100%の資本主義
by ReactOS0_4_14Notes and Credits
『100%の資本主義』
あるテレビ番組にて、資本主義者を名乗る者がいた。彼は、あるマルクス主義者を否定する立場だった。そのマルクス主義者と云うのも変な奴で、最近流行りの無理やりなんでもかんでもマルクスに結びつける、云うなれば「マルクス延命派」」だった。過去にも「マルクス延命派」は一定数いたはずで、それが上手くいかなかったのにも関わらず、また同じことを繰り返そうとしている。今どきの左翼思想にマルクスなんていらねぇんだよ。わざわざくっつけてなんになる?(まぁともかく、『人新世の「資本論」』のようなものを想像してほしい)
で、問題はこの「自称・資本主義者」である。なぜ「自称」なのか。単純に、こいつは資本主義者ではないからである。本人がそのつもりでも、それの認識は間違っている。資本主義なんて最悪な思想、資本家以外に誰も支持しちゃいないよ。もし資本主義にきちんと乗っ取るのならば、労働者を守るための法律は全て無くなる。だって、「資本」主義なんだから。コンプライアンスや社会貢献なんて本来であれば資本、つまり利潤のもっと後にくるはずだ。「労働者をなるべく安い賃金で働けなくなるまでこき使って、だめになったらクビにして新しいのを雇う」ってくらいになるはずだ。そんなことしてたら労働者の反発が強くなって、資本主義は打倒されてしまう。つまり何が云いたいのかと云うと、「資本主義者は資本主義にとって脅威」ってことよ。100%の資本主義なんて存在し得ない。
やはりマルクスは正しかった。資本主義はもはや過去のものであって、共産主義の到来はそう遠くない。民族の壁は破壊され、政府がなくなり、国家すらも消滅する。歴史によって形成されていた今までの共同体は完全に滅びて、代わりに新しい共同体が生まれる。この新しい共同体が完成したとき、真の共産主義が産声をあげる。
周知の事実として、未だ共産主義は実現していない。しかし、資本主義は確実に衰退の道を辿っている。それはもちろん、共産主義の到来を示唆している。我々はこれに対してどうあるべきか。このまま共産主義の到来をぼんやりと待ち望むのか、それとも強い意志で抵抗に走るのか。諸君はどちらを選ぶ?私は後者だ。
何もしないでただただ共産主義の到来を待つ方が楽だろう。だから無駄な考えは捨てて、のんびり毎日を過ごした方がいい。こんな風に考えてしまうこともある。ただ、それでも抵抗する意思を捨てきれない理由がある。それを「アキノリ将軍未満」的に云うとすれば、「虚構を楽しむため」だ。生きる意味・目的は全て虚構だ。だから、楽しむことが一番重要であって、それをさまたげるものには抵抗する必要がある。そのためには「本来性の回復」が必要であると云う話は 『人間とその本能についてのいくつかの考察』 https://scratch.mit.edu/projects/1046595698 で既に行った。新しい共同体と云うのは、云わば「群衆本能」によって形成される。本来性を失った人間が、再びこれによって集まりはじめる。その様は、群衆による蜂起「プロレタリアート」として現れることもある。
群衆本能を発揮させる要因の一つとして、恐怖心がある。「人間は一人で生きていけるほど強くはない」と誰かが云った。共同体が破壊され、みんながバラバラになったとしても、群衆本能によって共同体は再構成され、群衆が出来上がる。群衆であるからして、その中の一人ひとりはあらゆることに過剰に怯えてしまう。その社会(「群衆社会」とでも云うべきか)にて自由主義は完全に葬られてしまう。代わりに平等主義が完全に達成される。個性と云う名の彩色が失われた灰色の共産主義、これを迎え撃つ組織が必要だ。その組織は、強い意志を持った者達によるもので、群衆に対して数では大きく劣るものの、群衆本能に抵抗しうる強い意識で「結束」しているからして、必ず勝利を収めるだろう。
古き良き共同体は完全に失われた。かと云って新しい共同体は完成していない。離れ離れになった人間同士が本来性を失ったまま再び集まったのが新しい共同体である。だとすると、民主主義はプレ・新しい共同体である。資本主義と民主主義が相互に作用し合い、それを繰り返すことによって共産主義は到来するのだろう。
我々自由全体党党員は、共産主義の前段階にある民主主義を滅ぼす。そして、資本主義を行き過ぎないように適度に抑える。それは90%の資本主義かもしれないし、30%の資本主義かもしれない。だが確実に云えるのは、「100%の資本主義」ではないことだ。
0
0
0
5
Comments