日テレは実写版『ゴルゴ13』で対抗!? オールスター勢揃いの1979年『紅白歌合戦』! 裏番組の奮闘劇

更科 修一郎 プロフィール

空前の『NHK紅白歌合戦』出演拒否ブーム到来!?

その後、「富士山麓 ALL NIGHT LIVE 2015」など数々の伝説を生み出す長渕剛。セイッ! セイッ!(写真:Getty Images)

1970年代から80年代にかけて、吉田拓郎、南こうせつ、アリス、松山千春、井上陽水など、ニューミュージック系の人気歌手の間では「『NHK紅白歌合戦』という番組は国民的ナショナリズムの象徴だから、出場しないことこそが反体制的で格好良い」という風潮があり、ほとんど誰も出場しない空前の出演拒否ブームが続いていた。

前述の長渕剛が16分も歌ったのも、この偉大な先輩たちに強いコンプレックスを抱いていたからで、「先輩たちには絶対できないことをやって勝つ」「先輩たちが反体制を気取るなら、俺はナショナリズムを体現して国民的歌手になる」という逆張りだった。そんな私怨に巻き込まれたスタッフと長渕ファン以外の視聴者はまったく災難としか言いようがなかったのだが。

1979年7月26日19時から翌日朝4時まで62曲を歌った吉田拓郎「アイランド・コンサート In 篠島」の前座で大プーイングに遭ったトラウマを克服するため、さらに長く大規模な「ALL NIGHT LIVE IN 桜島 04.8.21」や「富士山麓 ALL NIGHT LIVE 2015」を実行した長渕だ。良くも悪くも思想は一貫している。

なので、さだまさしが持ち時間の件をクリアするだけで出場してくれたことにNHKは強く感謝していた。

さだは翌1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』では映画『二百三高地』の主題歌だった『防人の詩』を歌ったので、いよいよナショナリズムに魂を売ったと批判された。確かに『二百三高地』のヒットから、80年代の邦画は戦争大作映画プームになるのだが、脚本の笠原和夫が戦中派だったこともあり、この作品はむしろ、不条理と死屍累々の厭戦映画だった。

 

さだもその意図を理解したうえで主題歌を提供していたのだが、団塊の世代=全共闘世代の人気を得るため、教条的に反体制のポーズを取っていた同業者たちと違い、さだと長渕はほんの少しナショナリズムへ寄せることで、幅広い年代層から支持される大衆性を獲得することができた。

さすがに長渕の蛮行は許されず、2003年の第54回で再出場するまでNHK自体出入禁止となったのだが、さだとNHKの関係性は2023年で通算23回となる『NHK紅白歌合戦』出場だけでなく、『今夜も生でさだまさし』、『鶴瓶の家族に乾杯』の番組企画、連続テレビ小説『舞いあがれ!』のナレーションなど、ニューミュージック系歌手の中でも別格扱いの太いパイプを築いている。

なお、この年のトリは熾烈な賞レースを繰り広げた五木ひろしと八代亜紀がそれぞれ『おまえとふたり』『舟唄』を歌い、視聴率は前年の72.2%を上回る77.7%。ニールセン瞬間最高視聴率は、関東地区が78.3%、関西地区が80.8%だった。五木と八代の「五八戦争」は翌1980年の『ふたりの夜明け』『雨の慕情』でピークに達する。

そして、1979年の『NHK紅白歌合戦』は前々回記事で触れた通り、ジャニーズ事務所からの出場歌手がなかった。

1976年まで7年連続出場したフォーリーブスは、1978年8月に解散していた。

フォーリーブスの代表曲と言えば、後年、『ジャニーズカウントダウン』で若手グループの定番カバー曲にもなったゴムベルトアクションの『ブルドッグ』だが、意外なことに紅白では歌っていない。落選した1977年のヒット曲だったからだ。

1979年の白組トップバッターを務めた郷ひろみも1975年、ジャニー喜多川が「十二指腸潰瘍」の病名で入院した隙にバーニングプロダクションへ「強行移籍」していた。あのメリー喜多川も、浜田幸一や北島三郎の用心棒……もとい、運転手を務めていた「ドン」周防郁雄には勝てなかった。

なので、3年連続でジャニーズ事務所からの出場はなかった。

翌1980年の第31回でようやく、『3年B組金八先生』(TBS)で人気となった田原俊彦が出場するのだが、1979年の時点では、川崎麻世が『レッツゴーヤング』(NHK)のサンデーズメンバーとして出演していた程度で、ジャニーズ事務所は冬の時代だったのだ。

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