封印された超古代史「古史古伝」の謎:その47
「竹内家」には、竹内巨麿とは別系統で、南朝の直系として代々「武内宿禰」を世襲してきた家系がある。竹内巨麿は養子だったが、こちらの竹内家は、代々身内の中から選ばれた子に受け継がれ、「後南朝小倉宮睦泰王」の称号をもつ七十三世の竹内睦泰氏にいたっていた。残念ながら竹内睦泰氏は2020年1月に他界され、その後に誰が七十四世の「武内宿禰」を世襲したかは不明である。というか、たぶん七十四世の「武内宿禰」は現れないと筆者は考えている。「武内宿禰」の直系の子孫が登場するからだ。
この南朝竹内家は、門外不出の口伝を中心とする古神道の秘儀を伝えており、竹内睦泰氏が断片的にその著書の中で明らかにしてきたからである。巨麿の竹内家が、越中の婦負郡神明村を拠点としていたのに対し、睦泰氏の竹内家は、武内宿禰の墓があるとされる越中の射水郡二上山を祭祀拠点としていた一族である。そして全国の二上山でも祭祀を行なってきたとされる。この南朝竹内家には古神道の口伝のほかに、外伝としての文書なども伝えられていたとされる。睦泰氏によればこの秘伝の文書は、『竹内文献』とは共通の部分もあるが、本質的には別のものであるという。
故・竹内睦泰氏
◆南朝竹内家と「正統竹内文書」
故・竹内睦泰氏によれば、南朝竹内家の、武内宿禰を継ぐ者は、「長老」と呼ばれる人たちによって選ばれ、それぞれの「長老」から別々の講義を受けるのだという。「長老」たちの住まいは全て別々で、どこに住んでいるのかも明らかにされず、また名前すら教えられないのだという。どう考えても神道秘密結社の匂いがする。名前を明かさないのではなく、名前自体が無いのではないのだろうか。なにせ竹内神道というのは、その教えも含めて「秘密」なのである。要は「武内宿禰」という名称の秘密結社ということなのである。
また、南朝竹内家の当主となるときは、武内宿禰の霊を受け継ぐ「霊嗣の儀式」が行なわれ、「武内宿禰」の称号とともに「南朝越中宮家」の名も世襲されるのだという。南朝竹内家の行法には、言葉の霊力を高める「言霊の行法」「古神道の呼吸法」「息吹永世の行法」、身と霊を清める「藤の行法」、熱湯の中に手を入れ清廉潔白を証明する「盟神探湯」(くがたち)、剣によって邪霊を祓う「八雲村雲握剣の行法」などがあるという。竹内家、南朝竹内家と関わりの深い場所は越中富山である。裏日本の重要拠点であり、そこには『原竹内文献』といえる文書が存在していた可能性も考えられるのである。
「竹内文書」には巨麿公表したものとは別に「正統竹内文書」と呼ばれるものがあるとされ、正式には公表されていないが、竹内睦泰氏がその内容を断片的に発表している。但し、それらは「文書」の形式ではなく、あくまでも口頭伝承された内容を著書、インタビュー、対談などで語っていたものである。そこには歴史の闇に消えた後南朝の密儀と古神道の奥義など、正統竹内家では全て口伝で継承してきたとしており、「竹内文書」には「正統竹内文書」と重複する部分があるが、内容的には雑伝の類が多いとしている。門外不出の内容とされた正統の口伝は、重要度から極秘伝・秘伝・奥伝・総伝・皆伝・上伝・中伝・初伝というレベルがあり、奥伝から極秘伝までは正統竹内家のみが伝承を許されるという。
竹内睦泰氏の著書『真・古事記の邪馬台国』
筆者は睦泰氏が著した本はあらかた読んできているが、睦泰氏は著作の中で「竹内神道は門外不出で、口伝自体がご神体といっても過言ではない。私がそうした正統竹内文書を公開しようと思ったのは、たとえ偽書であっても、偽書を悪と決めつける風潮が許せなかったからだ。偽書の中にも歴史推理のヒントは含まれている。『古事記』だって似たようなものではないか」と語っている。これは非常に示唆に富んだ発言だと思う。「古事記も同じ」と暗に語っているのである。これは「偽書」という意味ではない。本当の史実を世間から隠す仕掛けが施されているのだと語っているのである。
筆者が睦泰氏の著作に一貫して感じたことがある。それは「これが限界なのだろう」ということだ。正当竹内家を継ぐ者として、世間に公表しても良いのはここまでなのだろうという意味である。なにせ睦泰氏の言葉尻には「これ以上は察しなさい」というニュアンスの表現が多く登場する。睦泰氏は口伝を継承していく中で、古神道の秘術や秘史に魅せられる一方、「現代に必要な他民族・他宗教との共存や自然との共生は古神道なら解決できると感じ、それを広げていきたい」と決意し、閉鎖的な竹内神道とは事実上袂を分かち、古神道本庁を創立して、口伝の一部を公開することにしたのである。秘密結社である竹内神道の運営に携わっていた長老や参議たは公開には猛反対、口伝公開をめぐり竹内神道内部で論争が繰り広げられていたのだという。このことが睦泰氏の死を早めたのかどうかは分からない。だが、そこには確実に何かがあったと推測できる。
◆「正統竹内家」と「後南朝」
竹内睦泰氏によれば、正式には「南朝小倉宮正統竹内文書」と称すらしい。睦泰氏は正統竹内家当主だが、血統的には後醍醐天皇の直系となる。後醍醐天皇の息子「恒性王」(こうしょうおう)は越中宮を名乗るが、その6世の子孫「惟治王」(これはるおう)が正統竹内家を継ぐことで、正統竹内家と後南朝が合体、天皇家の神道秘儀と歴史が継承されたのだというのだ。その後、正統竹内家は北朝の料理番として仕えるが、これは「南朝の忍び」としてであったという。以降、正統竹内家は秘史と秘儀を継承する秘密結社「竹内神道」を名乗り、組織の中枢は「長老家」と呼ばれ、12の家から成るのだという。睦泰氏は幼少の頃は何も知らず、学生の時にある日突然「長老」と呼ばれる存在が現れ、「武内宿禰」を継ぐことを打診されたという。そして睦泰氏が応諾すると、長老たちから秘史や秘儀を徹底的に教え込まれたという。
これが何を意味しているのか。「竹内神道」とは秘密結社で、12の家から代表者たる「長老」と呼ばれる存在がおり、彼らが次の武内宿禰を決め、全てを伝授する。長老たちはどこに住んでいるのかも教えず、名前も伝えない。武内宿禰とは役職名でもあるが、その一族の名称でもあるということである。これと全く同じ形態の秘密結社がある。「八咫烏」である。そうなのだ。秘密結社「竹内神道」とは、八咫烏が守ってきた神道なのである!八咫烏は南朝天皇家を守護し、天皇家が南北朝に分かれた際、後醍醐天皇を吉野に移して南朝を開かせている。そしてその後醍醐天皇の末裔をずっと守護してきたのである。八咫烏の聖地は熊野で、その熊野三宮の奥の宮は「玉置神社」である。そしてその先が吉野である。これらの土地は八咫烏の一族が支配してきた場所なのである。
南朝が存在した吉野山
竹内睦泰氏は「武内宿禰」と「竹内家」、そして巨麿の「竹内文書」について、以下のように語っている。
「原日本人に対する侵略者である武内宿禰が、原日本人からその歴史と秘儀を奪ったのだと思う。原日本人の歴史はおそらく、神代文字で書かれていたのだろう。もともと天皇と古神道とは関係がなかった。それが現在、関連付けられているのは、原日本人の歴史と秘儀を奪ったことと関係があると思う。そうして作られた歴史や秘術を正統竹内家が口伝で継承していった。
(巨麿が公表した竹内文書は)明らかにニセモノだ。巨麿一人ではできないから、酒井勝軍らが改竄を手伝った可能性がある。しかし巨麿の竹内文書も、元となるネタ本があった。それが正統竹内文書だったのではないかと思う。巨麿がどうやってそれを手に入れたのか。あるいは正統竹内文書の一部を盗んだのかもしれない。正統竹内家は南朝の皇子を富山にかくまっていたこともある。富山に竹内家があったのは事実だが、巨麿自身は竹内家とは関係のない人物だった。私は巨麿はサンカの出身だったのではないかと思っている。だから神代文字の中のサンカ文字は読めたのだ」
睦泰氏はたぶん、巨麿の「竹内文書」が敢えて「偽書」として世に出されたのか、全てを知っていたに違いない。だが、正統竹内家の当主としては、口が避けても真実は語ってはいけなかったのであろう。なにせ、正統竹内家が保管していたはずの文書は江戸時代に全て盗難にあってしまったからである。この辺について、睦泰氏は以下のように語っている。
「江戸時代には代々、竹内三郎太郎を名乗り世襲した。その時に、越中国射水郡二上山の武内宿禰の墓に隠していた御神宝をつかって「霊嗣の儀式」を執行していたが、江戸時代に何者かによって盗掘されてしまった。その為第七十二世の子供はショックで跡を継がず、明治初期の戸籍名も通称の三太郎とした。のちに近くの土地で御神宝らしきものが売られていたと噂で聞いたが、あとの祭であった。当時はよく神社や古墳の盗品が骨董屋に出回ったらしい。家紋も、越中の民謡「三才踊り」に「かたばみ紋に菊宿る」と唄われた「菊浮線綾に剣片喰」から菊をとり、ただの「剣片喰」になった。南朝摂政宮竹内家の家紋は「四つ割菊に葉付き紋」で、現在はこれを使用している。この竹内神道の秘密の門人達の子孫が私に竹内神道を伝えてくれたのである。三太郎は私の曾祖父にあたる」
実は、正統竹内家では、睦泰氏が継ぐまでの100年間あまり「武内宿禰」が不在だったのである。第六十七世・六十八世の武内宿禰は死の間際に予言を残していた。それは「100年後に王政復古を成し遂げた後、99年後に甦る」という予言であった。この予言の通り、明治政府成立から99年後の1966年12月に竹内睦泰氏は誕生している。それは前年に他界した巨麿の死後から1年後のことであった。睦泰氏の口伝によると、二上山山頂にあった正統家の墓から神宝と古文書が盗掘にあったというのは、霊的に問題があったとされ、七十二世「武内宿禰」は霊嗣之儀式(ひつぎのぎしき)ができなくなり、よって宿禰は空位となって100年続くこととなったという。その間に巨麿が「竹内文書」を世に出したのである。これは単なる偶然ではない、ということである。
<つづく>