封印された超古代史 「古史古伝」の謎:その60

 

  密教を「恵果」から一人で継承したのは遣唐使だった「空海」であるが、その密教の裏側にいるのが仏教系八咫烏の組織「飛鳥」である。なぜ「空海」が全てを継承できたのかといえば、その血筋が「秦氏」であり、唐に向かう空海に元伊勢「籠神社」に伝わる宝珠「潮満珠」(しおみつたま)・「潮干珠」(しおひるたま)という神宝を授けたのは、籠神社 の神官「海部氏」の娘で、幼名を厳子(いずこ)といった「真名井御前」(まないごぜん)である。

 

 空海の幼名は「眞魚 / 真魚」(まお)であるが、この「まお」を「まな」とする説もある。「魚」はイエス・キリストの象徴である。つまり、若き秦氏の天才を鴨族の「海部氏=八咫烏」が全面的にバックアップして唐に送り出したということなのである。つまり、空海の背後にしたのは「飛鳥」なのである。この辺の詳細を追いかけるのは、今回は止めておくが、なぜ空海がたった2ヶ月で密教の奥義を全て授かれたのかという秘密は、「海部氏」が与えた神宝「潮満珠」「潮干珠」があったからなのである。

 

「道昭」の師「玄奘三蔵

 

 「空海」は17回目の遣唐使だったが、2回目の遣唐使として唐に渡り、玄奘三蔵に直接指導を受け、仏舎利まで与えられている僧侶「道昭」は、聖地だとして仏舎利を納めて「大釈迦寺」を建立、その地を「梵珠山」とした場所に「釈迦の墓」がある。「道昭」の師である玄奘三蔵には、「三千之雲集・七十之達者・四賢之上足・一秀之入室」といった大勢の弟子様がいたが、その中で日本から来た「道昭」を自室に招き入れ法相教学を教授したといわれている。つまり「道昭」は「一秀之入室」という扱いで、弟子のトップということなのである。まるで「恵果」と「空海」の関係と同じである。

 

玄奘三蔵

 

 弟子の呼び方の「三千之雲集」とは「三千世界(全世界)の雲のように多い人々」を指し、多くの普通の弟子のことで、「七十之達者」の「達者」とは、「真理に達成した人」「悟りを開いた人」の意味だが、70人というのはまるでイエスの70人弟子と同じである。「四賢之上足」とは「四賢者」であり「四天王」である。なにやら「聖徳太子」と同じようだ。なにせこの玄奘三蔵も普通の僧侶ではない。唐の都「長安」から西域を超えて、遥かインドまで到達しているのである。
 

 玄奘三蔵はインドへの求法の旅の中、ナーランダ大学に於いて「戒賢論師」から「瑜伽唯識」(ゆがゆいしき)の教えを5年に亘って受けている。その際「戒賢論師」は異国の僧である玄奘三蔵を手厚くもてなし、教えの全てを伝受したと言われている。そして後に、玄奘三蔵は道昭を特別扱いをして唯識教学を伝えている。ここでも仏教における特別な人たちが、特別な存在に「奥義」を全て伝えるということが行われているのだ。

 

 武徳5年(622年)、21歳の玄奘は成都で「具足戒」(ぐそくかい)を受けている。「具足戒」とは仏教で出家した修行者である「比丘」(びく:男性)と「比丘尼」(びくに:女性) が遵守すべき戒のことで、この具足戒を受けて、初めて出家者の集団 「僧伽」 に入ることができたというのだが、問題はこの規則となる戒律条項を記した典籍(戒本)のことを「波羅提木叉」(はらだいもくしゃ)というのだ。八咫烏がなんで「漢波羅」秘密組織である一つの意味はここにあるのだ。この「戒」は三帰依を前提とした上で、基本的に五戒、八斎戒、あるいは沙弥の十戒止まりであるが、パーリ語仏典内の波羅提木叉では、比丘向けが227戒、比丘尼向けが311戒となっている。この「十戒」を読めば、モーセが与えた「十戒」と同じものを別の表現にしていることが分かる。ここには「ユダヤ教」の色が濃く反映された、というか仏教の基本戒律がヤハウェの戒律そのものだということなのである。

 


玄奘三蔵が踏破した西域の旅

 玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、インドを目指した。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、玄奘は国禁を犯して密かに出国。途中、高昌王からの金銭と人員の両面の援助をもらい、西域の商人らに混じって「天山南路」の途中から峠を越えて「天山北路」へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至っている。「天山山脈」の麓には
「ヤマト」と呼ばれた国があった場所が今も存在する。つまり、玄奘は「失われたイスラエル人」たちがいた場所、さらに「聖イッサ」と呼ばれたイエス・キリストがいた場所を訪れていたことになる。

 玄奘自身は亡くなるまでに国外から持ち帰った経典の翻訳を進め、『大般若経』16部600巻(漢字にして約480万字)を含め76部1347巻(漢字にして約1100万字)に及んでいる。玄奘はサンスクリット語の経典を中国語に翻訳する際、中国語に相応しい訳語を新たに選び直しており、それ以前の「鳩摩羅什」(くまらじゅう)らの漢訳仏典を
「旧訳」( くやく )、それ以後の漢訳仏典を「新訳」( しんやく )と呼んでいるのだ。玄奘は理解していたのである。「聖イッサ」がインドを訪れる前の仏典とその後の仏典の違いを。だからこそ膨大な「新約経典」の翻訳を行ったのである。そう「玄奘三蔵」とはカッバーラを理解した仏僧で、イエス・キリストが明かした「天界の三神」の奥義を知っていたからこそ「三蔵」としていたのである。

 

 「玄奘三蔵」から秘儀を授けられたからこそ、「道昭」は復活体となったイエスの預言者「釈迦」が渡来した場所に「釈迦の墓」を建立し、敢えて「大」をつけて「大釈迦寺」としたのである。但し、梵珠山には「桓武天皇」によって「聖徳太子作の釈迦像」が安置されたという伝説 があり、これが「大釈迦」という地名の起こりともいわれるのだ。イエスの職業は「大工」である。もし聖徳太子=イエス自身が彫った釈迦像となれば、なぜここが「大釈迦」とされたのか納得できる。さらに708年、「役の行者」である「役小角」(えんのおづぬ)の高弟であった「唐小摩坊」(とうこまぼう)が、この場所に「正中山梵場寺」(せいちゅうさんぼんじょうじ)という寺を建立している。梵珠山に登ると 「ここは日本の中央なり」として、 「正中山」と名付け、中山の山々に寺社を建立しそれが津軽三千坊の礎になったという。

 

役小角像と梵珠山

 

 「役小角」は修験道の開祖にして「賀茂氏」である。つまり、ここに「役小角」の高弟がやってきて自社を建立したというのは、この「梵珠山」や「大釈迦」の地名、さらには「釈迦の墓」には最初から「八咫烏」が関わっていたということなのである!

 

 

◆「神代文字」と「創世記」の正体

 

 「古事記」も「竹内文書」もそのベースは「神代文字」で書かれていた『八咫烏秘記』であり、「神代文字」の読み書きができたのは「海部氏と物部氏」だったため「聖書文字」としての「漢字」とカナを普及させることで「古史古伝」を封印したと書いたが、もちろん「武内宿禰」=「秦河勝」=「モーセ」も「神代文字」の読み書きはできたはずである。なぜなら、『八咫烏秘記』のベースには「旧約聖書」と「新約聖書」、さらに聖書の編纂時に外された「失われた聖典」があり、「旧約聖書」とは紀元前1370年に生まれたモーセが編纂した「モーセ五書:創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記」である。

 

 旧約聖書は古代ヘブライ語で書かれていた書物である。だが、「旧約聖書」最大の謎は、いったいモーセはどうやって「創世記」をまとめさせたのか?ということである。天地創造の時、モーセはまだ生まれていなかったのに、どうして「エデンの園」「エノクの町」「ノアの大洪水」の話を知ることが出来たか、そしてその様子を詳しく書くことができたのか。「それは絶対神ヤハウェが教えたのだ」なんて言う方までいるが、そんなに長い内容を神がモーセに付き合って話したのだろうか。どう考えてもあり得ない話である。ではいったいどうやって、どこで「創世記」のストーリーを知ったのであろうか?

 

ミケランジェロの 『天地創造』(システィーナ礼拝堂)

 

 「聖書学的」にはモーセは「失われた聖典」をエジプトで手に入れ、それを「トーラー」にまとめたのが「モーセ五書」と考えられているのだが、『旧約聖書』を読む限り「古代の叡智」が秘されていた場所として考えられるのは、メンフィスにいるラムセス2世と対峙するため、兄アロンとモーセが待ち合わせた山としか考えられない。だが、メンフィスの近くに山は一つも存在しない。あるのは巨大な人工の山であるギザの「三大ピラミッド」しかないのである。『旧約聖書』には以下のように書かれている。

 「主はアロンに向かって、『さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい』と命じられたので、彼は出かけて行き、神の山でモーセと会い、口づけした。」(「出エジプト記」第4章27節)
 

 モーセはギザの丘の「三大ピラミッド」の神殿でアロンと落ち合い、大ピラミッドの秘密の部屋に隠されていた「失われた聖典」を見つけたのである。そしてその一部を「創世記」に著したのである。未だにアカデミズムではギザの「三大ピラミッド」をクフ王、カフラー王、メンカウラー王の墓だとするが、そうではない。「三大ピラミッド」とはノアの曽祖父の預言者「エノク」が建てた「絶対神の神殿」である。大洪水が発生し、旧世界が水に沈んで終わることを知らされていたエノクが、絶対神ヤハウェから与えられていた「超古代の叡智」を後世に残すために秘匿した場所なのである。だからこそ、大洪水以前の建造物で残っているものは「三大ピラミッド」だけなのである。

 

ギザの三大ピラミッド

 

 クフ、カフラー、メンカウラーの三人の王が建てたピラミッドは、三大ピラミッドの側に立つ3基の小型ピラミッドのことで、アラブの遊牧民である「ベドウィン」は「クフ王はイドリースの成果を盗んだ」と今も言い伝えている。この「イドリース」とは「エノク」のアラブ語読みで、エノクは聖人が住むとされた「エノクの街」を築き、「ノアの大洪水」以前に絶対神ヤハウェが街ごと浮遊させて太陽まで運んだと『聖書外典聖書(アポクリファー)』は伝えている。この絶対神に取り上げられた「エノクの街」を近代フリーメーソンのトップでもあったジョナサン・スウィフトが『ガリバー旅行記』で「天空の街ラピュータ」のモデルにしたのである。

 ベドウィンは
「イドリースは聖なる神殿に太古の知識を隠した」と伝えており、それをモーセとアロンが持ち出したのである。だからこそ「三大ピラミッド」とは墓ではなく『旧約聖書』が記す通り「神の山」=「絶対神の神殿」なのである。そして、エノクが絶対神ヤハウェの命を受けて残した超古代の知識とは、大洪水発生以前の旧世界に伝えられていた「聖典」であり、それはヘブライ語が成立する以前に使われていた「エノク語」で書かれていたものだったのであり、このエノク語の文字こそが「神代文字」の正体なのである!

 

 世界最古の文明シュメールの『ギルガメッシュ叙事詩』にも大洪水の話は伝えられている。この「シュメール」を「スメル」とすれば「皇尊:すめらみこと」のと無縁ではなく、世界最古の皇位が続く「天皇家」のルーツも「シュメール」にあり、日本民族の象徴の大和「ヤ・ゥマト(ヤハウェの民)」も無縁ではない。「神代文字」で書かれていた「竹内文書」をはじめとする「古史古伝」とは、ノアの大洪水発生以前の旧世界で使われていたエノク文字で残されていた『八咫烏秘記』及びエノク語で八咫烏が口伝として残していた太古からの叡智と歴史だったのである!

 

<つづく>

 

 

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