第百五十三話「ターニングポイント4」
さらに数日後。
俺は体力の回復したシルフィと共に、魔法都市シャリーアへと戻った。
家に帰り着いた時には、すでに日が落ちていた。
なんだかやけに懐かしく見える我が家。
だが、前に見てから数日しか経過していないのだ。
「ただいまー」
「はいはい、お帰りなさーい……って、お兄ちゃん?」
入り口の扉を開けると、アイシャがリビングからパタパタと出てきた。
長いこと留守にするかもしれないなんて言ってすぐに戻ってきた俺に、出迎えてくれたアイシャは戸惑っていた。
「もう終わったの? ナナホシさん、助かったの? それとも……ダメだったの?」
不安げな顔で聞いてくるアイシャの頭を、ぐしゃぐしゃとなでた。
アイシャは棒読みで「うわー」と言いつつも、嫌な顔はしていない。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「なんでもないよ。ナナホシは助かった。終わったんだ。今から説明するよ。ロキシーはもう帰ってきている? ノルンは?」
「ノルン姉は今日は学校。ロキシー姉は部屋にいると思うよ。お母さ……リーリャ母さんは洗い物してて、ゼニス母さんはもうお休み」
「そっか、ノルンは学校か……悪いけど、ロキシーを呼んできてくれないか?」
「あいあいさー」
しばらくして、ロキシーが階段から降りてきた。
うたた寝でもしていたのだろうか、髪が少し乱れ、頬に赤い跡がついていた。
「おかえりなさいルディ。どうでしたか?」
「今から説明するよ。と、その前に」
「わっ……と」
俺はロキシーの脇下に手を入れて持ち上げつつ、ギュッと抱きしめた。
帰ったらギュっとする。
そういう約束だったからな。
ロキシーは戸惑いつつも俺の背中に手を回して、ハグをし返してくれた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
こうして、俺は家に帰ってきた。
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「以上だ」
その後、家族に帰還報告をした。
言うべき事は多かった。
全てを明かしたわけではないが、必要なことは話しておいた。
特に、ゼニスの呪いに関しては、事細かに。
今後も気をつけなければいけない、と。
「俺はしばらく空中城塞にとどまるけど、最低でも十日に一度は、帰ってくるつもりだ」
一応、そう宣言しておく。
シルフィもアリエルが成果を出すまでは、しばらく空中城塞で暮らす事になるだろう。
彼女も、数日に一度は帰るつもりのようだ。
学校には通えないが……まあ、ホームルームにだけ顔を出せば問題はないだろう。
もう、授業も取ってないし。
「わかりました、ルーデウス様。家とゼニス様の事、全てお任せください」
リーリャの力強い返事。
彼女にも苦労を掛けてしまっている。
ともあれ、これで報告は終わり。
家族会議は解散となった。
「ふぅ、なんかどっと疲れたね。ボクは先に休むよ、ルディはどうするの?」
「俺は風呂に入ってから、寝るよ」
「えっと……ベッドで待ってた方がいい?」
「いや、今日はやめとこう」
「わかった」
そんな会話をしつつ、俺は風呂場に向かった。
思えば、ここ数日は水浴びしかしていなかったからな。
風呂場に入り、湯船の残り湯を魔術で温めなおした。
本当は身体を洗ってから入るべきだろうが……まあいいか。
俺は服を脱ぎ捨て、どぽんと湯船に浸かった。
「ふぅ」
熱い湯に身を包まれていると、疲労がにじみ出ていくような感じがした。
自分では気付かなかったが、ここ十日ほどで、かなり疲れてしまっていたらしい。
しかし、十日か。
ペルギウスの城に行ってから、まだ十日ぐらいしか経ってないのだ。
短い間に、ずいぶんと色々あった。
ナナホシが倒れ、魔大陸に行って、キシリカに会い、アトーフェを怒らせて……。
アトーフェか。
強かったな。
勝てる気がしなかった。
あのレベルの相手に勝とうと思っている方が間違っているわけだが……。
しかし電撃の魔術は通用した。
相手が油断しているという前提があれば、俺にもチャンスはあるのだろうか。
この魔術は、もっと研究し、鍛えていくべきだろう。
少なくとも、周囲が水浸しでも自分に被害が及ばない程度には。
どうすりゃいいのかは分からないが。
全身をゴムで包むか? スト○ッチマンみたいに。
アトーフェの配下のムーアも強かったな。
何をやっても対応される気がした。
今まで強い魔術師ってのはロキシーぐらいしか見たことがなかったが、あれが本当の魔術師なのだろう。
乱魔と義手のお陰で何とかなったが、ああいう相手は、本来はどうやって対処すべきなのだろうか。
スタンダードに強い相手への対応策なんて、存在しないとは思うが……。
なんにせよ、あんなのが本当にゴロゴロしているようなら、もう少し、強くなっておいた方がいいだろう。
どうにも、数年に一度はああいう事が起こるみたいだし……。
ペルギウスが無理でも、シルヴァリルあたりに頼み込めば、鍛えてもらえるかもしれない。
でも、さしあたってはペルギウスから召喚と、できれば転移魔法陣の描き方を習おう。
今後、こういう事があっても、すぐに動けるように。
禁忌ではあるし、転移が怖いと思うのもあるが、
しかし、怖いからこそ学ばなければならない。
知ることが力になる。
それから、通信手段だな。
今回は使わなかったが、アリエルの持っているあの指輪。
あれをもう少し改良して、簡単なメッセージを届けられるようにしたい。
世界中どこでも使える、というレベルにはならないだろうが、せめてポケベルみたいな感じで。
あと、なんだっけか。
魔大陸に行った時も、何か考えたような気がしたんだが……。
「ああ、いつもこうだな」
思い返せば、俺はいつも忘れてしまっていた。
何かを思いついて、そのうちやろうと思っている間に忘れてしまうのだ。
次々に新しいことを思いついて、古い方からどんどん忘れてしまうのだ。
記憶力はいい方だと思っていたが、やれていない事が多すぎる。
いかんな。
これでは、また似たような失敗を繰り返しそうだ。
今回は運が良かった。
けれど、次もうまくいくとは限らない。
反省は憶えていなければ、今後の行動に反映されない。
しかし、どうしような。
こういうのは、書いて覚えるのがいいと、どこかで聞いた気がする。
「……よし、日記をつけるか」
口に出して言ってみると、なかなかいいアイディアに思えた。
事件と、教訓と、足りないもの、必要なもの。
それら書き出し、解決方法などを考察する。
優先順位を決め、目標を明確にして、次にやるべきことを選定する。
うん。
いい感じになりそうだ。
よし、書こう。
今すぐ書こう。
そう思い、俺は風呂場から飛び出した。
「っても、日記帳なんて売ってないからな」
身体を拭くのもそこそこに、俺は自分の研究室へと入った。
椅子に座り、棚の一番下においてある紙束を手に取る。
日記帳は無くとも、紙に書けば一緒だ。
書くことが大事だからな。
しかし、ただ書いたのでは寂しいから、少し工作をするとしよう。
何事も形からとは言わないが、体裁を整えて悪いことはない。
俺は紙束を整え、机の上に置いた。
まず、紙束に魔術でパンチして、穴を開ける。
そこに土魔術で作った輪を通す。
続いて用意するのは、3枚の板と、蝶番。
これを適当に組み合わせて、コの字型にして、開閉できるようにする。
開閉出来るようにした所に、先ほどの輪を合体。
あっというまにバインダー方式の日記帳の完成。
お値段はプライスレスと紙の値段だ。
穴あきパンチとか、こっちで作ったら売れるかしら。
それも書いとくか。
アイデアは書き留めておかないと忘れてしまうものだからな。
穴あきパンチ……いや、それより先に書くことがあるか。
「何から書くかな」
日記なんて、いつ以来だろうか。
前世でニートしてた時にも、WEBのテキストサイトを真似して書いた気もするが、長続きはしなかった。
三日坊主にならなきゃいいが。
この体は習慣化させればやってくれるから、大丈夫だろう。
いや、この体なんて他人行儀な言い方はやめるか。
俺は習慣化したらやるようになるから、大丈夫だ。
よし。
なんて考えながら、ここ十日ばかりの事を書いていたら。
「…………ふぁ」
いつしか、眠りに落ちてしまった。
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白い場所にいた。
何もない、白い場所。
だが、この場所には見覚えがあった。
つい先日、ペルギウスの転移魔術を受けた時にも、この場所を見た気がする。
ここは、どこなんだろうか。
今まで気にした事もなかったが。
この世界のどこかにある場所なのだろうか……。
それにしても、この場所に来る時の、この姿はどうにかならないのだろうか。
デブで、ニートで、どうしようもなかった頃のこの姿。
目を逸らすつもりは無い。
でも、いささか嫌な気分になる。
ペルギウスに召喚された時は、こんな姿ではなかったように思うのだが……。
「やぁ」
気づくと、奴がいた。
のっぺりとした白い顔。
薄ら笑いを浮かべているようなモザイクが掛かっている。
そして、彼の顔は、見た瞬間から流れるように記憶からなくなっていく。
人神だ。
「久しぶり」
懐かしいな……二年ぶりか?
「もう、そんなになるかな」
前に助言をもらったのは、ベガリット大陸に行く前だ。
てことは、二年前のはずだ。
「それほど昔でもないね」
三年間、一度も会わなかった事もあるしな。
懐かしいな。
あの頃は、色々と俺も荒んでた……。
「そうだね。それに比べて、最近の君はずいぶんと調子が良さそうだ」
まあな。
結婚して、家族と仲良くして。
確かに、前世とは考えられないぐらい充実しているな。
「ペルギウスとも知り合いになったしね」
ペルギウスか。すごい人だよな。
あんな人と知り合いになれるなんて、前世の俺じゃ考えられなかったよ。
あまつさえ、気に入られてさ。
俺の作ったフィギュア、よくできたら買うっていうんだぜ?
前世じゃあ、売れるレベルには達してないものだろうに。
「アトーフェにも気に入られたし」
それはちょっと、気に入られたくなかったけどさ。
でも、彼女に気に入られたのは、今までの訓練の成果とも言えるな。
体術に、魔術。
ロキシーに水王級魔術を習ってなければ、今回もヤバかったかもしれない。
あの電撃は、かなり有効だ。
「そうだね。あの魔術は凄いよ。あれなら、きっとオルステッドにも通用するだろうね」
オルステッドにも?
「闘気を無視して、肉を物理的に麻痺させる魔術なんて、そうそう無いからね」
そっか、感電に対する対抗策は無いのか。
でも、オルステッドのことだ。
どうせ乱魔か何かで無効化してくるんだろう。
「総合力で勝てなくても、勝利を得ることはできるさ」
いやいや、ないない。
多少、俺が変な魔術を使えるようになった所で、俺がオルステッドにぶっ殺されるって部分に変更はねえよ。
だいたい、やる気は無いんだ。
オルステッドに恨みはないしな。
「そうかい」
ところで、ベガリット大陸の時のことは、助かったよ。
確かに、後悔してないと言えば嘘になるが……。
でも、悪くはなかった。
お前の助言……には、従わなかったけどさ。
「まあ、それも君の選択だよ」
一応聞いておくけど、行かなかった場合、どうなったんだ?
「行かなかったら、君の父親はなんとかして母親を助けたし、死ぬこともなかった。そして、君は獣族の姫君を二人とも自分のモノにして、幸せに暮らしていたよ」
…………なんだそりゃ。
俺がいったせいで、パウロが死んだって事か?
「そうだよ。君がいて、君にいい所を見せようと彼が張り切って、それでダメになったじゃないか」
いや、でも。
そんな……。
「放っておいても、彼はきちんと仲間を集めて、母親を救い出したさ。もちろん、ロキシーもね」
じゃあ、何か?
俺がしたことは、無駄だった……ってことか?
いや、でもロキシーは俺がいった時には死にかけていたんだ。
俺がいかなくても助かるって、そりゃおかしくないか?
「いいや、君が行かなくても、ロキシーは助かったよ。彼女は助かる運命だった」
どういう事だ?
運命ってどういうことだ、説明してくれよ。
「君が助けたあの商人。彼の積み荷があの町に届くのは、君がいなければもっと遅れていた。
彼の積み荷が届いたその日、とある冒険者は市場を歩いていた。
彼は君の助けた商人と出会い、その積み荷を購入する。魔石だね。
けれども、商人がいない場合、彼が購入したのは別のものだ」
別のもの。
「転移の迷宮の、地図だよ」
なんでそんなものが都合よく売ってるんだよ。
「冒険者ギルドで、前衛を誘うのに失敗したギースが、あの迷宮を攻略する冒険者の絶対数を増やそうと画策するのさ。その一環が、地図を格安で販売することなんだ」
……なるほど。
ギースが地図を売るのか。
確かに、パウロたちと一緒にダンジョンに入りたいと思うやつは少ないかもしれないけど、自分たちだけで攻略できると思ったら入る奴もいるかもしれないもんな。
それで、転移の迷宮の地図を買った冒険者が、仲間と共に転移迷宮に入り、ロキシーを助けると?
「そうそう、入り口で君の父親と鉢合わせしてね。それで一緒に潜って。運よくロキシーを見つけるよ」
それで、冒険者が増えたお陰で、転移の迷宮の攻略もはかどって、最終的には母さんも助かるって?
「そういう事。まあ、君がいた時よりも、時間は掛かるけどね。……2年ぐらいかな。今頃、ちょうど救出されるはずさ」
ちょっと、信じられないな。
「かもね、でも、そんなもんだよ。運命ってのは」
そうか。
そうだよな。何が起こるかわからないもんな……。
俺、いない方がよかったのか……。
くそっ、そう言われると凹むな。
いや、でも、その場合、俺はロキシーとは結婚出来なかっただろう。
「そうだね。彼女は、助けてくれた相手に一目惚れしちゃうからね。まあ、フラれるんだけど」
そう考えれば、悪いことばかりでもない気がする。
俺、ロキシーのこと好きだし。
……でも、パウロが死んだんだよな。
俺がロキシーと結婚するのに、パウロが犠牲になったと考えると、どうにもよくない。
今、俺はロキシーと結婚したことを後悔していない。
彼女は俺の妻としても頑張ってくれている。
幸せだ。
けれど、もしリニア・プルセナと似たような感じになっていたとしたら。
それはそれで、俺は幸せを感じていただろう。
誰でもいいってわけじゃないが、その場合の俺は、ロキシーと結婚するなんて、想像もしなかっただろうし。
ああ、くそっ……。
「過ぎたことさ」
そうだな。
後悔してもしょうがない。
起こりえなかった事だ。
うん。
俺は今、幸せを感じている。
選択肢は間違えたかもしれないが、それは事実だ。
後悔もあるが、俺にとってはマイナスだけじゃなかった。
そう思おう。
「前向きだねぇ」
ところで、今日はどうしたんだ。
また、何か困った事でも起こるのか?
「いや、大したことじゃないよ。助言というより、頼みに近いかな」
頼み?
お前が?
珍しいな。
今までそんな事、なかったのに。
「僕だって、たまには頼みぐらいするさ」
ふーん。
まあいいか。
なんでも言ってくれ。
たまには、お前の助言を、そのまま素直に実行するのもいいだろうとは思ってたんだ。
今までは、疑い過ぎてたしな。
「そう言ってくれると助かるよ」
ま、散々助けてもらったからな。
むしろ、今まで疑ってて悪かったよ。
俺を見て、面白がってるだけの愉快犯かと思ってさ。
「酷いなあ。僕はこれでもヒトガミ。ヒトの神様なんだよ?
そりゃあ、退屈だから面白いものを見たいとは思ってるけど、
でも、誰かを陥れて喜ぶ趣味はないつもりさ」
だよな。
そんな奴は、いないよな。
「そうとも」
で、何をすればいいんだ?
「大したことじゃないよ。今からちょっと地下室に行って、異常が無いか見てきて欲しいんだ。何もなかったらなかったで、それでいいんだけどさ」
異常が無いか?
なんで……。
いや、わかった。
今回は、何も疑わず、お前の言うとおりにしてみるよ。
「ふふ、そうかい……あ り が と う」
意識が薄れていく中。
人神の口元が、気持ち悪いぐらいに裂けたような気がした。
---
目が覚めた。
視界の端に、ロウソクのゆらゆらと揺れる光が見えた。
明かり取り用の小窓から外を見ると、月が見えた。
音は何も聞こえない。
静かだ。
どうやら、日記を書いている途中で眠ってしまったらしい。
書きかけの日記の上に、よだれが垂れてしまっていた。
こりゃ、書き直しだな。
ページを一枚破り取り、机の隅においておく。
あとで書き写して、続きを書こう。
何時間眠っていたのだろうか。
まるで何日も眠りっぱなしだったかのように体がだるい。
体を起こすと、肩から何かがずり落ちた。
見てみると、毛布だった。
シルフィか、ロキシーあたりが掛けてくれたのだろうか。
ありがたい事だ。
「さて、と」
夢の内容は憶えている。
確か、地下室の様子を見てくるんだ。
ちょっと、よくわからない助言だ。
けどまあ、一度ぐらいはそういうのもいいだろう。
あいつは今まで、一度だって俺に不利益なことが起こる助言をしていない。
たまには、お互い気持ちよく行動したいものだ。
人神だって、助言するたびに憎まれ口を叩かれたんじゃ、嫌だろうしな。
ギブアンドテイクの間柄でも仲良くしておかないと、いざって時に、違ってくるもんだ。
「ヘクチッ、うぅ、寒っ……」
地下室に行こうとして、俺は壁にあるローブを着込んだ。
このあたりでは、春先でもまだ雪が残っていて、肌寒い。
こんな所で眠るもんじゃない。
早く寝室に戻って、暖かいベッドで寝よう。
でも、この寒さだとベッドも冷えているだろうな。
そもそも、今何時ぐらいなのだろうか。
家の中から物音がしない所をみると、深夜なのは確かだが。
今からシルフィかロキシーの部屋にいって熟睡している彼女らのベッドに潜り込んだら、悲鳴とか上げられるだろうか……。
エロ抜きでいいから、ぬくもりが欲しいんだが。
ていうか、なんだか無性に人恋しい。
人神のせいだな、これは。
ベガリットに行かなかった時の事なんて、聞かなければよかった。
いや、聞いたのは俺だから、俺のせいか。
俺のせいなら一人で寝よう。
そう思いつつ、扉を開けて。
「ん?」
ふと、気配を感じて振り返った。
そこには、俺が座っていた椅子がぽつんと置いてあるだけだった。
誰もいなかった。
当然だ。
「気のせいか」
この部屋は机と椅子、書棚ぐらいしか置いていない。
隠れられる場所なんてない。
窓はあるが、人が出入り出来るほどの大きさはない。
入り口はひとつ。
この扉だけだ。
狭い部屋で、ロウソク一つあれば、人がいるかいないかぐらいはわかる。
この部屋には、俺一人だったはず。
なぜ気配を感じたのだろうか。
誰もいるはずはないのに。
だが、何故か、今もなお。
気配のようなものを感じる。
おかしいな。
棚の下に虫でもいるのだろうか。
「……?」
しかし、それにしては、なんだろう、この感じ。
胸の奥がざわざわしている。
不安か?
なんで不安なんか覚える?
「まあいいか、さっさと地下室を見てこよう」
俺は扉を開け、部屋を出ようとして……。
「そこだっ!」
もう一度振り返った。
意味はない。
なんとなく、やってみたかっただけだ。
そうやって誰もいない事を確認して、安心したかっただけだ。
なのに。
そこに。
人がいた。
「……え?」
ボロボロのローブを着た男が、一つしか無い椅子に座っていた。
老人だった。
顔には深い皺が刻まれ、髪は真っ白。
無精髭がポツポツと生えていて、あまり清潔な感じはしない。
その雰囲気は、老練でありながら、荒んでいた。
長い戦いをくぐり抜けた者特有の凄みがあった。
眼光は鋭く、目の色が左右で少しばかり違った。
そして、口元は驚いたようにわなないていた。
「成功……したのか……」
老人は周囲を見ながら、感慨深げに目を細めていた。
だが、己の手を見て、腹の辺りを触り、ハッとした顔をした後、自嘲げに笑った。
「いや……失敗か。成功するはずもないか……」
どこかで見たことがある気がした。
けれど、記憶には無かった。
しかし、似ている。
誰に似ているのだろうか。
パウロ、いや、違う。
サウロスか、しかし、サウロスほどの豪胆さはない。
この老人は、もっと小心者だ。
「だ、誰だ? あ、もしかして、ヒトガミか?」
その名を言った瞬間、老人は俺の方に向いて、カッと目を見開いた。
この反応には覚えがある。
オルステッドだ。
オルステッドも、ヒトガミという単語には過剰反応した。
それと一緒だ。
だが、この老人はオルステッドとは似ても似つかない。
「違う」
男はゆっくり首を振り、俺の目を見据えた。
力強い目線だった。
目が離せない。
吸い込まれるようだ。
まるで、鏡でも覗いているかのような……。
老人は俺の背後の扉を見て、眉間にしわを寄せた。
俺の背後に向けて、節くれだった指を向ける。
クイっと指を動かした瞬間、俺の後ろで扉がしまった。
「!」
バタンという音にハッとして振り返る。
こいつ今、何をやった?
混乱する俺に、老人はギラついた眼光を向けて、言った。
「地下室には行くな。お前は今、ヒトガミに騙された」
「え?」
騙された?
どういうことだ?
なんだ、なんなんだ。
「ちょっとまってくれ、その前に、あんたは、誰なんだ? どこから入ってきたんだ?」
「俺は……」
老人は俺の問いに、口を開きかけ、しかし一度閉じた。
少し考え、ややあって、もう一度口を開いた。
「俺の名は『――――』」
その名前を聞いて、俺は今までにない衝撃を受けた。
老人の名乗った名前。
この世界で、俺だけが知っている名前だった。
俺が死ぬまで、俺しか知らないはずの名前だった。
思い出したくもない名前だった。
この世界に存在しない者の名前だった。
前世の、俺の名前だった。
「未来からきた」