[サンプル]plum
12/18拳魂一擲にて頒布予定の真桐新刊サンプル二冊目です。一冊目に引き続き極2軸で、激務により生活習慣が終わってる兄さんを見かねた桐生さんが、住み込みで家事代行をするという仮同居の話。うっすら7終盤のネタバレを含みます。
60P/文庫/300円/こちらもなんと全年齢
当日は西2 チ36b 【さむ(い)。】にて参加します。
よろしくお願いいたします!
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夜中の十一時、久々の夜遊びだと閉店間際までパチンコ屋に居座り、数時間かけてプラス五千円の収支に程よいほどほどの満足感を覚えつつ、金で酒とつまみを買ってセレナに戻ろうかと帰路の一歩を踏み出した桐生は、その一歩目を挫く光景が自身の視界に飛び込んだのに絶句して、瞠目して立ち尽くした。ばちばちと音がしそうなほど激しく目を瞬く。おもむろに開いていく口は数秒ほど呼吸を忘れ、ややあってからようやく吐き出されたのは「え?」と、我ながらずいぶん間の抜けた声だ。
神室町の夜はまばゆい。街灯のおかげで夜の闇でも視界が遮られることはない。視力は特別悪くないので、ある程度の距離なら輪郭もきっちり捉えられる。パチンコ店のほぼ真向かい、道路を挟んだ廃れた公園にあるベンチを視界におさめた桐生は、その視力をもってして明確な異常事態を真正面から認識した。
ベンチの上に物体、もとい人間が死んだように仰向けで寝そべっている。そこまではいい。いや、よくはないのだが、それでも神室町では昼夜問わずよく見かける光景だ。もはや日常風景と化しているのもあり、ほとんどの人間はこういった事象を前に、当人の問題だと無視を決め込む。桐生もそのうちの一人だった。
けれど、ベンチに転がっている人間の顔に見覚えしかないのは一体どういうことなのか。
思わず目をすがめる。あの人に限ってそんな馬鹿な、とおのれの認識をしっかり疑ったものの、残念ながら事実であると桐生の視力はきちんと証明してしまった。
——パチンコ屋を出たら、かつての兄貴分がベンチで寝ていた。
どう見ても、どう目を凝らしても、他に表現できないひどく奇怪な光景が、車線を一本挟んだ場所で展開されていた。
桐生ははじかれたように駆け出した。道に車がいないことを確認して、一方通行の車道を渡る。公園の植木も同じく飛び越え、桐生はその信じがたい光景と、あらためて正面から向き合った。
「…………兄さん?」
見下ろすこと約十秒。たっぷり時間をかけてその人物を目で捉えた桐生は、困惑に困惑を重ねた声でそう呟いた。
見覚えのある目、鼻、口だった。この男の姿形は昔からよく知っている。普段の服装ではなくスーツを装っていたものの、存在そのものが奇抜なこの男の風貌をよりによって桐生が間違えるわけがない。
「どういうことなんだ……」
桐生はありていに言って混乱した。困惑した。偶然とはいえこんな異常事態がそう簡単に起こりうるのだろうか。気づけば口の中はからりと乾き、額には汗が浮き始めていた。
なぜなら、ここは神室町だ。東京都内で見れば面積は狭いかもしれないが、人口密度は並ではない。この男を前にするとつい忘れそうになるが、これだけ人間が密集するような場所で知り合いと偶然遭遇するのは本来稀なことなのだ。
——けれど、これは、どこからどう見ても真島吾朗だ。
いまだ混乱のさなかにいる桐生は、自分を落ち着かせるべく息を吐いた。なにはともあれ、こんな場所で寝ているのは普通じゃない。倒れたところを運ばれたようには到底見えないし、だとしたら酩酊か体調不良か。いずれにせよ、明らかに様子のおかしい兄貴分を見て見ぬふりなどできない。
「おい、兄さん」
まずは声をかけてみる。体を揺すっていいものか、こういうときの正しい対応がよく分からない。けれど真島は起きる気配もなく、くうくうと寝息を漏らし続けている。
東城会きっての武闘派。嶋野の狂犬と恐れられた男がなんて有様だ。この男はかつて、出所して間もない桐生の喧嘩の腕を前に失望したと憤慨したが、なるほど確かにこういう気持ちだったのかもしれないと、当時の真島の心境を一年越しにようやく理解した。桐生は仕方ないと思いながら真島の肩に手を置いた。力の加減に細心の注意を払いながら、真島を軽く揺らす。
「兄さん」
「……んん」
ようやくそれらしい反応が返ってきた。眉間に新たな皺が刻まれ、口がもごもごと重たく動く。真島はやがて苦しげにまぶたを持ち上げると、わずかに開いた視界から徐々に情報を摂取し始めた。
「…………あ?」
そして、真島はようやく覚醒した。見上げる真島と見下ろす桐生。視線がかち合ったあたりで正気が戻ってきたのだろうか、真島はみるみると目を見開く。
「きっ、桐生ちゃん⁉︎」
そう叫ぶやいなや、真島はがばりと体を起こした。起き抜けでそう声を出すなと制すべく乗り出した桐生の体は、跳ねる前髪、緩められたネクタイ、口元の涎の跡を正面から捉えると静止してしまった。寝ているときは気にも留めていなかったが、目の下にはとどめと言わんばかりに、死人を連想するくらいの凄まじい隈がある。どこからどう見ても筆舌に尽くしがたい出立ちを隠そうともせず、真島はその場から立ち上がった。
こんな夜更けに知り合いに出会うという予想打にしていなかった事態が脳を刺激したのか、真島は驚愕を貼りつけた顔で桐生を見やった。
「なんで桐生ちゃんがこないな時間に、こないなところにおるんや」
「それはこっちの台詞だが……。まぁ、俺はここら辺で遊んでいただけだ。兄さんこそ、どうしてこんなところで寝てたんだ? 酔っているわけでもなさそうだが……」
公園のベンチで寝ていたうえに、今は夜の十一時だ。休憩がてら横になったり遅めの夕食をとっていたなど、人間らしいひとときを過ごしていたとはとても思えない。
「……別に酔ってへん」
「なら、どうして寝ていたんだ?」
桐生が首を傾げて問うと真島は、言いにくそうに視線を逸らす。しかし、こうして遭遇してしまった以上、言い逃れられないと理解したのか、真島はやがて重々しく口を開いた。
「……ちと休憩しとったんや」
「え?」
「立ちっぱなしで腰をやられてな。ちょいと横になろう思うたらそのまま寝てしもうただけや」
眉間に皺を寄せながら言う真島に、桐生は唖然とした。
立ちっぱなしで疲れたからベンチで横になる。その発想だけでももはや普通ではないが、ただそれだけでこんな場所で眠ってしまったのだとしたら、腰以前にそもそも疲労が溜まっているのではないだろうか。
「立ちっぱなしって……建設とか、キャバクラグランプリとかでか?」
「まぁ、そんなところやな」
「それでも、ベンチで寝たりなんてしないと思うが」
桐生が語調を強めてそう言えば、やはり自覚があるのか、真島は気まずそうに目を細めて視線を泳がせた。これから先のこと、疲労のそもそもの原因を言いたくないのが見てわかる。けれどここで「腰が痛かったからベンチで寝ていたんだな」と話を終わらせ「ほどほどにな」とどう見ても疲労困憊の兄貴分を見逃せるほど、桐生の情は浅くない。
そうして、やがて真島は観念したように息を吐いた。俯き気味の顔にいっそう疲労の色が滲む。
「最近、うちの建設に興味がある、なんて言う企業がえらいおって、会食やらなんやらが増えとってな。それに加えて、社長として目ぇ通さなあかん資料が山ほどあって……うちのもんはみんな頭使えへんから、そういう小難しい書類なんかは俺が作らなあかん。ちゅうわけで、先週頭からずっとこんな感じや。今日はこれでも、早く片付いた方やけどな」
「早いって……十一時だぞ、夜の」
「終電はあるやろが。せやから早い方やろ」
「はあ?」
つまり普段は終電を過ぎても働いているということだ。暗にそう告げた真島に、桐生は盛大に顔を顰める。堅気の、それも昼職の「普通」が桐生には分からないが、真島の現状が異常事態なのはよく分かる。
「今日は会食でなぁ。昔やったら店からそのまま帰ってたけど、まだやらなあかん仕事があるもんやから、現場戻ろうと思うてたんや。けど、ちと疲れてもうてな」
「……それで、ここで寝てたのか?」
「まぁ、そういうことやな」
頭を掻きながら近況を話す真島に、は、とため息にもならない浅い息が出た。呆れた顔で真島を見ると、彼はあからさまにばつが悪そうな顔をしている。そして桐生の視線は自然と真島のひとみ、正確にはその周辺に吸い込まれた。
「あんた、隈ひでぇぞ」
どうやら自覚があるらしい。桐生が目元を指差しながらそう言うと、真島は「うぐ」と呻き声を漏らす。
「寝れてないのか」
「元々寝ない方なんや。ショートスリーパー、言うてな」
「ショートスリーパーなら、そんなことになってないと思うがな」
「……昨日は二時間寝たわ」
真島が本当にショートスリーパーだとしても、果たしてそれは十分な睡眠と言えるのだろうか。二時間の睡眠。映画一本分の睡眠時間は一日二日の数日間なら耐えられるかもしれないが、どう考えたって毎日続けていいものではない。
十分な睡眠が摂れていない。となると、連鎖的に湧く疑問がひとつある。
「……飯は食ってるのか?」
「減ったら食っとる」
「ちなみに、昨日は何食ったんだ?」
「……食うてへんな。強いて言うなら、そこいらのおばちゃんがくれた飴やろか」
次いで「まぁ、空いたと思うたら適当に食っとるわ」と平然と言う。言われてみれば、それなりに長い付き合いになるのにも関わらず、この男が何かを食べているところを目にしたことがない。元々食への関心が薄いのだろう。それに関してつべこべ言うつもりはないが、睡眠不足が前提だとすると、やはり異常に違いない。
桐生は喉元までせり上がった言葉を、どうにか飲み込んだ。色々と言いたいことはあるが、今ここであれこれ言ったところで、この男の胸に響くわけがなかった。
全身で息を吐く。肩から力が抜けそうになる大きなため息が出て、桐生は思った以上にこの男が今置かれている現状に対して、苛立ちを覚えているのだと自覚した。
「……あんた、家はどこなんだ?」
「は?」
地を這うような低い声で問う。対する真島はきょとんとして桐生を見ている。ぱちぱちと瞬いた目に、直視するのも耐えがたい隈があるのがなんともアンバランスで腹立たしい。桐生はわずかに逡巡したのち、それでもどうにか腹を決め、無遠慮に顔を顰める。
「作ってやる」
「あ?」
この話の流れで作ると言ったらひとつしか思い当たらないだろうに、呆けているのか真島は「何をや」と問うた。その問いに桐生はさらに眉間の皺を増やす。
「金は俺が出す。あんたから貰った給料があるからな」
給料とはもちろん、真島建設の現場監督として働いて得たものだ。やたらと分厚い茶封筒を「ほれ」と手渡されたときは、現場監督は自分の意思でやったことだと受け取らなかったのだが、労働には対価が必要だと説く真島に関心し、今の今まで使わず大事に取っておいたのだ。
「お前、さっきから何言うてんねや」
「なんだ? このままだと、今にも死んじまいそうなあんたの家に、俺が夕飯を作りに行ったらまずいのか? ……女がいるってんなら遠慮するが」
「おるわけないやろ」
たしかこの近辺に二十四時間営業のスーパーがあったはずだと踵を返した桐生に対して、真島はその場に立ち尽くしている。あまりに唐突で突然な桐生の提案と、有無を言わせない言動に、さすがの真島も理解が追いつかないのだろう。
けれど、それは桐生とて同じだ。いくら過去に世話になった兄貴分が、放っておいたら死んでしまいそうな状況に直面しても、急に家に押しかけて夕飯を作ろうとは普通なら思わない。
だからこれは、あんまりにもあんまりな兄貴分の現状に呆れてしまったゆえの行動に過ぎないのだ。
「桐生ちゃんが、……作るんか? メシを?」
作れるんか? と副音声が聞こえてきそうなその顔に、桐生はこめかみに青筋が立ったのが分かる。
「あんたが日頃食ってるであろうものよりはマシなのが作れるさ」
「ほぉ~ん……。まぁ、俺はできひんけどな」
「する気がないだけだろ」
もしくは徹底的に才能がないだけなのが、今の桐生には分かる。遥と一つ屋根の下で暮らすようになってから家事、特に料理は避けては通れないものだった。調理と呼べる行為をこれまでまともにしたことがなかった桐生だったが、レシピ本を買って試してみるなりして、今ではかなりまともな食生活を送れるようになったのだ。なので人間、必要に迫られれば大抵のことはできることを、桐生は身をもって知っている。
「……おい」
数歩ほど歩いたところで、足を止めて振り返る。当の本人が後を着いてくる気配がない。案の定、真島は驚きの表情を浮かべてその場に立ち尽くしたままだった。
「飯、いらねぇのか」
険のある声で桐生が問えば、真島は正気を取り戻したように頭を振る。
「ほ、本当にええんか」
「しつけぇなぁ……」
なぜか不安そうな真島を、強い言葉で斬り捨てたのはわざとだ。これ以上問われるとこちらの決心が鈍りそうだ、と流石に口にはしないが、態度には出てしまう。
真島が桐生の背後どころか隣に滑り込んだ。スーパーまでの短い道のり、両者の革靴の音が等間隔に並んで鳴り響く。街灯に照らされている真島の顔は、逆光でよく見えなかったが、かと言ってわざわざ立ち止まって様子を伺うことはせず、桐生は前だけを見て歩いた。
そんなこんなで互いに無言のまま、ほぼ無人のスーパーに入る。調味料は何が常備されてるのか尋ねても「なんもあらへん」とあっけらかんとした態度で言われたので、基本の調味料をすべてカゴに放り込んだ。余ったら持って帰ればいい。聞いたこともない横文字の調味料は用途から学ばなければだが、料理のさしすせそに属するものならいくらあっても困らない。
スーパーを出て、真島の案内で彼の家へと向かう。真島の家は神室町の最寄り駅からおよそ数分のところにあった。かつての名だたる極道が暮らしているとは到底思えない、ごくごく普通の外観をした五階建てのマンションである。
「……おじゃまします」
「ん」
昔の癖で深々と頭を下げそうになったのは桐生の脳内だけの話だ。重々しく玄関扉をくぐり、中へと入る。ひとめ見たところ、映画やドラマなどのフィクションでよく目にするだだっ広いマンション、という感じの内装だった。玄関から細い廊下が伸びていて、壁には浴室とトイレと思わしきドアが備えられている。一番奥にあるドアはリビングへと続いているのだろう。
「俺の家に桐生ちゃんがおるとか、変な気分やわ」
「人は呼ばねえのか」
「ただ帰って寝る場所にしとるだけやからな」
せやから桐生ちゃんが一番最初の客人やな、と真島が笑う。その笑みに値する返答が桐生には分からない。あまりに屈託ない笑みだったので気恥ずかしくなって、それを真島に悟られないようにと桐生は辺りを見回した。
「それで、台所はどこにあるんだ? あそこの奥でいいのか」
「あぁ、突き当たりのドアがリビングやな」
「このまま入るぞ」
「入れ入れ」
両手がビニール袋で塞がっている(道中真島が持とうとしたが、もしかしたら持って帰る可能性があるものを雑に扱われると困るので断った)ので、乱雑に靴を脱ぎ捨て、遠慮なく室内に入る。フローリングの床はひやりと冷たかった。爪先がやたらと冷たく感じたのは、靴下がくたびれているからだろう。新しいのを買わなければ、とそんなことを思う。
リビングの扉を開けると、そこにはずいぶんと閑散な空間が広がっていた。ソファやテーブルなど必要最低限の家具のみが買い揃えられており、テレビなどの娯楽品は一切置かれていない。もはやおそろしいまでに生活感が感じられない部屋を前に、桐生は唖然としていた。
そんな桐生に構わず、ジャケットをソファに向かって脱ぎ捨てた真島はあちらこちらをうろうろと巡回する。そしてやがてひとつのドアを指差した。
「ここが一応俺の寝室で、あとは奥が空き部屋やな」
「2LDKなのか」
「ひとり暮らしやと部屋が余ってしゃあないわ」
「余らせるくらいなら、最初からワンルームにすればいいんじゃないか? これだけ物が少ないなら引っ越しも楽だと思うが」
「セキュリティ重視でここにしたんや」
抱えていたビニール袋を、かろうじて置かれている家具のひとつであるダイニングテーブルに置くと、どすん、と重たい音が鳴る。そこそこの量を買ったとは思っていたが、想像以上に買い過ぎてしまったかもしれない。
「そんで、桐生ちゃんは何を買ったんや?」
ビニール袋の中身を取り出して並べていく。これだけ広い部屋だというのに、台所はコンロがひとつしかなければ調理スペースもない、まさにひとり暮らし、それも「料理をしない」人間が契約する物件のそれだった。なので買ったものはテーブルの上で確認する。
にんじん、じゃがいも、たまねぎ、鶏もも肉、にんにく。あとは電子レンジであたためる白米と、サラダ油と、中辛のカレールウ。
「……カレーやな」
「あぁ」
購入品のラインナップにルウがあったので、流石に真島も分かったようだ。野菜も肉も入っていて栄養もとれる、簡単につくれる、香りだけで食欲がそそられる。もはや万能食と言っても過言ではないと桐生は思っており、そんなカレーが本日の真島の夕飯となるのだ。
「桐生ちゃん、カレー作れるんか?」
「作れるから買ったんだろう」
しかしテーブルに置かれた材料を、どこか爛々とした目で見下ろしている真島に、桐生は思わず身構える。まさかこだわりたっぷりの名店の味でも期待されているのだろうか。
「……言っておくが、普通のカレーだからな」
これから桐生がつくるのは、決して不味くはないだろうが、こだわりらしいこだわりはない、おそらくどこの家庭でも食べられるごくごく普通のカレーである。
しかし真島は、そんなことは問題ないと言わんばかりに激しく首を横に振った。
「この家でカレー食うなんて初めてやわ」
「この家……というか、あんた自炊してるのか?」
「してへんな。そもそも、カレーを食べるのが久々や」
「……昼飯で食ったりしないのか」
「食べなくはないけどなぁ。コンビニやら立ち食いそばで済ませることが多いわ」
つまりはサンドイッチだのおにぎりだの、やたらと栄養価が高いあれらである。すなわち真島は、手軽さの代償として栄養の偏りを選んでいるのだ。
最近のコンビニ飯が優秀なことはもちろん桐生も知っているし、確かに長らく世話になっていたものの、そればかりでは体に良くないのは明らかだ。
「まぁ、確かに料理をしていた痕跡もないな。まさか、醤油や砂糖すらないとは思ってなかったが」
「醤油は弁当に付いてくるし、コーヒーはブラックやしなぁ」
「あぁ、電気ケトルはあるな」
「鍋もあるでえ」
「……この焦げついてボロボロのやつか?」
「これから買い換えよう思うとったんや」
いったい過去に何をしでかしたのか、真島の家に唯一あった調理器具である鍋は底が真っ黒だ。焦げつきを落とさないまま放置するくらいなら捨ててしまえと思ったけれど、そのお陰で今こうしてカレーを作れているので、桐生もあまり強く言えなかった。
桐生は手早くカレーの材料を調理していく。とはいっても、カレーの調理なんて洗って皮を剥いて切るだけなのだが。ざくざくと適当なサイズに野菜を切り、まな板代わりの皿を洗って鶏肉も同じく切っていく。焦げついた鍋には気持ち多めのサラダ油を引いた。あとは材料を放り込んで、適当に煮込めばカレー味のなにかはできる。
カレールーのパッケージには、ここから十分から十五分ほど煮込む、と書かれている。桐生と真島は火にかけた鍋の中をじっと覗き込みながら、しばらく無言のまま時間を過ごした。
「……もうええんやないか?」
「待て、あと二分だ」
「細かっ!」
腕時計から目を逸らさない桐生を真島が怪訝そうな表情で見つめている。
「こういうのは時間通りやった方が美味いんだ」
「は~ん……」
鍋がくつくつと穏やかに沸騰し始める。埃をかぶっていたコンロは桐生が手早く掃除をしたので、ひとまず目立った汚れは見て取れない。具材が柔らかくなったらルーを入れろという指示なので、じゃがいもとにんじんを割り箸で軽く突いて確かめれば、どちらもさくりと軽く崩れた。固くはないが、やわらかくもない。それでも「とりあえず食べれる」という判断をくだした桐生は、カレールーを割って鍋に放り込んだ。
「おぉ、カレーの匂いや」
ルーを放り込んだだけでキッチンにカレーの香りが一気に広がる。空腹を刺激するあの匂いだ。桐生の腹もくうと切なげな音を立てて鳴いたので、知らないうちに空腹を感じ始めていたらしい。
弱火で十分から十五分。とろみがつくまでじっくり煮込むとのことなので、また無言の調理タイムである。桐生はゆっくりと鍋の中を掻き回しながら、ふつふつと小さく沸騰するカレーの様子をじっと見ていた。
「兄さん」
「なんや」
桐生はおたまを回す手を止めて、真島と正面から向き合う。
「あんたって人間がどういう奴なのか、俺は全部知ってるわけじゃない。それでも、あんたが考え無しで動くような奴じゃないことは分かってる。だから、今の現状もあんたなりの考えがあってのことなんだろうが……体壊すようなことは、しないでほしい」
「……おう」
せやな、と真島が力なく笑った。やはり今の生活が負担となっている自覚はあるのだろう。派手な風貌に気をとられるが、この男は桐生から見て、裏社会の人間とは思えぬほどには真面目である。若い頃はさぞ苦労しただろう。基本的に面倒見もいいので、一度慕われた人間の期待を裏切ることはない。きっと今もそんな従順な子分から頼りにされているからこそ、仕事が増えていく一方なのだと桐生は思う。おそらく普段の真島であれば、その仕事を他人に割り振るなり捌くなりできるはずなのに、今はそれすらできないほど疲労が蓄積しているのだろう。
そんな兄貴分を目の前に、何も思わないほど桐生は薄情ではない。確かに真島は他人の、それも桐生の助けなど必要としないのかもしれない。求めなくても生き抜ける生命力の高さは折り紙つきである。「この人なら大丈夫だろう」と、その強さに甘えてしまっている自覚が桐生にはあった。おそらく子分たちも同じような気持ちで真島を頼っているのだろう。
なので、この男に自分がしてやれることは限られている。こうして手作り料理を振る舞うことは、桐生が今の真島に差し伸べられる唯一の手だった。
「……よし」
割り箸でにんじんをつつき、割ってみる。体感としては十五分は経っていないが、とりあえず食べるのに問題ないぐらいには火が入った。カレーとしてのとろみもおそらく十分だろう。
というわけで、これまた埃まみれの電子レンジに白米を突っ込むと、桐生は、台所を片づけながら手早く皿を準備した。
そしてようやく本日の夕食——カレーが完成した。
「お、おぉ……」
「嶋野の狂犬」が聞いて呆れるほど大人しく座って料理を待つ真島に、カレーが盛られた皿を手渡す。しっかりと重みのあるそれを受け取った真島は、まるで子どものように目を爛々と輝かせた。
「食える味にはなってるはずだ。だが……あんたの好みまでは知らないからな。たとえ口に合わなくても、今は何かしら食わないとだめだ」
「折角作ってもらったもんを残すわけないやろ。食うてもええか?」
「あ、あぁ……」
カレースプーンのような大きいスプーンはないらしい。よって、まさかのコンビニスプーンでカレーを食すことになった。
ダイニングテーブルに皿を置いて、椅子に座り、向かい合って手を合わせ「いただきます」。その一言を口にするやいなや、真島はカレーを勢いよくかっこんだ。
「…………美味い」
そして、一口大にすくわれたカレーをしっかりと噛んで飲み込んだ真島の口から、そんな言葉が思わずといったようにぽろりと漏れ出た。
「ちゃんとしたメシやな……」
「ただのカレーだぞ。それほど手間もかかってない」
「手料理を食うこと自体が久々なんや。まさか、それが桐生ちゃんの飯やなんてなぁ」
この男が嘘や世辞を嫌うのは重々知っている。だから、真島の口から出る賞賛の言葉はどれも本心だ。遥に「美味しい」と言われるのとはまた違う嬉しさと気恥ずかしさがあり、桐生はまともに目を合わせられなかった。
そんな話をしているうちに、真島はあっという間にカレーを平らげてしまう。米粒ひとつ残さない、見事なまでの食いっぷりだ。ごちそうさん、と告げた彼の表情は、まるで喧嘩を終えた後のように満足げだった。
「全部食べれたようで何よりだ」
「美味かったでぇ。やっぱ、メシの力は偉大やな」
ただのカレーでこうも感激されてはむず痒い。手放しの賛辞がどうもくすぐったくて、桐生はわざとらしく音を立ててその場から立ち上がった。真島から空の皿を受け取り、やや乱暴な仕草でシンクに置いて水をつける。
「なぁ、桐生ちゃん」
数分の寧静を破り、ふいに真島が改まって桐生と向き合う。
「お前、今セレナに住んどるんか?」
「あぁ。この街にいる間だが」
「は〜ん……」
真島はぼんやりとした表情で頷いた。
「じゃあ少なくとも、今は無職なんやな」
「う……」
突然痛いところを突かれ、思わず呻き声が漏れる。「今は」という枕詞は、真島なりの気遣いだろう。
裏社会にいた人間を臆せず雇える働き口、それも昼職は、桐生が想像していた以上に少なかった。それもそのはずで、昼職の人間は体裁をなによりも重視している。桐生のように風貌から強面で、社会経験が少ない者を雇い育てる余裕や、当面のあいだ桐生に投資するメリットがないのだろう。そんなこんなで桐生は今、個人作業が主な新聞配達と清掃業、あとは合間に日雇いの重労働をして遥を養っていた。
しかし桐生が神室町に滞在している間、遥はひまわりに預けているので、こうしてしばらくのあいだ金を稼がずとも誰に咎められることはない。
「なら桐生ちゃん、ここでバイトせんか?」
「え?」
あまりに唐突で突飛な、それでいて言葉が少なすぎる提案である。真島の意図を理解することができず、桐生は眉を顰めた。
「ここって……あんたの家でか?」
「せや。家事のバイトやな」
「……どういう意味だ?」
「いくら店締めとるとはいえ、あないな場所やと気も休まらんやろ。ここ自由に使うてええから、その代わり今日みたく飯作ったりしてくれへんか? もちろん金は出すで」
「……仕事としてやる、ってことか?」
「そういうことやな」
おそるおそる尋ねてみれば、真島は嬉しそうに頷いた。
「どうや? 好きなときに来てええんやで」
「う~ん……」
いつの間にか前のめりになっている真島に、桐生はやや引き気味になる。しかし、そんな桐生にも真島はまったく怯まない。それどころか、今にも立ち上がりそうな勢いで全身を前に乗り出す。
「なんなら神室町におる間、ここに住むか?」
「え?」
「2LDK言うたやろ。せやから、一部屋空いとるで」
そういえば先ほど、二部屋ある内のひとつが真島の寝室で、もう一室は空室と言っていた。ひとり暮らしでは部屋が余って仕方ないとも。なるほど、確かに住める場所はある。真島の提案を即座に実行できてしまうだけの環境は整っているというわけだ。
リビングと寝室と空き部屋、そのうちの一室を桐生に提供できると真島は言った。というより、これはもはや、衣食住の提供にあたるのではないか。
桐生は呆れた。いや、呆れよりも驚きの方が大きい。言葉がまっとうな形にならないまま、どうにか平静だけは保とうとした。
真島の提案は「桐生を養う」と同義だ。一緒に住んで家事をやらせ、それでいて食費と光熱費はこの男がまかなうなら、人間ひとりの食い扶持がそのまま増えることになる。
果たしてそんなことが可能なのか。真島の不摂生極まりない生活習慣を放っておくわけにもいかないし、生活を支えたい気持ちもあるが、彼の負担になりたいとは思っていない。
「金ならあるし、お前ひとり増えたところでそう変わらん」
しかし真島は、きっぱりさっぱりと断言した。使わないでいるうちに意図せずたまった貯金。羨ましいはずなのに、どうにも悲しく聞こえてしまうのはなぜなのか。
要は、金もあると。もし真島の貯金を崩すことになったとしても、桐生が神室町に滞在している間、真島が生活と体調を立て直すまでの期間であれば、おそらく真島の懐に一切影響はないのだろう。
そろそろ驚きよりも呆れの方が優ってきた。じわじわと体を満たす、疲労感にも似た何かが、桐生の顔を失笑の形に変えていく。
「……はあ」
けれどそれでも、数時間前にベンチに寝こけていたこの男を見捨てればよかったとは思わない。
「ちなみに兄さん、昨日の飯は」
「あ? 食べ……てへんな」
「……一昨日は?」
「あー……あんパンは食ったな」
何個食べたか聞かずとも、そもそもあんパンは食事になるのか。ならないだろう。少なくとも、今の桐生の常識では菓子パンは食事に含まれない。
「……分かった」
「え?」
「雇われてやる。その代わり、飯は残すな。……あんたが今食ってるものよりまともなものは出せる」
観念した、というより、もはや心配が勝った。この男の生命力は身をもって知っているが、流石にこのまま放置したら寿命が早まるのでは、と一度でも思ったらだめだった。桐生が諦めの息を吐いた一方で、真島は分かりやすく表情をぱっと綻ばせた。
「ほ、ほんまにええんか?」
「このまま放っておいたら死にそうだからな」
「いや、でも今まではこないな感じやったで」
「なら尚更、明日死なねえ保証があるか分からない生活だ」
なんとかなったのが今日までだとしたら、明日は過労死しかねない。真島の生活はそのレベルだ。
ゆえに、この男の生活、少なくとも食生活だけは、なにがなんでもどうにかしてやらねばならない。覚悟は決めた。
「まあ、住み込みでなくてもいい気はするけどな」
セレナから通うには少々渋る距離だが、同じ都内である。仕事だと思えば通勤できないこともない。
けれど、一度首を縦に振ってしまった以上、真島は逃がしてくれない。首を傾げて「ええ」と低く声を漏らすと、まるで子どもらしい顔で桐生を見た。
「そこまであの店で寝泊まりしたいんか?」
「いや、そういうわけでは……」
「お前の懐事情は知らんけど、ここに住めば削減できるもんはあるやろ。光熱費や家賃は俺持ちやし、食費も今日のぶん含めて出したる」
「いや、今日のは俺がしたくてしたんだ。払わなくていいが……」
「せやから」
どうや、と真島がこれまたひどく甘えたような声で言う。そういえばこの人は年下に慕われ年上にも可愛がられていたな、とこんなときにそんな立ち位置で得た経験を発揮するんじゃない、と桐生は恨めしく思った。どちらも、特に後者は当てはまらない桐生に真島のそれはあまりに深く突き刺さる。
「桐生ちゃんが作ったメシは何があっても食う。それだけは約束する」
「う~む……」
頼む、という幻聴にも聞こえる気がする。いや、幻聴なのだろうか。もしかしたら本当に口にしているかもしれない。
やがて諦めた桐生は、目を閉じて天井を仰ぐと、自分の意思の弱さに若干の呆れを感じながら息を吐いた。
「……やっぱり、ひと部屋もらうぞ」
「おう!」
桐生の諦めの言葉に、いったいどういう気持ちなのか真島は満面の笑みで応えた。
はれて、真島建設に次ぐ雇用契約が成立した。あまりにも急な展開だが、真島の健康がある程度確立され、さらには今よりもまともな住居に住めると思えば悪くないのかもしれない。そう思いたい。思うしかない。
「そんで、桐生ちゃんいつ来る?」
「別に、いつからでも構わない」
セレナに置いてある荷物の量などたかが知れている。衣類などを整理して、捨てるものを捨てて。ここに持ってくるものはせいぜい貴重品と服くらいだ。
「なら、掃除だけでもしとくかのう。桐生ちゃんがいつ来てもええようにな!」
「……この家、掃除機の類はあるのか?」
「掃除機ぐらい買えばええやろ」
さっそく金銭感覚のズレが生じている。短期間といえ同居するというのにだ。
よく今の今まで平穏無事に生きてこれたな、と。一応、四歳も年上の男に向けてもいいか迷ってしまう一言だろう。
「いや、全部俺がやる」
「そ、そうか? なら、頼むとするかのう」
結局、引っ越し当日に自分の部屋を掃除する、ということで話はついたのだった。