フジテレビ系朝の情報番組「めざまし8(エイト)」で解説委員として活躍する風間晋さん(65)は新潟県六日町(現・南魚沼市)出身。一時期、家族で新潟市に移り、昭和39年、新潟地震を経験した。高校を卒業後、故郷を離れ47年。温暖化による魚沼コシヒカリの不作や地方都市の衰退を憂えている。
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地震で昭和大橋が崩落
生まれが六日町で、六日町高校卒業なんですけど、4歳から10歳までの6年間、教員をしていた父の転勤で新潟市にいました。
幼い頃の六日町での記憶があんまりなくて…。明確な記憶の起点というのは、六日町から新潟に上越線で引っ越すとき。蒸気機関車が引っ張っている列車に乗って新潟に行ったのをすごく覚えています。昭和38年だったと思うんですが。
その時から、自覚的記憶がつながっているんです。おやじの勤務先が、県立新潟中央高校という女子校(現在は共学)でした。高校に付属の幼稚園が併設されていて、おやじは高校で英語を教えていた。僕はおやじと一緒に一般のバスに乗って幼稚園に通っていました。
39年6月、新潟地震が起きました。幼稚園の庭で遊んでいたときに、ガタガタガタという揺れが来ました。よく覚えています。大きな地震だから、他の園児は親御さんらが迎えに来たんですけども、僕はおやじの仕事が終わるのをずっと幼稚園で待っていました。夕方ぐらいになって、おやじと一緒に帰るんですが、当然、バスなんかは走っていません。歩いて家に向かっていると、信濃川に架かっている昭和大橋が崩落していたんですね。僕らは、かなり遠回りして萬(ばん)代(だい)橋(ばし)を渡ることになるんですけども、そのとき、石油コンビナートが燃えていたんです。子供ながら「おー燃えている」と思って家に着くと、家の中がぐちゃぐちゃだった、みたいな記憶はあります。
後に調べたら、マグニチュード(M)は7・5だったかな。今年1月の能登半島地震(M7・6)とコンマ1ぐらいの違いなんですよ。「液状化」という言葉が、初めて使われた地震だったようですね。橋の崩落だけでなく、建物が傾いたりしていました。子供心に地震は怖いな、というかなり強烈な体験でしたね。
温暖化とコシヒカリ
小学5年で六日町小学校に転校するんですが、授業で先生が「これ分かる人」と聞くじゃないですか。僕なんかは「ハイハイ」と手を挙げるわけですよ。でも、周りでそういう子がいない。「あれっ、(新潟市の小学校と)違うな」と思ったものです。まあ、〝野生児〟になりましたよね(笑)。でも、僕は、人格形成期にその土地と人との関わりがなく、なじめないっていうか…。どこか、よそ者的な感覚っていうのを、たぶん抱えながら、合計8年間、過ごしていたのかもしれないですね。
六日町は、盆地なんですよ。真ん中を魚(うお)野(の)川(がわ)(信濃川の支流。水源は谷川岳)が、がーっと流れていて。それで、雪がたっぷり降ります。地元紙にスキー場の積雪量が掲載されていましたが、あれだと、3、4メートルと書いてあった。米づくりにも、それから酒づくりにも、水が豊富できれいだというのが、やはりとても大きかったんだと思います。でも、最近は温暖化もあり、田舎にいる弟なんかと連絡を取り合うと、本当に雪が少なくなっているというんですよね。
去年は夏の熱波の関係で、新潟県は非常に米の出来が悪かったんですよね。どこかの新聞に書いてありましたが「コシヒカリはうまいんだけども、暑さに弱い。一部の県では、コシヒカリをやめて暑さに強い品種に変える」とか。そういう動きがかなり出てきているみたいです。南魚沼市の場合は、単なるコシヒカリじゃなくて、「魚沼」がつき、もうワンランク上だ、って感じでいたわけですから。心配ですよね。
「地方都市を元気に」
「めざまし8」で、元衆院議員の金子恵美さん(新潟市出身)と週1回、ご一緒させていただくんだけど、彼女は「新潟市の元気のなさが心配なんです」とおっしゃっています。本州日本海側唯一の政令指定都市ですよ。どうやったら地方を元気にしていけるのか。やっぱり考えずにはいられないですね。
(聞き手 江目智則)
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かざま・しん 昭和34年、新潟県六日町(現・南魚沼市)生まれ。早稲田大卒。57年、外務省入省。ルーマニア駐在などを経験した。平成2年、フジテレビ入社。ワシントン支局長、「ニュースJAPAN」編集長などを歴任。現在、報道局解説委員として「めざまし8」に出演中。