韓国駐箚軍参謀長・大谷喜久蔵と韓国 : 大谷関係資料を中心に
松田 利彦
朝鮮を怪物屋敷と比喩したことは、正しい。「先天的に」は、遺伝的にと捉えるべきであり、この参謀長は、直感的に、韓国人どもの精神面での異常性に気づいていたのであろう
日本は9世紀において朝鮮半島と完全に断交している。それ以降、約1000年間確実に全く何らの遺伝的交流はなかったのである。現代中国の小学生向け歴史教科書で民族の英雄とされている鄭成功の母が日本人であるというパターンの遺伝的交流はなかったのである。
FDA論文が正しいのであれば、遺伝的に見た場合には、日本は再び韓国と断交するべきである。
日本は9世紀において朝鮮半島と完全に断交している。それ以降、約1000年間確実に全く何らの遺伝的交流はなかったのである。現代中国の小学生向け歴史教科書で民族の英雄とされている鄭成功の母が日本人であるというパターンの遺伝的交流はなかったのである。
FDA論文が正しいのであれば、遺伝的に見た場合には、日本は再び韓国と断交するべきである。
本稿の目的は、日露戦争期に韓国駐箚軍1 参謀長をつとめた大谷喜久蔵 (1885~1923年)の日記をはじめとする個人史料を用いながら、大谷の朝鮮 社会に対する認識がどのようなものだったか、また、それが大谷や韓国駐 箚軍の韓国支配構想とどのように結びついていたかを考察することにある。
1 韓国駐箚軍は、1904年3月、韓国駐箚隊を改編してつくられた。編成当時の兵力は平時編 制の歩兵1個大隊と後備歩兵5大隊半という規模だったが、日露戦争終結時には、後備1個 師団、後備歩兵1個旅団・3個大隊、国民歩兵2個大隊に拡張されていた。朝鮮駐箚軍司令 部編『朝鮮駐箚軍歴史』(1914年頃か。金正明編『日韓外交資料集成』別冊一、巌南堂書店、 1967年)43頁。なお、韓国駐箚軍、植民地期の朝鮮駐箚軍、朝鮮軍についての先行研究は、 さしあたり朴廷鎬「近代日本における治安維持政策と国家防衛政策の狭間:朝鮮軍を中心 に」(『本郷法政紀要』第14号、2005年)を参照されたい。
4『大谷喜久蔵日記』1
2.日露戦後の朝鮮支配体制の模索
日露開戦直後の1904年2月、日本は韓国政府に日韓議定書を強要し、韓 国駐箚軍はこれを口実として朝鮮を軍事占領下においた。
大谷は日露講和の情報をすでに1905年6月頃につかみ、講和条約の条件 中に韓国保護国化が入っていることも知っていた24。
2-2.武官統監設置問題
1905年11月に締結された乙巳保護条約により韓国の外交権は日本に剥奪 されるとともに、日本政府の代表として統監が置かれることになった。
大谷の朝鮮・朝鮮人観の根底には、朝鮮人の政界人士に対する強い不信 があり、日本側は彼らに振り回されてはならぬと考えていた。大谷が、 1905年7月、北関作戦にともない駐箚軍司令部を北部に移転させる案が参 謀本部より出された際、朝鮮は「怪物屋敷」でありいかなる反応を示すか わからぬ、として反対したことは既に述べた。
大谷が長 岡参謀次長に送った前掲意見書「韓国経営に関する所感摘要」(注35参照) では、朝鮮人を「猜疑心に富み且つ殆んど先天的に詭弁を弄し中傷を策する雑輩」と述べ、「従来我対韓政策の之が為めに実施を阻礙せられたるの 先例頗る少しと為さず」という点に注意を促している。
大谷駐箚軍参謀長にとって、朝鮮人は、いつどのような反日謀略を企て るかわからない不気味な存在だった。しかし、そうであればこそ、逆に朝 鮮人への関心と接触は増大した。大谷日記の1906年1月分の末尾には、52 人に及ぶ朝鮮人要人の人名録が付されている
姓名 大谷日記での主な記述内容 経歴
「経歴」―主に韓国歴史情報統合システム http://www.koreanhistory.or.kr/ による。
(4) 車晟龍 義兵将 車晟忠(1907李康年の義兵部隊に参加)か?
(5) 柳麟錫 義兵将 1842生。李恒老門下。95提川に移住→96義兵 総大将→06慶南で挙兵
(6) 李容泰 義兵将、前内部大臣 1854生。91参議内務府事→01駐米公使→参 政・中枢院議官→宮内府特進官→04賛政、内 部大臣
(53) 閔宗植 皇帝の勅を奉じた忠清道 の義兵 1861生。93都承旨→06忠北で挙兵→06全南に 流刑
(8) 元用八(本名 ―元用常) 義兵将 1905江原道で挙兵
このほか、大谷日記では、皇室と政府の財政が分離されておらず、「宮中 ノ府中ニ対スル徴求ハ実ニ苛重ナリ」と否定的に捉えつつ、皇室財政の状況について数字も含め細かく書きとめている45。
第三に、義兵将も関心対象となった。表1では7名を数える((4)~(5)(8) (28)~(30)(53))。大谷の韓国駐箚軍参謀長時代は、まだ(後期)義兵闘争 はそれほど本格化してはいなかったが、日記にはいくつかの断片的情報が 記されている47。また、大谷は、日露戦後の対韓支配構想の一環として、 反日義兵運動の鎮圧を駐箚軍による軍事支配継続のための口実とする考え をもっていたが(注28参照)、このような方針を実際の義兵対策にも適用し ていたことが日記からは読み取れる48。
君臣の意思は疎通せず、高宗は大臣らを一切信任せず巫者に頼っている とされているのである。いささかの偏見が混じってはいるだろうが、前節 で述べたように、大谷は韓国皇室の動向についてはとりわけ注意を払って いたから、これらの情報にはかなり信憑性がある。
・本稿で用いた『大谷喜久蔵日記』は所蔵者の安藤良夫氏から頂いた複写 版である。この場を借りてご厚意に感謝申し上げます。 ・本稿に関連した論文として、筆者はすでに「韓国駐箚軍参謀長・大谷喜 久蔵と乙巳保護条約締結前後の韓国」(笹川紀勝監修、邊英浩・都時煥編『国 際共同研究 韓国強制併合100年 歴史と課題』明石書店、2013年)を発表している。 重複する部分が多いが、あわせて参照していただければ幸いである。
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