マーク・トウェイン、ハリエット・ビーチャー・ストウ、ウィリアム・シェイクスピア。いずれも古典文学を代表する作家として米国の学校で学ぶことが多いが、共通点はそれだけではない。内容が論争的、わいせつである、または人を不快にさせるなどの理由で、米国の一部の学校からその本が締め出された作家たちなのだ。
同様に、不適切とみなされた作家は数多い。アンネ・フランクによる『アンネの日記』ですら検閲の対象になった。ナチスドイツの迫害を受けたユダヤ人少女の家族が描かれているからではなく、10代のアンネが大人になる過程で自分の体に現れた変化について書いているからというのが理由だ。(参考記事:「アンネ・フランクを密告したのは誰なのか」)
禁書がニュースの見出しから消えてなくなることはなさそうだ。米国図書館協会によると、2023年には、閲覧制限の申し立てを受けた学校や図書館の本のタイトルが、前年から65%増えて4240タイトルと過去最多となった。しかも、前年の2022年も記録を更新した年だった。
標的にされたもののうち47%が、LGBTQIA+または人種マイノリティーの声や実体験が書かれた本だったという。(参考記事:「パリ五輪でも話題、レインボーはなぜLGBTQIA+の象徴に?」)
検閲の歴史は文字の歴史と同じくらい古いが、標的とされるテーマは時代とともに変化してきた。米国で最初の禁書は植民地時代にさかのぼる。それはどのようにして始まったのだろうか。また、現代の読者にどのような影響を与えているのだろうか。(参考記事:「音楽が禁止された国、それでも曲を奏で続けるアーティストたち」)
古くは反宗教的、反奴隷制の内容が対象に
最初期の禁書は、ほとんどが宗教指導者らによって推進された。
まだ英国の植民地だった1650年、マサチューセッツ湾の著名な入植者ウィリアム・ピンチョンが、地上で神に従い、キリスト教の教えを守る者は誰でも天国に行けると書いた小冊子を出版した。ところがこれが、カルバン主義の清教徒の怒りを買った。清教徒は、特別に選ばれた者だけが救われるという予定説を信じていたためだ。
ピンチョンは仲間の入植者から異端のレッテルを貼られ、小冊子は発禁となり、燃やされた。これが、後に米国となる地における最初の禁書・焚書(ふんしょ)だった。現存するピンチョンの小冊子は4部しかない。
19世紀前半、最も扇動的なテーマは奴隷制度だった。1850年代には、複数の州が奴隷制への反対を表明することを違法としていた。しかし、奴隷制廃止論者で作家のハリエット・ビーチャー・ストウはこれを無視して、1851年に、奴隷制の闇を暴いた『アンクル・トムの小屋』を発表した。
奴隷制に反対するほかの本とともに、この本は禁書に指定され、公開の場で燃やされた。(参考記事:「白人奴隷主になりすました妻、奴隷夫妻の白昼の脱出劇」)
1873年、米連邦議会は「わいせつ」または「不道徳」な文書の所持と郵送を違法とする「コムストック法」を成立させた。道徳的な検閲に熱心だったアンソニー・コムストックの働きかけで成立したこの法律は、性的な内容だけでなく、当時、通信販売で簡単に入手できた避妊具を禁止する目的もあった。1936年に廃止されるまで、この法律は有効だった。
学校の図書館で抵抗する人々
20世紀になって社会の道徳観はより寛容になったものの、学校の図書室は、現代化する米国社会を生きる子どもたちにどのような情報を与えるかをめぐる論争の場であり続けた。親は教育委員会や図書館の委員会に乗り込んで、何を禁止するかで議論を戦わせた。






