「8月6日を消してくれ」と願っていた張本さんに届いた“1通の手紙”
そのあと学校では、“被爆者と遊ぶな”といった差別があったといいます。張本さんはいつしか、自分が被爆者だとは口にしなくなりました。
やがてプロ野球の世界に入ったものの、華々しい活躍の一方で、常に心に暗い影を落としたのが“原爆症の不安”でした。
野球評論家 張本勲さん(84)
「ちょっと体調の悪い時があるじゃないですか、そのときでもやはり、ふっと浮かびましてね。ひょっとしたら原爆症じゃないかなと。被爆者ということは一切隠してましたからね、言わなかったです」
そんな張本さんに、大きな転機が訪れます。60代のころ、張本さんは新聞社に頼まれ、原爆についての記事を寄せました。すると、小学生の女の子から“1通の手紙”が届いたのです。
野球評論家 張本勲さん(84)
「苦しい悲惨な思いが浮かぶから、『8月6日を消してくれ』と新聞に書いたことがある。小学校の女の子が手紙をくれまして、『逆でしょう、8月6日はなくしちゃだめですよ』『終生忘れないように』と言われて、はっとしました」

この小学生の言葉に背中を押される形で、張本さんは2014年、つらくて足を踏み入れることができなかった原爆資料館を訪れます。

野球評論家 張本勲さん(2014年)
「(展示写真を見ながら)姉さんを思い出す、このケロイドを見ると…」
張本さんの胸に蘇ったのは、亡くなったお姉さんのことでした。

野球評論家 張本勲さん(84)
「一番好きだった姉さんのね、死ぬ姿を見てるから。全身焼けただれてね。お袋はほんとに苦しかった。よく耐えたと思いますよ。自分の愛娘が一晩…。『おかあちゃん痛いよ熱いよ苦しいよ』と言いながら看取ったんですから、いかにおふくろが苦しかったか。子どもの頃は分からなかったけど、大人になって初めてお袋の苦しさ、原爆の悲惨さをかみしめましたよ」