昔はなんとも思っていなかったであろう作品で涙を流す。ということが最近増えた。昔の俺といえば、『最強のふたり』を見てなにが面白いんだとこき下ろしたり、『ダークナイト』はなにも起こらない意味不明の映画だと文句を言ったり(ダークナイトわからん勢の友人からも「起こってはいるだろ」と諭された)していて、全然わからん映画が人気なことがよくあった。俺はこれを自分の人生が特殊すぎるために、つまり年齢相応のありがちな体験をすっ飛ばしてきてしまったために、共感が働かないという現象だと思っている。ほとんど小学校中退みたいなはぐれ方をして、そのまま10年家の中とインターネットで生きるなんて経験は、普通の人にはないし、同時に普通の人の経験も俺にはない。メジャーな娯楽作品というのは大勢に向けて作られるもので、俺の人生は描いてくれないんだと、「君の人生もかけがえのないものなんだよ~」みたいな態度で全然知らんやつの人生を見せられるじっとり系の映画とか本当に勘弁してくれと思っていた。今も思っている。
「勝手に感動する」という概念は良い。これは『定額制夫の「こづかい万歳」〜月額2万千円の金欠ライフ〜』のエピソードで、甲子園の開会式に行って、縁もゆかりも無い人たちの中で感慨を勝手に分かち合ってる変な人に対して「勝手に感動してる」とツッコんでいたのがはじめだが、俺が刺さったのはこれに言及したブログ記事の方だ。
だってフィクションに熱狂するオタク(俺)なんて、知らない人が勝手に書いた架空の人物の生い立ちに泣いたりしてるわけで勝手に感動しているにもほどがある。俺こそが小遣い超人だと言いたくもなる。
勝手に感動するということ - 続けてもいいから嘘は歌わないで
あざやかで感心させられる文章だった。感動はそもそも勝手なものだ。どれだけ自分ごとだと認識できるかでしかない。自分のことさえ自分ごとだと認識できない、あるいは認識することから逃げている人間が、生活を見て感動することはない。俺は生活から逃げてきた。一定のリズムで繰り返される日常、なんてものは無かった。
高潔で無垢なキャラクターが苦しんだり報われたりすると、俺も苦しんだり報われたりする。ロールシャッハは俺だった。生活なき自意識を投影する対象は、やはり生活なきキャラクターなのだと思う。
最近感動する対象が変わってきた。それは明らかにバイトを始めたからで、日々に導入された規則性のようなものが、俺に生活の実感を持たせているような気がする。
俺は全然コンテンツのオタクではないのだけど、『正欲』が面白すぎて一気に読んでから、なにか良い物語がほしい気分になっていた。でも読書は相応に疲れるから、ずっとNetflixを流して、そこそこ面白いものから、劇的につまらないものまで、眺めることにした。そのなかで、一番刺さったのが『南極料理人』という、生活の極地みたいな作品だったことには、自分でも驚いてしまった。
つまらないと感じていた大衆向けものが、面白く感じられるようになることを、「つまらない人間になる」ことだと悲観するのか、「感受性が豊かになっている」のだと捉えるか、どちらも合っているような気がする。みんなと同じようなことで勝手に感動して、生きやすくなっていく自分という存在は、とりあえず嫌で、拒否していきたいのだけれど、意思の弱い俺のことだから、この変化に抗うことは難しいんだろう。