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樹海へ首○りに行った話

以下の文章の前半部分は、自殺未遂者・自死遺族計7名の体験談からなるアライさん界隈自殺未遂合同誌『六文無し』に私(東大中退したアライさん)が寄稿したものになります。

 
 実家と縁が切れてから何年も経ったある日、久しぶりに断捨離でもしようと持ち物の整理に励んでいると、家を追い出されて以来使い続けてきたスーツケースの底から、かつて入信していた新興宗教の教祖からもらった携帯式の仏壇が出てきました。荷造りの際にスーツケースに入れた覚えなど無かったのですが、教団にいたとき「これさえ持っていればいつも神様が御守りくださる」と教わって以来、布教活動のときも大学受験のときも肌見離さず持ち続けていたその仏壇をひさしぶりに見て、なんだか懐かしい気持ちになりました。
 教団の教義も、教祖のことも、私はもう信じていません。でも、なぜかその仏壇だけは今でも自分を悪いものから遠ざけてくれているような気がして、結局現在に至るまで持ち続けています。
 もう一つ、自分がどこへ住まいを移すにも携帯しているものに首吊り用のロープがあります。一年半前、私は青木ヶ原樹海へ自殺をしに行ったのですが、いま持っているのはその際に使ったものの余りです。
 教団を脱会してからも、樹海に自殺に行ってからもだいぶ経ちますが、このふたつだけは捨てるに捨てきれず、いまでもスーツケースの底にしまっています。つらいとき、仏壇に向けて祈ると心が安らぐし、もうこれ以上は無理だと思ったら最悪このロープだけ持って明日にでも樹海に逃げてしまえばいいんだと思うと、なんだか大抵のことは乗り越えられる気がします。



 十一歳からの八年間を、私はある新興宗教団体の教団施設で過ごしました。施設はだいたいが人里離れた山奥や海沿いにあって、ときおり街に降りて街宣や布教誌の配布、日用品の買い出しをするほかは外界との交流もほとんどなく、私はそんな環境のなかで大学受験──合格しても進学は出来ないのですが──に向けた勉強をする傍ら、東北から沖縄まで各地の施設を転々としながら、祈りや瞑想、病気治し、挙句は悪魔祓いにいたるまで、将来の出家にそなえて宗教修行に専念する生活を送りました。
 十九歳のとき、夜逃げ同然で施設から荷物を引きあげてきました。脱会して「悪魔にそそのかされた修行が足りない出来損ない」になった私は施設の友人たち全員から絶交され、それまで築いてきた交友関係の一切を失ったのでした。おまけに両親は古株信者、とりわけ父親は教団の黎明期に理事を務めた人物でしたから、ふたりとの関係も当然に悪化します。施設から東京の実家に戻ってきてまもなく、私は父親と喧嘩をし、そのまま家を出ました。
 脱会した当時に覚えた、これからは教義に関係なく自分がしたいことをしていいのだという眩しい高揚感はいまでも忘れられません。とはいえ、小学校を不登校になってから教団内で生きてきた私にはそもそも外の世界で生活するための基盤などなく、どんなふうに生活をしていったらよいかがわからず途方に暮れました。結局行くあても頼るあてもないままに、浅草のさびれた裏通りにある、大部屋に二段ベッドが雑然と並ぶ格安ゲストハウスで暮らし始めたのですが、むろん当時は手持ちも少なく、生活の心配は尽きることがなかったです。
 でも、何よりも自分を打ちのめしたのは、金欠であることや頼る人がいないことよりも、職場や宿で周囲の人たちとうまく打ち解けられなかったことでした。態度や振る舞いが、言葉の遣い方が、会話のモードが、施設でのそれとあまりに違ったからです。飲食、ドラッグストア、清掃、手当り次第いろんな仕事をしたのですが、職場でいったいどんなことを話したらいいのか、どんなふうに人と接したらいいのかわからず、結局すべて半年と経たないうちにやめてしまいました。居場所がないのは宿でも同じで、当時滞在していたゲストハウスでは毎晩自分以外の住人全員が共用スペースでにぎやかにパーティーをしていたのですが、自分が帰宅した途端にしんと静まり返って、皆が冷たい目でこちらを見てくるのでした。
 お金がないことも嫌だったけれど、独りでいることが何よりもつらかった。私と同年代の人たちは豊かな交友関係を築いて夏休みやクリスマスや正月を楽しみ、大学生活やサークル活動、就活に励んでは羨ましさで目の眩むような自己実現の物語を生きている一方、私はといえば、とりあえずは今日明日飢えないために働くけれど、今後は人生のプランがないどころか明日の予定すらバイトを除けばまっさらの白紙、繋がりも居場所もない空っぽな人生がえんえんと続いていくだけです。
 なんでこうなったのかなぁと思いながら、毎日埠頭や工場に働きに出て、疲れ果てた体で帰ってシャワーをあびて、一日誰とも会話をしないまま眠り、朝が来ればまた働いて、夏が来たら山小屋に働きに出たりして、しばらくしたら東京に戻ってまた働いて、いつの間にか季節が一周して、落ち込むことが多くなり、感情が消え、人間不信になり、バイトも休みがちになって、だんだんと風呂やトイレ、買い物に行くのも苦痛になり、私はとうとう布団から出られなくなりました。
 
 十二月のある日、絶望的な気分で冷たい残飯を食べ、ベッドの上で仰向けになっていると、自殺すればこの苦しみから解放されるということに気がつきました。今まで死にたいと思うことはあっても、死のうと思ったことはなかった。それがあの日あの瞬間、自殺という選択肢が唐突に現実のものとして浮かび上がったのでした。むしろどうしてこんなにも傷だらけになるまで生きてしまったのだろうと馬鹿らしくも思いました。とにかくようやくこの終わりのない孤独から解放されるのだと、ひさしぶりに気分が明るくなったのを覚えています。
 そうと決まれば話は早く、その日のうちにロープや睡眠導入剤、お酒を購入し、高速バスと旅館の手配を済ませました。決行場所は迷わず青木ヶ原樹海に決めました。私には四つ上の姉──精神に病気をもっていました──がいるのですが、彼女に結婚予定の恋人がいるというのは家を出る前に聞いていましたから、私の自殺がバレて婚約が破談にならないように、樹海で誰にも知られずに命を絶とうと思ったのです。その日から決行日までの二週間、樹海行きを高揚した気分で待ちながら、残りの日々を思い残すことがないように大切に過ごしました。
 当日は新宿バスタから、たぶん富士急ハイランドに行くだろう家族連れであふれる高速バスで河口湖駅まで行き、その日は湖が一望できる高級旅館の、コロナの影響で他の宿泊者がいないからと無料でアップグレードされた和室に泊まりました。窓のむこうの凪いだ湖面には橋が架かっていて、その上を米粒みたいな自動車が行ったり来たりしているのが見えて、こういう場所はふつうは友達や恋人と来るんだよなあと思いながら、その夜は温泉に入ったり大江や古井由吉を読んだり、鏡台の前に座って考え事をしたりして過ごしました。
 翌朝、河口湖駅から巡回バスに乗り青木ヶ原へ向かいました。領収証や身元が割れそうな書類を破いて車窓から捨てたり、ぼんやり考え事をしたりしていると、大きな富士山が建物のあいだから見え隠れして、とうとう来てしまったなぁ、自分も、自分が見ているこの世界も、あと数時間で消滅するんだな、にもかかわらず世の中は何事もなかったかのようにこれからも永遠に続いていくんだなと、とても不思議な気持ちになったのを覚えています。
 「赤池」というバス停で下車し、そこから歩いて一分ほどの登山口から遊歩道を登り始めると、樹々のあいだから射す光が流体のような陽だまりをあちこちに作っていてとても綺麗で、ときおり鳥の鳴き声や遠くを飛ぶヘリの音がするほかは物音ひとつ聞こえず、落ち葉一枚動かず、樹海はまるで風景画を見ているような美しさでした。
 一時間ほど行った箇所で大量の薬とお酒を飲み、そのまま遊歩道を外れて森の中へ入りました。そのあと、意識がはっきりしないままあちこちを歩いて、ちょうどいい形をした木を探してロープを結んでは上手くいかずにほどきを繰り返し、薬とお酒のせいでいろんな幻聴をきいて、悲しい気持ちになって、むかし家族と過ごした時間や、自分によく懐いてくれていつも一緒に寝てくれた実家の猫のこと、荷物をまとめて家を出るとき、玄関先で母親に「今まで大変な思いをさせて悪かったね」と声をかけられたときのこと、むかし宗教勧誘でよくタッグを組んでいた友人に思いがけず再会したとき、「脱会したことは気にしてないから、家を追い出されたのなら自分の転勤先で一緒に暮らそう」と言ってもらったときのことを思い出したりして余計につらくなって、早く死ななきゃいけないんだと自分に言い聞かせながら夕方までの半日を森の中で過ごして、それでも結局、私はちゃんと死ねなかったのでした。


 自殺が失敗したことに関して、いろいろと言い訳は出来るのかもしれません。でも、どれほど想定と違っていたとしてもその場で敢然と首を括れなかったということは、死へ向かう強い気持ちが結局自分には足りなかったのだと思います。夕暮れ時、眠剤とお酒からくる気持ち悪さをこらえながら悪路を麓の民宿村までくだると、宿の方に「うちは営業してないのでお引取りください!」と強い口調で門前払いをされてしまいました。仕方なく精進湖畔のバス停のベンチで横になっていると、住民の方たちが遠くからこちらを見て何かを話しているのが見えました。むかし、瀬戸内の海辺に面する教団施設で暮らしていたとき、目の前にある港の堤防の先端で作務衣を着たまま日向ぼっこをしているとよく地元の住民の方たちがこちらを訝しげに見てきたのですが、その視線の冷たさはそのときのそれとおんなじだな、どこまでも自分には居場所がないのだなと思いました。


 *


 あれから一年半が経ちました。
 樹海に行く前、私は確実に死ねると思っていて、ラインは消去して無いに等しい人間関係も清算、携帯は解約、服も本も処分し、せっかくだから有り金もぜんぶ使い切ろうと決行前日は旅館で懐石料理を食べ、だから東京に戻ってきたときは残金八千円が自分のすべてで、さらにその後は物件やカード、消費者金融の審査に軒並み落ち、出自のせいであちこちで白眼視を受け、社会保険にも入れず、年金など無論払えたこともなく、携帯の契約すら危うく、とにかく生活を立て直すことだけでも手一杯でした。
 それでも、本当にたくさんの方たちが私を助けてくれて、いまは西成の宿に住みながらキャバクラでボーイをして生計を立てることができています。
 それにその間、生きていてよかったと思えることもたくさんありました。未遂後、日払いあり即日採用を求めて働き出したソープランドでは、上司の方々が自分をあだ名で呼び、生活の心配をしてくれ、なにかにつけ励ましてくださって、自分を一人の人間として受け入れてくれるコミュニティをもう一度持てたのがほんとうに嬉しかったです。どうして自分のような人間にこんなに優しくしてくれるのか、ほんとうに太陽のような人たちだな、自分もそんな風になれたらと思いました。
 何度か自殺以外の目的で樹海に行ったのも楽しい思い出です。ご縁とは不思議なもので、自殺に関する自分のツイートを見て声をかけてくださった樹海探検家や霊能力者の方たちに誘われて散策目的で樹海に行ったり、行方不明者を探したり、ひとりで自分の未遂現場を見に行ってみたりもしました。死のうと思って森を歩いたときとは違った景色が見えて結構面白いんですね。


 教団での生活と樹海での自殺未遂は私の人生を大きく変えてしまいました。でも、このふたつの経験がなかったら今の私はないし、今の出会いもありません。その意味で、私は自分の過去を肯定することができます。生き延びてさらに辛い思いをすることもあるかもしれないけれど、生き延びたことで会うはずのなかった人と出会い、自分の人生の新しい可能性を発見することだって、もしかしたらあるのかもしれません。
 正直、死にたい気持ちは今も消えません。でも、自分を良くしてくださる方が周りにいるかぎり、ロープと仏壇を精神安定剤にしながらとりあえずは自分も他の人の幸福のために頑張ってみて、もうこれ以上はいいかなというタイミングが来たら、一年半前に試みたのと同様、樹海でひとり静かに首を括ろう。今はそんな風に思っています。(了)


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 先述のように、上の文章はアライさん界隈の自殺未遂合同誌に私が寄稿したものになります。

 同人誌を企画してくれた年近いアライさん(私と同じように家族と縁が切れてしまったカルト2世の方でした)とは実際にお会いをする前からお互いが未遂をした際に「将来ふたりとも生きていたら景色の綺麗な場所に旅行に行けたらいいね」などとDMで励ましあってきたのですが、その後紆余曲折をへて彼もわたしも大阪で暮らすことになり、去年の春、とうとう京都へ桜を見に旅行に行く夢が叶いました。

 自殺未遂なんてするものではないですが、一方で未遂をしたからこそ生まれる縁もたくさんあって(この合同誌を一緒に作った友人たちとの出会いもその一つです)、それら一つ一つの縁が私にふたたび前を向くきっかけを与えてくれたように思います。

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 上にも書いたように、樹海で自殺を図り失敗したあと、私は某地域の風俗店に就職しました。

 業務内容として浴室掃除を想像していた私は、初日から「立ち番」(=パネルの前でお客さんに女の子を紹介するポジション)をすることになり、不安と緊張で卒倒しそうでした。口の上手さですべてが決まる仕事ゆえコミュ障の自分には思いっきり不向きなうえ、客単価も高いので接客の一つ一つをゆるがせにできませんし、なにより自分の腕次第でその日の売上や女の子の稼ぎが変わってしまうからプレッシャーも強烈です。初日の業務を終えたあと、私はそのまま電車に飛び込んでしまおうかと思いました。

 それでも、職場の皆さんが私を優しく受け入れてくださり、たくさんの励ましや支えをくださって、だから私はどんなことがあっても仕事を続けようと思うことができました。休憩室でご飯を食べていると、皆さんが「今度メシ行こうね」とか「しんどくなったらすぐ言えよ」と声をかけてくださり、仕事でミスをしても「君の存在が職場にいい影響を与えているんだよ」「◯◯ちゃんの立ち番は聞いていてほんとうに気持ちがいいよ」と励ましてくださいました。

 仕事に慣れてからは、毎日がすこし楽しくなりました。ときおり視察に来ては機関銃のように罵詈雑言を吐いて去っていくヤクザのオーナーは恐ろしかったですし、自殺のことも相変わらず頭を離れませんでしたが、それでもスーツを着てひとたび出勤すれば過去のことは考えなくて済んだし、なにより上司の方や同僚の子たちとチームを組んで接客にあたるのは楽しいのです。

 接客業の奥の深さにも驚きました。在籍する百数十名のキャストの子の特徴や性格、スリーサイズ等をすべて頭にいれたうえで、トークでお客さんの好みや要望をうまく引き出しつつ、他方でその日のスケジュールや予約の埋まり具合を考慮しながら、店舗と女の子と顧客の利益を最大化する結論を探していく──そんな立ち番の仕事をすればするほど、新しい発見や喜びがありました。
 
 同時に自分の接客技術の不足も深く実感され、退勤後は明け方まで接客方法や言い回しについて考えをめぐらせたりするのが習慣になりました。就職して4ヶ月がたった頃には、数時間待ちの団体客の接客にも自分なりの自信を持って臨めるようになりました。難しい接客に成功するたび、みんながハイタッチをしてくれました。

 役職が上がると、新しく入ってくる子たちの教育を任されるようになりました。夜逃げをした子、経済苦で大学を中退した子、家族から縁を切られた子、刑務所を出たばかりの子、自己破産をした子、さまざまな境遇の子たちと知り合いました。つらい環境にいるのは自分だけではないのだという当たり前の事実に気づかされましたし、みなさんの緊張がほぐれるように自分に出来ることはすべてしようと思いました。

 この職場で働いた8ヶ月、私は誰かとともに社会を生きていくうえで大切なことをたくさん学ぶことができました。皆さんに出会えなかったら、たぶん私はすぐに樹海に戻っていたと思います。

 梅田のアーケード奥にあるキャバクラ(関西ではエースグループについで有名なグループのお店です)で働いた日々も自分の人生でいちばん大切な思い出の一つです。

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 仕事終わりに残り物のシャンパンで乾杯をしたり、バーやボウリングやカラオケに行って明け方まで遊んだり、休日は祇園や嵐山へ旅行に行ったりしました。誰かと一緒に外出をするなんて昔の自分には考えられないことでした。世界はこんなに楽しい出来事で溢れているんだなと思いました。仕事柄、もちろん嫌なこともたくさんありましたが、キャストや同僚の皆さんの境遇のことを思うと、自分の苦しみなど取るに足らないのだと自身の気弱な心を叱咤するができました。

 「実はむかし変な宗教に入っていて〜」と話すと「なにそれめっちゃおもろいやん!」と返してくれるNくん。あまり外食ができない自分に「◯◯が食べられるものを一緒に探していくのも楽しいんやで」「ほな今日は蕎麦にしよか」と言ってくれるKさん。宿に住んでいることを話すと「なら俺と一緒に住もうよ」と言ってくれるKくん。自分が系列店に移籍することが決まったとき「もし向こうでいじめられたら殴り込みに行くからTELちょうだいね」と笑ってくれたK兄さん。大学に憧れていた私をキャンパスに連れて行ってくれたYくん。しょっちゅうバーに付き合ってくれたKくん。私がちゃんとした場所に住めるように不動産屋と掛け合ってくれたRさん。体調をずっと気にかけてくれたママ。「◯◯くんと飲みたいからヴーヴ下ろすね」と言ってくれるお客様。「◯◯さんがいたからここで頑張ろうと思えました」と言ってくれたRさん。一生大切にしたい言葉をくださったキャストの皆さん。
 皆さんとのつながりがあったから、たとえ他の場所でどんなに嫌われても、私はずっと私のままでいることができました。何度死のうと思ったかわからないけれど、皆さんとの思い出がそのたびに私を繋ぎとめてくれました。

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 夜職ゆえ離職率は高く、当時の友人の多くは離ればなれになってしまいました。他のグループに移籍した子、地元の沖縄へ帰っていった子、飛んでしまった子(この子とはUberの配達で宗右衛門町に行ったときに再会できました。彼はホストになっていました)、私のように系列店に派遣された子、なかには逮捕されてしまった子もいました。

 もうあのメンバーでホールを回すことが叶わないと思うと寂しいですが、みんなとあちこちで撮った写真を見返すといつでも前向きな気持ちになれますし、辛いときや眠れないとき、閉店後の店内に流れていた有線放送のJ-popを聞き返して、ときどき当時のことを思い返しています。

 
 あるとき、人手不足の解消のために派遣された先の系列店を私は飛んでしまいました。

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 その後は向かった先の久米島のさびれたホテルの一室で一日中飛行機の発着を眺めて過ごして、那覇に戻ったあとは1泊800円の安宿に寝泊まりしながら、毎日意味もなく国際通りを端から端まで往復しました。ドンキで売っている100円のフランスパンをかじりながら通りを歩いていると時々スコールが降ってきて、そのときはスタバに駆け込んでしばらく雨を眺めました。レクサプロは残り3錠で、口座の残高は何度見ても3万円で、でも次の支払いは4万円で、Amazonで売っている首◯り用ロープの価格は2000円でした。お土産屋の前に立ったとき、陳列された商品のひとつをポケットに入れて警察署に走る自分を想像しました。夜になると海辺の個室公衆便所へ行って窓枠にロープを結えて睡眠導入剤を飲んで、汚いタイルの床に膝をついて何度も遺書を書きました。でも結局私は怖がりの根性無しで、7〜8秒経って視界が暗くなりはじめたあたりで「ほんとに今死んでいいんだろうか…?」って足をついてしまうんです。首を◯って外してを何度も何度も繰り返して、結局今日はやめよう、明日にしようと思い直してトイレを出て、浜辺に寝っ転がってそのまま翌朝まで寝たりしました。

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 このときも、ツイートを見てくださったフォロワーの皆様に私は助けられました。ドライブに連れて行ってもらったり、ご飯を食べさせてもらったり、皆様にたくさんのご親切をいただくうちに、人生をおろそかに生きてはいけない、自分も気を強く持って生きなくてはと思えるようになりました。その後は皆さんの助けを借りながら住み込みの仕事を探して、私は伊江島の葉タバコ農家さんにお世話になることになりました。

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 同僚のお兄さんお姉さんと離れの一軒家をシェアしながらの生活はなんだか家族みたいでした。みんなでスイカ割りや花火やバーベキューをしたり、島の中央にある”タッチュー”と呼ばれる山へ登ったり、ドライブをしたり、浜辺でちびっこ達と肩車や追いかけっこをして遊んだり、読書好きの先輩と那覇の図書館から取り寄せた本を読んだり、隣の農家の先輩とヤシガニを見に行ったりしました。作業がある日は日の出と同時に起きて、海が見える畑に出てたくさん汗をかきました。島を出る日にちょうど梅雨が明けて、空がとても青かったのを覚えています。

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 アライさん界隈でもたくさんの大切な友人たちと知り合いました。
 先述のアライさんがDMで声をかけてくれなければ私は多分ふたたび樹海に行っていたでしょうし、ましてやもう一度生活を前へ進めようと思うことも、先述のキャバクラで働くこともありませんでした。小旅行をしたり居酒屋に行ったり、三ッ寺会館のバーでときどきバーテンをしていた彼とふたり、お客さんを待ちながらいろいろ話をして過ごしたのはいい思い出です。

 樹海探検部で知り合った友人たちのことも私は忘れません。みんなで樹海を歩いて、森の中でいろんな話をしたり、ジャグリングやルービックキューブをして遊んだり、富士山麓を観光したり、ディズニーランドや伊豆へ旅行に行ったりもしました。自分はずっと大学生活に憧れていたのですが、そのときは自分も大学生になれたみたいで、きれいな海が広がる海岸線をドライブしながら「夢なら覚めなければいいな〜」と思っていました。

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 私のような人間に優しくしてくださる人たちに巡り会えたこと、得難い友人たちとたくさんの体験を共有できたことに、心から感謝したいです。


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コメント

Ima
アライさんの文章がめっちゃ好きです😊
ごムリのない範囲内でのご執筆を楽しみにしています♪
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カルト宗教の信者として教団施設で8年生活したあと脱会、その後は家族友人に絶縁され経済的にも困窮し、しばらくはドヤに住みながらキャ◯クラやソー◯の黒服をして生きていたのだ。 うつ病→未遂3回→閉鎖病棟→生活保護→再入学したのだ…
樹海へ首○りに行った話|東大中退したアライさん
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