ReactOS0_4_14
人間とその本能についてのいくつかの考察
by ReactOS0_4_14
Enter full screen mode
Notes and Credits
『人間とその本能についてのいくつかの考察』  これを読んでいる諸君は人間の本能について考えたことがあるだろうか。私は以前から考えてきた。そして、ようやくまとまってきたのでそれを共有しようと思う。  人間の本能について考える前に、動物について考えてみる。彼らは生まれてから死ぬまで本能に従って生きている。毎日食べて寝て時々性行動をしてを繰り返す。性行動をした結果、新たな個体が生まれればそれも親と同じようにループに入る。動物は本能に従って生きている。それが種にとって不都合になることはない。  次に、人間が本能に従って生きようとしたらどうなるか考えてみる。それは種にとって不都合になる。この想像は容易にできる。人間という動物には、知性や理性がある。本能はそれらの次くらいに大事で、本能に従って生きることは好まれない。すなわち人間の本能には欠陥があるということになる。  本能に欠陥があることには、それを補う必要がある。生きる目的や意味を人間が求めているのは、本能に欠陥がありそれを補おうとしているからだ。本来、本能が完全なものであればそんなものはいらない。本能に従えばいいだけなのだから。思春期における「自分探し」は、この典型的な例であると云える。ただ、大抵その「自分探し」は頓挫する。なぜって、生きる意味や目的なんて存在しないのだから。存在し得るとしてもそれは必ず虚構であると私は断言する。  生きる意味や目的は虚構である。従ってこの世界に絶対的な真理は存在しない。今まで真理とされてきたものが否定されてしまうことによって起こるニヒリズムをニーチェは批判した。ニヒリズムに陥った人間は精神的に安定しない。そいつらは何事にも怯え、平和に、静かに生きることを望む。そして群れる。群衆本能が発揮される。群衆の中では自らの怠惰は肯定され、少しでも違うことをしようとする人間は追いやられる。みんな同じであることが求められる。かの有名な思想家が予言した、新しい共同体が生まれ、人生を謳歌することはできなくなってしまう。私はこれを平等主義と呼ぶ。平等主義では自由主義は認められない。当然である。私がずーっと、これぐらいなら誰でも理解できるだろうと、選挙反対を訴えていたのは、この平等主義に抵抗するためである。説明するまでもなく民主主義は平等主義だ。多数派のための政治、言い換えれば多数派であることが求められる。よく自由と民主主義がどうのこうのと云われるが、その2つは両立しない。民主主義体制において、自由主義なんてのは民主主義のおまけ程度で、参政権を全員に与えろというような、民主主義を補完する意味合いのものでしかない。私が民主的平等主義を如何に憎んでいるのか、おわかりいだだけただろうか。  ニヒリズムに陥り、群れた人間は本能の欠陥を補えずにいる。欠陥のある本能に従って生きているのだ。これは、もはや人間ではない。本能の欠陥を補った上で生きるのが本来の人間であり、そうでないものはもはや動物である。毎日怯えながら快楽を求めて生きる、人間と呼ばれるただの動物に成り下がる。この社会には緩やかではあるものの確実に動物化の流れがきている。このまま流れに身を任せるのも悪くないかもしれない。そんな考えが私の脳裏をよぎる。この流れに抵抗し得るのは、自由への強い意志をおいて他にない。強い意志を持つことができる人間はおそらく限られている。結束した強き者達による政治が必要なのである。  そもそもなぜ動物化するのか。それは生きる意味や目的が虚構でしかないからである。虚構でしかないのは事実だが、それをうまいこと誤魔化すことができないことはないかもしれない。虚構ではなく真実であると信じ込ませるようなことができれば、人間はニヒリズムに陥らず動物化しないのではないだろうか。私はそのように考えるようになった。  生きる意味や目的を、虚構であれなんであれ与えるためには何が必要か。そのヒントは、ネトウヨ時代の自分にあった。今ではすっかり極左に転向した私だが、実は以前はいわゆるネトウヨであった。(それより前はアベガー、山上容疑者予備群、リベラル派といった感じ。安倍晋三さえこの世から消えれば世界に平和が訪れると考え、彼の暗殺を妄想していた。過激なお花畑左翼。私は極左からネトウヨを経由して極左になった。)排外主義者であった私は、日本を日本人だけのための国にしようと考えていた。それは、日本には美しい歴史があり、それを汚す者達は一掃するべきだという使命感に駆られたからだ。そう、その使命感こそ生きる意味・目的である。日本の美しい歴史、それを意識することによって自分自身を日本の一人の日本人だと、空間の一部に位置づけることができ、自分がその空間のためにするべきことを自ら、自発的に創造していたのだ。これだ!人間に歴史というものを意識させることが必要なのだ。日本人であれ、ドイツ人であれ、イタリア人であれその国や民族には歴史がある。歴史は物語として語り継がれ、人々は自分自身をその物語の一部に位置づけなければならない。そんなことができるのは、伝統的な共同体しかない。だが残念なことに我々はこれを喪失してしまった。  私は極左から極右に転向しようとしているのかもしれない。自分でも驚いている。もう右に行くことはないし、このまま左の道を突き進むと思っていた。今になって国家主義・民族主義に対して魅力を感じるなんて信じられない。私は自全党党員として人間の動物化が生む新しい共同体の台頭を危惧すると同時に、人間の本来性を回復させる古き良き共同体の復活を、私自身の生きる意味・目的とした。
2
2
0
13