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ぼくらに感傷マゾが必要な理由

 この文章は、『青春ヘラ ver.1 「ぼくらの感傷マゾ」』に掲載されたものです。完全版は会誌に載っていますのでぜひお買い求めください。

 なお、こちらの記事をお読みになっていない方は先に一読することをお勧めします。こちらと併せて本記事を読んで頂けば、感傷マゾについての理解がより深まります。


 青春が欲しかった。誰よりも欲しかった。青春から最も遠い場所にいる僕が誰よりも青春に詳しくなっていくのが、何より辛かった。もちろん、そこで「よーし、頑張って青春するぞ~!」と意気込むことができれば良いのだが、拗らせた僕にできるはずもない。できることは、ただ「祈る」のみである。しかし、そんな敗者が青春に対するルサンチマンを転用して感傷マゾ研究会という意味不明なサークルを作っているのだから、人生とは分からないものである。受験期に大学で感傷マゾ研究会を作ることしかモチベーションがなかった僕は、感傷マゾのおかげで大学生になれたと言っても過言ではない。感傷マゾ研究会を作ったことで、多くの出会いと学びがあった。感傷マゾも、悪いことばかりじゃない。いずれは「感傷マゾのおかげで彼女ができました!」というバナー広告を見かけるようになるかもしれない。


 Ⅰ ポストコロナの感傷マゾ


 一般的に語られる青春の有り様と、僕が高3だった2020年では、事情が少々異なる。コロナウイルスという前代未聞のウイルスは、従来の青春の有り様を一変させたのである。噛み砕いた言い方をすれば、2020年は、「全員から平等に青春が奪われた年」だったということだ。
 特に、2002~3年生まれの感傷マゾは、注意深く扱わなければならない。4月に入るなり早々に休校が宣言され、(僕の地域では)6月まで巣ごもり生活が強いられた。その影響で夏休みは大幅に削減され、実質的な休みは一週間程度。もちろん夏祭り等の行事もない。文化祭をはじめとしたイベントは悉く中止となり、昼休みには孤食が徹底された……
 以上のことから分かるように、僕たちの世代は、青春という器だけを残してぽっかりと空洞ができているような青春しか知らない。そこに芽生えるのは、青春を得られなかったことに対する「後悔」というよりは、どうしようもない状況に対する「諦念」である。
 以前、感傷マゾ研究会のツイッターアカウントで、こんなツイートをした。

 本来であれば青春が得られたはずなのに、ウイルスの不可抗力によって失うこととなり、意図せずして青春コンプレックスを発病し、感傷マゾ的な感情を抱く。それが、感傷マゾ低年齢化の一つの要因ではないだろうか。同じような想いを抱いた学生は多いはずだ。
 空白の青春を虚構で埋めるというのはなんとも危ういことだ。「感傷マゾに陥らざるを得ない状況」を作り出したのも、またコロナウイルスの仕業である。
 しかし同時に、青春の欠落は希望でもある。超自然的な不可抗力によって失われた青春に可能性を見いだすことは誰でもできる。仮にコロナウイルスがなければ、各種行事は滞りなく行われ、学校生活は何も変わらなかった。その場合、僕は青春ができなかったときの言い訳ができなくなってしまう。強制的に奪われた青春になら、いくらでも言い訳ができる。
「もしもコロナがなければ青春できていたんじゃないか……」という希望的観測の中にこそ、僕の青春が詰まっているのである。感傷マゾにとって、この「もしも」こそが、最も重要なのだ。ありもしない「もしも」に自分のすべてを託し、祈ることで我々は感傷マゾになっているのだから……
 さて、ここまでの前置きを経て、コロナ禍の学生が如何なる生活を送っていたのか、軽く紹介しよう。学生の青春が奪われたとは言っても、具体的な実情が当事者の口から語られることはあまりない。以下、コロナによってどのような学校生活に変貌したのか、おおまかな特徴を列挙したい。


 ・イベント(修学旅行や球技大会)中止
 ・部活動禁止(夏まで)、インターハイや大会の中止
 ・2月下旬~6月半ばまでの休校、オンライン化
 ・昼食時の会話禁止、対面禁止。全員が自席で黙食
 ・夏休みの削減、実質的な休みはほぼ1週間
 ・卒業式簡略化(在校生登校禁止)
 ・授業内でのグループ活動等禁止
 ・文化祭中止、もしくは縮小


 ここに挙げたのはもちろん一例で、地域によって自粛期間が前後したり警戒レベルも多様であった。また、公立の高校は文化祭縮小という措置が取られた一方、私立では完全中止となるなど、学校単位でもかなり事情が異なる。余談だが、僕の高校では特殊な形の文化祭が行われた。3年生は通常通り体育館で椅子に座りステージ発表を見るが、1、2年生は第二体育館か教室でリモート観戦だった。「リモートで文化祭を見るなんて、もはや青春ドラマを見ているみたいだよな」と思わざるを得なかった。ちなみに、僕は色々嫌すぎて文化祭を休んだ。なので、この話は聞いた話だ。
 これに加え、我々の年から入試改革が行われた。ここまで来れば役満だ。休校により学習進度は遅れているのに入試制度や問題が変わるという、地獄のような状況ができあがった。2002年生まれは呪われた世代だとよく言われる。
 以上のように、ポストコロナの感傷マゾは、これまでとはかなり毛色が異なる。もしかすると、感傷マゾはそういった青春敗者の救済装置、あるいは受け皿としての役割も果たしているのかもしれない。全員から平等に青春が奪われると、理想的な青春像というのはますますフィクションめいて、後に話す青春像の固定化、脅迫に繋がっていくのである。


 Ⅱ 記号化する青春と若者の「エモ」


 感傷マゾと一口に言っても様相が異なることは先に述べた通りだが、わく氏やスケア氏など、従来の感傷マゾの語り手を第一世代(僕は勝手に古典派感傷マゾと呼んでいる)とし、これまでの考察で語られてきた若年層を第二世代と区分してみよう。
 現在まで変遷を遂げてきた感傷マゾにおいて、第一世代と第二世代を大きく隔てている要因として最も大きいのが、Instagramである。単なるSNSではなく、写真をメインとして扱うSNSである点が非常に重要になってくる。

 言葉で伝える段階から写真1枚で伝わる段階に移行するにあたり、若者の間で「理想の青春像」が固定されつつある。我々の抱く青春はますます記号的になっているのだ。上のツイートはその点を上手く説明している。

 記号的な青春とエモは切り離せないため、まずはエモの研究をすることにした。試しにインスタで「#エモい」と検索してみる。約1000枚の画像をスクロールし続けると、大きく分けて3パターンに分類できることが分かった。

 ①夕焼けや青い海の写真
 ②薄暗い、または少し画質の低い写真
 ③学校の友達との写真(卒業、遠足、学校祭など)

 ①の場合、イラストやアニメ、映画の影響が大きいのではないだろうか。具体的に言えばloundraw氏が描くようなテイストのイラストや、新海誠映画で描かれる風景、明らかなエモを押し出した写真集やイラスト集の登場が挙げられる。もしくは、ライト文芸の表紙にありがちなイラストと言えば伝わるだろうか。特に『君の名は。』以降、美しい風景=エモいの認識がますます進み、エモの共通言語化に貢献した。嘘みたいに描き込まれた写実的なイラストに夕焼けや雨などのエッセンスが加わると、それだけで主観と切り離されたエモが認められるようになった。最近ではAkine Coco氏の『アニメのワンシーンのように。』という写真集や『エモくて映える写真を撮る方法』などが上梓され、分かりやすいエモさが固まりつつあるのだろう。

 一方、②の場合は、どちらかといえば「ノスタルジア」というベクトルでのエモさが展開されている。
チェキやフィルムカメラで撮られる写真を「エモい」と感じるのと同じ方向性だ。我々の世代は写ルンですや、一家に一台ビデオカメラ世代にギリギリ含まれるので、不自然なことでもないだろう。以前、「古いビデオカメラで映像を撮影して、存在しない『あの頃』を作り出しています」という旨のツイートを見かけたことがあったが、これもその類だろう。

 加えて、薄暗い写真には夜=エモいという認識も関わっている。ヨルシカ、YOASOBI、ずっと真夜中でいいのになどの「夜」に関係するアーティストを好んで聴く人たちを「夜好性」と呼ぶらしいが、そういった潮流もこの認識の渦中にあり、その点でコトヤマ氏の『よふかしのうた』は、現代のエモと夜を結びつける上で非常に参考になる作品だ。


 そして最後に③のケースだが、これは専らメディアによる策略の影響ではないかと推察する。具体的に言えばポカリスエット、アクエリアス、カルピス、その他清涼飲料水のCM、分かりやすいだろう。

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図1「カルピスウォーター」 CM 「砂浜」編 15秒 永野芽郁 小手伸也(https://youtu.be/D23FCEpK-Jc)

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図2 カロリーメイト web movie | 「夏がはじまる。」篇(https://youtu.be/wf8mZVmof2g)


 青春を題材とした企業戦略は古くからあるが、近年ますますその流れが強まってきている。エモの固定化及び青春の記号化がその理由であることは確定的と見て良い。
 ただ、ここで注意したいのは、③は直接の原因と言うよりは、ブームに乗っかった上での一助となっているということである。青春を扱って商品を売るために若者の青春像を調査していた企業側が、いつの間にか青春像の固定化に貢献しているという不思議な構図が見て取れる。我々にとっては、脅迫的な青春像というのはもはやアイデンティティがかかった切実な問題である。青春四面楚歌状態になったとき、いかにして「個性」を見つけるのか、という問題がますます重みを増してくる。我々はどこに向かっているのだろうか。

 今の若者にとって大切なのは、誰かと気軽に共有できる青春であり、分かりやすい青春である。「#アオハル」という語が使われ、一目でエモいと思える写真を好むようになる。
そしてその流れを強めたのがInstagramというSNSである。TwitterやFacebookにはできなかったことだ。
 これらエモの固定化と青春像の固定化は相互的な役割を果たす。エモが固まり、青春像も固まっていく。理想的な青春像が若者に広く浸透することで、「青春とはこうでないといけない」という考えに陥ってしまう。今までは各々が自分に都合の良い青春を夢見ていたのに、「主観」が抜け落ちることで脅迫的な青春像を皆が受け取ることになる。自分と理想を比較して自己嫌悪する人がより多くなり、感傷マゾヒストが増える。これこそが、若者に感傷マゾが浸透したプロセスの一形態ではないだろうか。

 2021年6月12日にツイキャスで行われた対談では、大阪芸大哲学コミュニティ「すみれの会」の織沢氏、京都大学感傷マゾ研究会の竹馬氏と一緒に様々な話をさせて頂いた。

 そこで竹馬氏が出した『青春の全体主義』というワードはまさに言い得て妙であろう。本来、青春とは人それぞれで良かったはずだ。それがSNSの発達によってフィクションとものすごく近い距離で消費されるようになった。そもそも、新海映画に出てきそうな写真を撮ってインスタに投稿すること自体、虚構と現実の境界線を打破しようとする行為に他ならない。『よふかしのうた』を読んで夜の街に繰り出すのも、ポカリのCMのような青春を演じようとするのも、すべてフィクションの実演だ。虚構と現実の区別が曖昧になるにつれ、「フィクションのような青春しか青春とは呼べない」という謎の前提に脳を侵されはじめ、理想的な青春像と現実の自分を比べて辛くなってしまう。本来は辛くなる必要など全くないのに。もはやフィクションと同化した青春を100%送れる人間など、いるはずないのに。
 その極めつけがTikTokというメディアだ。TikTokを眺めていると、アニメのMAD、歌ってみた、オリジナル楽曲、ホームビデオ、日常生活、ダンスなど、多種多様な動画が投稿されていることが分かる。 
 しかし、TikTokで流れる動画はあまり規則性がなく、雑多なジャンルの人気動画が延々と垂れ流される。つまり、青春アニメのMADの次に再生されるのが高校生の日常を切り取った動画であったりする。ゼロ年代、もしくはそれ以前は、現実と作品の世界観がはっきりと区別されていた。世に溢れるフィクションはどこまで行っても紙の中、画面の向こう、テレビの世界だと皆が理解していた。しかし、InstagramやTikTokなどのSNSの発達をはじめ、虚構とあやふやなVR技術の発達など、様々な要因が絡まりあって現実と虚構の境界が曖昧になっている。これも、感傷マゾ低年齢化の要因の一つと数えて良いだろう。

 今後、VRによって「あの夏の思い出」が振り返るものから体験するものに変わった時、現実もVRも現実感は変わらなくなると思うんですよね。 [3]

 余談だが、TikTokは音楽を重視しているという点で従来のSNSよりもエモを押し出すことに成功している。分かりやすく言えば、高校生の日常ムービーに青春っぽい音楽を流せるという装置を提供しているのだ。インスタのような分かりやすくエモい世界観はそのままに、さらに音楽を加えることができるようになり、映画やアニメのような演出を気軽にできるようになった。まさに虚構性の打破といえる。以下の引用でスケア氏が語る「エモい描写にポエムの独白を組み合わせる」と同じように、流れる曲が動画内の青春を言語化・要約してくれている。『天気の子』のラストシーンで『大丈夫』が流れたときに物語の要約が始まったという感覚を、TikTokではよりインスタントに作り出すことができているのだ。

スケア 「そういう意味でいうと、エモい描写にポエムの独白を組み合わせると、感傷マゾっぽいよね。新海誠みたいな。あれって、他にあったのかな。主人公の独白、ヒロインの独白。それらが交わるようで交わらない。その独白に情景が被さるという」
たそがれ 「独白自体はあったかもしれないけど、主人公とヒロインの独白が交わらないというのは、新海誠が初かもしれないですね。一人称の小説の語りみたいな独白は」
わく 「小説の一人称だと、主人公の気持ちが語られるだけだけど、アニメだと独白と相性のいいエモい風景を組み合わせることができる。小説だと、独白と風景の同時展開はできないですよね」[4]

 この章に関しては、わく氏のツイートを引用させていただき、締めることにする。これらのツイートを見て、僕も考えを進めることができた。

あの、画一的で記号的な青春像は割と昔からあったと思うんです。ゼロ年代のエロゲーもそうだし、新海誠のボーイミーツガールもそう。それらと今に違いを見出すならば、消費される環境なんじゃないかなと。
エロゲーをパソコンでプレイする時は、モニターの向こう側の世界と現実の自分達の生活というのは、今よりも明確に区切られていました。だから、三次元の現実と反対の「二次元」という概念が腑に落ちたんだと思います。
それと比べると、今はtwitterにしろInstagramにしろtiktokにしろ、流れてくるコンテンツに虚構と現実の区別がつきにくい。新海誠の映画の切り抜きと、どこかの高校生が夏休みに花火をする短い動画が、ゼロ年代と比較するとかなり近い距離感で消費されている。そこが大きく異なる気がしました。[5]


 Ⅲ 青春ヘラとは何か


 「青春ヘラ」は、前述した対談企画で初出した言葉である。ただ、言語化したのが初めてと言うだけで構想自体はずいぶん前から頭の中にあった。巻頭インタビューでも触れたが、この概念を作らざるを得なかった理由は、他でもない僕が感傷マゾに対して完璧に符合する人間ではなかったからである。
 一番の問題は、感傷マゾにおける「マゾ」性の希薄さであった。確かに、感傷的になって自傷行為を重ねることに快感を見いだしていることは間違いない。しかし、そのマゾヒズム的な快感の得方が、従来の感傷マゾの語り手であった第一世代と比べると微妙に違うように思い始めた。さらに、マゾヒズムの研究と称してジル・ドゥールズの『ザッヘル=マゾッホ紹介』を読み進めていくうちに、自分が真にマゾヒズムを語り得る人間ではないことも明らかになった。要は、マゾヒズムにも多様なレベルがあり、自分はその初級レベルでしかないということだ。この理由を考えると、僕が感傷マゾに触れるきっかけが「感傷」からの経路だったからというのが挙げられる。
 「感傷」から感傷マゾに入った人間と、「マゾ」から感傷マゾに入った人間では根本的な部分が大きく違っているのだ。案外、この入り口の違いは虚構エモとの区別においても関わってくるのかもしれない。「虚構エモ」は、『感傷マゾvol.1』でスケア氏が発案した造語である。自虐的なマゾ要素が薄く、作り物っぽいエモ(例えば、ヨルシカのMVやloundraw氏のイラストのような)ものに対しても感傷マゾと名前をつけることを疑問に思い、区別されるために作られた単語だ。

わく  「「感傷マゾ」という言葉で検索してみると、単純に「概念っぽくて偽物っぽいエモさ」を「感傷マゾ」と呼んでいる人が多い気がして、自虐的なマゾ要素を持つ人は少ない気がする」
スケア 「感傷マゾというか、感傷エモみたいな」
たそがれ 「作り物っぽいエモを、感傷マゾと呼んでいる人が多い気がしますね」
スケア 「多分、それは「感傷マゾ」より「虚構エモ」と呼んだ方が腑に落ちるね」[6]

 感傷マゾと虚構エモの区別の話はここでは深掘りしないが、虚構エモは理想的な青春への羨望を糧にしているために感傷マゾより純粋なイメージがある。ともかく、僕の抱いている感情は、感傷マゾよりは少しマゾ要素が薄く、虚構エモよりは不純といった具合に、ちょうど中間項として存在している。敢えて中間項という言葉を使ったが、この考え方自体も余り適切ではない。虚構エモと感傷マゾは対立概念ではないし、連続するスペクトルでもないからだ。では、どうすればよいのか。3次元を用いればいい。

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 X・Y・Z軸にそれぞれエモ、マゾ、感傷を割り当てた。「虚構」を抜いたのは、3次元の限界ゆえではなく、今の若者にとってもはや虚構かどうかは問題にならないからだ。一般的な感傷マゾ的エピソード(夏休みに田舎に帰省する等)すらも気候変動などの影響でフィクションになっている。第二章でも述べた通り、現実と虚構の区別など意味をなさない昨今ではこのグラフにおける虚構性は問題にならない。
 空間a,b,cをそれぞれ感傷マゾ、虚構エモ、青春ヘラと分類できる。(先ほどの引用の通り、虚構エモも最初は感傷エモと言う名前だった)
 さて、ここからは青春ヘラという概念について詳しく記述したいと思う。そもそも僕が感傷マゾ研究会というサークルを作ろうと思った理由は、「自分と似たような人間と知り合いたい」という単純な理由だった。要は、傷の舐め合いである。感傷マゾは共有すべきでないという意見もあるが、個人的には他人のエピソードも自分の感傷の材料になり得るので、積極的に交流すれば良いと思う。本題に戻ろう。意を決してサークルを作り、自分と似たような境遇の人間が来るのを待ち望んだ。結果、集まったのは感傷マゾヒストというより、「青春敗北者」達だった。会員と話していると、「感傷に浸るのは好きだけれどマゾまではいかない」という声をよく聞く。感傷の部分が強調されている時点で虚構エモではなさそうだが、マゾまではいかないので感傷マゾでもない。ちょうど仲介する存在が必要だった。その結果生まれたのが、青春ヘラだ。名前をつけて言語化すると、次第に自分も青春ヘラのきらいがあることに気づいた。自分で考案した概念なので当然だが、驚くほどぴったり自分に当てはまるのである。
 青春ヘラはその名の通り、過去に青春できなかったことに対する後悔が軸となっている。そこから自己嫌悪に繋がり、感傷→快楽といった経路は感傷マゾと変わらない。異なる点は、「ヒロインに本質を見抜かれて罵倒されたい」といった、マゾヒズムの意味での性的要素が少ないこと、また、自己完結できる点にある。 
 感傷マゾがヒロインからの糾弾を通して自己愛を満たしたのに対し、青春ヘラは完全な自己完結を特徴とする。これができるのは、基本的に青春ヘラが「自意識の化け物」だからである。例えば、文化祭中に教室でラノベを一人読んでいた経験があり、それが「自分が拗らせていたせいで青春できなかった」と嘆く大学生がいたとする。しかし、心のどこかで「他人と違うことをしている自分がかっこいい」、「文化祭ではしゃいでいる奴らと違って俺は大人だな」という、自己愛を感じてしまっているのだ。アイデンティティだとすら思っているかもしれない。
 このように、「○○がないこと」をアイデンティティにするのは本当に危険で、青春ヘラに直結してしまう可能性がある。「インスタをやってない」、「スタバに行ったことがない」といった消極的事実をアイデンティティにしてしまうと、自虐を自己愛に変換することに慣れてしまい、拗らせているなんてレベルじゃなくなってしまう。感傷マゾが切実に存在しない青春を希求する一方、青春ヘラは「最悪、存在しなくてもいいや。それがアイデンティティになるし」といった具合である。異常なまでの自己愛こそが、感傷マゾと区別されるべきポイントではないだろうか。
 では、虚構エモとの違いは何か。これは簡単で、一般的な高校生と拗らせている高校生をそれぞれ考えてみて欲しい。理想的な青春像を見たときに、「こんな青春したかったな」と憧れのまなざしをむけるのが一般的な高校生である一方、憧れだけでなく諦念やルサンチマンまで抱くのが拗らせた高校生である。そしてそれらが最終的に自虐に繋がる。なぜなのか。自分が大好きだからだ。
 そもそも自虐というのは自分が大好きでないと行えない。自己防衛の一種とも言える。他人に自分の弱さを指摘されることを恐れ、封じるための行為だ。ワクチンのようなものだ。とにかく、自虐とは自己愛の裏返しである。自虐を行うために口から出る妬みや諦めの言葉は、自虐に至るための材料のようなものだ。その点を、僕は青春ヘラ特有の不純さだと言っている。
 最後に、青春ヘラという名前の由来を話しておこうと思う。「ヘラ」というのは、「ヘラる」というミームから拝借した。「ヘラる」という言葉自体、メンタルに異常のある人を指す「メンヘラ」という単語から派生しているので、正確には「メンヘラ」から拝借したというのが正しいかもしれない。
 そもそもの「メンヘラ」の由来が、「メンタルヘルス」に異常がある人間に対して、人物を表す「er」がついてできた造語であるが、次第にヘラーの部分のみが独立し始めて、「ヘラる」といった単語が生まれた。
 結果、「ヘラる」=病む、落ち込む などの意味が付け加えられた。メンヘラという、非常にセンシティブなワードをこのように扱うことに苦言を呈する人もいるかもしれない。しかし、青春による被害は、我々の精神に関わるほど重大かつ切実ということをどうかご理解頂きたい。

ヘラる
「心が病む」「落ち込む」といった意味合いで用いられることのある言い方。心が病んでいるような者を俗に「メンヘラ」と呼ぶ言い方、および、「メンヘラのようになる」といった意味で用いられる「メンがヘラる」という言い回しを前提した表現といえる。(weblio辞書より引用)

 これらの事情を基に、「青春を拗らせている状態」として造った言葉が、「青春ヘラ」であったというわけだ。
 青春ヘラは、最終的な姿勢のあり方で「青春コンプレックス」と区別される。試しに「青春コンプレックス」で検索をかけると、トップには以下のような記事が見つかる。

『青春コンプレックスの辛さを克服する方法』
『青春コンプレックスを克服できる超簡単な方法』
『青春なかった人が青春コンプレックスを解消する3つの考え方』

 これらの記事に共通してみられる「克服」「解消」のワードは、「コンプレックス=最終的には解決した方が良い」という前向きな姿勢である。過去に青春をできなかった自分に対してコンプレックスを抱き、それを解消するために躍起になるという、非常にポジティブな姿勢が最終的には残る。
 一方、自虐の話からも分かるとおり、青春ヘラは最終的に消極的行動に繋がる。青春できなかった自分をコンプレックスに感じはするものの、そんな自分を自虐という形で肯定し、ややもすればアイデンティティにすら感じてしまう。これはある意味ポジティブとも言えるかもしれないが、青春コンプレックスの「青春を掴み取るために頑張るぞ!」という行動を伴ったポジティブさと比べると大きな差がある。
 青春ヘラは常に「諦念」が先行する。我々は臆病で卑怯だから、自虐や諦めを用いてしか自分を肯定できないのだ。死に物狂いで落とし穴から脱出しようとするくらいならば、諦めてその穴の中で生活した方がよっぽど幸せだ。自分のモノではない青春やここではないどこかを眺めて傷つき、その場にうずくまって涙を流せばいいのだ。かつてノスタル爺が暗闇で他人の青春を祝福したように。

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図3 藤子・F・不二雄『箱船はいっぱい:藤子・F・不二雄異色短編集3』 188頁 小学館(1995/7/15)


【引用】
[1] 大阪大学感傷マゾ研究会(@kansyomazo)のツイート、2021年4月21日
[2] よしのちゃん(@yoshi_no_chan)のツイート、2021年4月28日。
[3]『感傷マゾvol.01』 44頁
[4]『感傷マゾvol.01』 10頁
[5] かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン(@wak)のツイート、2012年4月21日
[6]『感傷マゾvol.01』 17頁


【引用画像】
図1「カルピスウォーター」 CM 「砂浜」編 15秒 永野芽郁 小手伸也(https://youtu.be/D23FCEpK-Jc)
図2 カロリーメイト web movie | 「夏がはじまる。」篇(https://youtu.be/wf8mZVmof2g)
図3 藤子・F・不二雄『箱船はいっぱい:藤子・F・不二雄異色短編集3』 188頁 小学館(1995/7/15)

 
【参考文献】
かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン『感傷マゾ vol.01~06』2018年~2021年。
ジル・ドゥルーズ著、堀千晶訳『ザッヘル=マゾッホ紹介』河出書房新社、2018年。
Akine Coco『Akine Coco 写真作品集 アニメのワンシーンのように。』 芸術新聞社、2021年。
Lovegraph 『エモくて映える写真を撮る方法』KADOKAWA、2019年。




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