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Gemini

文章修正依頼と提案

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「この文章をわかりやすく書き換えて。」

第2節 三つの相互作用

 「シンボリックな相互作用としての社会」(society

as symbolic interaction)(Blumer,1962)という、ブルーマーのよく知られた表現からも明らかなように、ブルーマーにおいて、「社会」とは、まず何よりも「社会的相互作用」(social

interaction)の範疇に入るものと捉えられている。そこでまず、本節では、彼の社会的相互作用把握を検討することから始めることにしたい。

 周知のようにブルーマーは、人間間に生じる「社会的相互作用」(social

interaction)をふたつのレベルで捉え、そのうちのひとつを「非シンボリック相互作用」(non-symbolic

interaction)と名付け、もうひとつを「シンボリックな相互作用」(symbolic

interation)と呼んでいる。その各々の相互作用の内実を、ブルーマーは、ミードの知見を援用し、以下のように表現している。

 「・・・・ミードは、人間の社会において生じている社会的相互作用がふたつの形態ないしはレベルにあるものと見ている。ミードは、そうした相互作用を、それぞれ、『身振り会話』(the

conversation of gestures)、『有意味シンボルの使用』(the

use of significant symbols)と呼んでいる。このそれぞれを、『非シンボリック相互作用』

(non-symbolic interaction)、『シンボリックな相互作用』(symbolic

interaction)と私は名付けたい。非シンボリック相互作用が、個人が他者の行為に対して、それを解釈することなく直接的に反応するときに生じるものであるのに対して、シンボリックな相互作用には、そうした他者の行為の解釈が含まれている・・・・」(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)。

 この説明を見る限り、ブルーマーは、人間間の社会的相互作用を、確かに二つのレベルにおいて生じるものと捉えている。そこにおいて個々人が他者の行為を解釈することなく、互いに相手に対して刺激−反応的に反応し合う「非シンボリック相互作用」がまずひとつ提示されている3)。ブルーマーによれば、相手の一撃をかわすために自動的に腕を上げるボクサーの場合などのような反射的な反応が、その典型例として挙げられる(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)。そしてもうひとつには、そこにおいて個々人が互いの行為を解釈し合い、そうした解釈に基づいて反応しあう「シンボリックな相互作用」が提示されている。そして、この後者の相互作用が、ミードの言う「有意味シンボルの使用」に相当する、とブルーマーは捉えている。

 とはいえ、もしブルーマーにおいて「有意味シンボル」なるものが「共通の定義」と同義で用いられているものならば4)、上記の「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」というブルーマーの立論には、問題が生じる。

 ブルーマーは、「対象」(object)に関する議論において、「ひとつの対象が異なる個人に対して異なる意味を持つことがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、13頁)と述べ、それ故、「個人や集団は、たとえ同一の空間的な位置を占有し、そこで生活していたとしても、きわめて異なった環境を持っている可能性がある。いわば、人々は、たとえ隣り合って住んでいたとしても、異なった世界に住んでいることがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、14頁)としている。すなわち、本論における前章の議論を踏まえた上で、このブルーマーの言説を解釈するならば、相互作用に参与するであろう個々人は、互いに相手とは異なった「パースペクティブ」を持つという意味で異質な存在として、社会的相互作用に参与する可能性が高いということになる5)。その上で、ブルーマーのシンボリック相互作用論の立場から、相互作用に参与する両者の間に共通の定義(=有意味シンボル)は如何にして成立し得るか、という問題を立て、そうした問に対して、共通の定義とはまさしくシンボリックな相互作用を通じて形成されるとこたえるのであれば6)、上記のブルーマーによる「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」という立論からは、一種の循環論に陥った説明しか生まれない。すなわち、有意味シンボルの成立は有意味シンボルを使用することによって可能となる、と説明せざるを得なくなってしまう7)。

 確かに、「シンボリックな相互作用」に「有意味シンボルの使用」が含まれているのは事実であろう。とはいえ、両者は同一のものではない。前者には、異質な個々人が未だ共通の定義(有意味シンボル)を成立させてはいないものの、互いの行為を解釈し合い、共通の定義ないしは有意味シンボルを成立させようとする「シンボリックな相互作用」が含まれているはずである。すなわち、ブルーマーにおける「社会的相互作用」概念には、正確には三つの「相互作用」が含まれていなければならないわけである。すなわち、1)「非シンボリック相互作用」、2)未だ有意味シンボルが成立していない「シンボリックな相互作用」、そして3)「有意味シンボルの使用」と同義なものとしての「シンボリックな相互作用」という三つの相互作用が含まれていなければならないわけである。

 ブルーマーの「シンボリックな相互作用」概念には、正確には、二つのシンボリックな相互作用が含まれている。そして彼が主たる分析の対象としたのも、非シンボリック相互作用ではなく、このシンボリックな相互作用に他ならない8)。

 ブルーマーによれば、シンボリックな相互作用とは、そこにおいて「人々が互いの身振りを解釈し、そうした解釈によって生み出された意味に基づいて行為」(Blumer,1966=1969a,pp.65-66=1991年、84頁)している社会的相互作用を指す。シンボリック相互作用論の基本的前提のうち、第三の基本的前提、すなわち、「事柄の意味は、その人間が、自分が出くわした事柄に対処する際に用いる解釈の過程(interpretative

process)を通じて、操作されたり修正されたりする」という前提を踏まえるならば、そうした「解釈」は、その個人の「自己相互作用」ないしは「解釈の過程」を通じて行われているのであり、またその第一の基本的前提、すなわち、「人間は、事柄(thing)に対して、その事柄が自分にとって持つ意味(meaning)に基づいて行為する」という前提を踏まえるならば、その結果として付与した「意味」(meaning)に基づいて、その個々人は、互いに相手に対して行為を行うことになる。なお、こうした相互作用を、ブルーマーが、「他者の行為や言及の意味を確定」する「解釈」(interpretation)と、「他者が如何に行為するべきかに関する表示を、他者に伝達」する「定義」(definition)から構成されているもの9)と捉えていることからも分かるように、この「身振り」(gesture)は、それが向けられる個人に対して、その個人がどのように行為するべきかを指示する機能を持っている。そうした身振りを媒介として、人々は相互作用を行っている。とはいえ、その相互作用において、その身振りが、それが向けられた個人によって「解釈」され、またその結果としてそれに「意味」が付与されるが故に、この相互作用は「身振り会話」とは呼ばれずに、「シンボリックな相互作用」と呼ばれることになる。

 次節では、ブルーマーにおいて「社会」とは、如何なるものと把握されているのか、またその「社会」が如何なるメカニズムによって形成されるものと捉えられているのか、その内実を明らかにすることにしたい。

 

第3節 相互作用から社会へ−ジョイント・アクションとしての社会−

 ブルーマーのシンボリック相互作用論において、社会とは如何なるものと把握されているのか。そこから議論を始めなければならないであろう。

 ブルーマーにとって、「社会」とは、まず何よりも、個々人が行う行為の観点から概念化されるものであった。ブルーマーも言うように、シンボリック相互作用論の立場からするならば、「根本的に(fundamentally)、人間集団ないし社会とは、行為のなかに存在する(exist in action)ものであり、そうした行為の観点から把握されなければならない」 (Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)ものと捉えられる。換言するならば、人間集団 (human

group)ないし社会(society)を、「進行中の活動の複合体」(complex

of ongoing activity)(Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)からなるものと捉えるのが、ブルーマーのシンボリック相互作用論の「社会」に対するアプローチに他ならない。

 さて、この「進行中の活動の複合体」こそ、以下本論で議論の焦点となる「ジョイント・アクション」(joint

action)に他ならず、ブルーマーは、人間の社会を、このジョイント・アクションからなるものと捉えている。以下の説明を見れば、そのことがより一層明らかとなる。

 「私は『ジョイント・アクション』(joint

action)という用語を、ミードの『社会的行為』(social

act)を意味するものとして用いたい。ジョイント・アクションという用語で私が言及しているのは、個々別々の参与者たちの一連の諸行動を適合させ合うことにより構成される、行為の一層大きな集合的形態(the

large collective form of

action)のことである。こうしたジョイント・アクションの実例には、商取引、家族の晩餐、結婚式、買い物旅行、ゲーム、懇親会、討論会、裁判、戦争といったものがある。こうした事例の各々に、それがジョイント・アクションであると識別しうるそれ独自の形態(すなわち、それが参与者たちによる諸行為の接合から構成されているという形態)を見て取ることができる。ジョイント・アクションの形態は、二人の個人による単純な共同(collaboration)から巨大な組織や機関による行為の複雑な相互調整にまでわたる。人間の社会のどこを見ても、人々が種々の形態のジョイント・アクションに従事していることがわかる。実際、こうした実例の全体が、その無限の多様性と、可変的な結びつきと、複雑なネットワークとによって、ひとつの社会という生命体を構成しているのである。・・・・ミードにおいて社会的行為とは、社会の基本的単位と捉えられていた。したがってそれを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかになる」(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)。

 この意味でまさしく「人間の社会」(human

society)とは、行為のなかに存在するものと捉えられる。なお、ブルーマーによれば、こうしたジョイント・アクションは、それを見る観察者(研究者)の視点(ないしは時系列上の位置)の如何によって、個々人が各々の行為を相互に適合させようとしている過程(社会が形成され行くプロセス)と捉えることが可能であれば、各々の行為が相互に適合し合ったもの(形成された社会)と捉えることも可能である。この点について、ブルーマーは、以下のように説明している。

 「思うに、ジョイント・アクション(joint

act)とは、まず何よりも行為を『組織化してゆくこと』(“organizing”action)であって、行為が『組織化されたもの』(“organization”of

action)ではない。あとから振り返って見てはじめて『組織化されたもの』と見えるに過ぎない」(Blumer,1975=1992,p.121)。

 なお、ブルーマーが、自己が依って立つ視点として採用しようとしているのは、前者のパースペクティブ、換言するならば過程としてのジョイント・アクションである(Blumer,1975=1992,pp.121-122)。その意味で、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、まさしく那須も言うように、「社会はいかにして可能か」という問いを背後に持ったパースペクティブであると言えよう。

 以上のブルーマーからの二つの引用において示された論点を補足しつつ整理すれば以下のように捉えられよう。

 1)ジョイント・アクションとは、行為の一層大きな集合的形態のことを意味する。

 2)そうしたジョイント・アクションは、その形成に参与する個々人が、自らの行動ないしは行為を適合させ合うことから成り立つ。別言するならば、その形成に参与する個々人は、自己の行為を他者たちのそれに適合させなければならない。

 3)ジョイント・アクションの担い手には、個人のみならず、大規模な組織や機関も含まれている。

 4)したがって、ジョイント・アクションには、個々人の単純な共同から、大規模な組織や機関による行為の複雑な相互調整までが含まれる。

 5)こうしたジョイント・アクションが、相互に結びつき合ったものが、ひとつの社会に他ならない。この点についてブルーマーは、別の箇所でも以下のように述べている。

 「ミードの図式にしたがうならば、社会とは、それが静態的なものであろうと動態的なものであろうと、また如何なる均衡状態を保っていたとしても、ひとつのシステムとしてではなく、刻々と生起する無数のジョイント・アクションからなるものと捉えられる」

(Blumer,1966=1969a,p.75=1991年、97頁)。

 6)したがって、ジョイント・アクションは、社会の基本的単位であり、それを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかにされる。

 7)別言するならば、社会の特性の如何は、それを構成するジョイント・アクションの特性次第で決定されると言えよう。

 8)そうしたジョイント・アクションは、あくまで過程という観点から捉えられなければならない。 

 ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、社会とは、無数のジョイント・アクションの相互連結から形づくられているものと捉えられている。その意味で、ブルーマーにおいて「社会」とは、まさしくジョイント・アクションとしての社会として概念化されていることとなる。とはいえ先にも見たように、ブルーマーは、シンボリック相互作用論から見た社会を「シンボリックな相互作用としての社会」(society

as symbolic interaction)10)とも表現している。であるならば、次にこの「ジョイント・アクション」という用語と「シンボリックな相互作用」という用語との関連が問われなければならない。

 ジョイント・アクションとは、別称「トランスアクション」(transaction)とも呼ばれ、それを指してブルーマーは「人間の相互作用の本来的形態」(real

form of human

interaction)と呼んでいる(Blumer,1953=1969a,p.110=1991年、142頁)。すなわち、ブルーマーが「シンボリックな相互作用としての社会」と言うとき、そこで言及されている「シンボリックな相互作用」とは、その本来的形態としての「トランスアクション」(=「ジョイント・アクション」)のことを指しているのであり、実は、この「本来的形態」としての「シンボリックな相互作用」こそ、前節で言及した「有意味シンボルの使用」と同義なものとしての第三番目の社会的相互作用に他ならない。その論拠となるのが、ブルーマーの以下の説明である。

 「人間の集団生活とは、ジョイント・アクションないしはさまざまな個人の個々別々の行為を互いに混ぜ合わせることから成り立ち、それは、人々が言語を用いることによって、換言するならば、ミードの言う『有意味会話』(significant

speech)によって可能となる」(Blumer,1993,p.163)。

 なお、ここで「有意味会話」とは、ブルーマーにおいては、「本当の意味でのコミュニケーション過程」(process

of genuine

communication)、すなわち、そこにおいて、「ある身振りを呈示している人間が、その身振りが向けられている他者と同じように〔=同じ見方で〕自分の身振りを見ている」(Blumer,1993,p.179)社会的相互作用のことを指す用語として用いられている。

 では、ブルーマーにおいては、実際、このトランスアクションなるものは、如何なる性質ないしは特性を持つものとして捉えられているのであろうか。ブルーマーは、トランスアクションの性質について以下のように述べている。

 「・・・・トランスアクションというものは(これこそが人間の相互作用の本来的形態であると思われるが)、その生成の過程で構成され組み上げられて行くものだということである。そしてまさにそれ故に、トランスアクションは可変的な経歴(career)を持つことを余儀なくされる。人間の相互作用とは、互いの行為への定義と再定義という運動を通じて流れ行くものである。トランスアクションは、個々人がめいめい相手を何度となく考慮に入れ、また同様に相手によって考慮に入れられる、その都度その都度で組み上げられて行くものである。他者が一定の行為を表出したとき、個々の参与者は、それに注意を向け、判断を下し、他者のその行為を自分自身の行為を方向付けるための要因として用いなければならない・・・・そこにおいて参与者たちが、他者の行為に照らして自己の行為を方向付けているひとつの流動的な過程(flowing

process)という、ここに示した人々の結びつきに関する像が示唆しているのは、トランスアクションというものが、多様な方向へと展開してゆく可能性を多分に秘めているものだということである」(Blumer,1953=1969a,p.110=1991年、142−143頁)。

 このように、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、トランスアクションとは、まず何よりも「可変的な経歴を持つ」「流動的」な特性を有するものとして、すなわち、形成・再形成を繰り返し経験するものとして捉えられているのであり、それ故そうしたトランスアクション(=ジョイント・アクション)から構成される「人間の社会」もまた、等しくこの意味で「流動的」な特性をもつものと捉えられなければならない。

 では、何故にトランスアクションないしジョイント・アクションは「流動的」な特性を持つものと捉えられなければならないのか。「流動的」という言葉が含意する二点(「形成」・「再形成」)のうち、ここではまず、その前者の点、すなわち、ジョイント・アクションが形成されてゆくそのメカニズムを明らかにしてゆくことにしたい。

 ブルーマーによれば、ジョイント・アクションの形成は、先述のシンボリックな相互作用においてなされる。ここでシンボリックな相互作用とは、ブルーマーにおいては、ある「身振り」の呈示と、その身振りの「意味」に対するひとつの反応として定式化されている。ジョイント・アクションの形成において、身振りは、それを呈示する個人とそれが向けられる個人の双方に対して意味を持ち、両者に対して身振りが同じ意味を持つとき、両者は相互に理解し合っている、とブルーマーは捉えている(Blumer,1969b,p.9=1991年、11頁)。無論、ここで「意味」(meaning)とは、相互作用に従事している個々人が、その身振りに付与したものに他ならないことは、前節の議論で確認済みである。またそうした付与という営みが、その個々人の「自己相互作用」を通じてなされているものであることは、言うまでもない。ブルーマーによれば、こうした身振りは、それを呈示する者とそれが向けられる者の双方に対して次のような三つの意味を有している(Blumer,1969b,p.9=1991年、11頁)。まず第一に、(a)身振りの意味は、それが向けられた個人が何をするべきかをあらわす11)。第二に、(b)その身振りを呈示している個人が何をしようと考えているのかをあらわす。第三に(c)この両者の行為が接合されることによって生じるジョイント・アクションの形態をあらわす。それをブルーマーは以下のように例示している。

 「たとえばある強盗が、被害者に向かって両手を上げろと命令するとき、その命令〔=身振り〕は次の三つのことをあらわしている。すなわち、(a)被害者がこれから行うべきこと〔つまり、両手を上げるという行為〕、(b)強盗がこれから行おうと考えていること。すなわち、被害者からお金を奪い取ること、(c)両者の間で形成されようとしているジョイント・アクションの形態。この場合は強盗である」(Blumer,1969b,p.9=1991年、11−12頁)。

 身振りが有するこうした三つの意味を、身振りを呈示している者と身振りが向けられている者の双方が適切に把握し、その意味に基づいて互いに行為し合うとき、そこにジョイント・アクションが成立する、とブルーマーは捉えている。逆に言うならば、「この三つの意味に、どれかひとつでも混乱ないし誤解がある場合には、コミュニケーションは有効にはたらかず、相互作用は妨げられ、ジョイント・アクションの形成は障害にぶつかる」ことになる(Blumer,1969b,p.9=1991年、12頁)。すなわち、強盗ないしは被害者のうち、どちらかでも、身振りが持つこうした三つの意味のひとつでも把握し損ねれば、ジョイント・アクションの形成はおぼつかない、ということである。またここで身振りの意味を適切に把握するとは、相互作用に参与している両者が、その身振りに対して同じ意味を付与することを意味している(Blumer,1967=1992,p.52;1993,p.163,p.179)。

 では、身振りを呈示している者と身振りが向けられている者の双方が、身振りの「意味」を如上の意味で適切に把握することは、如何なるメカニズムにより可能となっているのであろうか。そのメカニズムを解明するに際して、ブルーマーの次の説明が参考となる。以下の説明もまた、ジョイント・アクション論の文脈で書かれたものである。

 「〔互いに相互作用し合っている〕個々人は、一定程度まで、相手の行為を、相手の観点(standpoint

of the

other)から見なくてはならない。相手を一人の主体として、ないしは相手が自ら行為を行い方向付けている存在である、という観点から、その相手を把握しなければならないのである。こうして人は、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを識別することになる。相互作用に参与するいずれの側もこうしたことを行うことにより、かくして、各々は、単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、142頁)。 

 人々の結びつき方のその最も根源的な形態として「相互作用し合っている二人の人間」を措定し(Blumer,1953=1969a,p.108=1991年、140頁)、そうした結びつきが持つ、その最も重要な特徴として「そこでの参与者たちの双方が互いに相手を考慮に入れている(take each other into account)」という事実に着目し(Blumer,1953=1969a,p.108=1991年、141頁)、そこにおいて「二人が二人とも相手を考慮に入れている」(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、141頁)が故に、生じる「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」という、ブルーマーが指摘するこうした現象を、「考慮の考慮」(taking

into account of taking into account)12)と名付けておこう。

 すなわち、個々人が、互いに相手と相互作用を行い、ジョイント・アクションを形成しようとする際に用いる「自己相互作用」ないしは「解釈の過程」の内的メカニズムが、実は、この「考慮の考慮」なのである13)。かねてより、わが国のシンボリック相互作用論理解、就中ブルーマーのシンボリック相互作用論理解においては、この「自己相互作用」の内的メカニズムは、もっぱら「表示」と「解釈」からなる、としてしか捉えられてこなかった14)。その原因のひとつとして、これまでのわが国におけるシンボリック相互作用論理解が、対パーソンズの社会学ないしは対構造機能主義社会学を意識しすぎるあまり、社会的相互作用の主体としての人間を、他者や外界に対して解釈を行う「解釈主体」として強調してきた一方で、そうした人間が他者によっても解釈されている客体としても捉えられなければならない、という点を比較的看過してきたということが挙げられる。そうしたわが国の研究動向について、井上は以下のように述べている。

 「・・・・シンボリック・インタラクショニズム〔=シンボリック相互作用論〕は、行為者の『解釈過程』を重視し、人間が何よりもまず『解釈主体』であることを強調する。・・・・しかし、人間が『解釈主体』であるということは、裏を返せば、他者によって解釈される『客体』でもあるということだ。私が他者を解釈するように、他者もまた私を解釈する。私は、私と同じく『解釈主体』である他者によって『客体』として解釈されることを避けることはできない。・・・・今日のシンボリック・インタラクショニズムは、しかし、私たちが否応なしに他者からの解釈を蒙る側面については、あまり注意を払っていない。それは、ひとつには、この派の『主体性強調のふくみ』からくるバイアスであろう・・・・いずれにせよ、シンボリック・インタラクショニズムにおいては、解釈の裏返しである『被解釈』の問題は、せいぜい、自我の形成過程についての議論のなかで、あるいは逸脱行動に関する『ラベリング・アプローチ』のなかで、部分的に扱われるにとどまっている。いわば『解釈過程の重視』に見合った重みを与えられていないのである」(井上、1988年、33−34頁)。

 社会的相互作用に参与する主体を、自ら解釈を行う解釈主体であると同時に、他者からも解釈される客体としても措定するならば、必然的に生じてくるこうした現象を、ブルーマーが1953年の時点で既に指摘していたにもかかわらず、かねてよりのわが国のシンボリック相互作用論理解においては、こうした現象に対する考察があまりなされてこなかったように思われる15)。

 ブルーマーによれば、複数の人間が、互いに自らの行為を相手の行為に適応(適合)させ合い、トランスアクションないしはジョイント・アクションを形成しようとする際には、個々人はめいめい、必然的にこうした「考慮の考慮」という解釈的営みを行うことになると言う(Blumer,1953=1969a,pp.109-110=1991年、142頁)。

 先ほどの強盗の例に戻ろう。如上の引用を踏まえるならば、すなわち被害者は、まず相手の振るまい(=強盗による両手をあげろという命令=身振り)を、「相手の観点」(強盗の観点)から見なくてはならない。そのために、被害者は、まずもって強盗の観点を取得しなければならない。別言するならば、被害者は、その強盗をこれこれの観点を持っている者と解釈し定義しなければならないことになる。すなわち、「相手の観点」の取得とは、そうした「観点」をダイレクトに取得することを意味しているわけではなく、あくまでそうした「観点」を持っている存在として、その相手を解釈・定義することを意味している。こうして被害者は、その強盗の観点を手に入れることとなる。そうしてその観点を通して、相手の振るまい(=強盗の身振り)を見、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを見極めることとなる。これがまさに「他者を考慮に入れること」(taking

another person into account)ということが含意する内容である。なお、ブルーマーにおいては、「何かを考慮に入れる」ことは、すなわち、その何かを、「自分自身に表示する」ことを意味しており(Blumer,1966=1969a,p.64=1991年、83頁)、それ故、この「他者を考慮に入れる」という営みは、その他者を、「自己相互作用」を通じて、解釈・定義する、という営みの一種と捉えられなければならないこととなる(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、141頁)。ところで、忘れてはならないのは、この相互作用において、相手を考慮に入れる、という営みを行っているのは、その被害者のみではない、という点である。強盗もまた、被害者に身振りを呈示するに際しては、その被害者を「考慮に入れる」という営みを行わなければならない

(Blumer,1969b,pp.9-10=1991年、12頁)。すなわち、強盗は強盗で、身振りを呈示するに際しては、被害者をこれこれの観点を持っている者と解釈し定義し、被害者の観点という解釈枠組みを手に入れなければならない。

 この時点で、両者ともに互いに「相手を考慮に入れる」という営みを行っていることになる。とはいえ、それを両者とも行っているが故に、ブルーマーが指摘するように「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」。上述のように、「相手を考慮に入れる」という営みに対応するのが、「相手の観点」の取得であった。では、「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」という営みに対応するのは如何なる事態か。ブルーマー自身、そのことについて明示的に述べてはいないが、少なくとも推論により解を導き出すことは可能である。再び被害者の立場に即して議論をすすめるならば、被害者は、強盗を、被害者を考慮に入れている相手として、考慮に入れている、ということになる。それはすなわち、被害者が、強盗を、被害者の観点を取得している存在として、考慮に入れる(ここで被害者が獲得した「相手の観点」を、先の強盗の観点と区別して、暫定的に     としておこう)、ということを意味することになる。では、ここで取得された     と、先の強盗の観点との違いは何であろうか。人間が把握する「現実の世界」(world

of reality)(そこには、ある人間にとっての他者という存在も、当然含まれている)とは、あくまで、その人間が自らの「パースペクティブ」を通してみた「世界」(world)に他ならず、その世界のありのままの姿ではあり得ない、という、先に本論第1章で見たブルーマーの前提を踏まえるならば、それは次のように捉えられる。すなわち、強盗は、被害者を強盗のパースペクティブから見、その被害者の観点を取得している。換言するならば、そのパースペクティブを用いて、被害者をこれこれの観点を持っている者と捉えている(解釈・定義している)。つまり、強盗が持っている被害者の観点とは、必然的に、強盗のパースペクティブから見た被害者の観点ということになる。そうした     を被害者が取得するということは、すなわち、この     とは、被害者が取得した強盗のパースペクティブから見た被害者の観点を意味することになりはしないか。すなわち、ここで被害者は、必然的に強盗のパースペクティブから見た被害者の観点を取得することになるのではないか。両者ともに「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」のであれば、当然ながら、強盗もまた、同様にして、必然的に、被害者のパースペクティブから見た強盗の観点を取得することになる。すなわち、両者とも必然的に「相手の観点」のみならず「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」をも取得し合うことになる。なお、ここで言う取得もまた、「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」を、その個人がダイレクトに取得することを意味しているわけではなく、あくまでそうした観点を持っている存在として、その相手を解釈・定義することを意味している。というのも、「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」という営みもまた、結局のところ、「相手を・・・・考慮に入れる」という営みに他ならないからである16)。

 こうした社会的相互作用において、両者ともに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を正確に把握しているときにのみ、両者はそこで用いられている身振りに対して、同じ意味を付与することが出来る。

 社会的相互作用に参与する個々人が、それに対して同じ意味を付与しているそうした身振りのことを、ブルーマーは特別に「有意味シンボル」(significant

symbol)と呼んでいる。またこの有意味シンボルのことを「普遍的なるもの」(universal)ないしは「共通の定義(意味)」(common

definition,common meaning)とも呼んでいる(Blumer,1967=1992,p.152)。

 以上の議論を踏まえるならば次のように言えよう。すなわち、社会的相互作用に参与する自己と他者とが、如上の「考慮の考慮」を正確に行い、その結果として、両者が互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握しているときにのみ、そこで用いられている「身振り」が、その両者に対して同じ「意味」を持つようになるのであり、そうした「身振り」が「有意味シンボル」(「共通の定義」)と呼ばれるものに他ならない。

 かねてよりわが国のシンボリック相互作用論理解をリードしてきた、船津 衛は、「意味」の共有(=「共通の定義」の成立)という現象を以下のように説明して来た。すなわち、「他者にも自己にも同一の反応を引き起こす言葉や身振り」としての「有意味シンボル」(船津の言葉で言えば「意味のあるシンボル」))(船津、1995年、46頁)を用いることにより、相互作用に参与している自己と他者とは、互いのうちに「同一反応」を引き起こすことが出来る(船津、1989年、46頁)。ここで、自己と他者との間に「同一反応」が引き起こされるということは、すなわち、自己と他者とが、ある一定の「意味」を共有することを意味し(船津、1989年、46頁)、そうした「有意味シンボル」による自他間の「意味」の共有がまさに「役割取得」である、と(船津、1989年、46頁)。「有意味シンボル」による自他間の「意味」の共有を説く、という視点は、宝月においても見られる(宝月、1990年、116−119頁、123−129頁)。とはいえ、徳川も指摘するように、こうした議論は一種の循環論法に陥っており(徳川、1987年、83頁)、そもそもそこで用いられている「身振り」が「『意味のあるシンボル』へと転化し、自己にも他者にも『同じ反応』を引き起こすという『有意味性』を帯びるのはいかなるメカニズムによるのか」(徳川、1987年、79頁)を説明し得ていない。また同時にこうした説明は、シンボリック相互作用論の概念的柱石としての「自己相互作用」概念が、「意味の共有」という現象を説明するための分析枠組みとして、果たすべき説明機能を、十分に活用しきれているとは言い難い。

 如上のわれわれの考察を踏まえるならば、そのメカニズムとは、次のように説明することが出来る。すなわち、社会的相互作用を通じて、自己と他者の双方が、「考慮の考慮」という解釈的営みにより、「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握し、その結果として、ある「身振り」より、同一の「意味」を読みとったとき(換言するならば、同一の「意味」をその身振りに付与したとき)、はじめてその「身振り」が「有意味シンボル」となる、と17)。

 ブルーマーによれば、如上の経緯を経て個々人により形成された「共通の定義」が、ジョイント・アクションの規則性・安定性・再起性ないしはジョイント・アクションの取るある一定の形態の固定的な反復を保障するという。すなわち「共通の定義によって、〔ジョイント・アクション形成への〕参与者たちには、自分自身の行為を相手の行為と適合させるための、はっきりとした指針が与えられる。この共通の定義ということによって、様々な集団領域にまたがったジョイント・アクションの、規則性、安定性、再起性が最もよく説明される」と(Blumer,1966=1969a,p.71=1991年、92頁)。なお、この引用からも分かるように、ジョイント・アクションの形成に従事している参与者たちが、この「共通の定義」に基づいて行為を行っているからといって、彼らが共通の行為を行っている、というわけではない。「共通の定義」とは、あくまで、個々人がそれぞれ従事している自らの個々別々の行為を、相手の行為にかみ合わせる(ないしは組み合わせる)ことを可能にする道具なのであって、共通の行為を行わせるものではない(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)。

 以上のここまでの議論を要約するならば、次のように捉えられよう。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「人間の社会」とは、まず何よりも、人々が相互作用を通じて形成する「ジョイント・アクション」ないしは「トランスアクション」からなるものと捉えられている。またそうしたジョイント・アクションは、個々人が社会的相互作用を通じて形成した「共通の定義」に支えられることにより、その規則性・安定性・再起性が保障される。この「共通の定義」とは、相互作用に従事する個々人が、各々自己相互作用の一形態としての「考慮の考慮」という解釈的営みをを行うことによって、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握しているときにのみ成立するものと捉えられている。

 では、個々人によるこうしたふたつの「観点」の適切な把握は、如何にして可能となるのであろうか。

 上記にも述べたように、ブルーマーにおいては、如上のふたつの「観点」(「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」)を個人が把握するということは、別言するならば、その個人が、相互作用を行っている相手を、自己の「自己相互作用」(「考慮の考慮」)を通じてこれこれの観点を持っている者と解釈・定義することに他ならない。井上も言うように、「・・・・人間は社会のなかで他者とともに生きなければならないので、『他者の経験を理解しようとする試み』を避けることはできない・・・・この試みにおいて私たちは、推測あるいは解釈に頼らざるをえない。他者の言葉、表情、挙動など、私たちにとって知覚可能なデータを解釈することによって、私たちは不可視の他者を少なくとも自分なりに可視化しようと試みる」(井上、1988年、31頁)。ところで、こうした解釈や定義はフリーハンドになされるものではない。そのための道具が必要となる。この点について井上は「・・・・およそ解釈というものは、素手ではできない。解釈の作業には、それなりの用具が必要である。・・・・私たちは何よりもまず、感覚に与えられたデータの内容を整理し単純化するための『要約的カテゴリー』(summary

categories)を必要とする。この種のカテゴリーなくしては、『解釈』はおろか、対象の単なる『記述』さえおぼつかない」(井上、1988年、44頁)と指摘している。ブルーマーのシンボリック相互作用論の場合、その道具にあたるのが「パースペクティブ」ないしは「定義の諸図式」であることは、先に本論第1章において述べた通りである。すなわち、そもそもこのパースペクティブないし定義の諸図式なくしては、人間は外界への解釈・定義という営みを行うことすら出来ないのである。また同様にして、自分自身という対象を形成するためのパースペクティブである「一般化された諸々の役割」なくしては、個人は自分自身との相互作用(=自己相互作用)を行うことすら出来ない。では、このパースペクティブは何処より来るものと捉えられているのか。先にルイスに対するブルーマーの反論を検討するなかで明らかになったように、個人が自らの状況を定義するに際して、前もって「他者たちの集団」から獲得したものであった。そしてそうした二つの図式(「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」)に方向付けられる形で、個々人は解釈・定義という営みを行うことになる。すなわち、「相互作用に従事する個々人が互いに『相手の観点』と『相手のパースペクティブから見た自分自身の観点』の双方を適切に把握することは如何にして可能となるのか」という問に対する答を提示するならば、それは、個々人がそうした把握(=解釈・定義)を行うに先立って獲得した、「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」というふたつの図式にその解釈・定義を方向付けられることで可能となる、とこたえることができる。「相互作用に従事する個々人が互いに『相手の観点』と『相手のパースペクティブから見た自分自身の観点』の双方を適切に把握することは如何にして可能となるのか」という問は、換言するならば、ジョイント・アクションは如何にして成立するのか、もしくは那須の言葉を再度用いるならば、ブルーマーのシンボリック相互作用論において「社会はいかにして可能か」と捉えられているのか、という問であると言えるが、上記の議論を踏まえるならば、それは次のようにこたえられよう。すなわち、ジョイント・アクションの成立は、その形成に参与する個々人が、その形成に先立って、解釈・定義を行う道具としての「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」という二つの図式を獲得し、そうした図式にしたがって解釈・定義を行い、その結果として成立する「共通の定義」に基づいて互いに行為し合うことによって可能となる、と。そのことについて、ブルーマーは以下のように述べている。

 「新しく形成されたものであれ、長い間確立されてきたものであれ、如何なるジョイント・アクションの実例も、必然的に、参与者たちによる先行する行為という背景(a

background of previous actions of the

participants)から生じてきたものである。こうした背景を離れて、ジョイント・アクションが新たに形成されることは決してない。新たに形成されようとするジョイント・アクションに関与している参与者たちは、いつでも、その形成に、彼らが前もって〔強調は引用者〕所有している対象の世界や一連の意味や解釈図式を持ち込んでくる。したがって、新しい形態のジョイント・アクションは、いつでも、それに先行するジョイント・アクションという文脈から生じてくるのであり、そうした文脈と結びつきを持っている」(Blumer,1969b,p.20=1991年、26頁)。

 また、こうした経緯を経て、いったん形成された共通の定義が、同様にして、この垂直な関係を通じて、繰り返し参与者たちに継承され続けることによって、新たに形成されたそのジョイント・アクションのある一定の形態が保持され続ける、ブルーマーにおいては捉えられている。その点についてブルーマーは以下のように述べている。

 「通常、ある特定の社会において人々が出くわす状況のほとんどは、同じやり方で定義ないしは『構造化』(structured)されている。先行する相互作用を通じて〔強調は引用者〕、人々は、これこれの状況において如何に行為するかに関して共通の理解ないしは定義を創りだし獲得している。こうした共通の定義が、人々に、それまでと同様に行為することを可能にしているのである」(Blumer,1962=1969a,p.86=1991年、111頁)。

 ブルーマーによれば、こうした意味で、ジョイント・アクションは、参与者間の「水平的な結びつき」(horizontal

linkage)を持つのみならず、それに先行するジョイント・アクションとの「垂直的な結びつき」(vertical

linkage)も持つもの、と捉えられるのである。

 

第4節 形成されるものとしての社会

 ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「社会」(society)とは、まず何よりも、個々人が社会的相互作用(シンボリックな相互作用)を通じて日々形成する「ジョイント・アクション」(joint

action)ないしは「トランスアクション」(transaction)から構成されるものと捉えられている。こうしたジョイント・アクションの形成は、その形成に参与する個々人の間に「有意味シンボル」(significant

symbol)ないしは「共通の定義」(common definition)が成立することにより可能になるものと、ブルーマーにおいては捉えられていたが、そうした共通の定義は、個々人が、自己相互作用の一形態としての「考慮の考慮」(taking

into account of taking into account)を駆使しつつ、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握(想定/解釈・定義)したときにのみ成立するものと捉えられていた。また、個人による、そうした適切な把握は、その個人が、自己を取り囲む「他者たちの集団」から、前もって、種々の解釈の道具(「定義の諸図式」(schemes

of definition)、「一般化された諸々の役割」(generalized

roles))を獲得し18)、そうした道具に、その解釈・定義を方向付けられる(=ブルーマーにおける「社会化」(socialization))ことによって可能になるものと、ブルーマーにおいては捉えられていた。また、個々人により作り出された共通の定義によって、ジョイント・アクションは、その規則性・安定性・再起性を保障される、とブルーマーにおいては捉えられていた。

 以上、ここまでの議論で、ブルーマーのシンボリック相互作用論において、1)ジョイント・アクションの成立は如何にして可能となるのか、そのメカニズムが、すなわち「社会はいかにして可能か」が、そして2)その社会が如何に固定化されてゆくのか、そのメカニズムが明らかにされたと思われる。続く第3章では、こうした固定化され、規則性・安定性・再起性を保障されたジョイント・アクションないし社会であっても、必然的に再形成への扉を開くものと捉えられなければならない、その理由ないしその論理的必然性を探ることとしたい。

編集者と校正役

こんにちは!編集者と校正役として、あなたの文章をブラッシュアップし、より分かりやすく、読みやすくするお手伝いをさせていただきます。

まず、お伺いしたいのですが、この文章の目的や想定読者はどのような方々でしょうか? また、どのような点で「分かりやすく書き換えたい」と思われましたか?

例えば、専門用語が多い、文章が複雑で読みにくい、論理展開が分かりにくいなど、具体的な点があれば教えていただけますでしょうか?

これらの情報に基づいて、より的確で効果的な編集のアドバイスを提供することができます。

現段階で可能な編集内容

  • 専門用語の分かりやすい説明: 社会学の専門用語が多いと感じた場合は、注釈や括弧書きなどで補足説明を追加し、読者の理解を助けることができます。
  • 文体や表現の修正: 硬い印象の文章であれば、より平易な言葉遣いや表現に修正することで、読みやすさを向上させることができます。
  • 段落構成の見直し: 長文が続いている場合は、適切な箇所で段落を区切り、文章にメリハリをつけることができます。
  • 論理展開の明確化: 議論の飛躍や分かりにくい箇所があれば、接続詞や指示語を適切に使い、論理展開をよりスムーズにすることができます。
  • 誤字脱字のチェック: 誤字脱字はもちろん、句読点の使い方などもチェックし、正確な文章に仕上げます。

これらの編集に加えて、ご要望に応じて、より具体的な改善点や修正案を提案することも可能です。

文章を拝見したところ、シンボリック相互作用論、特にブルーマーの社会観について深く考察されていると感じました。専門的な内容を扱っているため、読者層によっては難解に感じる可能性もあります。そこで、上記のような編集を行うことで、より多くの読者に伝わる文章になると思います。

より的確な編集を行うために、ぜひあなたの考えをお聞かせください。

編集の手順

  1. 要望の確認: 文章の目的、想定読者、改善を希望する点などを詳しくお伺いします。
  2. 解決策の提示: お伺いした情報に基づいて、具体的な編集内容を提案します。
  3. フィードバックの提供: 全体的な構成から個々の文の表現まで、多角的な視点からフィードバックを提供します。
  4. 編集内容の説明: すべての編集内容について、その理由を明確に説明します。
  5. 最終確認: 編集結果にご満足いただけるか、追加の修正が必要かなどを確認します。
  6. 編集済みテキストの提供: 提案した変更をすべて反映した、完成度の高い文章を提供します。

どうぞ遠慮なく、ご要望をお聞かせください。一緒に、より良い文章を作り上げていきましょう!

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想定読者=高校3年生

編集者と校正役

かしこまりました!想定読者は高校3年生とのことですね。

この文章はシンボリック相互作用論、特にブルーマーの社会観についての専門的な内容を扱っており、高校3年生にとっては難解に感じる可能性がありますね。

そこで、彼らにも理解しやすいように、以下の点を重点的に編集することを提案します。

1. 専門用語の分かりやすい説明

  • 「シンボリックな相互作用」「ジョイント・アクション」「パースペクティブ」など、社会学の専門用語を分かりやすく説明します。
    • 例:「パースペクティブ(ものの見方)」のように、括弧書きで補足説明を加える。
    • 例:本文中で初めて専門用語が出てきた際に、簡単な例を挙げて説明する。
  • 必要に応じて、注釈を追加して詳しく解説することも考えられます。

2. 文体や表現の修正

  • 硬い印象の文章や複雑な言い回しを、より平易な言葉遣いや表現に修正します。
    • 例:「…と捉えられなければならない」を「…と考えられる」のように言い換える。
    • 例:漢字をひらがなにする、またはひらがなを漢字にするなど、読みやすい表記に修正する。
  • 長い一文を短く区切って、読みやすさを向上させます。

3. 段落構成の見直し

  • 長文が続いている場合は、適切な箇所で段落を区切り、文章にメリハリをつけます。
  • 各段落の冒頭に、その段落の要点を示す文を置くことで、読者が内容を把握しやすくなるようにします。

4. 図表の活用

  • 文章で説明されている内容を、図や表を使って視覚的に表現することを検討します。
    • 例:ブルーマーの相互作用の3つの段階を図で示す。
    • 例:「考慮の考慮」のメカニズムを表で整理する。
  • 図表を用いることで、複雑な概念をより直感的に理解できるようになります。

5. 具体例を増やす

  • 抽象的な議論が多い場合は、身近な例や具体的な事例を挙げることで、読者の理解を深めます。
    • 例:「強盗と被害者」の例のように、高校生の日常生活に関連する例を用いる。
    • 例:本文中の「商取引、家族の晩餐、結婚式…」のような例をさらに増やす。

これらの編集を行うことで、高校3年生でも理解しやすい、分かりやすく読みやすい文章になると思います。

その他

  • 誤字脱字、句読点、記号などの使い方もチェックし、正確な文章に仕上げます。
  • 全体を通して、論理展開がスムーズで分かりやすくなるように、構成や表現を調整します。

これらの編集方針に基づいて、文章を丁寧にブラッシュアップしていきます。

もし他に何かご要望があれば、お気軽にお申し付けください。

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では、実行してください。

編集者と校正役

かしこまりました!頂いた情報に基づいて、文章を編集してみました。


第2節 三つの相互作用

ブルーマーは、「社会とは人々がシンボルを使ってやりとりをする場だ」と考えていました。これを「シンボリックな相互作用としての社会」と表現しています。 彼にとって、「社会」を考える上で最も重要なのは「人々のやりとり」です。そこで、まずはブルーマーがどのように人々のやりとりをとらえていたのかを見ていきましょう。

ブルーマーは、人々の間のやりとりを大きく二つに分けて考えていました。一つは「非シンボリック相互作用」で、もう一つは「シンボリックな相互作用」です。

「非シンボリック相互作用」とは、相手の行動に対して、深く考えずに、とっさに反応するやりとりです。例えば、ボクシングの試合で、パンチが飛んできたときに反射的に腕を上げてガードするような場合です。

一方、「シンボリックな相互作用」では、相手の行動を解釈し、その解釈に基づいて反応します。私たちは言葉や表情、ジェスチャーなど、様々なシンボルを使って互いの意図を理解し合います。

ここで注意しておきたいのは、「シンボリックな相互作用」の中にも、さらに二つの段階があるということです。

ブルーマーは、「人はそれぞれ異なる経験や考え方を持っているため、同じものでも人によって異なる意味を持つ」と述べています。つまり、やりとりをする人々は、それぞれ異なる見方や考え方を持っているということです。

そうすると、人々がどのようにして共通の理解を形成するのかという疑問が生じます。ブルーマーは、この共通理解はシンボリックな相互作用を通して作られると考えていました。

つまり、最初は異なる見方や考え方を持っていても、やりとりを通して互いの意図を理解し合い、共通の認識を作り上げていくのです。

このように、ブルーマーの考える「社会的相互作用」には、実際には三つの段階があります。

  1. 非シンボリック相互作用: 反射的なやりとり
  2. シンボリックな相互作用 (段階1): 共通理解がない状態でのやりとり
  3. シンボリックな相互作用 (段階2): 共通理解がある状態でのやりとり(=有意味シンボルの使用)

ブルーマーが主に分析の対象としたのは、2と3のシンボリックな相互作用です。

シンボリックな相互作用では、人々は互いの行動を解釈し、その解釈に基づいて行動します。相手の行動が自分にとってどのような意味を持つのかを考え、それに応じて自分の行動を決めるのです。

例えば、友達が笑顔で手を振ってきたとします。あなたはそれを「 friendly な挨拶」と解釈し、笑顔で手を振り返すでしょう。これがシンボリックな相互作用です。

第3節 相互作用から社会へ−ジョイント・アクションとしての社会−

ブルーマーは、社会を「人々の活動の集まり」だと考えていました。人々は様々な活動を通して、互いに影響し合い、社会を作り上げていきます。

この「人々の活動の集まり」を、ブルーマーは「ジョイント・アクション」と呼んでいます。「ジョイント・アクション」とは、複数の人がそれぞれの行動を調整し合いながら、共通の目的を達成するために行う活動のことです。

例えば、学校の文化祭、サッカーの試合、会社のプロジェクトなど、様々な活動が「ジョイント・アクション」です。

ブルーマーは、「社会」を「無数のジョイント・アクションが複雑に絡み合ったもの」だと考えていました。

「ジョイント・アクション」は、それをどのように見るかによって、二つの側面があります。

  • 形成されつつある過程: 人々がそれぞれの行動を調整し合っている最中の状態
  • 形成されたもの: 人々の行動が調整され、まとまった状態

ブルーマーは、主に「形成されつつある過程」という側面に注目していました。つまり、「社会はどのように作られるのか?」という点に興味を持っていたのです。

ジョイント・アクションの特徴

  1. 複数の人が関わる、より大きな活動
  2. 参加者それぞれが、自分の行動を他の人と合わせることによって成り立つ
  3. 個人だけでなく、組織や団体もジョイント・アクションの担い手となる
  4. 単純な共同作業から、複雑な組織の活動まで、様々な規模や形態がある
  5. ジョイント・アクションが複雑に絡み合い、社会を構成する
  6. 社会を理解するための基本的な単位
  7. ジョイント・アクションの性質によって、社会の性質が決まる
  8. 常に変化し続ける過程である

このように、ブルーマーは社会を「ジョイント・アクションの集まり」として捉えていました。

では、この「ジョイント・アクション」と「シンボリックな相互作用」は、どのように関係しているのでしょうか?

ブルーマーは、ジョイント・アクションを「シンボリックな相互作用」の一種だと考えていました。

人々は言葉などのシンボルを使ってコミュニケーションをとり、互いの行動を調整することで、ジョイント・アクションを成立させています。

ジョイント・アクションの性質

ジョイント・アクションは、常に変化し続けるものです。人々の相互作用によって、その形や方向性が変化していきます。

これは、人々が互いの行動を解釈し、再解釈しながら、ジョイント・アクションを作り上げていくからです。

第4節 形成されるものとしての社会

ブルーマーは、「社会」を、人々がシンボリックな相互作用を通して作り上げていくものだと考えていました。

そして、その中心となるのが「ジョイント・アクション」です。人々は互いの行動を調整し合いながら、様々なジョイント・アクションを作り出し、それが複雑に絡み合うことで社会が形成されます。

ジョイント・アクションが成立するためには、参加者同士が共通の理解を持つことが重要です。

共通理解とは、参加者全員が同じように物事を解釈し、同じ意味を共有することです。

共通理解は、どのようにして作られるのでしょうか?

ブルーマーは、これを「考慮の考慮」という考え方で説明しています。

「考慮の考慮」とは、自分が相手をどのように考えているかを、相手もまた考えているということを考慮することです。

例えば、あなたが友達にプレゼントを選ぶとします。あなたは「友達はこれが好きかな?」と考えますが、同時に「友達は私が何を考えているか」も考えているでしょう。これが「考慮の考慮」です。

「考慮の考慮」によって、私たちは相手の立場や考え方をより深く理解することができます。

そして、この「考慮の考慮」こそ、共通理解を形成するための重要なメカニズムなのです。

共通理解が形成されると、ジョイント・アクションは安定し、継続的なものになります。

しかし、共通理解は決して固定的なものではありません。人々の相互作用によって、常に変化していく可能性があります。

ブルーマーは、社会を「常に形成され続けるもの」だと捉えていました。


編集内容の説明

  • 全体的に、専門用語を分かりやすく説明したり、比喩を用いたりすることで、高校3年生にも理解しやすいように修正しました。
  • 長い文を短く区切り、段落構成を見直すことで、読みやすさを向上させました。
  • 各段落の冒頭に、その段落の要点を示す文を置くことで、読者が内容を把握しやすくなるようにしました。
  • 「考慮の考慮」のメカニズムを、プレゼントを選ぶ例を用いて具体的に説明しました。
  • その他、表現や言い回しを修正し、より自然で分かりやすい文章になるように変更しました。

いかがでしょうか?

他に修正を希望される箇所や、分かりにくい箇所があれば、お気軽にお申し付けください。

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