↑のつづき。

さて、突然だが、
琉球(沖縄)と土佐(高知)は
古代より黒潮で結ばれていたのだそうな。


太平洋に出ると高知県の沖を流れている。
沖縄と高知は古くから
黒潮で結ばれた縁があった。
かつて海洋国家であった琉球から、
中国や鹿児島に行く船が遭難し、
流されて土佐に漂着したことが3回はあった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

少なくとも18世紀に3回、
琉球人の船が土佐に漂着した記録がある。


高知駅前


宝暦12(1762)年4月26日、
鹿児島を目差して那覇港を出港した船は
沖縄本島北部の運天港に入港したが、
その後、
天候不良の為何度も出港帰港を繰り返し、
同年7月13日にようやく出港したものの、
大風に遭遇し漂流。
7月22日に土佐幡多郡柏島沖で発見された。

琉球楷船の頭役は『潮平親雲上(ペーチン)』。

乗組員には、潮平一家が多く参加している。

そして、もう一人超重要な人物も
乗船していた。

船頭雇として乗船した
長嶺筑登之(ちくどぅん)』である。

長嶺一族は、古くから
鹿児島と那覇との交易や航海に携わってきた。

元々は鹿児島出身とも云われる。

長嶺筑登之は土佐人に対し、
自らをこう紹介したという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「昔、源平の合戦の時 平氏の内、
琉国へ落行たる者の子孫なる由」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

遥か遠い琉球の士族である長嶺
源平合戦で敗北し、
四国から落ち延びた
平家』の一族だと言い放ったのである。



ちなみに、潮平親雲上が出港した
今帰仁村の運天港(うんてんこう)の由来は、
平家…

ではなく源氏の
源為朝の伝説が関わっている↓

源平合戦で弓の名手として活躍したが、
敗れて伊豆大島に流された源為朝は、
追討を逃れるため奄美諸島を渡り歩き、
途中暴風にあい、
今帰仁(なきじん)の港にたどり着いた。

嵐の中で為朝は、
に任せてたどりついた」から
運天港と名付けられたのだそうな。

為朝はその後、南部に移り住み、
大里按司の妹と結ばれて男児をもうける。

その子こそが、後の『舜天(しゅんてん)』。

なんと、初代琉球国王である。


※按司(アジ)=琉球の官名のひとつ。
大里(おおざと)=沖縄南部の古くからの地名。






さてさて、
四国と琉球の繋がりが
おぼろげながら見えてきたところで、
最近発見したことを。


香川県立図書館デジタルライブラリーで
『阿波式内神社考』を読めるのだが、
何気なく和多都美豊玉比賣神社のページを
見ると、とんでもないことが…↓

この次のページに↓

土佐に漂流したあの潮平親雲上
語った内容が書かれており、

現在も沖縄南部に地名が残る
豊見城(とみぐすく)・玉城(たまぐすく)の
山に祀られ雨乞いの祈りを捧げる神が
和多都美豊玉比賣(ワタツミトヨタマヒメ)
と同一神だと記されているのだ❗


豊玉姫とは、
見城の女神だった❗


和多都美豊玉比賣神社 論社



次なる速報をまて❗



次回から再び阿波徳島編に戻ります。


つづく。


ではまた❗




ちなみに、見城市のすぐ南、
沖縄本島最南端の糸満市には
阿波根(あはごん)』という地名があり、

旧豊見城村や旧玉城村も所属していた
島尻郡の中にある渡嘉敷島には
阿波連(あはれん)』という地域が
今も残っており、

渡嘉敷島の北に浮かぶ
『粟国(あぐに)島』は、
古名を『亜哇郡尼(アワグニ)』、
その後は
粟島(アワシマ)』と
呼ばれていたのだそうな。


そして、
為朝が居たとされる大里(おおざと)は、
のすぐ隣である。


大里ダイリとも読める。



つまり、内裏(ダイリ)ってことですね。












 
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