❓犯罪行為に誘導して捕まえるのは正しいのか❓
岡田斗司夫のYouTubeをみていたら海外のドキュメンタリー番組の話がありました。
その名も”To Catch a predator”。
少年少女をひっかける性犯罪者を逆に仕掛けるドッキリ番組だそうです。
◆バカウケの吊し上げ番組
まずSNSで番組スタッフが未成年のアカウントをつくる。スタッフは「さみしい……」みたいな思わせぶりな投稿をする。そこにまんまと食いついて言い寄ってきた輩を吊るし上げる内容でした。
当時のアメリカ人に大ウケだったらしく、常に高視聴率だったが、吊るし上げた1人が自殺してしまう。
この事件をきっかけに遺族が「彼はまだ犯罪者ではなかった」と訴えて、泥沼化し、番組は打ち切られたとのこと。
43分ころからの話
悪趣味な番組っすね。
番組に対する否定的な意見として「犯罪者にもプライバシーがあるのでは?」というものがありました。ほかにも法律を執行するのは民間ではないはずだとか。
思うのですが、未遂の段階では犯罪者ではないとか、犯罪者にも人権があるとか、法の執行は警察がやるべきとか、そんな論はちょっとズレてるのではないでしょうか。
この番組を楽しんでいる人は善人の自分と悪人の犯罪者を明確に区別している。
しかしほんとうに私たちは胸を張って善人であると言えるのだろうか。
◆1000人殺せば救われると言われたら?
話題が逸れるんですが、ぼくは卒論で親鸞を扱いました。
親鸞関係の本をいろいろ読みました。
そのなかで親鸞の言行録でもある『歎異抄』の13条にこんな話があります。
ある時親鸞が弟子で『歎異抄』作者の唯円にこう言った。
「唯円、私の言うことを信じるか」
「はい、信じます」と唯円。
「だったら、言ったこと背かないな」と再度念を押す親鸞。
「もちろんです」と唯円も答える。
「なら言うけど1000人殺してこい。そしたら往生できるよ」
!
唯円はびびったでしょうね。
まさか師匠が人を殺せというとは思わなかったでしょう。
ここで唯円はどう答えたのか。
「おおせではございますが、私にはひと1人殺せるような器量がありません」と正直に言いました。
師匠がなぜそんなことを言うのか、本当に殺せば救われるのだろうか。数秒間いろいろ悩んだことでしょう。だができなかった。
唯円もやはり優秀な人だったのだと思います。
こんな正直な答えをできる唯円だからこそ親鸞は反社も反社な発言をしたのでしょう。
余談ですが、鎌倉仏教のなかで日蓮は信徒一人ひとりに合った説法をしてまわったと言われ、親鸞はどんな相手にも同じように念仏を勧めたのだろうと言われがちです。
事実書簡を読むと、日蓮は相手に寄り添ったアドバイスをし、親鸞はどんな相手にも念仏を説いている。けれど唯円の気質を正確に見極めて劇薬な説法をしたことをみれば、親鸞もまた一人ひとりに合った教えを考え、説いていたのだろうなと思います。弟子の誰彼かまわず「1000人ぶっ殺せ!」と説いていたのなら、何人かやろうとしたはず。
唯円が殺せませんと謝った後、親鸞は、「そうだろう。絶対に往生できると言われても1人も殺せない場合もあれば、地獄に落ちると言われても何人も殺してしまうこともある。私の心が善良だから殺さないのではない。ただ、たまたま1人も殺さない業縁にいるだけなのだよ」と言う。しびれますね。
◆犯罪行為に誘導して捕まえるのは正しいのか
”To Catch a predator”に戻ります。
番組の制作者はあえて人が犯罪者になるような縁を仕組み、引っ掛かった人を私たちとは異質な悪人として裁いていた。彼らには町に潜む犯罪者予備軍を摘発するという正義の思想があったのでしょう。
けれども人は誰もが悪い縁に入れば法を犯すのではないか。人を殺したくなくとも兵隊になれば殺さなければならない。ぼくだって無一文で身内もなく、職もなければ、食い物を盗むくらい平気でやっていたはず。幸運なことにぼくには家族があり、知り合いがあり、生活できる縁がある。それだけのことではないでしょうか。
最後にもちろん私は未成年に対する性犯罪者を擁護しているわけではありません。人間は狭い視野のなかで共同体をつくり運営していかなければならない。だからこそ人間のつくった法律もそこで生活するのなら遵守しなければならない。
けれども生まれつき人間には善人と悪人がいる、なんて考えには反対だし、あえて犯罪をさせる状況に誘導して捕まえるヒーローごっこは趣味悪いなと思った次第であります。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?


コメント