95年に村上春樹は地下鉄サリン事件で「ジャンクな物語」に打ち勝てなかった小説のあり方を嘆いたし、97年の神戸連続児童殺傷事件で村上龍は破壊だけしてあとに何も残らなかったと嘆いた。でも結局、われわれは「ジャンクな物語」をより一層ジャンクな形で消費し続けてる。その最も極端なのが陰謀論。
4
889
4K
907K
1K
まだ90年代まではポスト学生運動としての陰謀論は、少なくとも高偏差値のオウム信者が議論する程度に強度があった。それが先鋭化してテロにつながるほどに。でも今はそれすらない。ジャンクな物語はもはや物語とは呼べないほどジャンクになり、その破片がネットに浮遊してる。
そのジャンク品を集めても、せいぜいマッサージ程度の快楽しかもはやない。そのなかに「集まる」という快楽も含まれる。それが良いとか悪いとかではなく、そうした快楽がなぜ必要とされるのか、それは現行のフィクション、例えば小説だったり映画やドラマだったり、といった強度の高い物語より
なぜ彼らに魅力があるのか、ということが少なくともポストオウムの物書きが真摯に考えるべきことなんじゃないでしょうか。どんな小説や映画、ドラマより陰謀論が選ばれたことに敗北を感じず、ただ陰謀論を嘆いてみせる作家は呑気なオプティミストでしかない。