承香殿の女御のほうでは、例のごとく屋敷を玉鏡に磨き整えて、光る内大臣を待っていた夜が、虚しく明けてから、事の次第を伺い見ていた。
 元から白雪の姫君のことを気に食わない人だと思っていた上に、光る内大臣の心を射止めたのだから、冷静な心でいられるはずがない。
 さて、光る内大臣がこのまま白雪の姫君に通ってくると聞いては、黙っていられない心地がするので、
「急いでここから追い出してしまおう」
 と思うが、女房の侍従の君を白雪の姫君の傍に置いていたら、居場所が漏れてしまうであろうと考えた。
 故父宮の生前から仕えている中務の大輔という男が、侍従の君に思いを寄せている由を聞いていたので、承香殿の女御の方に侍従の君を召して、
「姫君の元に、幾夜も男を入れていることを女御様がお聞きになりました。不都合であるから、侍従を姫君のお傍につけておくのは良くないことと、しばし人に預けられることになりました」
 と言って、かの男に侍従の君を与えたので、中務の大輔は喜んで、車を準備して、侍従の君を連れて出て行った。
 白雪の姫君はこのことを聞いて、思いもよらないことになったと思って、衣を引き被って臥していると、西京という歳をとった女房が入ってきて、
「こちらへ、男とかやら、法師とかやら、部屋に入れて通わせているとかで、女御様が私に姫君をお預けになられました。侍従がついていては、なおも悪いことが怒るに違いないと、人に侍従を預けてしまいました。用意することがございましたら、あてきに仰せに」
 と言って、離れていったが、白雪の姫君の人柄は、おっとりとして頼りないので、死にそうな心地になり、何をどうしたらいいのか、思いつかない。
 身の回りには、櫛の箱、硯、筝の琴より他にないので、車を寄せて、白雪の姫君を乗せて、西京と女童のあてきが一緒に乗った。
 板屋のささやかな家で、何の調度品もない所に白雪の姫君を下ろした。
 白雪の姫君は、どうにかして東山の尼上のところに行きたいと、仏神を念じていたところ、この西京の夫が、昨夜東国から上京してきた由を告げてきたとの事で、西京は、
「こんな狭い所で、どうしたらよいかしら。姫君がもとにおいででいらした所は、どちらですか?」
 と問う。
 白雪の姫君は嬉しくて、
「東山と言って、清水の近くです」
 とだけ言って、泣いている様子が、とても可哀想なので、
「女御様から、姫君から目を離さずに見張るようにと承りましたが、それでは、そこへお移ししましょう。私も例に従って、この訪れた夫と一緒に、東の方にでも下りたいのです。歳をとったこの私に優しく言ってくれるので、美しいけれど厳しい女御様の言いつけに従ってお仕えするのも、煩わしいことですから、思い立ったのですが、人の噂も、いかがなことになるでしょう。私の父でありました者が、故宮様にお気に召していただき、お仕えしたことで、私どもも女御様にお仕えしてきましたが、故宮様があれほど人知れず大切に思われお育てした姫君を、女御様の仰せのとおりには、どうして扱えましょう。隠しおおせない世で、女御様の御名も立ちましょう。この下仕えの者は、東山の家も知っています。文をお書きください」
 と西京は言う。
 白雪の姫君は、嬉しさは限りなくて、東山に文を遣わしたところ、小奇麗な車を迎えに寄こして来てくれたので、仏の迎えのような心地がする。
 この家の主、西京の厚意に、ありがたく思う。
 この数日、涙に纏われて、櫛で梳くこともしなかった髪が、豊かにかかり、とても美しい様子を、西京はかき撫でて、
「亡き宮様は、あの世で姫君をお待ち受けになられたら、どのようにご覧になられるか。面目ないことよ」
 と言って泣く。
 何処に行くにも、白雪の姫君は光る内大臣の形見の単衣を身に着けていた。

 白雪の姫君が東山に着くと、尼上が、
「暁に、三輪というところに出立します。命の終わりまで、今はそこにと決心しましたので、いざ、ご一緒に。侍従の君は、何故参らないのですか?」
 と聞いたけれど、白雪の姫君はただ涙にむせかえって、何も言うことができないので、あてきに問うと、夢語りなどをするようだ。
 この女は、かの雪の中の住まいにも付き従った樋洗し女なので、言うことなどから尼上は事情を察して、とても心苦しいけれど、
「よろしいですか、この世はいくらも無い儚いものとお思いください。髪も、あまりに変わるのが惜しい間は、下ろすこともなさらずとも、ただ後の世のことをお考えください」
 などと、慰め聞かせて、面倒を見るので、白雪の姫君は、都から遥かに隔たったここでは、薬湯を一口でも飲めるのであった。
 皆が寝静まると、あの二夜の光る内大臣の面影、気配ばかりが身に添うので、
「この世では、どうしたらまた会うことができようか」
 と心細く、ただ、ありし夜の単衣の匂いが、いまだ変わらないのにつけても、言いようもない心地だ。

  脱ぎ捨てし小夜の衣の匂ひだに命とともにかはらざらなん
(あの方が脱ぎ捨てた小夜衣の匂いだけでも、私の命が尽きても、変わらないでほしい)

 こうして、三輪に着いたけれど、大層静かで、とても心細い。
 三輪の社も近いと聞けば、杉の群れ立ちなどが見渡されて、都はますます遠く雲居の彼方となり、光る内大臣の面影も、いっそう隔たってしまったのだと、心が安らぐことはない。

  三輪の山身はいたづらに朽ちぬともしるしの杉とたれかたずねん
(三輪の山で、我が身は虚しく朽ちてしまったとしても、目印の杉は何処かと誰が尋ねてくれるのかしら。あの方が尋ねてくれることはないでしょう)

 光る内大臣は、数日が過ぎたけれど、これが本当の恋の道なのかと、胸はずっと塞がる思いであったが、とにかく心を慰めよう、思いを鎮めようとするのは、いつもの光る内大臣らしくない心の様である。
 勤行も年内のうちに始めるつもりであるから、疎ましく辛いながらも、十二月の十日余り、凄まじき月夜に、承香殿の女御の里へ出かけるも、まず心が暗くなる心地がするので、あの古屋のほうをわざわざ訪ねてみると、軒もますます雪に埋もれて、人の音もしないで、あたり一帯雪に閉ざされている。
 しばらく光る内大臣は、たたずんでいた。

  ありし夜の雪ふるさとは埋もれて住みこし人の面影ぞなき
(ありし夜、雪降る古里は埋もれて、住んでいたあの人の面影もない)

 零れる涙を拭いつつ、屋敷に入ると、いつもの空薫物の香りが奥ゆかしく満ちて、冴えた月の光が隈なく差し込んでいるところに、褥を差し出した。
「近頃は、このように仰々しいもてなしでもなかったのに、私のことをお怒りになられているので、こんな風になさるのだな」
 と光る内大臣は微笑んで、心遣いもとくにしながら、
「宵の間から、夜が明けたのかと間違えるほどの月の光に、ますます眩いもてなしで」
 と言えば、宰相の君が、
「お珍しいことですので、場所を間違えてのことかと疑われまして」
 と承香殿の女御の言葉を伝える言葉に付いて、光る内大臣が御簾の仲にすべりは入り、小さい几帳の際によって、女御を引き寄せる。
 承香殿の女御は、
「内大臣殿がおっしゃったら、こう言おう、こうおっしゃったら、ああ言おう」
 などと思っていた恨み言なども、光る内大臣と会った途端、例のごとく皆覚えていなくて、ただ涙にむせ返っている様子が若々しいのも、さしあたっては、風情がないわけでもない。
 光る内大臣は、
「この世におりますことも、ひどく残り少ないように申し聞かせる者もおりますので、しばし籠もりまして、勤行をいたしたく、お暇を頂きたく、申し上げます。おおよそ、この世の味気なさも、これを限りに」
 などと言うので、承香殿の女御は泣きじゃくって、悲しく思う。

 「限りぞと思ひ思ひてたまさかに待ち見るほどぞ置き所なき
(これ限りと思いながらあなたをお待ちして、たまにお会いしてあなたの姿を見ると、身も心も置き所のないのです)

 命の長さの例は、あなたにお譲りしますわ」
 とも、言い終わることもできない。
 光る内大臣は、

  思はずになほながらへばをりをりに隔てはつべき契りならぬを
(思いがけずに、なおも生き長らえているので、折々にお会いして、隔たってしまう二人の仲ではありませんよ)

 祭りや祓えなど、ありとあらゆることをやった効果があったのだろうか、今宵は、鳥の声が聞こえてから、光る内大臣は帰って行った。
 時が経つにつけて、逢瀬の名残は言いようもなくて、承香殿の女御は、ただよよと泣き入っていた。

 光る内大臣は、帰るとすぐに一品の宮のほうへ訪れて、仲睦まじく休んだ。
 ただ今、あの雪の中で出会った白雪の姫君のことも、一品の宮に話して聞かせる。
 日一日こちらで臥して暮らして、また翌日には、梅壺の皇后宮のほうへと思って、そう夜も更けないうちに訪れたのは、まず梅が枝の上のほうである。
 光る内大臣は万事ここでは、隔てなく話して、
「遠くにいましても、待ち遠しいと思わない程度に参りましょう。命を終らせる勤行を、自ら行うのも、しみじみと心にしみて」
 と言うと、梅が枝の上は、

 「さりともな人の思ひの方々に君が命に変はらざらめや
(そうは言っても、あなたを思うあちこちの女たちが、あなたの命に変わらないということがあるでしょうか)

 わたしもその女の中に入りたいものですわ」
 と泣き出すのも、偽りではないだろうと見える。
 光る内大臣は、

 「我が身とてしむも何のゆゑならん思う人をばさきだてやせん
(私とて、我が身が大事で、命を惜しむのも、何のためでしょう。あなたのためです。大事なあなたを私より先に死なせはしません)

 兎にも角にも、会うは別れの始めですから、いつまでもこうしていられません」
 と言って、泣いた。

 夜がすっかり更けてから、光る内大臣は、梅の花の太政大臣邸の、例の妻戸のもとへ、佇み寄った。
 いつもより心を籠めて語り合いながら、夜明けを告げる鳥の声、鐘の音もしきりに聞こえてくるので、端近のほうへ梅壺の皇后宮を誘って、妻戸を押し開けると、入り方の月の光が隈なく差し込んでくる中で、梅壺の皇后宮の肩にかかる髪、分け目、髪型などは、特に素晴らしく見えるが、限りなくこの世での二人の仲を悲しいと思っている様子は、ひどく心苦しい。

  後朝の別れの袖に霜冴えて心細しや暁の鐘
(後朝の別れの袖に霜も凍りそうで、心細い暁の鐘です)

 と詠む梅壺の皇后宮に、光る内大臣は立ち去れないで、躊躇する。

  とにかくに思ふ心も尽き果てぬこの暁の鐘の響きに
(兎にも角にも、思う心も尽き果てました。この暁の鐘の響きに)