「とにかく斬新だったね。それまで日本のタレントで、歌って踊れる男の子なんていなかったんだから。最初、歌手のバックダンサーとして使っていたんだけど、あっという間に人気者になって、レギュラー番組を持つようになっちゃって」と、当時、ジャニーズ出演の歌番組を製作していたプロデューサーは話す。
デビュー当時、メンバー全員が中高生だったため、「ジャリタレ、ガキタレ」と、一部のマスコミから批判もされた。しかし、そうした大人たちの解釈とは関係なく、ジャニーズの人気は上昇し続けた。レコードデビューの話もすぐに持ちあがったが、ジャニーは拒み続けた。
当時は『ウエスト・サイド物語』のようなミュージカルを作るのが最終目標という気持ちがジャニーたちには強くあったためだ。結局レコードデビューしたのは’64年8月。ジャニーズ結成からデビューまでに2年以上の歳月が経っていた。グループ結成からレコードデビューまでに一定の期間を置く戦略は、ジャニーズの時にすでに確立されていたのである。
また、後にジャニーズの弟分的な存在としてデビューしたフォーリーブスは、当初、ジャニーズのバックダンサーをしていた。デビュー前の何年間かは自社の先輩タレントのバックで踊るというこのスタイルは、SMAPが光GENJIのバックだったように現在まで受け継がれている。時代によりアイドルの顔ぶれこそ移り変わるが、現在のジャニーズ事務所のシステムは、ジャニーズにすべて盛り込まれていたのだ。
「アメリカ」という武器
当初、ジャニーズは渡辺プロに預けられていたが、’65年には事務所が正式に構えられる。ジャニー喜多川はアメリカ大使館を辞して、姉のメリーと共にショウビジネスの世界に専念することになった。
「英語なんて話せる人があまりいないし、海外情報もほとんど入ってこない時代でしょう。こちらがFENとかを一生懸命聞いて『今、こういうのが流行っているんだ』と話しても、ジャニーさんに『アメリカでは流行っていないよ』と言われちゃうと、二の句が継げなかったからね」(当時を知るテレビプロデューサー)
この頃のジャニー喜多川の武器は、何といっても「アメリカ」であった。アメリカ生まれ、アメリカ大使館勤務という彼のキャリアはショウビジネスの世界でも十分に活かされた。’66年には彼はジャニーズを連れてアメリカでのデビューを計っている。最近でこそ、強い円の力を借りて海外デビューする日本人タレントは出ている。
しかし、当時、海外進出に憧れる人はいても、それを実行できたのはジャニー以外にはいなかった。日本人の多くが国内のことで精一杯であった時代に、ジャニー喜多川の瞳の向こうには、いつもアメリカが広がっていた。