カスタマーレビュー

2024年10月15日に日本でレビュー済み
『近畿地方のある場所について』などの著者である、背筋氏の評価を受けて購入。
私は好きじゃない、ばかりか、いっそ鼻につくし危ういとさえ思ってしまいました。
以下、長文。暇つぶしにでもどうぞ。

 構成についての主な批評は、既に多くの方がレビューで指摘される通りです。
「ホラー小説からアクション映画に」「モキュメンタリーホラーかと思いきや少年漫画だった」言い得て妙ですね。
 ただ、初めにも書きましたが『近畿地方のある場所について』自体、なかなかに手の込んだモキュメンタリーホラーですので、その著者である背筋氏が絶賛!という売り込みや、作中冒頭のSCP解説のような趣きが誤解を招いただけで、この構成自体に落ち度はないと私は考えます。
 実際面白い試みで、少なからず「この作品はどこに向かうんだ?」なんて読書体験を与えてくれます。
ぶつ切りの章を畳み掛ける作りを「報告体系」と位置付けることで、スピード感を演出するのはもちろん、時代を経た物語であるという、スケール感を両立させている辺りは見事。
元がカクヨムの連載であることを上手く利用しています。
 果たしてこれが"小説"なのか、という疑問はあるにしても、おそらくは自覚的にメディアの形を活かしたという点においては、一定以上に評価するべきなのでしょう。
 少し話を戻して、問題の誤解を招くような売り込み方にしても、ネタバレにならない範囲でとなれば、どうしてもこの仕掛けに言及したものにはできないでしょうし、慮る余地はあります。

 とまぁ褒めたところで、次は明白に欠点だと思える箇所をつらつらと。
 著者の真島文吉さんを簡単に調べたところ、どうも元はライトノベルの出身だそうで…カクヨム自体ラノベの亜種では?という議論はさておき…中盤から後半にかけての展開はもとより、とにかく大仰なセリフまわしと造語飛び交う文体に、なんとも納得の次第。
 特にセリフ、会話の野暮ったさについては、正直これはもう擁護できないものだと思います。
それこそ、映画的/少年漫画的な、キザで、争う者が向き合えば常に説教し合うような淀みない言い回しを、文字だけでそのままやってしまうことへの違和感は否めません。
 フィクションであれ"そこ"に生きた人間の言葉を感じたい私にとっては、いかにも「作者の考えたカッコイイ言葉をキャラクターが口にしました」という想定ありきの対話なき描写に、ついていくことができませんでした。
 特に大西真由美の誇張された「彼女は少しイカれています」なんて馬鹿正直に説明するかの如き物言いなどは、読んでいて相当にキツかったです。
 とまれ、ラノベ作家をバカにするつもりはありません。
ただ、ラノベにはイラストが多分にあり、よりフィクショナルな世界観があり、ティーンズを対象にしているという建前があり、なればこそいくらか"クサい"セリフまわしが許されるし、どころかそれがマッチするという前提があるのであって、それを曲がりなりにも小説という一切映像のない媒体を借りてやれば、そりゃ妙なものになるよね、というただそれだけの話なのです。

 とはいえしかし、本レビューのタイトルにある通り、最も度し難いのはその作風でしょう。
 結論から書いてしまえば、本作は相当に権威主義的、親右翼的な作風です。
或いは反反権威的な作風とでも称しましょうか。
 序盤から「右園死児」について情報開示を求め事態を悪化させる野党議員、大学教授が続けざま登場する辺りで、察しがいい読者は作品が何を是非としているのかをすぐに予想できると思います。
私も「海外のスパイが敵対者として出てきそう」なんてぼんやり読んでいたら当たってしまって、思わず笑ってしまいました。
 要は日本を守ろう、お国を守ろうなんて御伽噺なので、もちろん話の主役側、問題に対処するキャラクターは政府、軍、体制側の人間が殆どです。
 その上で主役ともいえるキャラ(神谷修二)が体制に協力的な部外者(探偵)というのがミソ。
組織から少し距離を置いた、しかし権力と争うのではなく、権力が維持する平和を乱す悪と戦うダンディなヒーローで以て、保守的な面目を保ちつつ、全体主義には染まってない様を目配せするわけです。
良くいって古典的、正直にいって、夢想じみたありきたりで面白みのない造形です。

 さて、作中最大の盛り上がりどころである〈報告四五号〉以降のエツランシャの扇動、そしてそれに応じた金輪部隊の蜂起は、わかりやす過ぎるまでに暴力革命のメタファー、いえ、そのものです。
そしてそれに対峙するのは体制側の、それも集団の狂気に呑まれない「賢明」で「特別」な人々。
そこには、善も悪もないまぜにしながら何とか踏ん張る「市民」や「普通の人々」は存在しません。
 作者はエツランシャと綿野健の言葉を用いて、あたかもエツランシャの叛逆に対してフェアな姿勢をとっているかのように装うわけですが…それらに体制側から直接説教をかますことはない点、最低限の配慮はある…実際は叛逆者側に寄り添うわけでもなく、とりわけ"衆愚"への嫌悪に至っては隠そうともしません。
上述のように、群像劇の体をとりつつヒーローしかいない、描かれる大衆は全て衆愚でしかない辺りに、作者の感情の根深さが窺えます。

 〈その後の世界〉にて描かれる殆ど、つまり〈朝倉光雄のインタビュー〉〈戸島六郎と調査班夜烏の説明〉〈冴島時男の述懐〉〈最後の会話〉に明らかなように、正味、叛逆者側を咎める言い分ばかりが読後感として残るのは、何も私だけではないと思います。
 上記の章に共通していえること、それは、主に「金輪部隊」参加者=衆愚への徹底した怨嗟、不信です。
故に当然ながら、金輪部隊に参加した、してしまった側の人々が描かれることはありません。設定上描きようがないなんてのは言い訳で、それこそ作者の大好きな"特別な"例外を用意すれば、かの人たちなりの苦悩を、かの人たち自身の言葉で語ることはできたはずなのです。
 意図は理解できます。金輪部隊そのものが、作者にとって考えることを放棄し、周りに同調した結果、とても人間とは思えないような行為に手を染める、有り触れて悪質な存在の象徴なのでしょう。
 しかしそれを革命に依って立つ大衆として描き、そのような大衆のみを描き、剰え体制側がそれを鎮圧する様をエモーショナルにエンタメ化し、特別に善良で有能なキャラたちが世界を救う夢物語に、無邪気に自己批評も曖昧なままヒューマンドラマの蜜を被せてしまった結果、本作は作者の幼稚で未熟な思想が透けて見える作りになってしまいました。

 話は逸れますが「マスコミで成功するやつは、嘘をつけるやつさ。てめえの心をあざむける人間だ。成功するために他人を踏みつけにして、裏切って、その上で善人面できるやつだよ」とは朝倉の弁、「政府や軍部が睨みを利かせていた時代には、そちら側に立っていた連中です。みんなそういうコウモリ野郎が嫌いなんです」とは冴島の弁ですが、ここには明白なフォローがない辺り、マスコミ相手にも作者の私怨が読み取れます。
 マスコミ論はさておいても、〈鳳凰の報告〉のような如何にも胡散臭くって噛ませ犬のような存在ではなく、情報の透明化を望む側にも少しでも理を用意すれば、それこそ、右園死児対策に託けて命を犠牲にする政府に真っ向から暴力ではなくペンで立ち向かう記者なりを用意すれば、作品の厚みは段違いに増したものと思われます。
 この「自分が嫌いなものはとにかく悪辣なものとして描く」という筆致が、或いは本作の軽薄さの核心の一つなのかもしれません。

 対照的に、暴動を起こした大衆と一緒にしてほしくない、そう語る誇り高き元軍人が「変わらないものがある」と農業に勤しむ〈冴島時男の述懐〉なんかは、その奇妙な解像度にクラクラしてしまいます。
 なんというか、力の入れようが違うんですよね。エツランシャや綿野健の通り一編な言葉と違って。それだけ作者が体制に虐げられる人間への想像力を欠いているということなのでしょう。
 エツランシャの演説にしても相当保守的で「友を作り、異性を愛し、子を授かった」のフレーズなんかは、ああ、こいつは社会の周縁でもがいている人間を拾う気なんかないんだなと私は一気に冷めました。
 「人権が取り上げられて〜体制のために犠牲が〜」なんてとってつけたような浅い物言いは、如何にも理解ない人間が無理に革命を煽動するスピーチを練っているようで、作者を痛ましいと感じたほどです。
 だからといって、冴島時男の人となりに厚みがあるかといえばそうでもなく、保守的なロマンチシズムが酷くて目も当てられません。
無差別に殺すのは大衆!軍人は暴力を振るっても、決して大義を見失うことはない!うぅん、この。
ネット全盛期、良くも悪くも戦場の悲惨さにこれだけ手軽に触れられる時代に、よくもまぁ軍人の「綺麗な言い分」だけを残せたもので。これもまたバランス感覚の欠如の表れでしょう。
 さらりと「…敵は、我が国が平時から抱えていた国内危険分子の総体です。エツランシャに勝ってほしい終末論者や外国スパイ、革命主義者が〜…妨害を企てた」なんて言ってしまうような雪村瞳が最後、暫定国軍の副長官として恐怖統治(摘発、懲罰)を行うことを、右園死児対策のための必要悪だ、と語るような書きぶり〈戸島六郎と調査班夜烏の説明〉にも目眩がします。
 大体こういうことを書くと「作者とキャラを混同するな」「作中でも極端なことを言っているキャラとして描いている、これはあくまで一つの言い分で、作品の主張じゃない」みたいなことを返されたりするのですが。
 何度でも書きます、だからこそ、こんな立場の人間のモノローグばかりで、言い分が偏っていることに苦言を呈したくもなるという話なのです。
また、上記同章において「戦うものだけが、人間として、残存できます」なんて本作のテーマに直結するような決め台詞を言わせているんですよね。
 あくまで一つの言い分、ないし極端な主張と描写したいなら、そうとわかるように書くべきです。
ただでさえ本作の構成上それは難しいというのに、更にそこに作者が本作を総括するメッセージをヘタにまぶしてしまうから、余計に書かれていることの悪質さにナルシズムがかかって、作品を薄っぺらいものに堕してしまうのです。
 いや或いは、本当に別に極端でもなんでもない"正論"を作者はキャラに言わせている可能性も否定できない作りなわけで、私なんかは心底震えるわけですが。

 人は生きる。
 どんな時代が訪れようとも。
 人として戦い、死に、何かを誰かにつなぐ。
 今までも。
 これからも。

 このつまらないポエムが本作の締めであり、本作のテーマであることに異論の余地はないと思われます。
 そしてこのつまらないポエムが本作をいっとう安っぽくしたこともまた、悲しいかな事実です。

 本作と同じように親軍国的、親体制的、親右翼的な作品といえば、ラノベなら『幼女戦記』漫画なら『ドリフターズ』を私は思い浮かべます。
 上記の作品が本作に負けず劣らず思想的に尖っていて、なおかつ作者がどちらもSNSで今日も元気にネトウy、ごほん、国を憂いておられるほど極端ながら、本作より段違いに創作として優れているのはやはり、単に作品の練度、面白さにとどまらず、描くものを巧妙に取捨選択し、余計なものを添えていないことが大きいように思います。
 もし本作が、溢れんばかりの大衆への悪意を半分でも減らして、人として戦う!人として生きる!歴史の集大成!なんて"白々しい"ことをいわずに、右園死児のギミックのみを最大限活かし、そこに立ち向かう軍や異形や主人公を描けば、つまりエモ気取りのドラマを排除するただそれだけで、同じ体制フェチな作風でもグンと際立ってその質は磨かれたはずです。
 なぜって大体、金輪部隊に参加した人間を「あいつらは人じゃない」みたいに散々書いておいてヒューマニズムを語るのは、妥当でないばかりかグロテスクだからです。

 右園死児対策の大旗を振って政府が秘密裏に市民を殺害していたことが大きな業として描かれる作品なのに、体制側がろくな清算もしないまま〈最後の会話〉のしょうもないくっさいやりとりに突入し、そのまま例のポエムを読まされる読者の顔を、作者に見てほしい。
 世の中には知られるべきではないことがあって、政府の一部の心ある有能な人々がそれを密かにコントロールして世の秩序を守り、大衆は全くそれをわかっていない愚か者で、革命はバカの釣られるものだ、なんて暗に描いちゃう作者には、権力者の暴政で歴史的な戦争、紛争、虐殺、隠蔽が横行する今の時代をきちんと生きてほしい。
 思わずそう願ってしまいます。
 そりゃあ多くの日本人は常にうっすら体制よりの性分ではありましょうが、それでも我が国でかつてなく政治不信が極まっているこの現代に、なるほど、この牧歌的で楽天的な作風、苛烈さは外面だけで、これぞ流行りの「(理解に)やさしい世界」ってなものです。
 作者、田島文吉先生様には陰謀論の類いにつくづく気をつけていただいて「私が人だと思うもの」を選別するその態度は、ヒューマニズムでもなんでもないんですよと餞別を送り、瑣末なレビューを終えたいと思います。
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