【弐】幽界
第4章 明暗分つルビコン
プロローグ 溟がりからの声
「三者面談に、ご両親が来られないんですか?」
「はい。両親は忙しいので」
「代わりの人は?」
「いません」
担任の小沢先生は困ったな、と言いながら頭を掻いた。
品行方正で大人しく、部活動は入っていないがバイトをしており、成績も上の下ほどで決して悪くない。だが、小沢は彼が笑っているところを一度も見たことがない。
ちらと彼を見る。顔にはガーゼが当てられ、右目の上は腫れぼったく、目は虚ろで生気がない。彼は工場のバイトだから怪我をするんですと力なく弁明するが、どう考えても家庭内で暴力があることを感じていた。
とはいえ、一教師がよその家庭にあれこれ首を突っ込んでも碌なことにならない。最悪、小沢のクビが飛ぶ。この歳で職を失うのはさすがに嫌だった。
「もう一度、ご家族とお話しして、相談してみてください。先生としても、ご両親にお話ししなくてはいけないことがありますから」
「……わかり、ました」
誠也は力なくそう言って、「バイトがあるので、失礼します」と言って職員室を出て行った。
小沢教師が懸念したように、小野山誠也は父から虐待を受けている。母は家庭内暴力を振るう父に嫌気がさし、美貌を利用してたちんぼになって稼ぎ、家に帰ってこない。クラスでも噂だった——ヤリマンの熟女が二丁目の高架下に現れる話。そして一部はそれを、誠也の母と知っていた。その上で生でヤっただのという話を、わざとらしくそばでしてくる。
誠也としてはどうでもよかった。あんなあばずれがどこで何をしていようが、梅毒なりをどこかの男からもらおうが知ったことではない。
ただ小さい頃一緒にキャッチボールをして、くだらない話で夜中まで盛り上がった父が工場の事故で左腕を失い、酒に入り浸って壊れてしまったことの方がショックだった。
誠也の稼ぎでは、ボロいワンルームの家賃と光熱費を払うだけで精一杯だ。食費は兄の仕送りでどうにか凌いでいる。金もないのに、父は友人の伝手で酒を買い込んでくる。明らかに借金だった。
もううちはボロボロだ。誠也の人生も、父が抱え込んだ膨大な負債の返済のために働くだけのゴミのような生涯に終始する。
世界は理不尽だ。公平も公正も平等もありはしない。不公正不平等だけは、ただひたすらに平等だったが。
工場でバイトを行なっている間は、何も考えない。倉庫整理の単純な力仕事は思考を掻き消し、肉体に心地いい疲れをもたらす。
いっそ荷物をまとめて家を出てしまおうか。ネットカフェかなんかで夜を明かし、気ままに暮らす。顔だけはいいから、ヒモになってもいいかもしれない——そこまで考え、自分まで両親と同じ、他人の給料袋に手を突っ込むような寄生虫になろうとしていることに気づいた。
やめろ、みっともない。僕は、真面目に稼いで、真面目に暮らす。それが人間っていう生き物のはずだ。
タイムカードを機械に入れて押し、工場を出た。
疲れが、どっと溢れてくる。赤信号に気づかず道路に入って行こうとして、
「おっと危ないぜ少年」
それを止める、声が男のように低いお姉さん。
ふっくらとした胸に、先端が赤いアシンメトリーボブの髪型。美しい顔立ちだが喉仏があり、美貌の男が豊胸手術だけ受けたシーメールのような印象を受ける。
赤い目、黒い着物に赤い羽織と赤い袴。妖怪? それにしてはそれらしい特徴はないが、ただ感じるのは人外の気配だ。明らかに、人間ではない。
「すみません……」
「悩み事か? 話してみろ、楽になるぞ」
気づけば誠也はファミレスにいた。どこをどう歩いてそこに辿り着いたのかは定かではない。ただ、流されるがままに男についていった。
男は
「家族問題、ねえ……俺も経験あるが、縁きっちまうのが手っ取り早いぜ」
「それは僕も思いました。でも、執念深い父に連れ戻されたら何をされるかわからない」
「殺しちまえばいいだろ。子供を鑑みないような毒親、殺されて当然」
なんでもないように、息をするように嶺慈は言った。そう言って、ケチャップをこれでもかとつけたフライドポテトを口に入れて、指についた塩を舐めとる。
誠也はフリードリンクで持ってきたコーラをストローで啜った。
「殺せるだけの力があれば、やってます。父さんも母さんも、もう、僕が知る人間じゃない。あんなの、魔物だ」
酒と男に溺れた、魔物。人間じゃあない。断じて、違う。
「お前は人間性信者か? やめとけよ。人間ほど汚いもんはいねえさ。……いいか、お前の両親だってどうなろうが立派な人間だし、その親父に金を貸し付ける闇金も、お前の母親を抱く連中も人間だ」
「じゃあっ——僕は、……僕が信じてきた人間は、」
「やめちまえ、そんなもん。アヤカシになれば、気楽だぜ。……お化けにゃ学校も、試験も何にもない、だっけか。好きなんだよな、ゲゲゲの鬼太郎。……どうだ? 俺がアヤカシにしてやろう。お前には素質がある」
こいつは、悪魔だ。今自分は十字路で、悪魔に魂を売り渡すかどうかの決断に迫られている。
東雲嶺慈はその美しい顔にこれでもかと邪悪な笑みを浮かべていた。それはあまりにも魅力的で、誠也のような境遇の人間を堕とすには打ってつけの笑みだった。
「それで、僕は変われますか」
「それは、お前次第だ」
誠也は嶺慈に言った。
「この歪み切った人間社会をぶっ壊せるだけの力をください」
×
小野山平次はその日も闇金に伝手のある友人から酒代と博打代をもらい、昼間っからパチンコ屋に出入りしていた。台の出が悪いとすぐに叩く彼はいくつもの店舗から出入りを禁じられ、とうとう隣町まで足を運んでいる。
今日は五千円の勝ちである。夜の十一時過ぎ、閉店間際まで粘った彼はコンビニで買った辛口なだけの安っぽい日本酒を呷りながら帰路につく。
人通りのない高架下に通りかかったところで、前に佇む影に気づいた。
「父さん」
それは息子の誠也だった。なにか、滴るバスケットボール大のものを右手に提げている。
「なんだぁ誠也。テメェ今日学校サボったってなあ。親に恥かかすんじゃ——」
「これ、返すね。父さんのだろ」
食い気味に誠也が言って投げ渡してきたものが、平次の足元に転がった。それは最近めっきり顔を見なくなった妻、小野山佳織の首だった。
「ひっ——」
「僕はゴミ両親の尻拭いで一生を終える気なんてない。汚点は、雪がせてもらう」
「なんっ、——よせ、誠也!」
一瞬で酔いが覚めた。誠也の背中から翼が展開され、それが刃のように閃いて平次の肉体をズタズタに引き裂いた。
小野山平次と小野山佳織の惨殺体の発見、そして小野山誠也の行方不明事件が朝刊を賑わせたのは、言うまでもないことだろう。
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