2019.07.10
# エンタメ

ジャニー喜多川氏「奇跡の5時間インタビュー」を全文公開する

彼はどう生き、何を考えたのか
現代ビジネス編集部

「デビュー1年目の名古屋のレインボーホールのコンサートで、お客さんがまったく入ってないことがあったんです。アリーナが半分ぐらいで、スタンドなんか全然いない。ドッキリカメラかと思うぐらいひどかったんです。でも、それまで考え方が変わったかな。それまで自分たちは人気者だと思っていましたから」

SMAP〔PHOTO〕Gettyimages

今では考えられないことだが、SMAPの中居は当時をそう語る。’80年代を通じて上昇し続けてきたジャニーズ事務所の業績も、’90年に入って一時期停滞してしまう。しかし、それを救ったのは、長く上昇気流に乗れなかったSMAPであった。

 

「(バラエティは)最初は抵抗がありましたよ。カッコよく見られたいと思っていたから。なんでカツラをかぶらなきゃいけないだよって。でも、歌番組がないから、出る場所がないんです。だから、ジャニーさんも僕たちをどのようにアピールするか悩んでいたんじゃないですか」

中居たちSMAPのメンバーは「夢がMORI MORI」(’92年)などバラエティ番組をこなす一方で、個人でドラマなどに出演する機会も増えていった。ドラマが契機となって、最初に人気が出たのは稲垣吾郎(「二十歳の約束」’92年)である。

そして、今日のSMAPブームを決定付けたのが、’93年「あすなろ白書」に出演した木村拓哉の人気であった。’94年には、その勢いに乗じて、13枚目のシングル「HEY HEY おおきに毎度あり」が初のナンバー1ヒットとなったのである。

木村拓哉〔PHOTO〕Gettyimages

「生活感というか、人間味のあるところが受けているんじゃないですか。今はテレビを見る人と出る人の距離が非常に短くなっているから。光GENJIの頃は、僕たちから見ても彼らは王子様でしたね」と、中居は現在の自分たちの人気を冷静に分析する。

歌番組が低調であった’90年代初頭にデビューしたことは、結果としてSMAPを歌、役者、お笑いの三拍子揃ったグループに育て上げた。さらに、各メンバーはソロとしても十分に通用するキャラクターへと成長したのである。SMAPの成功によって、ジャニーズ事務所は従来のジャニーズファンだけでなく、社会現象といえるほどの広範囲な支持者を獲得することができたのだ。

【後編に続く】

宇井洋(うい・よう)
フリーランスのライター・編集者。1960年、名古屋市生まれ。出版、マーケティングの仕事を経て、1993年からフリーランスに。著書に『帝国ホテル 感動のサービス』(ダイヤモンド社)『古民家再生住宅のすすめ』(晶文社)など。近著(編集・構成)に『大林宣彦 戦争などいらない-未来を紡ぐ映画を』(平凡社)。

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