って来なかった。
「王族の結婚ってのも、わかってる。本人が惚れたとかそういうのは重要じゃねぇってことくらい。…政治的な意味が強いってことくらいわかってる。それが、女王となるプライド様の役目だってことくらいは。」
ぽつりぽつりと零す、アーサーの言葉にまた俺は掛ける言葉を無くす。やはり、アーサーも耐えられないのだ。せめて、今晩プライドがレオン王子の部屋に入ったことは言わないでおこう。そう心に決めた間も、アーサーの言葉は続いた。
「でも、アイツは駄目だ。あのレオン王子ってヤツは。…アイツじゃプライド様を幸せにできねぇ。」
事実を受け止めきれないのか、それともまだ俺の話したレオン王子の噂を信じ込んでしまったのか。…やはり、元凶である俺の口から言わなければ。
「…アーサー、よく聞くんだ。すまない、俺が間違っていた。レオン王子は立派な」
「俺はッ‼︎」
突然、今度は俺の声を完全に搔き消す怒声が響いた。
「ッ俺はっ…認めねぇ…」
アーサーの肩が酷く震え出した。泣いているのかと、その肩に手を置こうかとした瞬間だった。彼の全身から発せられた凄まじい覇気に俺は思わず手を引っ込め飛び退くように後退った。
「今の、あの野郎との結婚だけはっ…絶対ぇに…!」
パキパキと、アーサーが掴んでいた椅子の背もたれがその指の力だけで破壊されていく。温厚なアーサーから久しく感じなかった殺気を一気に浴びた。俺に向けてではないとわかっていながらも、思わずその尋常じゃない殺気の量に蹌踉めいた。
何故アーサーをこんなにも怒りの色に染め上げさせてしまったのか、俺が声を掛けようとした瞬間、またしてもアーサーの言葉が上塗りし、さらにその言葉に俺は一瞬本当に息が止まった。
「…あんな…怖気が走る程の薄気味わりぃ笑い方は初めてだ…‼︎」
ゆっくりと顔を上げたアーサーの蒼い目が、怒りで真っ赤に燃えていた。
〝薄気味悪い笑い方〟…アーサーがそう語る意味を、俺は瞬時に正しく理解した。