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忍者・忍術の研究ノート  作者: 辻風一
忍者の流派
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毛利元就の忍者〈世鬼一族・座頭衆〉

 以前にも書いたが、戦国時代に忍者をもっとも多く、巧妙に使った大名は、徳川家康、武田信玄、そして毛利元就である。

 諜者ちょうじゃを敵地にはなって情報収集をし、それをもとに計画を練り、合戦で勝利し、中国地方最大の戦国大名となった。


 毛利の忍者で有名なのが世鬼せき一族であろう。元就は二十五名の世鬼家枝連衆を足軽として扶持し、領内六ヶ所にわけて住まわせた。

 世鬼一族のなりたちは「萩藩閥閲録」によれば、「今川の末裔、駿州久野坂の領主、遠州佐野郡に城を構え、世木と申す所に居住仕り候」とある。

 つまり、中国地方出身の者ではなく、遠く駿州(現在の静岡県中部)から安芸国(広島県西部)に移住した一族のようだ。

 彼らは高田郡の宗利村世鬼にすみ、世鬼の苗字を名乗る。

 元就に忍びとして仕えたのは世鬼政時であり、彼の長男・政定と次男・政矩まさのりも忍び働きをした。扶持は三百石と記録にある。


 ちなみに、幕末に長門萩ながとはぎ藩の奇兵隊で斥候をつとめた世木騎六せぎきろく義安は世鬼一族の末裔といわれている。


 元就は他にも、座頭衆という四名の忍びを側にひかえさせた。座頭とは、盲目の人であり、琵琶法師の名称である。「隠徳太平記」には、角都かくず勝一かついちといった忍び座頭の活躍が描かれている。


 世鬼一族と座頭衆が協力して謀略をめぐらせた事柄を紹介する。


 1537年、敵対していた尼子政久が討ち死にし、尼子晴久が家督をつぐと、元就は忍者をつかって調略をめぐらせた。

 まず、城主となった晴久に座頭の角都がとりいり、晴久に酒や遊興にはまらせ、重臣を悪しく告げ口をした。搦め手で尼子勢力をそぐ方策だろう。


 尼子家には有力な武力集団である「新宮しんぐう党」があった。晴久の叔父にあたる尼子国久が当主で、晴久の重臣である。毛利元就はこの「新宮党」の武力をおそれていた。

 国久は甥の晴久を堕落させている座頭角都をにくみ、暗殺を目論む。が、角都はそれを察知して、先手をうって城から逃げだした。


 新宮党の武士は合戦では頼りになるが、その武力をほこって横柄なふるまいをする者が多く、尼子家臣と揉めることが多くなった。元就はそれを知り、謀略でもって両者を仲違いさせることにした。

 まず毛利の国の罪人を巡礼姿に扮装させて、尼子領・月山富田城の門前で殺させた。この死体から偽の密書がみつかり、尼子晴久の手にわたる。その内容は新宮党党首である尼子国久に晴久を暗殺せよという密書であった。

 むろん、偽密書であるが、それを信じた晴久は疑心暗鬼に陥る。晴久の正室は国久の娘であったが、この人が亡くなると、それをきっかけに国久と新宮党一族を粛清してしまう。


 尼子家の中心武装勢力をうしなった尼子家は衰退していく。この偽巡礼を殺した者が世鬼一族の者であったという説がある。

 それにしても、「鉢屋衆」の章で、尼子晴久が鉢屋衆と謀略により月山富田城をうばった話を紹介した。そんな彼も毛利元就とその忍者団の謀略に逆にひっかかってしまったのは皮肉である。


 また、元就は尼子氏を滅ぼしたのちは、先の章でも述べた尼子忍者の鉢屋党を盗賊捕縛の役人として召し抱えた。


 彼ら毛利家の忍び集団を統括したのが伯耆ほうき和山城主の杉原盛重すぎはらもりしげであったという。もとは忍者で、武将に出世した。

 彼の配下には、佐田彦四朗・神五郎・小鼠の佐田三兄弟、徳岡久兵衛、別所雅楽允べっしょうたのじょうという忍び名人がいた。

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