バスクリンの匂いがする幼稚園
昭和というのは本当に光り輝いた、魅力的な時代でした。令和になっても仕事を続けていますが、昭和の時代にすごく楽しい生活をしたローンを払っているような感じがします。
僕の原体験は、すべて高度経済成長の中にあったんじゃないかなという気がします。東京・目黒生まれで、家の前を都電が走っていました。通っていた幼稚園の裏に「ツムラ」の工場がありました。いつもバスクリンの匂いがして。当時はそこまでではなかったと思いますが、今は大きな会社になりました。夢があった時代じゃないですかね。
そして首都高速ができ、新幹線が開通し、東京オリンピック、それからカラーテレビや冷蔵庫が普及し始めて。サラリーマンだった父にオリンピックの開会式に連れていかれた記憶があります。マラソンで優勝したアベベ・ビキラが走っているのも見ました。
父が堅い人で、子供の頃は、ちゃんと勉強しなきゃいけないと思っていました。すでに受験戦争が始まっていた時代です。進学塾に行くと、周りの人たちが開成、東大に行き大蔵省(現財務省)に入るのがエリートの道だという感じで、それをうのみにしていたのだと思います。どんな仕事をして、どんな未来が待っているかなんて思い描いてもいませんでした。
中学に入ると、家族が寝静まった頃、一人でラジオの深夜放送を聞くようになりました。ニッポン放送の「オールナイトニッポン」や文化放送の「セイ!ヤング」で、パーソナリティーが兄や姉のように、いろいろなことを教えてくれました。
ラジオで米国の影響をもろに受け、ベトナム戦争の反戦フォークを知るようになりました。それに影響された日本のフォークソングもあって、音楽を肌で感じました。ビートルズやローリング・ストーンズの影響も多大に受けたと思います。
若い子たちに「昭和臭」がすると言われる
受験勉強をしていた高校2年のとき、ラジオを聞いていて、自分の中でこうやったらおもしろいんじゃないかということで、コクヨの400字詰め原稿用紙20枚くらいに平家物語のパロディーを書いてニッポン放送に送りました。
それがきっかけでこの業界に入ったのですが、何かを計算していたわけではありません。あらゆることは、みんな「きっかけ」でしかない。みんなに平等にいろいろなきっかけがあり、それぞれの道になっている気がするんですよね。
若い子たちに「昭和臭」がするとよく言われます。しようがないですよね。昭和に生まれ、生きてきたわけだから。僕は昭和が大好きです。音楽で言うと、歌にドラマがありました。阿久悠さんらが歌にドラマを作ったわけですよね。約3分間の。「津軽海峡・冬景色」も映画やドラマを見ているような光景が思い浮かぶじゃないですか。つい口ずさんでしまう。
阿久さんが生前おっしゃっていたのですが、昭和の頃は「街鳴り」がしていたと。街で音楽が鳴っていたということです。テレビ、ラジオ、有線放送といろいろなところから。でも、ウォークマンが出てきた頃から、それぞれヘッドホンで音楽を聴く時代になった。だから音楽は細分化されたんだと。最大公約数でみんなが楽しんでいた音楽から、それぞれの個の時代になったんですね。
「フォーチュンクッキー」は昭和のディスコ
小室哲哉君とは同い年ですが、1990年代に彼が作ったダンスミュージックは、それまでの歌謡曲とは一線を画す音楽の幕開けだったと思います。老若男女、誰もが口ずさめるのが歌謡曲だとすれば、小室ワールドは、歌手のボーカルもサウンドの一つとして、ミキシングしてしまう洋楽的なものでした。サビに英語のフレーズを多用して、コーラスを重ねる手法は、当時は画期的だったと思います。
K―POPなどが流行り、歌よりもサウンドになりつつある今の時代、「口ずさめる音楽を」というのが僕のテーマなので、それがもしかしたら昭和主義かもしれないですよね。
AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」は、まさに昭和のディスコです。みんな同じ方向に向かって踊り、同じフリをしていた時代のディスコをイメージして、ああいうものをやりたいというのがありました。
基本的にフォークソングが好きなんです。AKB48の「365日の紙飛行機」はNHKの朝ドラの主題歌だったので、これはもうフォークソングにしようと決めて曲を発注しました。ベースが昭和なんです。それをネガティブに言えば昭和臭だし、ポジティブに言えば一番夢があった頃ですね。
ひばりさんがこだわった「川の流れのように」
作詞も放送作家もずっとアルバイト感覚で仕事をしてきて、こんなにうまくいくわけがないという思いがありました。もっと勉強しなければならないと思い、昭和63年、30歳のときにニューヨークに行ったんです。
ちょうどそのころ、美空ひばりさんから楽曲制作の依頼が来ていました。具合の悪かったひばりさんが回復されたということでアルバム(昭和63年12月発売の「川の流れのように~不死鳥パート2~」)を作りました。その中の1曲に「川の流れのように」がありました。
戦後の何もない焼け跡でひばりさんが歌った曲にみんな勇気づけられました。それと同じことをやりたい、ひばりさんが歌うことで日本がもっと元気になればいいな、ということで応援歌を作りたかったんですよね。
僕はアルバムの中からシングルを出すとき、別の歌をA面にしようと思っていたのですが、ひばりさんが「川の流れのように」をA面に選ばれたのです。波瀾万丈な半生を送るひばりさんが「人生なんか川の流れのようなもので、大丈夫よ」という応援歌です。
昭和には東京オリンピックがあり、新幹線、首都高ができました、大阪万博がありましたといったものを映像でつないでいくとき、「川の流れのように」はバックグラウンドミュージックとしては最高だと思うんですよね。
アルバム制作のとき、ひばりさんは本当はまだ具合が悪かったのですが、僕らは知らされていなかった。そのひばりさんがどうしても「川の流れのように」をシングルにしたいとおっしゃった。その意味が今、ひしひしと分かりますね。(聞き手 酒井充)
(5月2日生まれ、66歳)