目が覚めると、真っ白な部屋にいた。次に迫るのは嗅ぎ覚えのない部屋の匂い、そして全身に広がる冷たい床の感触。どうやら床に寝転んでいたらしい。
すぐさま飛び起きた真島は辺りを見渡す。視界にあるのは限りのない白。その中に、よく見知った人物が先の自分と同じように横たわっていた。
「き、桐生チャン?」
「ん……?」
動揺のあまり思わず名を呟いた。するとその瞬間に、もぞり、と桐生が身じろぐ。そこまで眠りが深い方ではないのだろう。閉ざされた瞼はすぐにもたげられ、その奥から覚醒しきってない瞳が現れる。起き抜けの瞳を一度瞬かせた桐生は、視界に飛び込む真っ白な天井から自分が置かれた状況を理解したのか、すぐさま飛び上がった。
「な、何だ……!? ここは……」
「分からん。起きたらここにおったんや」
全く見覚えのない、壁と床一面すべて真っ白な正方形の部屋にいた。窓すらない、殺風景にも程がある非現実的な光景に、真島も理解が追いつかない。
「桐生チャン、ここに来るまでのことは覚えとるか?」
「覚えてるも何も、ただ家で寝てただけだ」
「俺も同じや。……ちゅうことは、ここは夢の世界か何かか?」
この場がもし廃ビルや倉庫の中ならば、寝込みを襲われたのだと推測がつくのだが(自宅に侵入された時点で起きると思うが)、いかんせん場所があまりにも非現実的で、いっそ夢か何かかと思ってしまう。
しかし肌に感じる感覚も、今目の前にいる桐生も現実のそれだ。となるとやはり何者かが、自分たちをここに連れ去ったのだろうか。
「ん……?」
すると突然、その場を呆然と立ち尽くす真島の目の前に、出入り口と思わしき扉が現れた。さっきまで扉なんてあっただろうか。そんな疑問や変化に対する危機感より先に、早くも訪れた脱出の手がかりに、ほぼ反射的に扉に駆け寄る。
「……はあぁ?」
「どうかしたか? 兄さん」
扉には、俄には信じがたい内容の貼り紙が貼られていた。目を凝らして見てみても、紙自体に変化はない。
ーー相手が自分のどこに惚れてるのか当てるまで出られない部屋。何の変哲のないゴシック体で、たった一文、そう書かれていた。
本当に出られないのか? 試しに扉を押してみる。しかし扉はびくともしなかった。それ依然にドアノブが回らない。どんどん、と拳で叩いてみても外からの反応はなく、返ってくるのは静寂だけだ。
「相手の自分のどこに惚れてるのか、か……」
真島の数歩後ろに立つ桐生がぽつりと呟く。日頃さまざまなトラブルに巻き込まれがちなためか、それが現実味を帯びてなくとも、現状を飲み込み対応するのに何の躊躇もないらしい。
「お、おい。何適応しとんねん! こないなことで出られるわけないやろが!」
「やってみなきゃ分からねぇだろ。今考えてるんだ、静かにしてくれ」
説き伏せるどころか苛まれてしまった。わずかに怒気を含んだ声音に言葉すら失う。しかし桐生はいつになく真剣な面持ちをしていた。ううむ、と軽く唸りながら、顎に手を当て考え込んでいる。
桐生とは、いわゆる恋仲にあった。しかしそんな大層な関係ではない。だが一応は知人友人を越えた、相思相愛の間柄にある。体の関係が先行した、少々歪なきっかけだった。それらしい言葉を掛け合ったわけでもない。しかし互いをおもい合い、信頼を寄せているという、確かな確信はあった。理由など、それで十分だ。
だから別に、いい歳した同性同士気色が悪いとか照れ臭いとか、そういったものはない。
だが真島にはそれ依然の問題がある。危機感は目の前の貼り紙を見た途端、すぐに訪れた。
「そうだな……喧嘩の腕っぷしか?」
さらりと言いのけた桐生の言葉に、ドアノブがいち早く反応した。がちゃ、と響いた鈍い金属音に、真島は咄嗟にドアノブを捻る。扉は開かない。しかし、先ほどまで微動だにしなかったドアノブが百八十度、回せるようになっている。
「お、おぉ……。桐生ちゃん、ドアノブが回せるようになったで」
「そうか。ならとりあえず、その紙の指示に従うまでだ」
「……」
訪れた変化からするに、紙の指示に従えば出られる、というのは確かなようだった。そして、桐生の喧嘩の腕を好いているのも事実。桐生ほど喧嘩の腕が立つ人間など、地球の裏側まで探してもそういない。正誤判定が取れているのは確かなようだった。
しかし真島は押し黙った。半回転させたドアノブに手をかけたまま、への字に曲がった口を直せないのには理由がある。
「兄さん?」
ーー分からないのだ。桐生が己のどこを好いているのか、真島は検討すらつかなかった。
悪くは思われていない。桐生の生き様、その在り方を知る数少ない身内として、揺るがない信頼を寄せられているのは分かっていた。もっと言ってしまうならば、桐生は誰にでも簡単に、その体を許すわけではない。押しに弱いかもしれないが、本気で嫌なら抵抗の意を見せ、それでもどうにもならないのであれば拳で解決する。桐生はそういう男だった。だから体の関係が成立していた以上、悪く思われていないのは確かだった。次いでに言うのなら、桐生の恋愛対象は女だ。それは今も変わらない。なので自分が、桐生にとって特別な立ち位置にいることは明らかだった。
だとすれば桐生は、真島のどこを好いてその立場に置いているのだろうか。何を理由に真島をおもい、恋愛対象という元ある根底を覆し、この関係を良しとしているのだろうか。
好かれようと思ったことはない。他人の顔色を伺うというより、己の生き方その在り方を、誰かの手によって縛られることは好ましくない。だから真島は檻を飛び出し、己のやりたいように生きると決めた。関係性が大きく変わるきっかけとなった、桐生の見張りもその延長線だ。特別なことは何もしていない。
どこの誰が、何の目的で自分たちをこの場に閉じこめたのかは分からない。しかし閉じこめた以上は、必ずその答えがある。ならばそれを教えてくれ! 真島は藁にも縋るような思いで胸中で叫ぶ。
「どうしたんだ?」
「……」
「……もしかして、分からないのか?」
真島は即答できなかった。いっそのこと咎めて欲しい。しかし桐生はひたすらに押し黙る真島にただ、端的に問うた。
そしてぽつりと、何でもないように呟いた。
「……まぁ、確かに俺はあんたみたく、自分の思ってることをあれこれ口にはしねぇからな」
自嘲とも取れる独り言に、跳ね起きるように視線を上げた。しかし桐生は既に俯いていて、その表情を伺うことはできなかった。
自分の思っていることを口にしたりはしない。ーーだから、桐生が真島のどこを好いているのか、分からなくとも仕方ない。桐生が言いたいのは、つまりそういうことだろう。
再び降りた沈黙は、生きた心地がしなかった。過度な焦りとは恐怖との境界線が曖昧なのだと、真島はこの瞬間、生まれて初めて思い知る。
「わ、分かってへんのはお前もやろが……!」
「え?」
「俺が、ただ喧嘩が強いってだけで、キス……とかセックスするわけないやろが! それだけや、ない……」
続きの言葉が見つからず、これ以上は兄貴分としての尊厳を失いかねない。真島の科白にようやく顔を上げた桐生は、まるで寄る辺のない子供のような顔をしている。不安げに揺れた瞳から、今度は目を逸らさない。
「……ふ、そうか」
「あ……? 何わろとんねん」
「いや……」
だから、途端に緩んだその表情に、驚きを隠せなかった。眉間に刻まれた細い皺は極端に数が減り、こちらを見つめる桐生の顔はどこか幼く見える。
「あんたは、そういう奴だったなと思ってな」
「はぁ? ……どういう意味や」
「人間を型に当てはめて、色眼鏡で見たりしない。いつだってそいつの中身を……本質を見て、それを理解した上で接する。……まぁ、つまり」
「答えはもう出てる、ってことだ」