0.はじめに 日本の国産二大RPG、といえば「ドラゴンクエスト」と「ファイナルファンタジー」であることに異論がある人は少ないだろう。これは両方ともスクウェア・エニックス社のIPであるが、スクウェア・エニックス社は元々スクウェアとエニックスの二社が合併してできたものだ(若い人はピンとこないかもしれない)。 ファイナルファンタジーはスクウェア社側のIPであったが、元々任天堂のファミリーコンピュータ(以下ファミコン)で誕生し、育ったIPだった。任天堂とスクウェアは初めのうちこそ蜜月といって良かったのだが、そこから関係をこじらせ、一時は出禁状態であったことが有名だ。 本記事はスクウェアがどのように歴史を紡ぎ、任天堂と近づき、そして破綻させ、そして再度関係を修復させたかを解説するものである。 1.誕生 スクウェア  まず、スクウェアの創業から解説しよう。徳島県に株式会社電友社という、電気工事会社があった。四国電力の送電線工事を請け負う会社である。この電友社の社長、宮本國一の息子である宮本雅史は早稲田大学に進学したが、在学中にPCの時間貸しビジネスを行っていた。まだパソコンが高価であったため、時間単位で学生相手に貸し出すことが商売として成り立っていた。40‐50台ほどの多種多様なパソコンをそろえていたという。 その経験を活用し、卒業後の1983年、横浜市に電友社のソフトウェア部門として事業所を構える。ソフトウェア部門、という名前だが、実態としては半分がパソコンショップだったり、相変わらずの会員制パソコン時間貸しルームを行っていたりだった。 これは当時としては珍しくなく、桃太郎電鉄や天外魔境で名を馳せたハドソンもパソコンショップを営んでいたし(客に納めるはずのパソコンを勝手に流用してプログラムを作ってたりした)、42年連続黒字決算という記録を現在進行中の日本ファルコムも、もともとはアップルの販売代理店であった。この時期、光栄(現コーエーテクモ)は同じ横浜市でレンタルレコード店を営む傍ら、「川中島の合戦」を開発・販売したり、パソコンを売ったりもしていた。 宮本雅史はこの時期、パソコンやゲームといったソフトウェア産業に対して強い希望を抱いていた。「きっとこの産業は、短期間に、飛躍的にデカくなる。俺は三井物産よりもデカいソフトウェアメーカーを作ってやるんだ」と言っていた。その第一歩が、まさしくスクウェアの設立だった。宮本はソフトウェアの知識はほとんどなかったが、「ゲームだったら作れないけれどもわかる」という意気込みでゲーム作りを進めた。その第一歩として人材収集をはじめるが、その右腕となって働いたのが鈴木尚である。 鈴木尚は浪人生活を過ごした後の1981年に慶応義塾大学に合格、入学していたが、親が「国立に落ちて私立に行った」という理由で仕送りをしてくれなかった。そのため必死に家庭教師のバイトを続ける貧乏学生であったが、とても家庭教師だけでは生活費を賄えなかった。追加のバイトを探すが、見つからない。浪人時代レンタルレコード屋にてバイトをしていたことがあったため、近所のレンタルレコード屋に飛び込みで「バイトさせてください」と志望した。もちろんその店の店長らしき女性からは断られるが、以前レンタルレコード屋でバイトしていた経験を全面に出した結果、採用が決まった。彼は洋楽にとても詳しかったからだ。 ところがそのレンタルレコード屋はとても奇妙な作りで、店の奥には細長い部屋が別個として存在し、そこに慶応の学生たちが出入りし、パソコンでゲームをつくっていた。鈴木は時給50円アップという条件につられ、そちらの事業のほうも手伝うようになった。具体的には毎日毎日やってくる現金書留の山をチェックし、パソコンで作られたゲームを包装し、配送するという作業だった。 そう、このレンタルレコード屋は光栄であり、その店長らしき女性とは襟川恵子社長だった。鈴木はそのまま信長の野望の移植作業に巻き込まれ、必死にプログラミングの勉強をはじめた。 次第に覚え、移植するたびに40万円、50万円という作業料をもらった。これは光栄の売り上げのほんの僅かであったが、学生であった鈴木にとっては大金だった。当時は「こんなぼろい商売ねーな」と思っていたという。 そんな中、アルバイト仲間に誘われ、その知り合いが開いたパソコンサロンへと顔をだした。そこで宮本と知り合うことになる。 宮本は鈴木のことをすぐに気に入り、店員になるよう誘い、鈴木は鈴木で「この貸しパソコンを勝手に使ってゲームを移植すりゃ一儲けできるんじゃないか?」という不純な動機で店員となった。しかし宮本の「俺は三井物産よりもデカいソフトウェアメーカーを作ってやるんだ」発言を聞き、「こいつはアホだ。危ない」と判断し、店から逃げた。 ところが逃げた数日後、ばったり近所の飲み屋で宮本と遭遇してしまう。しばらく宮本になじられ、鈴木は謝り、結局店にまた出るようになった。 鈴木が宮本に「最初になにをやりましょう?」と尋ねたとき、宮本はこう答えた。 「まずは人を集めてほしい」 当時のパソコンゲームはゲームデザインも、シナリオも、プログラミングも、グラフィックも、基本的に同じ人間が一人で作っていた(先のコーエーでも「信長の野望」、「川中島の合戦」は襟川陽一一人でゲームデザインし、一人でプログラミングを行っているし、「ドアドア」も中村光一がキャラクターデザイン以外は一人でやったし、多数の移植作業も一人で行った)。 それを分業制にし、よりいいものを作っていこうと宮本は語った。この発想で鈴木は宮本のことを「ただのアホと違うな」と見直すようになった(ただ分業でゲームをつくるアイデア自体が宮本が初、というわけではないのでご注意を)。鈴木は人材を集めるべく、当時創刊間もないアルバイト求人募集誌、フロムAに求人広告を出した。その時の枠は資金的な問題で一番小さい枠だった。ところが「時給1500円」という当時の相場の三倍程度の時給が載っていた。 鈴木が思わず「本当にそんなに払うんですか?」と確認したところ、宮本は「出さへん」と答えた。いやいや、詐欺でしょ、と詰め寄ったところ、「開発したゲームソフトが売れたら、それに応じた金額を別途支払う。結果的には時給1500円くらいにはなるはずだ」と宮本は答えた。ようするに、ロイヤリティでの後払いを、時給として載せてしまった──というわけである。 この時給の広告効果は絶大であった。40人ほどの学生が応募してきた。その中の一人に坂口博信がいた。後にファイナルファンタジーを生み出すことになる重要人物である。また同時にファイナルファンタジーのゲームデザインを手掛ける田中弘道も友人である坂口の誘いで応募した。面接の際に「時給1500円は払えません」といわれ、全員が目が点になったが。ただ約束通りロイヤリティはちゃんともらえ、坂口は時給1500円を遥かに超える金額を手にすることができた……らしい。 2.始動 スクウェア 彼らが集まって最初に行ったのは、当時ハマっていたAppleIIのアドベンチャーゲームに近いものをつくること、だった。 この頃のアーケードの人気作はゼビウスといったSTGや、パックマンのようなパズルアクションだった。スクウェアの理想としたゲームはそういったものではなく、腰を据えてじっくりと楽しむ、AVGやRPGだった。鈴木がマネジメントを行い、坂口がチームの中心となってシナリオを書きプログラムを行い、田中もプログラムを書いて……と、アルバイトの学生達含めた11人で作り上げたのが1984年発売の「デス・トラップ」だった。 デス・トラップはコマンド入力式アドベンチャーで、諜報員の主人公を捜査し、敵国に誘拐されたジタン博士を救出するのが目的である。 当時としてはまだ珍しいビットマップ方式の一枚絵を出力し、コマンドは日本語カナでも、ローマ字でも、英語でも受け付ける方式を取っていた(コマンド入力アドベンチャーとは、実際にキーボードに 「ミナミ イケ」「アゲル マッチ」といった具合に入力して展開を進ませるゲームである。この手法は当時一般的であったが、ファミコンであらかじめ使えるコマンドが用意されている「ポートピア連続殺人事件」が発売されてから次第に変わっていく)。 華麗なグラフィックスとハードボイルドなストーリーを売りにしたが、このデス・トラップはあまり売れなかった。総出荷本数は3000本程度。これは当時のPC市場から見ても低い水準だった。 しかしデス・トラップはスクウェアのメンバーに経験値を積ませることに成功した。高画質な一枚絵を、当時の貧弱なCPUでなんとか素早く出力させるため、坂口らは試行錯誤を繰り返し、そして徐々に表示速度をあげていった。デス・トラップ完成後も彼らはそのままプログラミングスキルの向上を続けていった。 デス・トラップの開発段階では一枚を表示させるのに1分間のロードが必要だったが、完成品では5秒程度で済むように改善されていた。改善を続け、0.2秒で表示を切り替えることに成功した彼らはPC上で絵をアニメーションさせることを思いついた。 美大出身のデザイナーにキャラデザを依頼し、美少女ヒロイン・アイシャを書かせ、目パチ、口パクを実装……1985年に発売された「ウィル デストラップⅡ」はそのグラフィックとアニメーションで大きな反響を得ることに成功した。 秋葉原の店頭にてデモをかけると、通行人が皆足を止めた、という伝説をつくるまでに至ったこの作品はスクウェア初のヒット作となった。10万本出荷という記録にいたり、PC系雑誌、ログイン誌上での読者人気投票で1985年度18位を獲得している。 そしてこのウィルを開発している最中、スクウェアは当時人気が爆発してきたファミコン向けにソフトを出すため、任天堂とライセンス契約を行った。いくつかの事情が絡んでのことだった。ファミコンが当時年間で1984年で165万台、1985年では374万台出荷されるとんでもないハイペースで売られていた事、それに呼応してソフトも数十万本、百万本と出荷されていたこと、PCと違って単一規格であるため(当時売られていたPCは多種多様だった。NECに限ってもPC80、PC88、PC98などがあり、シャープのX1、富士通のFM-7と、とにかく色々とあった上に、それらに違うバージョンが存在した)、移植の作業量を減らすことができたこと……である。 1985年にはゲームアーツのテグザーをファミコン向けに移植した。が、これのメイン開発は外注である。スクウェアはファミコンのライセンスを7番目に取得した、かなり早期に契約を果たした企業ではあるが、実際に社内で開発を稼働させるにいたるまで少し時間がかかった。ファミコンのスペックと、スクウェアの得意分野がイマイチかみ合わなかったからだ。 スクウェアが得意とするのはビットマップを使った高画質の一枚絵。対してファミコンは、スプライト(背景とは別に動かす図形を描写する方式)を駆使した高速描写だった。スクウェアの源流がPCであるなら、ファミコンは低コストでアーケードゲームを実現するようなハードウェアだった。 シューティングやアクションを遊ぶなら、PCよりも圧倒的にファミコンのほうがいい。しかしそれならゲームセンターで遊んだほうがもっともっと派手なゲームが楽しめる……当時の鈴木はこう考えていて、坂口もアドベンチャーや、RPGこそつくりたいと考えていた。しかしファミコンのスペックではどうしてもミスマッチで、実現は不可能とも思っていた。 3.暗雲 スクウェア こうしたミスマッチを抱えながら、スクウェアは1986年に独立を果たす。今までは電友社の一部門という立場だったが、株を買い取り、正式に株式会社スクウェアを立ち上げた。社長は宮本で、鈴木は取締役、坂口は取締役企画・開発部長となり、アルバイトの立場にいたスタッフたちの多数が正式な社員になった。本社は銀座の昭和通りに面したビルだった。屋上にはVIP用の展望台があったという。 「なぜいきなり銀座に進出したんだ?」と疑問に思われるかもしれない。これは宮本の「人材を集めるには銀座に構えるのが一番良い」という発想があったからだそうで、実際これを機に新たに人が集まってきた。その中にはアクティブタイムバトルの生みの親、伊藤裕之もいた。 PCゲームである「アルファ」「ブラスティー」を発売し、そのグラフィックとアニメで高い評価を得る、そんな状況だった。 スクウェアに追い風が吹いた。「ディスクシステム」の発売である。任天堂はそもそもファミコンの寿命を2-3年程度と見込んでいた。しかし1983年の誕生から1986年の現在まで、ファミコンの出荷は加速し続けていた。ハードウェア的に拡張させ、寿命をもっと延ばすことができるのではないだろうか、的な思惑を孕んでいた。マスクROMではなく、クイックディスクというメディアをつかうことで、セーブができ、ゲームの容量も3倍まで増やすことができた。 ただこのクイックディスク、マスクROMとは違い、ロードに8秒かかる特性がある。80年代初期の保存メディアであるカセットテープと比較したら比類なき速さではあるが、マスクROMと比較するととにかく長い。その使い方を間違えるとロード地獄になってしまう……というものだった。 スクウェアはこのディスクシステムに乗った。「元々PC畑の俺たちならばディスクは容易に使いこなせる!」。そして伝手をつかい、まだファミコンに未参入だったPCソフトメーカーに声をかけ、一気にディスクシステムにソフトを出そう! と呼びかけた。これによって発足したのがディスク・オリジナル・グループ、DOGである。 スクウェアが発売元となり、DOGに参入した会社のソフトを売り出す。参入した会社はPCゲームの移植や、オリジナルのゲームを作る。流通は任天堂の一次問屋集団、初心会が担当する。そうしてディスクシステムにゲームをどんどん売り出していけば、このファミコンブームで一気に儲かるに違いない……。ざっくりいうとこういう構想だった。 この構想は半分くらいは実現した。ディスクシステムは相応に売れた。それに伴いDOGブランドのゲームも一作で20万本ほど売れた。現在の視点から見ると結構な売れ筋である。ところがこれはスクウェアの目標を大幅に下回っていた。 まず、ディスクシステムは単価が安かった。1985年に発売されたROMカセットのエキサイトバイクの小売価格が5500円であるのに対して、ディスクシステムロンチタイトルであるゼルダの伝説は2600円だったし、スクウェア初のディスクシステム用ゲーム水晶の龍は3400円だ。この年スクウェアがPC向けで発売したブラスティーの小売価格は7900円である。しかもPCでは他社に払うロイヤリティが存在しないのに対し、ファミコン向けタイトルは任天堂に製造委託費を割り増しで支払う必要がある。 しかもこの小売価格の中から他に流通経費がかかった。つまり流通担当の初心会の取り分だ。当時のPC市場では問屋の掛け率はさほど高くなく、高利益で売ることができた。しかしファミコン市場を牛耳っている初心会はそうはいかない。掛け率は悪くなり、いうなれば買いたたかれる羽目になった。初心会はそこから二次問屋を経由し、全国の小売店に流通させているので、ものすごくぼっているわけではない(だからこそ毎回20万本という注文がスクウェアに来た)のだが、スクウェアには当時のファミコン流通に対する知識が足りていなかった。 さらにそこからDOG参加企業に開発費を渡すわけだから、スクウェアの利益は薄利といってよかった。そこに銀座の一等地の高額な賃貸料が絡んでくる。スクウェアの経営はじわじわと危機に近づいていった。 この頃のスクウェアの経営難を示すエピソードがある。鈴木が任天堂に支払う製造委託費(任天堂はソフトメーカーに製造委託費を前払いで徴収していた。これを支払えないメーカーはそもそもファミコンに参入しなくてよい、ということだ)を捻出するため、流通担当の初心会を回ったことがある。 > 初心会っていう問屋集団が,ある時期は全くファイナンスの役割を果たしてたわけですよ。あまりに量が大きくなると「すみません,お金ないんですよぉ」って言うと手形をくれるわけです。その手形を担保に銀行からお金を借りるわけです。実質的には,ある日突然ファミコン・ブームが終焉しない限りは,返ってくるだろうという。 当時の任天堂が1メーカーに発売できるソフトの年間本数を制限していた、というのは有名である。しかしディスクシステムにおいてはこの制限がなかったようで、スクウェアは年間で10タイトル以上発売できた。利益を得るためにとにかくタイトルを出した。それらは10万本以上売れ、スクウェアの総売上金額を飛躍的に伸ばすことができたが、同時に支払い金額も伸びたため、経営危機から脱することはできなかった。ほとんど銀座の賃貸料に消えていった、という状況で、家賃を払うためにゲームを作る、という有様だったという。 もちろんそんな自転車操業が長く続くわけがなかった。ディスクシステムは次第に勢いを失い、普及スピードが鈍くなっていった。新しいバンク切り替え技術が導入された結果、マスクROMの容量はディスクシステムを上回り、さらにセーブ機能も実装可能となった。ディスクシステムにメリットは少なくなり、むしろロードのデメリットが目に付くようになってきた。初心会もディスクシステムソフトの発注を絞りはじめ、スクウェアはいよいよ賃貸料を払えなくなった。1987年、スクウェアは銀座を去り、家賃が1/3の上野・御徒町にある古びたビルへ移転した。100人以上いたスタッフの半分はリストラされた。勢いを削がれたDOGは後年に自然消滅している。 この状況下において、坂口は自らの人生を変える一本のゲームソフトと邂逅した。ドラゴンクエストである。 4.誕生 ファイナルファンタジー 当時の坂口は「キングスナイト」「とびだせ大作戦」「ハイウェイスター」と作ってきたものの、どれも自分のなかでは失敗作であったと認識していた。ファミコンというハードの特性と、坂口が目指していた重厚なストーリーものは、やはり一致していなかった。 そんな中にドラゴンクエストと坂口は出会い、衝撃を受ける。 「ファミコンでもちゃんとRPGは実現できるじゃないか!」  名前を入力でき、そのキャラを操作し、他のキャラと話ができ、買い物があり、ヒントを取得し、鍵をあけ、松明で洞窟を照らし、次の街まで冒険する。そして少ないROM容量を極限まで活用しつくすために圧縮技術がつぎ込まれ、多彩なモンスター達がプレイヤーの目を楽しませた。 「RPGはここまで大衆化できるのか」と唸った。ファミコンを有する小学生が説明書なしでもプレイできるよう、城から出ること自体がチュートリアルになっていた。 坂口は会社に頼み込み、「頼むから一度だけ、好きなモノをつくらせてくれ」と直訴した。この時のスクウェアはまだ銀座に本社があったが、経営危機は社員の周知の事実だった。許可が下り、坂口に新規のRPGプロジェクトへのGOサインが出たが、坂口以外の社員は「これで会社は終わりなんだな」と薄々感じていたという。 幸運なことに、新規RPGプロジェクトに必須な人材が当時のスクウェアにある程度揃っていた。プログラマーにはナーシャ・ジベリ、音楽には植松伸夫。彼らはすでにとびだせ大作戦で坂口と一緒に仕事を行っていた。シナリオはスクウェア副代表(営業部門担当)である斎藤哲の友人である寺田憲史が手がけることになった。 寺田はアニメ・特撮の脚本を手がけていた男で、ゲームにはあまり詳しくなかった。詳しくなかったが、坂口との酒の席にて、熱を帯びた口調で「ゲームで人を泣かしてみたい」と言われたことで火が付いた。未知のメディアで面白そうな世界が描けるのではないかと思った。 スクウェアの依頼を受け、ストーリーを作り上げながら、坂口に映画技巧を教えていった。そして寺田はアニメで一緒に仕事をしたことがある(といっても面識があるわけではなかったが)、天野喜孝に連絡をとり、キャラクターデザインを依頼した。天野喜孝は快諾し、いよいよ以て新規RPGプロジェクトが動き出した。坂口はこれに「ファイナルファンタジー」というタイトルをつけた。 坂口は略称が「えふえふ」になるようなタイトルを付けたいと考えていた。だからこそ「Final Fantasy」と命名したわけだが、それとは別に、スクウェアの内情は危機的状況だった。よく言われる「これでもう駄目だったら最後になるから、ファイナルファンタジー」という説は、正しくはないものの、このときのスクウェアの状況的には完全に正しいといえる。 ファイナルファンタジーの開発期間はおよそ10ヶ月だった。これは当時の開発事情からみるとかなりの長期になる。ドラゴンクエスト1から2はおよそ7ヶ月で作られた。ファイナルファンタジーは新規IPのRPGとしては大作だった。 そうして作られていったファイナルファンタジーだが、当初会社側としては「そこまで売れない」と見込まれていた。坂口一人だけが「これは50万本売れるから50万本作ってくれ」と頼み込んでいた。ファイナルファンタジーはROMカセットである。前述の通り、50万本作るためには前金で云億円という金を任天堂に支払う必要があった。その上初心会から注文が来なかった場合は、その在庫を自社で確保する必要がある。リピート発注がくればいいが、来ない場合は給料が現物支給の可能性が生まれる。ほとんど博打といっていい話だった。 坂口は営業活動にも全力を尽くした。この時代、様々なゲーム雑誌が生まれていたが、その編集部にそれぞれファイナルファンタジー実物を送りつけたのである。営業トップである斎藤も初心会を毎晩駆け回って営業活動を行った。毎日、ではなく毎晩であるのは……つまりそういうことだ。 坂口らに幸運な出来事が一つ起きた。この時期、本来87年12月発売予定だったドラゴンクエスト3が来年2月に延期してしまったのだ。初心会は一番売れる年末商戦に、売るための商材を減らしてしまった。かわりになる商材を探し、そしてファイナルファンタジーの存在に気がついた。ドラゴンクエストっぽいRPGで、出来映えは良さそうだった。まあまあ売れるんじゃないか。初心会からの好意的印象があり、40万本の注文がスクウェアにやってきた。そのままスクウェアは任天堂に40万本の発注をかけることにした。これは大きな数字であった。 さらに幸運は続いた。ファミコン通信が、スクウェアから送られてきたファイナルファンタジーの出来に感銘をうけ、発売前の12月25日号で特別付録の特集を組んでくれた。その上、クロスレビューは8.9.9.8点で、同時期発売のウィザードリィの8.8.9.8点より上だった。この広告効果は絶大だった。 結果、ファイナルファンタジーは大量に売れ、リピート販売がかかった。最終的な出荷本数は51万本で、小売金額換算で約30億円売り上げることができた。社員一同が「息を吹き返した」と感じた。坂口は成功を喜び、さっそく続編である2の制作にかかった。次第にユーザーからも「スクウェアというなかなか面白いRPGメーカーがあるぞ」と周知されはじめた。 初心会からも次第にスクウェアは特別視されだしてきた。ファイナルファンタジー2には最初から多くの注文が集まり、在庫管理が大変になった。そしてゲームボーイが誕生し、そこでもゲームボーイ初のRPG、魔界塔士Sa・Gaがスクウェア初のミリオンヒットを刻むと、スクウェアの名声は確立された。ファイナルファンタジー3では100万を超える注文がスクウェアにやってきた。スクウェアは一流メーカーの仲間入りを果たし、そして任天堂からも特別な待遇を受けるメーカーとなった。 5.羨望 ファイナルファンタジー 90年2月にはスクウェアは御徒町のオンボロビルを退き、港区赤坂へ移転した。同時に大阪にも開発部を新設。その規模を拡大していった。この頃からスクウェアは「ドラクエのエニックス、FFのスクウェア」として二大RPGメーカー扱いをされ出してきた。販売本数的にはまだドラクエに見劣りするものの、クオリティは並ぶレベルであった。ゲームボーイにはサガシリーズ、スーパーファミコンにはFF本編と、それぞれ出すソフトが次々にミリオンヒットとなる、という驚異的なメーカーに成長した。 この頃、任天堂がスクウェアとエニックスを特別扱いした理由は「ミリオンメーカーだから」という以外にもう一つある。この二社は任天堂以外にこの主力IPを供給していないのだ。スクウェア、エニックスともに80年代はPCにも注力していたが、ドラゴンクエストは2を最後にPCに展開することは止めてしまったし、ファイナルファンタジーも1はMSXにて展開したが、2以降はPC向けの展開を中止した。スクウェアはPC向けの展開を止め、任天堂機オンリーのメーカーとなり、エニックスもPC向けは展開しないわけではないものの、ドラゴンクエストは任天堂機オンリー、となって任天堂から優遇措置を確保した。 この優遇措置とはどういうことか? ファミコンでは自社生産のROMカセットというものが存在した(ナムコやコナミがその権利をもっており、独自形状のカセットを作って売ることが許された)が、スーパーファミコンでは認められておらず、全て任天堂製だった。任天堂は日本製のマスクROMにこだわり、しばしば自社製品とサードパーティの要求するROMの合計が、取引工場の総生産量を上回るため、欠品することを余儀なくされた。 この場合任天堂は何をするか? 自社含めサードパーティの生産を少しずつ減らして調整……なんてことはしない。自社の分の生産を優先し、サードパーティの生産量を全体的に減らすのだ。任天堂は各社とも注文は受け付けるが、その注文数を左右する権利を有していた。つまり好きなように好きな分だけ減らして調節することができたのだ。 ところがドラゴンクエスト・ファイナルファンタジークラスとなると流石の任天堂でも手を付けられる領域ではなかった。任天堂は公平に、きちんと全てのソフトを吟味し、優先すべきソフトと、そうではないソフトとを区分けした。そしてスクウェアは優先すべきソフトメーカーだった。そうではないソフトメーカーからは、羨望と嫉妬のハーフアンドハーフな視線で見られることになった。 そして他社から複雑な視線を送られる事情がもう一つあった。 この時代、初心会と呼ばれる任天堂の一次問屋が流通の要になっていたことは前述のとおりである。他の、各社メーカーお抱えの問屋もちゃんと別個に存在していたが、やはり初心会の力は凄まじいものがあった。二次問屋を含め、取引する小売店の数は2万5千店とも言われている。 それらの問屋・小売はファイナルファンタジーがでるぞ、とアナウンスがかかると、他のソフトの注文数を絞り、余剰資金を作ろうとするのだ。そしてファイナルファンタジーの注文を一気に入れる。つまり、市場の金をスクウェアが総取りする形になってしまうのだ。その発売日の前後は他のメーカーは受注活動を行っても、大した注文に繋がらなかった。初心会に頭を下げて注文を掴んできたかつてのスクウェアは、次第にその立場を変えていった。 それを他社から見た場合はどうなるか? 「奴らは任天堂のお気に入りであるばかりか、俺らの商売の邪魔をしているぞ」ということになる。ROMの生産数が減らされ、問屋の注文数すら削られる、というわけだ。その当時のスクウェアは競争相手として分が悪すぎた。ファイナルファンタジー5は1992年の12月発売、年末商戦の真っ只中に投下された。これに巻き込まれた他社の営業はたまったものではなかったのではないだろうか。 そんな最中、スクウェアは新たなる体制をつくっていく。創業者宮本が社長から退いたのだ。1991年12月、スクウェア社長の座を協和銀行(後のあさひ銀行、現在りそな銀行)出身の水野哲夫に譲る。本人はスクウェア株を50%以上保有したまま、以前から強い関心を抱いていたアパレル業界に進出することになった。水野社長を開発部門副社長の坂口、管理部門副社長の鈴木が支える集団指導体制となった。 6.混乱 ファイナルファンタジー スクウェアは1994年、株式店頭公開を果たした。その間もスーパーファミコンでミリオンヒットを連発する。それは他社からの羨望と嫉妬を加速させる羽目になった。それを裏付けるような怪しい噂を一つ紹介しよう。 1993年、スクウェアから聖剣伝説2が発売された。その際、あまりにバグが多すぎたため回収し、再生産する羽目になった。これの負債がとてつもなく大きく、スクウェアは経営難に陥った。もう終わりだ……。 実態としてはそもそも回収などされておらず、そのまま消費者のもとに届けられた(小売店にはボスを撃破したあとにはセレクトを押さないよう指導すること、と書かれたFAXが届いた)。一部でこの噂が広まり、他のメーカーのスタッフに届き「スクウェアは危ないらしい」という認識に繋がった。それは事実ではなく願望であった。とにかくこの時代、真偽不明の噂が流通を使って広まっていった。 そんなスクウェアであったが、一つ問題が発生した。任天堂がこの時期トラブルを引き起こしたプレイステーション0に巻き込まれていたのである。プレイステーション0は、もともとソニーが発売予定のスーパーファミコン用CD-ROM拡張機器である(本来はプレイステーションであるが、後に発売されたプレイステーション1と区別をするため、プレイステーション0と呼称する)。 もともとスクウェアはCD-ROM計画に前のめりであり、プレイステーション0用ソフトとして「マルトリ」というプロジェクトを進めていた。鳥山明をキャラクターデザインとして起用し、ジャンプ編集長鳥嶋和彦の協力を得て坂口が指揮を取るRPGで、これがプレイステーション0第一弾になる予定だった。 ところが肝心のハードがでない。いつになってもでない。それどころか任天堂はソニーを見切ったようで、フィリップスと提携し自前でハードを出すという。 ソフトメーカーに混乱が起きた。いったいどうすればいいのか。この辺りの混乱は拙記事にて解説を行っているので興味のある方はこちらも読んで頂きたい。 スクウェアは取り急ぎ開発を続けていたが、やはり出ない。出ない。出ない。しかたなく「完成している分を切り離して、ROMカセットソフト用として発売しよう」という結論にいたった。こうして元の「マルトリ」プロジェクトから離され、完成したのが「聖剣伝説2」である。 聖剣伝説2はミリオン売れ、それとは別にマルトリプロジェクトも進行していた。ところがやはりCD-ROM機はでない。1993年発売予定と1992年時点でアナウンスされたが、93年8月に聖剣伝説2が発売されたあとでもCD-ROM機は姿形を見せなかった。終いにはソニーが自前でCD-ROMを活用してゲーム機を作る……なんて話も聞こえてくる。ここでスクウェアはマルトリプロジェクトを方針転換し、聖剣伝説2と同じようにROMカセットへと転換した。こうして発表、発売されたのが「クロノ・トリガー」である。 このように任天堂のゴタゴタにスクウェアは巻き込まれていたが、次第にCD-ROMの大容量と、3Dポリゴンの描写に興味が向かっていった。90年代当初、アーケードではポリゴンをつかったレースゲームが人気を加速しはじめていた。任天堂もスターフォックスという3DポリゴンSTGを出していた。 この表現方式はゲームに新たな地平を切り開くのではないか……。任天堂はCD-ROM機でゴタゴタしていたが、同時にスーパーファミコンの後継機はしっかりとしたビジョンを見せていた。SGI(Silicon Graphics International Corp。当時の業務用CGワークステーション最大手兼最高性能の会社)と提携し、3Dポリゴン処理機能を前面に押し出す。スクウェアもすぐに3D技術の習得に乗り出した。SGIからワークステーションを購入した。 その習作として当時発売されたばかりのファイナルファンタジー6が選ばれた。そのキャラを3D化し、戦闘するデモを作っていった(これは1995年8月のコンピュータグラフィックスの国際コンベンション、シーグラフにて公開された)。そして同時にスーパーファミコン最後のファイナルファンタジーとなるファイナルファンタジー7も開発を始めていった。 3Dポリゴン技術習得のためにスクウェアは人材獲得に動く。橋本和幸がここで合流した。彼はNHKの『驚異の小宇宙 人体』にて、そのCGを構築するマシンを担当したスペシャリストだった。 問題がいくつか発生した。任天堂が次世代機用の開発キットを用意してくれないのだ。その上送られてくる仕様表の内容もコロコロと変わっていく。橋本は悩みながらもよくある標準的な仕様で、どんなことができるのか坂口らと検討していった。こうして3Dについて深く研究していくと、次第にスーパーファミコンの2D処理で新しいことをするのはもう無理なのではないか、という考えも浮かんできた。その頃、クロノトリガーの開発が難航していたので、とりあえず開発を凍結し、チームをそちらに合流させようということになった。最終的にスーパーファミコン版ファイナルファンタジー7の開発は正式に中止された。 遅れて任天堂から正式な次世代機の開発キットが届いた。坂口らはさっそく何ができるか、模索はじめた。クラウド、バレット、レッドXIIIといったキャラクターがデモ用にデザインされた。 しかし坂口は次第に任天堂の次世代機……ニンテンドウ64に対して不満を抱くようになっていった。これはCD-ROMではなく、スーパーファミコンの延長線上にあるROMカセットだった。容量が足りないのだ。 同時期、SCEがスクウェアに接近していった。是非ともプレイステーションに参入して貰いたい、というのだ。これにたいして坂口やスクウェア経営陣は「我々は任天堂と協力するのが基本姿勢です」とやんわりとしたお断りの態度で済ませた。しかしSCEの態度は堂々としていた。「このことを任天堂に伝えてもよろしいですか?」と聞くと「もちろんです。どうぞ彼らに見せて下さい。我々は私たちが何をしているのか、あなた方に知ってもらいたいだけなのです」と答えた。最終的にプレイステーションの開発キットを置いていった。 スクウェアは本格的に3D用のベンチマークソフト(ハードの性能を測る実演的ソフト)を作り上げ、プレイステーション、ニンテンドウ64両方で実行した。これは2Dのスプライトが画面上で跳ね返る単純なものだったが、結果は驚くべきものだった。プレイステーションの描写性能の半分にも、ニンテンドウ64は達していなかった。 「ハードウェアが標準にも達していない。明らかにパフォーマンスが足りない」 スクウェアから任天堂に何度も要望が送られた。任天堂はそれを貴重な意見として受け止めた……はずだったが、後になって送られてきた改良版でも、パフォーマンスはたいして変わらなかった。 スクウェア内でベンチマークの最適化が行われた。もう少しポリゴンがでるようにならないか、創意工夫がなされた。結果は散々だった。坂口ら、スクウェアの技術陣はニンテンドウ64に失望しはじめた。 スクウェアはこの事実を任天堂に伝えることにした。「CD-ROMを採用すべきです。容量が全く(全く!)足りません」「このN64は帯域幅が足りていません。これでは我々が作りたいと思っているRPGを表現することができません」それらの訴えに任天堂は耳を傾けたが、傾けただけだった。大幅な仕様変更は、結局なかった。 そしてもう一つ、価格にも問題を抱えていた。ファイナルファンタジー6の小売価格は11400円(税抜き)だった。これ以上価格を上げるのは無理なのではないか、という考えがスクウェアにはあった。 この小売価格にはいくつかの事情があった。この時代、任天堂に委託してROMカセットを作って貰ったわけだが、そのROMの容量によって価格は変わっていた。容量が大きければ大きいほど高いのだ。それにセーブ機能を足すと、それ用のSRAMの代金が余計にかかった(なお、この時期拡張用コプロセッサをROMに内蔵するゲームもでてきたが、それもオプション代金を取られた)。 ファイナルファンタジー6は24Mbit(=3MB デジカメの写真一枚分である)だった。それでも容量は足りていると坂口は思っていなかった。ニンテンドウ64で発売予定のマリオ64の容量は8MB。CD-ROMの容量は650MB。その差はあまりに圧倒的であり、これ以上小売価格を上げることも不可能だった。 それに小売価格にはROMカセットだけではなく、流通事情が絡んでいた。初心会や小売店、その他二次問屋といった流通の取り分が半分近くを占めていた。1万円を超える小売価格ではあるが、およそ三割を任天堂に製造委託費として支払い(当時サードパーティ毎に製造委託費は違っていたので、もしかしたらスクウェアはもっと優遇されていたのかもしれない)、半分を流通経費として払えば、スクウェアとしての取り分は2割程度しか残っていなかった。次第にスクウェアは初心会との取引を疑問視するようになっていった。自分たちが直接小売店に卸せば、もっと取り分を増やしたり、小売価格を下げることができるではないか。 ただし任天堂のもとでは流通改革は難しかった。任天堂と初心会の結びつきは95年時点ではなおも強固であった。なにせバーチャルボーイという問題児を初心会に引き取って貰っているのだから。小売店に直接物を卸す、直流通をしたい……と任天堂に申し出ても、OKが出るとは思えない。 以前、任天堂が行ったニンテンドーエンターテインメントというフランチャイズを真似し、小売店にスクウェアブースが設置できるようなシステムを構築しようとした。5万円で特約店として契約できる、というものだったが、任天堂が待ったをかけてそのシステムは空中分解した……という噂があった。この時点ではスクウェアは任天堂の支配下からは脱することができていなかった。 坂口らと、スクウェアの上層部は博打を打つことにした。スクウェアの未来のため、新しいゲームの地平を切り開くため、任天堂の支配下から今こそ飛び立つべきなのだ。 SCEと交渉の席についた。その時に提示したロイヤリティや、数々の条件は驚くほどスクウェア優位だった。SCEの宣伝枠を使って広告してくれることも約束してくれた。さらに国外の広告も二人三脚で行ってくれることも約束した。 スクウェアは1986年の独立以来、海外事業部をつくり、海外に対して力をきちんと注いでいたが、実はセールスはイマイチ振るわなかった(FF1よりも坂口が失敗作とみなしたハイウェイスターのほうが売上は上だった)。これはスクウェアだけではなく、ドラゴンクエストの海外版DRAGON WARRIORも振るわなかった。あまりに売れなかったので、FFシリーズはFF6まで出ているのに、アメリカでは三作しかローカライズされなかった。そのためFF6はアメリカではFF3として発売された。その海外版FF3も日本国内ほど売れなかった。 SCEは信頼たるパートナーだ。スクウェアはそう判断した。そう判断したあと行わなければならなかったのは、任天堂との決別だった。 7.決別 ファイナルファンタジー まず、スクウェア創業者宮本の元へ坂口は向かった。社長を降りたといっても彼は大株主であるし、このような大決断には彼の許可がなければいけなかった。 坂口のプレゼンが終わると、宮本は「この方が良いゲームを作れる、という自信があるのなら……断るのはおかしいだろう。是非、やるべきだ」と答えた。宮本はあいからず、博打を打つのが得意であった。 宮本の許可が下りた後、坂口は京都へと向かった。このとき宮本本人も連れ添った。リードプログラマーの成田賢も連なった。 京都に着いた彼らは、任天堂の山内溥社長に歓迎された。冷えたビールと高級弁当が用意されていた。そしてお茶も差し出された。小言も嫌みも罵声もなく、山内社長は彼らの決断を肯定してみせた。彼らが去るときには軽く背中を叩き、「幸運を祈る」とまで言って見せた。 とても奇妙な光景だが、実は任天堂の精神から見るとさほどおかしくなかった。そもそも任天堂は、最初から「自社のゲームソフトを売るため、自分でハードを作っている会社」だからだ。ファミコンを作ったのは自社のゲームソフトを展開するためで、そこからハドソンとナムコというイレギュラーな存在が現れ、サードパーティへと門戸を開く羽目になった。元々構想になかったため、契約書に本数制限が含まれていないことに後から気がついたくらいだった。スクウェアにニンテンドウ64のスペックの不備を指摘されても、まずは自分たちがつくるソフトが第一だった。スクウェアの得意な高画質ムービーを収録するために、わざわざ遅いCD-ROMを採用することも考えられなかった。 スクウェアは任天堂にとって非常に貴重な右腕ではあるが、同時に絶対に必須な、逃してはいけない企業……というわけでもなかった。彼らが出て行く、というのならば、止める必要を感じなかった。もしかしたら山内は心情的に「あんにゃろうめ、今までの恩を忘れやがって」と思ってはらわたが煮えくり返っていたかも知れないが、それを表に出すことなく、気持ちよく見送ったのだ。 スムーズに任天堂との決別は済んだ。この流れは驚くほど短期間に行われた。1995年9月に入社し、米国スクウェアソフト社長になった丸山嘉浩は、入社時水野社長に「ウチは任天堂と共にある。ウチで働くということは、任天堂で働くことと同じなんだ」と言われた。実際、9月にはスクウェアは任天堂とジャストシステム(ワープロソフト一太郎や、日本語変換ソフトATOKの会社。95年当時はかなりのシェアを誇っていた)と提携し、64DD向けのソフトを開発する合弁会社を立ち上げると発表していた。が、丸山の入社の翌週、水野社長は「やはりソニーに移籍したほうがいいんじゃないか」と漏らしていた。そして年末には、社員一同が次世代プラットフォームがプレイステーションになることを知った。翌年1月には、大々的にCMが打たれた。全国の家庭のTVに、「FFⅦ 始動。」の文字が浮かんだ。 ゲーム業界に衝撃が走った。この時代、「次世代ゲーム機戦争」とマスコミが大きく取り上げていた。王者任天堂に、挑戦者セガ、そして超新星SCEのプレイステーション。一体どこが勝者となるのか? 業界人の見立てがゲーム雑誌以外の雑誌や、新聞に載り、非ゲーマー層の興味をそそった。FF、DQを有する任天堂がやはり優位だ、いや、ニンテンドウ64の発売の遅れは致命的だ。95年の年末商戦では暫定一位はサターンだ、このままサターンが粘り勝ちするかもしれない、そんなコメントが溢れていた。 スクウェアの移籍は一気にその情勢を塗り替える一撃だった。「これはプレイステーションの勝利となるぞ」という見方が増えた。1996年3月にはプレイステーションは24800円に値下げされた。これで一気に出荷台数はうなぎ登りとなった。 しかしスクウェアは任天堂の元から去って行ったが、任天堂はあくまでライバルであって、敵ではなかった。そのことは坂口らも十分わかっていた。今の彼らがあるのは任天堂のおかげだ。仁義は尽くさねばならなかった。 そこで坂口はひとつ案を練った。移籍した理由をあくまで「CD-ROM」一本に絞ったのだ。ニンテンドウ64のプロトタイプでスピードが出ないことは隠匿した。「スクウェアが必要としたのは大容量と低価格のCD-ROMです。だから移籍しました」という名目にした。その後、ニンテンドウ64が発売され、スーパーマリオ64が当時としては比類ない3Dアクションを実現し、スクウェアの技術陣は感嘆したが、後悔はしなかった。やはり、我々が理想とすることは、ニンテンドウ64では実現できない。その結論に変わりはなかったのである。 任天堂も、スクウェアも、お互い仁義を尽くそうと努力していった。しかしその仁義の方向性が、次第にこれからずれてくることを、二社は思い知ることになる。1996年、スクウェアは新しく四国銀行出身の武市智行を社長とし、新体制でプレイステーションに臨んだ。 8.誕生 デジキューブ プレイステーション版FF7の開発がスタートした。スクウェアが初めて作る、本格3DポリゴンRPGである。この時代、ポリゴンを使いこなしている会社といったら間違いなくセガだった。バーチャファイターの影響力はとてつもなく強く、ポリゴンの新しい活用方法の大正解を引いて見せた。まずセガを越えねばならなかった。 そのための投資をスクウェアは惜しまなかった。例えばセガが100万円のマシンを導入したぞ! という話を聞いたとする。スクウェアはどうすべきか? 決まっている。1000万円のマシンを購入するのだ。 デザイナー一人に一台のワークステーションが用意された。SGIへの注文台数は最初4台だったが、PS1に移行することが決定したあと、200台の発注をかけた。これにはさすがにSGIの担当者も驚いた。 1台700万円のハイエンドワークステーション、「SGI・Indigo2」が次々にスクウェアに並んだ。そのほか、Onyx・Challengeといったサーバーを1億円以上の費用をかけて導入した。ソフトウェアも合わせて最先端のものを導入していき、新規投資費用としては20億円以上を突っ込んだ。その上、そこら中に200万円のPS1用開発キットが置かれていた。廊下の段ボールに突っ込んでおかれていて、誰でも自由にそれを扱うことができた(セキュリティはないに等しく、盗もうと思えば容易にそれが行えた)。 この効果は大きかった。様々な人材が最先端の環境をもとめてスクウェアに入ってきたのだ。FF7は凄まじい勢いで開発を進めていった。スクウェアは彼らの能力に見合った給料を用意した。人件費も爆増したが、スクウェアは必要経費として割り切った。 そしてスクウェアは新たな道に進もうとする。自社流通の道である。 もともとスクウェアは初心会流通を用いてゲームを販売していた。初心会はあくまで任天堂の一次問屋の集まりであるため、SCEへと移籍する場合は取引ができなくなる。この時代、SCEが自前で流通を行っていた。SMEの工場でプレスされたCD-ROMはソニーの流通会社ジャレード(現在は株式会社ソニー・ミュージックソリューションズ)を通して全国の小売に配達される。 プレスする量はSCEとサードパーティで相談して決める。しかし最終的な決定権はSCEにあり、しかも在庫少なめ、リピート重視を掲げていたので初期出荷は非常に少なかった。これに反発し、飯野賢治が96年3月にエネミーゼロ事件を起こして離反した。以後、SCEはサードパーティの自前在庫を許すことになる。 スクウェアがSCEと提携した場合、当然このSCE流通を使う……とはならなかった。スクウェアも自前の流通を、別途立ち上げると宣言した。これが「デジキューブ」である。 デジキューブとはスクウェアがSCE流通を使わず、今までのゲーム屋でもなく、コンビニに対してゲームソフトを直接卸す計画である。この計画にセブンイレブンが乗っかった。配送はセブンイレブンが行い、SMEの工場でプレスしたCD-ROMを全国のコンビニに流す。セブンイレブンだけではなく、ファミリーマート、サークルKサンクス、と大手コンビニの多数と契約することができた(唯一ローソンだけは極一部の取扱だけに限られたが、これで人口の9割以上がカバーできた)。出資は100%スクウェアだ(後年にはナムコ、カプコン、エニックス、SCEなどが出資を行った)。 このデジキューブの利点はスクウェアにとって「どこで、何が売れているか?」が明瞭なことだった。POSと連動して売上データが直接スクウェアに届く。初心会流通は二次問屋を経由した場合、いったいどこでどれだけ売れて、どこで在庫が残っているか、スクウェアにはさっぱりわからなかった。それでいて当然初心会の取り分は小売価格に転嫁される。スクウェアは全部自分で管理すれば、取り分は増えるし、小売価格も下がる。データも入ってくる。良いことづくめに思えた。 これにはCD-ROMは必須だった。任天堂が採用していたROMカセットは発注から三ヶ月かかる。例えば小売が品切れを起こし、追加発注をかけたとする。二次問屋で在庫を持っていればよし。二次問屋がなくとも、初心会内に在庫があればそれで対応できる。初心会内にも在庫がない場合はスクウェアに発注がかかるが、スクウェアにすら在庫がなければ任天堂からくるのは三ヶ月後になる。細やかなリピートにはCD-ROMのほうが明らかに対応しやすかった。CD-ROMの場合は一週間ほどでリピートが届いた。 デジキューブはPOSデータを元に、どこのコンビニにどのソフトをどれくらい送るか決める。CS放送をつかい、販促広告を常時コンビニ内に用意する。TVCMも大々的に行い、FF7からこれが始まることを強調した。FF7の初期出荷の8割がこのデジキューブを使って送られ、「ゲーム買うならコンビニだ」のキャッチコピーがTVを飾った。 このデジキューブの社長には鈴木尚がついた(兼スクウェア副社長)。 鈴木はインタビューで初心会流通の不満を露わにした。どこで何が売れているのかわからない、不良在庫の数もわからない、そのうち初心会グループ内部で問屋の倒産がはじまったので、手形が落ちない可能性も出てきた、もっと革新的な流通が必要だ……。 その一方で最低限の仁義を鈴木は忘れていなかった。デジキューブの手本として、NOA(Nintendo of America)のNIMS(Nintendo Inventory Management System)を上げた。NIMSはアメリカ全土の小売店と、NOAの倉庫をコンピュータで繋ぎ、あらゆる小売店の在庫数をリアルタイムで監視して、そして在庫数が規定量を下回ると倉庫のロボットが勝手に動き、棚からソフトを出して小売店に送る自動化システムのことである。これにより二日間でNOAはアメリカ全土の小売店にゲームソフトをおくることができた。我々の目指すべきは、初心会ではなく、NOAのような流通だと熱く語った。 ここで一つ注意をしておかなければならない。NOAがNIMSを作りあげ、先進的な流通機構を有していたのは事実である。ところがそれを作り上げたのは社長の山内溥ではなく、その娘婿である荒川實のほうなのだ。山内は日本国内ではあくまで従来の問屋商売を基本とした。翌1997年にはついに初心会を解散させたが、それでもあくまで初心会の優遇措置だった一律の条件を撤廃しただけであって、以降もその構成問屋と取引を続けているし、流通改革としてニンテンドウ64に個別のシリアルコードをつけた。これを読み取ると、そのデータが任天堂に流れるようにした。これで在庫がわかり、横流しも注視できる。ROMカセットでも任天堂はできることをやっていたといえるのかもしれない。 しかし鈴木はデジキューブを宣伝するときに、あまりにも初心会を悪しき前例にしすぎた。おそらくはここで、山内社長の個人的な限度を超えてしまったのではないだろうか? 娘婿を持ち上げたところで、山内のプライドが充足されることはなかったのであろうし。 山内が反応をしめした。デジキューブについて聞かれたとき、このように返したのである。 > インタビュアー … コンビニエンスストアが新しいゲーム機の販売ルートになることについて、どうお考えですか? > 山内 … 非常に可能性は小さいですね。ゲームソフトを扱っている小売店は、ありすぎるくらいたくさんあります。かりに、扱う小売店が少ない場合には、コンビニという多店舗が参加するのもわかりますが、現実に扱う店は有り余るほどあるんですよ。そこへきて、さらに扱い店を増やすのは、常識的に考えても問題です。 だがデジキューブは動き出した。もう止めることはできない。FF7の初期出荷220万本のうち8割が、コンビニで流通し、そしてあっというまに売り切れた。デジキューブのスタートは、山内の反応とは裏腹に大成功だった。 9.世界 ファイナルファンタジー 日本でのFF7は大成功であり、300万本の出荷に至った。小売価格は6800円だったが、FF6の取り分が2割程度だったのに対して、デジキューブで出荷した分はおよそ半分がスクウェアの取り分だった。つまりFF7は一本あたりの粗利益額でFF6より上だった。もちろんこれは流通経費を含めてのことなのだが、デジキューブが順調に稼働している時は高利益をスクウェアにもたらしてくれた。 スクウェアは海外販路の開拓に向かった。その時の協力なパートナーはSCEだった。SCEは1995年9月にアメリカにてPS1を299ドルで発売し大人気を得ていた。スクウェアの売上げの95%が日本で、残りの4%がアメリカ、1%が欧州だった。なんとかしてアメリカ市場を切り開きたい、とはスクウェア、SCE両方の共通した認識だった。 任天堂と離別したことをきっかけに、シアトルにあったスクウェアのオフィスを閉鎖した(NOAはシアトルにあった)。かわりにロサンゼルス郡の南部のマリナ・デル・レイに開発スタジオを立ち上げた。そしてニューヨークにあるソニーアメリカ内には、スクウェア用の小さなオフィスが設置された。スクウェアが正式にソニーの仲間入りを果たしたことを象徴していた。 スクウェアとSCEは力を合わせ、どうやってこのFF7をアメリカ市場に売り込むか思案した。この時代、アメリカ市場ではRPGのようなターン制戦闘システムやテキストを読んで世界観に浸るプレイはあまり受け入れられておらず、ソニックやマリオのようなアクションが好まれていた(アメリカはウィザードリィやウルティマが生まれた場所であるのだが、その謎を解説する知識を筆者は有していない)。FF7をどう売り込めばいいか。内容の修正は必須だった。マップの出入り口にはマークが追加され、他微調整が行われた。そして二社はプロモーションでの正解を導いた。RPGという言葉を使わなければいいのだ! TVCMが組まれた。SCEはアメリカだけで20億円以上のプロモーション費用をかけた。そのTVCMにはRPGという言葉がどこにもなかった。 30秒のフルムービーはアメリカ市場の若者を魅了した。なんだこのゲームは! よくよく見たら戦闘画面も、移動中の画面もなにも映っていない。てっきりソニックやマリオのような超ド派手なアクションゲームだと思い込んで予約をいれる若者が殺到した。ATARIやNES時代から日本のゲームを追っているゲーマーの一部(例えばAVGNのような)は「FF4から6はどこにいったんだ!?」と混乱したが、些細な出来事だった。この時代、アメリカでも多数のゲーム雑誌が出版されていたが、そのほとんどが表紙にFF7をかざることになった。 アメリカ版FF7は日本の半年遅れの9月に発売されることになったが、12月年内中には100万本出荷を実現した。10万本もいかないFFシリーズが一気に羽ばたいた瞬間だった。最終的にアメリカでFF7は300万台出荷され、日本においてもインターナショナル版として逆輸入された。 余談ではあるが、実際にFF7をプレイしたアメリカの若者たちは衝撃を受けた。「思ってたんと違う!」と。ターン制RPGにはじめて触れる子ばかりだったので、ソニックやマリオのようなアクションを期待していたはずなのに、なんで「ATTACK」や「MAGIC」を選択して次に攻撃するまで待たなければならないのか、理解できなかった。 こんな意味不明なゲームシステムは初めてだ。詐欺にあったような気分だ。綺麗なムービーは見るだけだし、クラウドはうじうじしているし、あろうことかエアリスを殺しやがって! ……ようするに完全にハマってしまったわけだ。二年後に出た続編のFF8も北米で大ヒットした(その広告があまりに実態と違いすぎるため、訴訟が起きたなんて噂もでてきたが、FFシリーズはアメリカの若者に一気に受け入れられていった)。 10.拡大 デジキューブ 話を日本に戻そう。デジキューブはスクウェアが立ち上げた会社ではあるが、スクウェア商品専門の販売会社、というわけではなかった。カプコン、ナムコ、SCE、コナミ、ハドソンといった他の有力ソフト会社の製品も買い取り、それをコンビニに配って売った。攻略本や設定資料集も出版した。このときコンビニに対して、初期出荷分の返品を受け付ける契約だった。コンビニに安心してゲームを置いてもらうことが大事だと考えた上であるし、実際コンビニにゲームが置かれていることが日常化して、消費者に安心感をもたらすことに成功した。 そしてスクウェア得意のRPGから、よりジャンルの幅を広げる必要があった。人材は豊富だったので、それが可能だった。バーチャファイター、鉄拳両方に関わったことがある石井精一が立ち上げたドリームファクトリーに出資を行い、トバルNo1をリリース。体力ゲージのないリアル剣豪対戦格闘ブシドーブレードをリリース、旧コナミの開発陣を使って3Dシューティングアインハンダーをリリース、元クエストの松野泰己を使って本格シミュレーションRPG、ファイナルファンタジータクティクスをリリースと、得意ジャンルの幅を広げていった。 こうして発売されたソフトはまずデジキューブを通じてコンビニにならび、値引きなしの小売価格で消費者の元に届けられた。高利益でスクウェアの経営状況は飛躍した。1997年決算で売上は211億円だったが、98年では414億円に伸びた。営業利益も100億円を超えた。つまりスクウェアは利益率20%越えの超高利益体質を実現させた。 間違いなくスクウェアはこの時代の勝者だった。そして少し時はまき戻るが、RPGのもう一つの雄、エニックスも動いていた。もともとドラゴンクエストはニンテンドウ64用に開発されていたが、これをプレイステーション用へと移籍する、と97年1月に発表した。 その前、96年にエニックス社長福嶋康博は任天堂に二度出向き、説明と謝罪を山内社長に向かって行った。このときも山内は小言も嫌みも罵声もなく、ただ静かに「ああそうか」と語っただけであった。心境は複雑であっただろうが、山内は今回も静かに、去って行くエニックスを見送った。 何事もなかった。その背後に、スクウェアが動いていたと知るまでは。 実はスクウェアは96年初頭、正式にSCEへ参入したとき、伝手をつかってエニックスにアプローチをしかけていた。「一緒にプレイステーションへ移籍しよう!」と。SCEへと仲介し、ロイヤリティを安くすることを確約する。同時に「ニンテンドウ64は駄目だ」と言い伝えた。 エニックスは当初ニンテンドウ64に前のめりだった(ただし実際の開発はあくまで外注だった。エニックスは内部スタジオを有していなかった)が、スクウェアの勧誘と、PS1が想像以上に伸びていることで移籍を決めた。 しかしエニックスはあくまで任天堂との仁義を守ることにした。96年中、SCEとしては年末商戦までにドラクエ移籍を発表して貰い、売上を伸ばしたい旨を申し入れた。これをエニックスは断った。「いくらなんでも年末商戦前にそれをするのは仁義に反する」ということだ。そのため契約は96年中に行われたが、実際に広報するのは97年頭まで待つことになった。 そしてスクウェアが何をしたのか、山内社長の耳に入ってきた。スクウェアとしてはライバル任天堂に勝つための必要策であったかもしれない。しかし任天堂からして見たら、エニックスが仁義を守っているのに対して、あまりに幼稚すぎる所業に見えた。 任天堂と、スクウェア。お互いの仁義が次第にずれていき、そして気温はどんどんと下がっていった。二社の関係は氷点下となり、任天堂はスクウェアに対して実質的な出禁の態度を取った。もっとも、スクウェアが任天堂にアクセスしなかったため、その氷が目に見えることになるのはもっと後なのだが。 11.映画 ファイナルファンタジー FF7は大成功を収めた。逆輸入のインターナショナルも売れ、日本国内で最終的に350万本を出荷したヒットとなった。これは歴代ファイナルファンタジーシリーズトップの数字だった。 坂口ら、スクウェアが考えたのはこの先のエンターテイメントだった。我々はゲーム会社だが、ゲームだけを作っていていいのか? 映画だって作っていいのではないか? ……坂口のアイデアに、橋本も乗っかった。彼はそもそも「ナムコやセガと競争することだけを考えているなら、興味はありません」といってスクウェアに入社した男だった。映画という新ジャンルに乗り込むのはむしろ願っていたことだった。武市社長もゲームのグラフィックスを向上させた先に映画があると睨んだ。スクウェアは映画事業に身を乗り出した。 スクウェアはハワイ・ホノルルに映画スタジオを建てた。坂口と橋本はそちらに移り、映画メインで活動するようになった。映画ファイナルファンタジー計画のスタートである。ちなみになぜハワイなのかというと、日本とアメリカのちょうど中間地点にあり、両方のアクセスが容易だから……というのは表向きの名目で、単純に坂口がハワイ好きだったからだ。 しかしこの事業は、あまり良いスタートを切ったとは言えなかった。 ゲームは小規模開発から次第にその規模を大きくさせていったが、問題はなかった。スクウェアは規模を大きくさせても、そのマネジメントを上手く機能させていた。だが、映画はゲームとは比較にならないくらい規模が大きかった。無数の人員が入り乱れ、それぞれの仕事を行わなければならなかった。坂口が映画のマネジメントを適切に行うには、経験が少なすぎた。 その上、日本とアメリカとで開発の意識が違いすぎた。日本では開発が佳境に入ると夜の10時を超えて働くのはごく当たり前、徹夜の連続も覚悟する。しかしアメリカでそんな働き方は理解されなかった。夜8時にはみんなが帰宅していた。 坂口はゲーム制作で飛び抜けた才能がある男であったが、映画ではそうではなかった。さらに不幸なことに、坂口を適切に批判してくれる人材がこのときスクウェアはいなかった。坂口はハワイの税制優遇措置を一つも活用することがなかった。それは10%だけ現地のハワイ人を雇うと減税が受けられる……といったようなものだったが、坂口はあくまで自分たちのチームにこだわった。もしこの優遇措置を活用していたら、数億円といった費用を減らすことができたはずだが(雇う業種はなんでもよかったので、掃除係でも雑用係でもよかったのだ)。 坂口は映画にこだわり、多額の予算を注ぐようになった。当初、映画の予算は40億円程度を見込まれていたが、すぐにその予算は使い果たした。最終的に150億円が注がれた。これはすべてスクウェアの自己資金だった。ゲームファイナルファンタジーで稼いだ金が、どんどんと映画ファイナルファンタジーに注ぎ込まれていった。 それでもスクウェアなら問題がないはずだった。デジキューブが稼働し、高利益体質を維持しているのなら。問題はそれを維持することが困難になってきた点にあった。 12.暗雲 デジキューブ もともとデジキューブで売られている商品はすべて値引き無しの小売価格販売であった。これはSCE流通の基本理念と通じていて、当初のプレイステーションソフトは値引きなしで売られていた。そもそもCD-ROMは安いのだから、小売価格を下げて、値引きはなくしましょう。在庫も少なくリピード発注を使って下さい、ということだ。新品で利幅を取って、かわりにメーカーが嫌がる中古も排除するというもくろみだった。 しかしデジキューブが立ち上がった直後、96年5月に公正取引委員会がSCEに対して立ち入り検査を行った。SCEが小売店に指導した「小売価格強制」「中古禁止」「横流しの禁止」が、独占禁止法にひっかかるのではないか、という検査である。これに先駆けて96年4月には「発売後、二ヶ月が経過したソフトに関しては、自由に値引きを行って良い」という通達が小売店に向けてなされていたが、そんなもので公正取引委員会は見逃してはくれなかった。厳しい検査がSCEに対して行われた。FF7発売後の97年11月には、SCEは各小売店に対して値下げの自由を通知した。 そもそもSCE流通では返品が認められていなかったが、小売店はどうしても在庫なしの機会損失を受け入れられず、多く在庫を取りたがった(品揃えが悪い店に、なぜ客がくるというのだ?)。そして結果、売れ残った在庫が値下げもできずに圧迫するという悪循環が出来上がっていた。小売店は価格を下げ、不良在庫を放出していった。そして客寄せのため、新作を発売日から割引しはじめた。 デジキューブがこの煽りを食らった。コンビニで販売する以上値引きなし販売にこだわる必要があったが、次第にデジキューブでの売上が鈍化しはじめた。一度はコンビニでゲームを買うことを覚えた消費者層だったが、すぐに値引きなしのコンビニで買うことに違和感を覚え始めていった。……どうして小売価格そのままでゲームを買う必要があるんだ? そしてスクウェアはどうしても全ての商材をデジキューブに回す、という判断ができなかった。既存の小売店にもファイナルファンタジーや、他の商品を卸した。FF7の初期出荷の8割をデジキューブで回したことは過去の出来事となり、じわじわと既存小売店への比率が高まっていった。 ゆっくり、ゆっくりとデジキューブの中に不良在庫が溜まりつつあった。これはデジキューブの構造的欠陥も潜んでいた。 デジキューブは売上予測時にPOSを使うと明言していた。実際、POSデータを元に次は何がどれくらい売れるかを予測していた。しかしこの予測はどんどん外れていった。POSデータを元にした売上予測は不可能だった。娯楽のなかでもジャンルが独特のゲームという媒体は、その需要を読むのが困難だった。当時まだまだ小規模なゲームショップという競争相手が元気で、全体的な需要を捕捉することが不可能だった、というのもあるかもしれない。 坂口が映画のプロデューサーとして未熟だったように、鈴木も流通のスペシャリストとしての経験を積む前に実戦へ赴くことになった。スクウェアは次第にその脆弱性を露わにし、経営的な問題を大きくさせていった。天は二物をあたえないため、当然のことなのかもしれないが。 1999年、デジキューブ社長である鈴木はスクウェアに戻り、協和銀行出身の染野正道社長へとバトンタッチした。 そして崩壊が始まった。 13.歪み スクウェア スクウェアの1999年決算が出た。単体売上で342億円、利益は56億円。デジキューブ含めた連結売上だと717億円、営業利益は82億円。利益率は11%まで落ち込んだ。原因はいくつかある。映画への投資がまだ返ってこない、デジキューブの回転が悪い、この次期オンラインゲームへの投資も始めていたので、そちらの費用もかさむ等など。結果、販売管理費も売上原価も設備投資額も研究開発費も前年度より上がった。 もっとも極端なのは人員だった。1995年には276人だった従業員は、1998年には642人にまで増え、1999年には935人まで増えた。しかもこれは連結ではなくスクウェア単体でだった。デジキューブなど、他のスタジオも合算すればスクウェアは大量の人員を抱えていたが、それに似合う売上げの伸びを見せることができなかった。 経営的にはもっと売れるものを作らねばならない。今までのような好き勝手に作らせるような真似は駄目だ。スクウェアは早期退職を推奨した。……つまり、リストラに走った。 開発リソースをFFシリーズに集中すべきだ、経営陣はそう判断した。そしてこの姿勢に応じ、現場のスタッフがスクウェアから離れた。 まず、ゼノギアス開発チームが離反した。ゼノギアスの売上はスクウェアにとって満足できるものではなかったため、続編を要望している開発チームの意向を却下した。そのため杉浦博英(エアガイツのプロデューサー)、高橋哲哉(ゼノギアスのディレクター)、本根康之(ゼノギアス、クロノ・トリガーのグラフィッカー)らが退社し、ナムコからの出資をうけて1999年モノリスソフトとして独立した。 そして次に1990年からスクウェアに在籍していた藤岡千尋(スーパーマリオRPGのディレクター)が退職した。もともと藤岡はこの時点でデジキューブに席を移していたが、デジキューブとの方向性の違いにより離れることになった。その後、水野哲夫元社長とともに2000年にアルファドリームを設立した。 同じく1990年からスクウェアに在籍していた蒲田泰彦(サガ・フロンティアやクロノ・トリガーのグラフィッカー)が退職し、株式会社ポンスビックを設立した。 聖剣伝説2のグラフィッカーだった亀岡慎一が退職し、スクウェア内にいた5人の2Dグラフィッカーたちを引き連れ株式会社ブラウニー・ブラウンを設立した。この後ろ盾になっていたのは、あろうことか任天堂だった。 これを見た総務や人事もぞろぞろと辞め始めた。スクウェアは次第に機能不全手前に追い込まれていた。 この次期のスクウェアの混乱ぶりを示すだろうエピソードがある。コナミがプロ野球機構と提携し、2000年4月から3年間の実名権の独占ライセンスを取得していた。独占という名目だが、サブライセンスを渡すことは必須とされており、コナミと交渉すればサブライセンスを貰うことができた。スクウェアは「劇空間プロ野球」というソフトを開発中であったため、コナミの元へと出向いた。 コナミは、スクウェアがEAと提携していてFIFAの実名ライセンス権を取得していたので、それとパーターしませんか、と交渉したが、このとき武市社長はEAとの関係があるのでスクウェア単体では決められないと断った(そもそもFIFAと日本のプロ野球の実名権では差がありすぎるし、コナミがFIFAの実名権を取ったらEAが大損害を食らうことは明白だった。いずれにせよEAは許可しなかっただろう)。 コナミとしてはFIFAの実名ライセンスは惜しいが、しぶしぶ諦め、改めて金額面での交渉を続けようとした。が、そこから何故かスクウェアからほったらかしにされてしまった。そしてスクウェアはいきなり劇空間プロ野球の発表を行い、コナミを驚かせるが、これは2000年4月より前に発売すればコナミのライセンスには引っかからなかった。スクウェアとしてはなんとか間に合わせればよかったのだが……なんともならなかった。4月以降に発売延期してしまった。 スクウェアはコナミと再交渉し、サブライセンスを貰わなければならなかった。ところがスクウェアはコナミをそのままほったらかしにし、広告活動を続け、しかも「NPBライセンス認証済み」と謳った。コナミは激怒し、スクウェアに抗議を申し入れた。しかしスクウェアから返ってきた言葉は「ライセンスは侵害しておりません」であった。コナミの面子を全部潰したスクウェアは、この後揉めに揉め、正式に謝罪した後もなかなかサブライセンスを取得できなかった経緯がある。おそらくは法務関係で引き継ぎが上手く行っておらず、コナミからのサブライセンスは不要と思い込んで進んでしまった……ということが起きていたのではないだろうか(その後、コナミもコナミで公正取引委員会から野球機構共々怒られた)。 後にスクウェア社長となる和田洋一が2000年5月に着任するが、それから半年もせずに経理部長、営業部長、広報IR部長、法務部長、知財部長らが辞めていった。 2000年4月、武市社長が引き、会長となると、かわりに創業者鈴木尚が社長へと就任した。そして高利益体質を目指し、開発事業部の統廃合が宣言された。通称FFシフトである。鈴木尚は再建案として「サガシリーズ」「聖剣伝説シリーズ」の凍結を公式に発表したが、すでに開発スタッフは離職した後だった。 スクウェアの斜陽時代が始まった。 14.淀み デジキューブ デジキューブは2000年6月、上場を果たした。果たしたわけだが、2000年度の売上は450億円で、これはFF7発売年の1997年度以下の売上で、しかも経常利益は150億円以上の赤字だった。 売上は基本的にFF頼みで、それに付随して攻略本やサウンドトラックを売った。攻略本はアルティマニアと、最速攻略本を二種類発売する用意周到ぶりだった(FF10ではアルティマニアをさらに二種類用意した)。これはつまり、FFが出ない年では売上が大きく下降することを意味していた。 デジキューブは多種多様な商品を扱えた。PS1だけに留まらず、セガサターン、ゲームボーイ、ワンダースワン(当時バンダイが発売した携帯ゲーム機。スクウェアが注力してFF1と2を発売していた)のソフトも並んでいたが、どうしてもコンビニの一角という都合上、主力ソフトをある程度絞り込む必要がある。そのためFF、DQが比重として大きくなってしまうが、FF、DQは毎年出るわけではなかった。 そしてPS2への移行期が始まった。2000年3月に発売し、累計出荷台数1億5千万台を記録する記念碑的ハードではあるが、この移行にあたってソフトの売上が全体として落ち込んだ。デジキューブは売上増を図って多めに各コンビニへ配分を行なったが、その温度差を食らって多数の返品を受けた。 デジキューブは打開策が必要だった。その打開策は明白だった。2000年、日本中の子供たちを熱狂させていたソフトがあった。そう、ポケットモンスターである。ニンテンドウ64はPS1に大差を付けられ、シェアをイマイチ獲得できずにいたが、ゲームボーイ市場は1996年に発売したポケットモンスター赤・緑によって復活し、98年にはゲームボーイカラーが投入してさらに加熱した。1999年には続編であるポケットモンスター金・銀が発売され、子供たちは夢中で遊んだ。FF7は大ヒットした作品ではあるが、実は1997年の日本のゲームソフト売上一位は、FF7ではなくポケットモンスターなのである(ちなみに96年の一位もポケモンで、98年の一位もポケモンだ)。なお、FF8が発売された1999年の一位もポケットモンスター金・銀だ。 ただデジキューブには任天堂への伝手がなかった。そもそも任天堂が旧初心会問屋以外にポケモンを卸してくれるとは考えづらく、この頃任天堂もゲームキオスク構想としてローソンと提携し、ニンテンドウパワーという端末を置いて書き換えサービスを行っていた。 ゆっくりと、じわじわと、デジキューブに閉塞感が襲いかかってきた。 15.出血  2000年はスクウェア、デジキューブ共に我慢の年であったかもしれない。スクウェアの連結売上(1999年4月-2000年3月)は729億円の過去最高である一方、営業利益は44億円。99年の82億円から半減した形だった。和田洋一は社内の基盤整備に奔放し、坂口は映画制作の最終段階に入った。ここをなんとか乗り切れば、映画ファイナルファンタジーの収入が見込まれるのだ。 FF9が7月に発売され、売上と高評価を獲得した。DQ7も8月に発売され、デジキューブの売上を支えた。 スクウェアとしては8月に東証一部に上場した。それでも相変わらず創業者宮本が50%以上を持っている形ではあるが、より健全な経営を株主にアピールする必要に見舞われた。そのためFF9と同時期に開発開始していたFF10を、2001年3月期に発売することで、過去最高の黒字決算を目指す経営計画を発表した。PS2で初めて発売するFFであるFF10は、きっと消費者の購買欲求を刺激し、デジキューブの経営にも寄与してくれることだろう。サウンドトラックや攻略本だって釣られて大きく動くはずだ……。 残念だが、このスクウェアの目論みは失敗した。FF10は発売延期となり、2000年はFF9に頼った貧弱なスケジュールのままだった。赤字になることが確定的となった。これはスクウェアの創業以来初めてのことであった。株主配当は無配当となった。経営陣は責任を取らねばならなくなった。 武市会長が会長の座から退き、坂口もスクウェア副社長の座を辞任した。武市は特別顧問、坂口はエグゼクティブプロデューサーとしてスクウェアを支える形になった。鈴木社長や和田もこのとき減俸を受けた。 最終的な決算は過去最高売上金額755億円だったが、連結営業利益は29億円の赤字だった。スクウェアの最後の希望は再び、FF10と、映画ファイナルファンタジーの二つのファイナルファンタジーに託された。 かつてスクウェアの窮地を救ったこのIPならば、きっと今回の経営危機を救ってくれるはずだった。映画ファイナルファンタジーは会社の期待を背負い、最後の編集作業へと入っていった。 16.絶望  ファイナルファンタジーという最後の希望がある限り、スクウェアはなんとかなる。その時のスクウェアは漠然とした、そういった危機感のなさに覆われていたのかも知れない。 2001年初頭、このときCFO(最高財務責任者)だった和田洋一は、社内資料で「GBA向けタイトルを供与予定」というものを見た。鈴木社長もこの時マスコミに対して「ゲームボーイアドバンス向けにぜひ供給したい。必要な努力はしている」とコメントを行った。 なんだ、任天堂と水面下で交渉を続けていたのか、これなら一安心……と思ったが、和田が確認してみるとそんな交渉はまったく進んでいないという。それどころか「向こうだってFFは欲しいはずだから、これをきっかけに条件交渉ができるかも」という返事が来た。 すぐにリアクションは来た。それを聞いた山内社長がマスコミを通じてコメントを返したのだ。 「何を言っても自由だが、契約する意思はない。将来的にも可能性は低い」 この瞬間、スクウェアは自らのおかれた立場を理解したといえる。鈴木は任天堂との距離感と気温を測り損ねていた。任天堂とは少しの間疎遠だっただけ、という認識だったが、任天堂は「お前達は出禁だ」と明言するタイミングがなかっただけだったのだ。なにせ、今までスクウェアは任天堂にいくことがなかったのだから。 和田はこれでは出禁が永久出禁になると感じ、関係修復に走る。任天堂とスクウェアの間にはシベリア並みの永久凍土が立ち塞がっていた。まずはこれを溶かさなければならないことを、和田は理解した。 任天堂との関係にはデジキューブも死活問題だった。なんとかポケモンを扱えるようにならないか、そんな声が湧き上がった。2001年7月のデジキューブ株式総会にて、株主から「土下座でもして任天堂商品を扱えるようにするべきでは?」との質問が飛んだが、それに対して染野社長は 「これは、大人の会話でございます。土下座してなんとかなるものなら、いくらでもしますよ」 と返した。スクウェアが土下座をして任天堂と関係修復する見通しはまったくもって不明瞭であるし、デジキューブが任天堂商品を取り扱いできるようになるには成層圏まで伸びたハードルを飛び越える必要があった。 デジキューブはゲームではなく、ゲーム外に活路を見いだした。 その中の一つがミックスキューブである。これはチケットの販売や預金の引き出しができる端末をコンビニ内に設置する、という規格で、デジキューブ他、いくつかの企業の出資で立ち上がった。 しかし上手くいかず、2億円の損失を食らった。 また、キヨスク事業というものをやりだした。コンビニ内に端末をおき、そこでMD(ミニディスク。ちっちゃいカードリッジの中に入っているちっちゃなCDである)への音楽ダウンロードや、ゲームのブロマイドの印刷が有料で行えるサービスである。今のコンビニ端末のご先祖のようなものだが、あまりに先進的で理解されず、売上の数倍の赤字を垂れ流す事業となり、2001年上期で19億円の特損を出した。2002年には黒字転換の予定と資料には書かれていたが、それを信じる株主は少なかったことだろう。 7月、ついにFF10が発売された。初期出荷は210万。このときPS2は500万台以上日本で出荷されていたので、ざっくり所有者の3人に一人は買っている計算に近かった。最終的に250万本FF10は出荷され、スクウェアとデジキューブの経営に一息いれさせてくれた。 そしてついに、映画ファイナルファンタジーが公開された。7月にアメリカで公開され、9月に日本で公開される流れだった。 不評だった。アメリカでは数週間で打ち切りとなった。その風評は日本にも届き、日本の客足にも影響した。なぜか吹き替えは用意されておらず、この時期千と千尋の神隠しが推されていたので、そちらに客足が流れていった。 どう考えても150億円の投資を回収できる要素はなかった。この期でスクウェアは139億円の特損を計上した。スクウェアの経営基盤に大きな亀裂が走った。 スクウェアは抜本的改革の必要性に見舞われた。早急にコストカットを行い、売上げの安定化を図り、かつ、資金をどこかから調達しなければならない。この時CCOだった和田は社長の鈴木とともに各地を回る羽目になった。 17.改革 デジキューブはスクウェアの連結決算から外されることになった。スクウェアの株は24%まで減った(それでも筆頭株主ではある)。これは任天堂へのスクウェアからのサインとなったかもしれない。「機会さえ頂ければ我々はいつでも頭を下げます」という。永久凍土を溶かすためにも気温を上げる必要があった。 当時金を払ってコンテンツを呼んでいたPOL(Play Online。スクウェアが主導していたオンラインポータルサイト。FF11を核に、他社のコンテンツを集めようと画策していた)というサイトがあったが、コレを見直し、各社に頭を下げて規模を縮小した。FF11を残し、ここへ開発資源を集中した。 そして任天堂機(この時代はゲームキューブ・GBA)への展開だ。スクウェアの売上を安定させるには、多種多様なハードにソフトを展開したほうが明らかによかった。PS以外には唯一ワンダースワンにもスクウェアは展開していたが、このワンダースワン、スクウェアのファイナルファンタジー1が最も売れたソフトとして51万本を記録した(厳密にはワンダースワンカラー。初代ワンダースワンではチョコボの不思議なダンジョンが17万本)が、ミリオンまではほど遠く、スクウェアの経営を支えてくれる柱としてはいくらなんでも頼りなさ過ぎた。 一方でスクウェアの窮地を救うべく、盟友SCEが動いてくれた。スクウェアが発行した新株をソニーが買い取ると約束してくれた。およそ149億円であり、これでスクウェアの経営危機はなんとか回避できる手はずだった。ところがこの時、和田は任天堂に出入りを続け、ギリギリのところで関係改善を模索している真っ最中だった。和田はソニーの面子を潰さず、かつ同時に任天堂との復縁を成功させねばならなかった。任天堂から提示される条件は具体性を伴うたびに次第に厳しいものになっていった。同時にソニーからの契約もいくつかの条件を提示されていたが、任天堂との契約に不利になるような要因を丁寧に取り除く必要があった。ファイナルファンタジーシリーズの取扱に関しては、双方が厳しい条件を和田にむけて出していったが、和田に慎重に、慎重に、互いの抜け道を模索していった。 最終的に新株発行の第三者割当は成立した。任天堂側は一定の理解を示してくれたが、それでもまだこの時点では社長である山内との面談には、和田は至っていなかった。 赤字である本決算発表前には、再び経営責任をとらねばならない事態になった。鈴木尚は2002年一月、社長を退きスクウェア会長となった。社長には和田がついた。和田はスクウェアを生かすため、活かすため、選択することを迫られた。映画事業をこのまま継続するのか、というものだ。ホノルルスタジオには大量のCGのスペシャリストがいた。映画制作のスタッフもいた。坂口にも最低限の映画の制作経験がついた。次回作ならばより低コストで、かつ高評価の作品をつくれるかもしれない。 しかし映画には時間がかかる。次回作を作るにしても、1-2年の間、大量のスタッフをホノルルに確保しつづけるのは無理だった。スポンサーを見つけるにしても、すぐに見つかるとも思えない。 ホノルルスタジオは閉鎖が決定した。スクウェアの映画事業は一作で終了した。スクウェアは経営陣の変更、流出したスタッフの補充、そして方針転換による改革を伴いながら、前へ進む必要があった。 そんなスクウェアに、任天堂山内社長がとある策を打っていた。それは結果として、任天堂とスクウェアの関係を修復させる流れとなる。 18.契機、そして和解 2001年11月、山内は「ファンドキュー」の立ち上げを宣言した。これはゲーム専門の投資ファンドで、原資は山内個人の持ち出しだった。一年間でゲームを完成でき、かつゲームキューブとゲームボーイアドバンス両方で連動できるソフトのみ対象として選ばれる。 この立ち上げとあわせ、和田のもとに情報が上がってきた。とあるスクウェアのクリエイターに任天堂から声がかかり、このファンド対象のゲームをつくらないか、と言われたというのだ。ようするに引き抜きだった。 少し遅れ、和田自身にも任天堂から伝手を通ってファンドキューの話が入ってきた。和田はこれを、任天堂からの和解のサインだと理解した。 ファンドキューの話に乗って和解への道を進むか、それともクリエイターの話すら把握できず、引き抜かれるか。和田の社長としての力量が問われていた。和田はすぐにこの話にGOサインを出した。 ファンドキューとの提携話は見る見る間に進んでいった。スクウェア初のミリオンソフトである魔界塔士Sa・Gaを作った河津秋敏がゲームデザイナーズ・スタジオの代表に就任した。このゲームデザイナーズ・スタジオ、元々はスクウェア完全子会社のスクウェアネクストを改組したもので、株の51%が河津へ売却された。 ゲームデザイナーズ・スタジオ、というより河津は見事ファンドキューの審査を突破した。「ゲームキューブとゲームボーイアドバンス両方で連動できるソフト」という題に見事合致して、「ゲームボーイアドバンスをゲームキューブに繋いで遊ぶ」というアイデアを披露したのだ。ゲームデザイナーズ・スタジオは自身では開発機能をもたず、スクウェアに開発を外部委託する形になるが、ようするに任天堂はファンドキューという別組織を作り、スクウェアはゲームデザイナーズ・スタジオという別組織を作り、その二つが手を繋ぐことで手打ちとしたのだ。もしかしたら事実は逆で、「ゲームボーイアドバンスをゲームキューブに繋いで遊ぶ」というアイデアを聞いた山内が、わざわざファンドキューの融資条件を「ゲームキューブとゲームボーイアドバンス両方で連動できるソフト」にしたのかもしれない。結局ファンドキューはゲームデザイナー・スタジオ以外に融資したことはなく、その役目はスクウェアとの和解を果たしたことで終えた。 実はこのファンドキューの立ち上げに先立つ9月、スクウェア創業者宮本と鈴木は、共に任天堂に赴いていた。ひょっとしたらこの時、揃って山内へと頭を下げていたのかも知れない。そして、山内はずっとそれを待っていたのかも知れない。ただこの時は、具体的な提携や和解といった話までは至らなかった。 ファンドキューの立ち上げ後、和田はついに、任天堂最上階、山内社長の応接室に招かれた。そこで仕事の話を済ませたあと、別室で会食を行った。山内の口からはことあることにスクウェア創業者、宮本の話題が飛び出てきた。 > 「エロひげ(当時創業者は髭を生やしていた)は元気か」 > 「あいつはアパレルなんてやっているがうまくいくわけがない」 > 「エロひげがどんだけダメかと言えば、もぉ全然ダメやね!」 長い長い氷河期は、ようやく終わりを告げた。 ファイナルファンタジークリスタルクロニクルは、1年少々というごく短い開発期間で完成に至り、そしてゲームキューブとゲームボーイアドバンスにて発売された。その発表時には、任天堂とスクウェアとの和解がなったことが、大々的に宣伝された。 なお、第三者融資を行ったソニーからは「ソニーのセカンドパーティであっても、ゲームボーイにタイトル供給していく程のアグレッシブさがあった方が良い。スクウェアさんもソニーが支配しようなどとは思っていない。隆々としてPSにタイトルを出してくれればそれでいい」という言葉が和田の元に届いた。任天堂、スクウェア、ソニー、緊張感ある三社の関係は、各社の配慮によりバランスを保つことに成功した。 そして、間をおかず、スクウェアは次のステップに進むことを余儀なくされた。 19.合併 2002年5月、ベータテストを経てスクウェアはファイナルファンタジー11の正式サービスを開始した。これは従来のFFシリーズとは違い、オンラインRPGのFFである。あまりの人気ぶりにサービス当初はログインするだけでも大変で、終いにはログインサーバが落ちた……という不手際もあったが、その後PS2では10年以上もサービスを続け、拡張パックがPS2最後の発売ソフトとなって有終の美を飾るほどの人気作となった。なお、PC版は現在でも稼働中である。 オンラインRPGの月額料金はスクウェアの経営を立ち直らせるのに十分だった。9月には有料会員が12万人を突破した。彼らは毎月毎月、スクウェアに使用料を支払ってくれた。 そして、和田のところへ、エニックス社長の本多圭司が相談にやってきた。合併の申し出である。ソフト開発費の高騰に、オンラインゲームの展開、当時普及し始めた携帯電話ゲームへの進出、海外への広がり……。課題は山積みであったが、エニックス、スクウェアともに共通するところが多かった。ここで合併し、マンパワーを集中化することで、この時代の新たな地平を切り開くことができるのではないか、そういった意味合いが込められた申し出だった。 話はスムーズに進み、2002年11月には合併が公表された。存続会社はエニックスだが、合併後の社長は和田が務めることになった。スクウェアは任天堂との関係を改善させたのち、改めて合併後の新体制へと移ることとなった。 20.ファイナルファンタジー スクウェアの歴史は終わり、スクウェア・エニックスの歴史が始まった。ファイナルファンタジーは現在でもシリーズが継続しており、昨年は最新作の16が発売されている。今年は7のリメイク三部作の二作目(ややこしい)であるファイナルファンタジーVII リバースが発売された。 生みの親、坂口博信はスクウェアを退社後、ミストウォーカーを創設。その後も「ブルードラゴン」「ラストストーリー」「テラバトル」「FANTASIAN」と、プラットフォームを変えつつ様々な新作ソフトをリリースしている。 橋本和幸はスクウェアを退社後、2006年にハワイにバーチャルリアリティ特化開発会社、Avatar Realityを立ち上げた。Blue Marsという、今で言うところのメタバース的な、セカンドライフの延長線上にあるような仮想空間ソフトを作り上げたが、リーマンショックが直撃してしまい、結局会社を畳む羽目になった。ちなみにこのAvatar Realityのアドバイザリーボード(顧問委員会。経営の助言を行うもの)には、山内社長の娘婿荒川實や、テトリスの生みの親アレクセイ・パジトノフが参加している。 その後、NVIDIA Japanのシニアディレクター・エンタテインメント テクノロジー担当として就任したほか、2019年にはdots in spaceを設立し、シリコンスタジオ株式会社の社外取締役を行っている。 鈴木尚は2004年にスクウェアを去った後、楽天の取締役常務執行役員に就任したり、EXILEの事務所である株式会社LDH JAPANの会長についたりと大忙しだった。その後、シンガポールに移り住み、ベンチャー企業に投資するファンド、グローバル・ブレインの現地法人代表を務める。2005年からは個人的な投資先であった広告会社、株式会社PTPの社外取締役に就任と、見事な投資・経営手腕を披露した。 宮本雅史はスクウェアの社長の座を譲った後の1995年、アパレル会社である株式会社エスシステムに移り、FinalStageという女性向けブランドを立ち上げた。このとき、FinalStageはアパレル業界に今までなかったモニター制を導入した。実際に顧客層である女性に試着をしてもらって、その意見を製品に反映し、商品のクオリティを高めていこう、という手法である。これはアパレル業界で話題となり、他社も追従した。しかし市場自体がバブル崩壊後、低迷しつづけたこともあってFinalStageはさほど大きな話題となることができなかった。モニター制が広まった結果、逆に無個性化が進んでしまったことも要因かもしれない。 結果、FinalStageは2006年にLuxjewelとリニューアルし、再スタートを切った。その流れの途中で宮本はアパレルから身を引いた。 宮本雅史は2010年、高齢者向け分譲マンションである「スマートコミュニティ稲毛」を立ち上げた。これはアメリカにあるコンティニュイング・ケア・リタイアメント・コミュ二ティと呼ばれる高齢者向けコンパクトシティ(身体が動く高齢者はレジャー施設で遊び、介護が必要になった場合は必要な施設と人員が近くにいるので、支援を速やかに受けられる)をモデルにしたもので、退職後の高齢者がレジャーを楽しみながら健康寿命を延ばすことを目的としている。マンションの近くにはクラブハウスと大きなグラウンドが併設されている。 彼はこのようなことを語っている。「最後は社会に役立つ事業に」。 元々2004年に山内成介が設立した株式会社レジャーワールドジャパンという会社があった。この山内成介、山内溥の甥であり、成介自身も任天堂に入社し、NOAへ出向したり、1999年には台湾任天堂の社長となったこともあった。2007年に社名を株式会社スマートコミュニティへと変え、そして宮本を会長として据えることで事業を進めていった。かつての関係性から見ると非常に興味深い出来事である。 山内成介は立ちあげ後、社長の座から下りた。これはおそらく政治活動への転身のためと思われる。2012年12月衆議院選挙にて京都三区から出馬した。残念ながら当選はならなかった。 その後、一時宮本が会長兼社長となって事業を引き継いだが、元デジキューブ社長である染野正道と合流する。染野がスマートコミュニティ社長となり、共に今でもこの事業を営んでいる。 スクウェアを立ち上げた者、FFを作った者、FF7で世界に飛翔させたもの。多くの人がいた。そして多くの人が、スクウェアを去った。残ったものはFFを今世代まで繋いだ。去ったものは、別の事業に向かっていった。それはFFを作り上げるときの熱量と違わない情熱が伴っていることだろう。 ファイナルファンタジーが名前に反して今でも続いているように、彼らの挑戦も熱気を伴いつつ、今でも続いている。 ──終わり 後書き お疲れ様でした。 この記事を書くに当たってまず最大の感謝を、スベアキさんに捧げます。スベアキさんにはひとまず先に原稿を読んで頂き、ファクトチェックをしてもらってます。すごく細かなところまでチェックしていただき、助かりました。 『ここ違います』→「えっ? そうなんですか?」→『ええ。ご本人に確認したんで間違いないと思いますよ』 なんてこともあって流石にビックリしました。ありがとうございます。 そういったチェックも含めて包括的な話になるんですが、この記事は私の独自の見解が非常に少ない、引用部分ばっかりで構成されている内容となっています。これはスクウェアという組織が多数の人から注目を浴び、インタビュー資料に困らないからです。スクウェアと、ファイナルファンタジーの人気の高さを改めて体感することができました。ちなみに私の独自的な見解部分は「おそらく」ですとか「ということだろう」といってる箇所なので、非常にわかりやすいと思います。 「と、いうことはこの記事は概ね史実か?」と思われるかもしれませんが、明確に否定しておきます。この記事は物語であり、フィクションです。 まずこの記事を作るにあたって、関係者に改めてのインタビューは行っていません。そして過去のインタビューのクロスチェックを行っていません。その点で明確に、この記事は物語の範囲をでない、と断言できます。 どういうことかというと、「本当にこのインタビュー内容が正しいのか?」という確証が持てないでいます。特にFF7で任天堂から離れるくだり、「本当にこんなにスムーズに上手くいったのか……?」という疑問がどうしても生まれてしまい、坂口氏は任天堂に配慮してこういう証言するようになったんじゃないかな? と勝手に思っています。 また、実際に内容が間違っているという点もありました。鈴木社長の後年のインタビューでは「PC市場ではうちはNo1でしたから」みたいな話もでてきたんですが、これをX上でフォロワーさんに確認してみたところ『絶対に違う』という反応で溢れました。光栄とシステムソフトを除いて、「アニメーション主体のアドベンチャーゲーム」という括りにしても、エニックスという競合相手がいたわけで。なので鈴木社長は話を盛って楽しませるタイプの方なのかな、と思いました。そこらへんを若干割り引いています。 少し話がかわりますが、元ファミマガ編集長のさあにんさんのスペースでお話する機会を頂きました。そこに岩崎啓眞先生が来られました。めちゃくちゃビックリました。現役でゲームの運営を手がけてプロデューサーとディレクターとプログラマーを兼任して、ゲームの歴史関連の記事を書いて、多忙中の多忙の方が、時間を割いて私に説教してくれるという大変貴重な体験をしました。ありがとうございます。死ぬかと思いました。 その時もやはり「ゲームの資料だけ読んで書かれた記事と、直接インタビューして書かれた記事とでは、質がどうしても違う」という話になりました。インタビューから得られる情報量は、やはり膨大なものです。なのでやはり、私の記事はフィクション止まりです。 となるとやっぱりインタビューして回るのか? となりますが、その労力はできる限り初心会関係に使いたいな、と思っています。……スクウェアとファイナルファンタジーに関してのインタビューは、大勢の人がやると思いますけど、初心会関連のインタビューって、たぶん私以外やりたいって人、いないと思うんですよね……? インタビューに必要な費用とか考えるだけでも頭が痛いんですが、なんとかひねくりだそうと思います。ちなみにまだ生活は超絶不安定です。定期収入を求めて色々模索中です。”初心カイ”の活動はまだまとまったお金にはなっていませんが、前編・中編とスクウェア記事を購入してくださった方、本当にありがとうございます。すごく助かっています。 次に何の記事を書くのかはまだ決まっていませんが……ギレンの野望 ジオン独立戦争記のレビューなんていかがです? それではまた、次の記事にて。 二大企業大激突Ⅱ!! スクウェアvs任天堂 前編|初心カイ https://note.com/syosin_kai/n/n1709214a0283 2024/08/16 19:00 二大企業大激突Ⅱ!! スクウェアvs任天堂 中編|初心カイ https://note.com/syosin_kai/n/n9aeb74f8ced1 2024/08/23 19:00 二大企業大激突Ⅱ!! スクウェアvs任天堂 後編|初心カイ https://note.com/syosin_kai/n/nc7a3a7e753fe 2024/08/30 19:00 二大企業大激突Ⅱ!! スクウェアvs任天堂 後書き|初心カイ https://note.com/syosin_kai/n/nedcd99137061 2024/08/30 19:02