掲示板のログ(平成二十八年 一月~十二月 2015.1~12)お名前の敬称は省略しています。
[11997] Re:丹塗りの矢 神奈備 投稿日:2016年12月31日(土)10時3分 | |
かたばみさんへのお返事です。
皆さん、今年も色々教えていただき、また触発をいただき、ありがとうございました。 丹塗矢は、妊娠・誕生へ繋がる説話となっていますので、日光を物体的に表現したものではないでしょうか。 こう考えますと、百襲姫の場合には、朝の出来事で、日光を思わせるのですが、姫を死に至らしめているので、日光ではなく、やはり箸と考え、大物主と百襲姫をつなぐ絆が切れたことの象徴のような気がします。 皆さん、よいお年をお迎えください。 |
[11997] 丹塗りの矢 かたばみ 投稿日:2016年12月30日(金)01時39分 | |
山城国風土記逸文にある玉依日賣と「丹塗り矢」伝承(賀茂建角身命-玉依姫命-賀茂別雷命)。 古事記では三輪山の大物主と丹塗り矢。 古事記の神武天皇(比売多多良伊須気余理比売)でも丹塗り矢。 箸墓の「倭迹々日百襲姫」のホトを箸で突いて、はいささか不自然に過ぎる(^^; これも大物主とのからみでの丹塗り矢の変形じゃないかな。 丹塗り矢の説話は北九州の婚姻儀礼を始発とするのではないか。 海人系譜(南西諸島系-豊玉姫-玉依姫-安曇海人)や味耜高彦根の子孫などによって畿内に運ばれ、その痕跡が丹塗り矢説話ではないかと思っています。 東京では破魔矢に白と赤があります。どっちにするか悩むところ。 来年もまたよろしくお願いいたします。 |
[11996] 麦の害鳥になる鴨 神奈備 投稿日:2016年12月29日(木)21時22分 | |
渡り鳥のカモは マガモ、カルガモ、コガモ 定着のカモは ヒドリガモ 渡り鳥のカモは湿地を好むようですが、ヒドリガモは乾燥地を好むようで、植物の種子や麦の若奈を好むようです。 アジガモ現在ではは巴鴨と言い、マガモに属します。麦の害鳥にはならないようです。 このカモの名を持つのが阿遅鋤高日子根命で迦毛の大御神と称されています。 |
[11995] ヤブ ヤボ 神奈備 投稿日:2016年12月28日(水)14時44分 | |
宮本常一 日本文化の生成 下 文庫 焼畑nことを静岡・奈良・九州の山地では、ヤブ ヤボ と言う。 |
[11994] Re:銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月26日(月)15時28分 | |
神奈備さんへのお返事です。 >この阿遅志貴高日子根命が国譲りに同意したとは書かれていないのは不思議な事です 古事記の八俣の大蛇の段の系譜では 速?佐之男命+櫛名田比売の子が八嶋士奴美神、以下妃は略して 布波能母遅久奴?奴神、深渕之水夜礼花神、淤美豆奴神、天之冬衣神、大国主神 (ここで古事記がやらかしてくる(^^; ) 大国主神、またの名は大穴牟遅神と謂ひ、またの名は葦原色許男神と謂ひ、またの名は八千矛神と謂ひ、またの名は宇都志国玉神と謂ひ、併せて五つの名有り。 しかし、大穴牟遅は「同じ古事記」で速?佐之男の娘の?勢理?売に婿入りしています。 これだけでも「古事記の別名」が信用できないのは明らか。 葦原色許男は播磨風土記で天日槍と戦っており、天日矛は崇神紀で亡命者として書かれています。 古事記の系譜を偽とみるなら話は別ですが、それでは古事記全体が信用できなくなる。 大国主とは出雲の領主を意味して個人名ではないという論がありますが、系譜の書き方から見て無理でしょう。 書紀と古事記の書く事象が一致するものがいくつかあります。 古事記の少彦名が帰郷した後に現れる「是の時に海を光らし依り来る神有り」 「吾は倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」とのりたまひき。此は御諸の山の上に坐す神なり。 書紀にあって古事記にないのが「こは大三輪神なり、この神の子はすなわち甘茂君・大三輪君等・・」 もうひとつが素盞鳴が出雲の簸の川上に降りてオロチ退治の項での書紀1書の記述。 稻田姫を見そめなはして子を生む。清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠、あるいは清之名坂輕彦八嶋手命 この五世孫が大国主神なり。 素盞鳴と大国主の関係が古事記の系譜と一致します。 書紀に大国主の名がでてくるのはここだけ。 大己貴で国譲りですから大己貴時代以降は書けないはずですが、口が滑ったのでしょう(^^; もうひとつが、天之忍穂耳と天之稚彦と味耜高彦根の説話の部分、略。 古事記の書く大国主だという事象の多くは大穴牟遅あるいは大己貴とすれば混乱はなくなる。 ただし、(真の)国譲りがいつの誰なのかが問題。 ちょいと余談 出雲国風土記の仁多郡三津郷にて 「大神大穴持命御子阿遅?伎日子命、御須髪八握于生晝夜哭之辞不通」 御須髪(みひげ)八握に生ふるまで、昼夜哭き坐して、辞通はざりき 「辞通はざりき」、現代語訳では言葉を話せなかったと解するようです。 (声を発せなかったではないでしょう、泣いているのですから) 辞が通じなかった、とは、言葉の意味が通じなかった、だと思います。 ヒゲが伸びる年齢まで理解できない言語を使っていたということ、すなわち外国語(^^; その後の話は灌漑と水田開発に尾ひれ付きといったところか。 出雲国風土記での「大穴持命」のほとんどは大穴牟遅または大己貴を示す。 山陰における本来の大穴持伝承は縄文系譜の先住者イメージだと考えています。 サヒメ伝承では大穴持神を避けて種まきする、大穴持神には農耕文化を持つイメージがない。 大穴持の文字を表意とみるならば、洞窟に住む人物でしょう。 縄文の洞窟追跡は多数あります。WEBの「日本における洞穴遺跡の研究」PDF参照。 弥生時代に入っても洞窟が使われた痕跡があるようで、これを以て「大穴持」の登場じゃないか。 出雲国風土記での大穴持命の説話の多くは北九州から転送された大己貴の説話で、文字に大穴持が仮借されたと考えています。 (造天下大神だけで神名を書かない場合も多数あって要注意、誘導目的ありとみる) (播磨国風土記には大汝命と小比古尼命の奇妙な説話がありますが、播磨あたりでは大汝と聞き取ったのでしょう) それぞれの年代の特定(起点は素盞鳴とはなにか、天孫降臨とはなにか)。 書紀の書く国譲りの意味(できるだけ早い年代で出雲の存在を抹消する)。 考古学での事象(遺跡年代、北九州での大量の戦死者、銅剣や鏡、銅鐸、などなど)。 これらを複合させて試行錯誤した結果がmyHPの弥生~古墳初期 出雲と天孫シミュレートです。 味耜高彦根は大己貴時代の人物、BC150頃。 九州における出雲と天孫の抗争時代(大量の戦死者遺骨)であって、書紀の書く大己貴時代での国譲りは偽。 当然ながら書紀に建御名方は登場しない。 事代主は登場する、事代主は個人名ではなく祭祀者を意味するからだとみています。 (皇室の八神殿に事代主神が祀られますね) ひょっとすると、ですけれど味耜高彦根も祭祀者(事代主)であった可能性をみるところ。 (辞通はざりき、の後に「良い場所」に至る伝承です) 建御名方は大国主時代の人物、AD30頃。 古事記の書く大国主の国譲りは正しい(子の建御名方が登場)。 ただし、神武に九州を譲るであって、神武朝(委奴国≒倭国)が成立する時代。 味耜高彦根は「国譲り」とは無関係、ということになります。 |
[11993] Re:銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月22日(木)16時33分 | |
かたばみさんへのお返事です。 国譲り神話に出てくる大國主の御子は事代主命と建御名方命とで、二柱の御子神は国譲りに同意しています。 『古事記』では、伊邪那岐大御神、天照大御神と並んで、迦毛大御神と呼ばれる大御神の三柱の一です。また後世になりますが、出雲国造の『神賀詞』に登場する大穴持命とその男子神としては事代主命と共に阿遅須伎高孫根の命です。 この阿遅志貴高日子根命が国譲りに同意したとは書かれていないのは不思議な事です。 天津甕星として征服されていれば、国譲りのお話に出てこなくても不自然ではありません。 天津甕星を倭文神(織物の神)の建葉槌が退治するのも不思議ですが、建甕槌が織物の神を兼ねていても不自然ではなさそうですね。 金星が太陽を横切るのが見えたとしても、その黒点のような物が金星であると認識できたのかどうか、いささか疑問を感じます。それよりも、夜が明ける前に東の空に明るく輝き、太陽が沈んだ後にも西空に鋭く輝く姿に太陽と並ぼうとする星を目ざわりとしたのかなと考えています。 迦毛大御神と称されるのは太陽に並ぶその姿にか、米を収穫した後の寒くなりかかる頃に麦が撒かれますが、そのころに渡って来る鴨が麦の守り神とされたのかもと想像しています。 |
[11992] Re;銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月13日(火)19時53分 | |
>(物部系は田畑と農産物にタッチしない) 「物部海運商社」が扱うのは手工業品。加えて金属資源など。武器も含みます。 先代舊事本紀の天火明の随伴者に「笠縫」なんてのもあります。 若狭の籠神社の籠、手工業品。 すでに消えているであろう「サンカ」。 飛鳥奈良時代の物部支配下の手工業品生産の人々が祖だと考えています。 物部氏の消滅で支配者を失い、新たな支配者には属さなかった人々。 農地は持たない、だが農民のすぐ近くにいた。蓑や笠など農耕用品を作っていたから。 虚偽を含むらしいけど三角寛氏のサンカの研究で「私たちの祖先は神武さんより古い」といった話が事実なら、そのあたりからきていると思っています。 |
[11991] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月13日(火)17時23分 | |
>神奈備さんへのお返事です。 神奈備さんの「迦毛の大御神と下照比賣考」を拝読。 私の場合はマーカーを素戔鳴渡来と天之忍穂耳渡来の年代特定を基準にしていますが、似た結果になるところ少なからずですね。 カモの語源は?ですが、カモとカモ・メで同じという論があるようです。 スズ・メやツバ・メという用法らしい。 九州の鴨の渡りが伽耶経由なら出雲とつながりそうですが、カモ・メなれば海人ともつながる。 奈良盆地の南に、紀ノ川方面から北へ高鴨神社、葛木御歳神社、鴨都波神社と並ぶ。 なんとなく時代の流れに沿って北上しているようにみえます。 高鴨神社がまずありき、迦毛之大御神は大いなる祖先といったところか。 葛木御歳神社では大歳神と高照姫命。海人から離れて農耕へ。 高照姫命は下照比売命と同義で味耜高彦根の流れの痕跡か。 淡路島で大歳神を祀る社が多いのと関係あるんじゃなかろうか。 鴨都波神社は事代主命と下照比売命。 ここでは漁労の痕跡が残る。 これも淡路島で事代主命が多いのとつながるのではないか。 鴨都波遺跡は弥生中期の高床建物と竪穴住居。和歌山の紀伊型甕(弥生中期、突帯文土器)が出土しています。 もっと北東の榛原の四分遺跡では紀伊型甕と大和型甕の折衷型が出土しています。 奈良の開拓は紀ノ川遡上から始まって、伊勢湾の津とつながる(まずは海人の弥生街道で)。 海人の仲人で尾張の天火明系の天甕津媛さんと赤衾さんが結婚・・ 奈良湖の干拓開始(^^; myHPの書庫2 参考図と仮説に奈良湖推定図をアップしてあります(弥生街道を修正)。 干拓地に唐古・鍵遺跡などが登場。 後に廣瀬大社の砂かけ祭、祭神に櫛玉命がありますが、櫛玉命は物部に非ず、天火明だとみます。 (物部系は田畑と農産物にタッチしない) 出雲国風土記に佐太大神の母は支佐加比賣命キサガイヒメとあります(大己貴を治療かな)。 支佐加比賣命は神魂尊の子とされ、出雲国風土記には神魂尊の子が他にも登場しています(名のみ)。 神魂尊(神皇産霊尊カミムスビ)は東シナ海系の(高度な)文化を意味する神と考えています。 少彦名も神魂尊の手からこぼれ落ちた子、薬と酒の神様。 東シナ海系の海人の活動が活発になる年代と考えています(弥生が発達する頃の渡来と交易、BC300頃~か)。 (高魂尊、高木神、は高皇産霊尊タカミムスビは内陸系文化を示すと考えています) このあたりの伝承はウエツフミ(上紀)にいろいろあります。 解読 上紀 http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/ おそらくは海人系譜に伝わった資料がベース。 ただし、上紀は書紀の記述に準じて資料を再配列しているだけで、年代観はゼロどころかマイナス(^^; 無理な配列や挿入によって「疑わしい書」になってしまった。 しかし、「なにがあったか」の事象としての資料価値は高いとみています。 書紀にて少彦名が帰郷した後に、大己貴の眼前に幸魂奇魂がおぼろに現れて大和の三諸山(三輪山)に住みたい、という。 幸魂奇魂とはカノープス星だとみています。 大己貴が今後をどうしようかと自問自答した答えが「三輪山に住む=近畿方面を開拓する」だと考えています。 書紀編纂者が「本当の出雲」を臭わせているわけです。 その流れにあるのが味耜高彦根とその子孫、神魂尊系の親父譲りの長江系の文化を持つ。 最新の水稲や灌漑技術、おそらくは絹も(ただし奈良から弥生絹はでていない)。 祭祀は不明なれどやはり呉越楚など長江系だと思います。 神武朝AD36~AD100頃では楽浪郡経由の文化に変化かもしれない。 甕棺葬もあったはずですが、海人としてはでっかい甕は運びにくい、あるいは寄港地にでかい焼き釜が必要。 九州以東では使われなかった(今後特例的に出る可能性はあり)。 出雲系文化は八島士奴美系(後に大国主)で、素戔鳴から4世代目が赤衾伊農意保須美比古佐和気能命。 山東半島の畑作文化をメインとし、祭祀も山東半島の斉の瑯邪八主だと考えています。 この文化圏のマーカーのひとつが銅鐸(紀元前後頃以降)、もうひとつが方形周溝墓だと考えていますが、まだ調査中。 さて、天甕津媛、天津甕星、甕ミカ(カメ)と壺の違いってなーに(^^; 口が広くてでっかいのが甕だと思ってますけど・・ 辞書ではミカは酒造りの大きなカメともあります、御食ミケに同義ともあります。 津の用法には「なになに・の」の用法と、そのまま「港」を意味する場合あり。 天甕津媛は、天孫系の造り酒屋の普通の港の娘。 天津甕星は天空・の・大きな星(明るい星)、金星だろうと思います。 天御梶日女、天孫系で、御は尊称、梶はそのままカジノキでいいんじゃないかな。 梶は神聖な木、製紙用の繊維を採る木、諏訪大社の神紋。 こちらは北九州か、ちと高貴で味耜高彦根の妻となった。 天甕津媛と天御梶日女はまったくの別人。 星神(香香背男命)を祀る社はけっこうありますね(祭CDによる)。 岡山にも多いので海人御用達じゃないかと思います。岐阜にもあるけど愛知県境(加茂郡)でこれも海人か。 (富山との県境近くの山中にもあるけど、伊弉諾伊弉冉尊と菊理毘賣、彌都波能賣神があって相当に古い可能性あり) 書紀で星神が悪役扱いされたために消えた社が他にたくさんあるんじゃないかな。 (ウエツフミにも星神が少なからず登場) |
[11990] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月11日(日)16時00分 | |
かたばみさんへのお返事です。 ありがとうございます。 天甕津媛命は『出雲国風土記』楯縫郡の条に、『阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女命が、多久の村までおいでになっり、多伎都比古命を産み給うた。』という記事があり、この天御梶日女命も天甕津媛命のことと考えています。だからと言って后が同じなら夫も同じとすることはできないでしょう。多夫多妻の時代でしょうから。この后は出雲国内で二人の夫を持っており、美濃や尾張によく現れたものと感心しています。 この天甕津媛命と天津甕星がよく似た名前で、赤衾さん、阿遅須枳さん、天津甕星さんの関連が何かあるのかなと気にかかります。また、尾張国には星神社が数社鎮座しているのも、面白いことです。 |
[11989] Re: 味耜高彦根 かたばみ 投稿日:2016年11月22日(火)23時32分 | |
画像を忘れました。 鴨の渡りのコース(無断転載ご容赦(^^; ) 伽耶を経由していますね、ただし長崎県の鴨の場合は。 |
[11988] 味耜高彦根 かたばみ 投稿日:2016年12月11日(日)11時52分 | |
味耜高彦根は大己貴の子。古事記の系譜では大国主の子にはなりえない。 味耜高彦根の妃は天御梶日女でいいんじゃないかなあ。 母は宗像三女神の多岐都比賣とされますが・・ 宗像の海人は弥生初期では普通の漁労者でしょう。安曇といっしょに半島経由の避難民の救出にあたったと思います。 その初期開拓者と縄文の結合で遠賀川に「弥生」が登場BC500以降(持論でアマテラスグループ)、遠賀川土器。 古墳時代に入って沖ノ島に祭祀遺跡が登場する。 そういう流れから書紀は「天照大神から宗像三女神誕生」を創作したのだと考えています。 勘注系図では神屋多底姫=多岐津姫としていますが、妥当と思います。 神屋楯比賣は宗像の女性(巫女?)なのでしょう。 大己貴と神屋楯比賣の子が味耜高彦根。 大己貴の女性には因幡の八上比売もいる・・須勢理姫の嫉妬(^^; 因幡の白兎の治療、島根のキサガイヒメの治療、少彦名(大己貴)に通じます。 (佐太神社の佐太大神の母がキサガイヒメ/松江市の加賀神社) このあたり、大穴牟遅や大己貴などが大国主の別名であるなんてことで混乱の極みとなる。 素戔鳴(BC190頃渡来)から10~20年後あたりで味耜高彦根が誕生といったところか。 味耜高彦根には素戔鳴系譜の血はまったく流れていないということです。 東シナ海系海人の父と宗像海人の母の子。 成年になるのはBC150あたり。やっぱり海人で安曇海人と行動を共にしたと思います。 その年代は天之忍穂耳渡来BC150頃と一致します、すなわち天之稚彦説話。 赤衾伊農意保須美比古佐和気能命と天甕津媛は2世代50年ほど後になります。 味耜高彦根系譜が近畿にやってくるとすれば、安曇海人と共に出雲系譜を輸送するとき、本格的な開墾が始まるとき。 子か孫の時代だと思います(すなわち赤衾神と同時代、BC80頃)。 妃とされる天御梶日女は何者か。 天を冠することに注目して天之稚彦の縁者の可能性が高いとみておきます。 カモ氏の祖はいろいろの論がありますが、本質は「鴨」であって味耜高彦根に収束するだろうと考えています。 奈良の高鴨神社の迦毛之大御神ですね。 大己貴(東シナ海系海人≒長江系の稲と鳥)、最新の灌漑技術。瀬戸内展開から畿内へはいった。 奈良湖の干拓開始(^^; 廣瀬大社・・稲、櫛玉命→天火明(物部に非ず)、なんかつながってくる。 ここでも各地の出雲伝承が出雲国風土記に転送されているとみて要注意(書紀では天火明系譜のあいまい化)。 大阪府高槻市の安満遺跡アマから近畿最古とされる水田痕跡が発見されています(弥生初期、おそらく持論の初期開拓者)。 この水田は洪水とみられる砂礫におおわれていて人が歩いた足跡が残ってるそうです。 (遠賀川流域も同時代に洪水で壊滅したとみています) 現在調査中のようですが長期間継続する遺跡なので時代による変化が見えてくる期待があります(マーカーになりうる)。 |
[11987] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月10日(土)00時05分 | |
神奈備さんへのお返事です。 >阿豆良神社は誉津別命を創建の由緒としていますが 阿豆良神社の天甕津媛、興味深いですね。なんでここに・・ 祭CDによると 「今迄誰も祀ってくれないが祠を立て神に祭るなら、皇子の唖は立ち所に治り」 阿豆良神社の祀る天甕津媛命は出雲国風土記では赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(「赤衾神」と略します)の妃とされますね。 出雲の瀬戸内から近畿方面開拓の(本格化の)人物は「赤衾神」だと考えています。 天甕津媛はその状況証拠のひとつです。 赤衾神は素戔鳴から4世代目(櫛名田姫命-八島士奴美の系譜)。 素戔鳴渡来BC150頃とすれば、おおよそBC80前後となります。 池上曽根の発達年代がAD50あたりであること(旧年輪年代のBC50は誤り)。 朝日遺跡の弥生初期~中期~後期での変化のありよう。 総合して天甕津媛は天火明系譜の尾張の女性ではないか。 (政略結婚に近いかもしれないけれど) 北九州では「アマテラスグループ」と素戔鳴系譜、そこへ天之忍穂耳系譜が参入して抗争が激化。大量の戦死者遺骨が出る時代。 それでも、和平を求める動きがあったと考えています、政略結婚。 神名の「天」に注目しています。 赤衾神の母は天之都度閇泥、「天」を関しています(大国主の父も天之冬衣で天を冠する)。 この「天」は天之忍穂耳の系譜であることを臭わしている、と考えています。 (myHPの「弥生~古墳初期 出雲と天孫シミュレート」参照) 九州以東では土地はたくさんあってまだ平穏、開拓に猫の手もほしい時代。 生めよ増やせよ・・そこで登場するのが安産と子育ての神。 赤衾神より妃の天甕津媛命のほうが旦那様より有名となって伝承が残った・・ (出雲国風土記は各地の出雲伝承を島根に転送して記述しているとみています) 天甕津媛は天火明系譜の尾張のお姫様の可能性あり。 天火明系譜なれば、垂仁に「私を祀りなさい」の伝承となるのも妥当、と考えています。 |
[11986] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月 8日(木)20時26分 | |
かたばみさんへのお返事です。 ありがとうございます。 出雲の影響ですが、次のような考えはいかがでしょうか。 阿豆良神社は誉津別命を創建の由緒としていますが、阿遅須枳高日子命の由緒を借りたのではないかと思っています。この女神が祀られていることは、出雲の影響かなと考えてることができます。 |
[11985] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月 8日(木)00時40分 | |
神奈備さんへのお返事です。 >尾張地方に火明命系の海人族がいたのはいつの時代とおかんがえでしょうか。 >中期以降で出雲系になっていますが、何が決めてなんでしょうか。 確実な物証はない時代ですから、考古学的な出土物と記紀や先代舊事本紀の記述などからの「シミュレート」にならざるを得ないです。 天火明については先代舊事本紀の他には、ないといってもいいですね。 天火明の年代は天之忍穂耳の子とされますから、天之忍穂耳渡来BC150頃から1世代あたりで、BC130頃と考えています。 すべからく真偽の問題がからみますが、持論では「何があったか」についてはその源となる事象が存在した、をベースにしています。 出雲系譜が尾張までやってくるには少し時間がかかる。 瀬戸内開拓と奈良開拓が一段落してからだとみています。 銅鐸形式の分布から紀元前後から接触、AD100頃には天火明系譜は出雲文化圏に吸収されたと考えています。 朝日遺跡の大環壕はおそらくは、中国地方で倭国の侵攻が始まる頃、すなわちAD150頃とみています。 天火明(饒速日ではない)、神社としては、尾張一宮の真清田神社くらいかなあ。 国常立尊なども登場で曰く因縁がたっぷりありそうです。 尾張二宮は大縣神社、大縣大神という不明の神様を祀る。 これもなにかありそう、ひょっとすると山がご神体、奈良の大神神社に連なるものがあるか。 熱田神宮は尾張の三宮ですね。縁起は明確ですがこちらは古墳時代に下る。 社殿形式で尾張造りという独特の形式があります。 上記の真清田神社、津島神社、尾張大国霊神社(国府所在地)、高座結御子神社、氷上姉子神社。 明治26年までは熱田神宮も尾張造りだったようです(ウィキペディアによる)。 http://tsushimajinja.or.jp/map.html 津島神社参照 考古学的な代表として、朝日遺跡インターネット博物館→朝日遺跡の変遷、参照 参考図1:その中のイメージ画、厳重に防御された区画とそうでもない区画が書かれていてわかりやすい。 弥生中期後半から竪穴住居が円形から方形へ変化する、といったこともあります。AD150頃か。 尾張は二つの異文化が接触して、特有の文化を作っている、と考えています。 尾張には円窓付土器なんて奇妙な土器もあります。 参考図2 近畿から出土の円窓付土器 この土器は尾張だけじゃない、奈良にもある。 ということは、天火明系譜と出雲系譜は弥生中期頃(紀元前後頃)に接触混合(交易)している可能性あり。 海部氏系図と勘注系図(桂川光和氏)があります。 http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/1-1-tannba.html なんで若狭湾に伊勢の元宮と称する社があるのか(籠神社) なぜ書紀には天火明の系譜がまったく書かれていないのか・・ 神武よりはるか以前に天孫が近畿にあって出雲と接触していてはまずいからだと推定。 瓊々杵尊の妃の別名とはなにか、天火明命の妃との混合処理と推定。 崇神248-273はなぜ奈良から遠く離れた伊勢にみずからの社を置いたのか・・天火明系海人国で安心だったからじゃないか。 などなど・・ これらを説明できる状況とは・・ですね、 |
[11984] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月 5日(月)11時39分 | |
かたばみさんへのお返事です。 > myHPに「弥生の海人」をアップしてあります。 > 小銅鐸出土地の図を改訂しました(どんたくさんの新しい小銅鐸出土地名表による)。 興味深い分布図になっています。 尾張地方に火明命系の海人族がいたのはいつの時代とおかんがえでしょうか。 中期以降で出雲系になっていますが、何が決めてなんでしょうか。 |
[11983] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月 2日(金)17時15分 | |
myHPに「弥生の海人」をアップしてあります。 小銅鐸出土地の図を改訂しました(どんたくさんの新しい小銅鐸出土地名表による)。 小銅鐸と一般銅鐸の違い(分類)とはなんだろう・・どーも理解できない(^^; 単純には銅鐸の側面にヒレ状のでっぱりがあるかないか、じゃないかと思っていますけれど。 小銅鐸は一般銅鐸に先行し、平行もしているようにみえます。 小銅鐸は海人の先遣隊(探査部隊)の実用品ではなかろうか、 使う場所は限定されず、埋めて隠蔽されることもなかった(単に破棄はある)。 持ち運びするので大型化はしなかった。 「一般銅鐸」は農耕民の祭祀用で、使う場所は集落(その土地)に限定される。 「その文化圏」が崩壊したとき「埋めて隠蔽」した、じゃないのか。 持ち運びはしない、後に大型化しても問題はない。 形態で分類、ではなく使う人々と使い方が問題になる、と考えています。 参考図 千葉県木更津付近出土の「小銅鐸」 右と中央の銅鐸は明らかにヒレがある、形態からは普通の銅鐸(農耕祭祀用)とみえる。 だとすれば「一般銅鐸」の東限は千葉となります。 芝野遺跡や菅生遺跡の弥生水田がありますから、移動しない農耕祭祀、で不思議はないはずです。 |
[11982] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月 2日(金)16時59分 | |
神奈備さんへのお返事です。 神社の場合は、平安中頃以降に記紀や先代舊事本紀の影響を受けたものが多いと思います。 単一事象だけでは神社と弥生をリンクさせるのはたいへん難しいと考えています。 複数の事象がなにかをみせてくれるかどうか。 淡路島の神社をCDでざっとながめてみました。 なんか神社の数がずいぶん多いように感じます。 大歳神、事代主命を祀る社が多いですね。 住吉あるいは応神を祀る社も多いですが、これは記紀の神功説話によるところかな。 中筒之男神と表筒之男神を祀るけれど底筒之男神がない社があった。 深読みすれば瀬戸内系海人と太平洋系海人の島であって、日本海系とは関係ないのか?? 事代主命はエビスと同等とみれば海人で不思議はないですが、大歳神はこれいかに・・ 大歳と称する場合は古事記の書く大年神グループのひとりの「御年神」を示すと考えています。 大年神グループは列島へ「弥生文化」を運んだ半島経由で渡来した人々とみています。 ひとつは春秋戦国からの脱出者で戦争避難民、おそらく水稲など高度文化を持つ人々を含む。 ひとつはBC1000以降の寒冷化からの脱出者で環境避難民、こちらはさしたる文化は持たない。 で、縄文と結合して北九州で拡大、これを持論では「アマテラス(グループ)」と称しています。 書紀の書く「天照大神」の原型です。 いわゆる弥生の始まりでもあります(BC500頃からか)。 (遠賀川土器や半島系無文土器) 半島から列島へ渡るそれらの人々(持論で初期開拓者)を救助あるいは輸送したのが安曇(阿曇)海人だと考えています。 本来は南西諸島から北九州あたりの漁労の民(大綿津見神)で、縄文からゴホウラ貝などの交易を行っていた。 後に安曇となって、瀬戸内での輸送も行うようになった。 その痕跡が淡路島の「大歳神」を祀る社の源流にあるのではないか。 記紀では素戔鳴尊の子とされる五十猛命や大屋彦命もこの流れにあるとみています。 屋久島などの杉を知る人物、台湾などのヒノキも(素戔鳴渡来BC190頃よりはるかに古い)。 海人に運ばれて紀ノ川遡上で植林(あいにくヤクタネゴヨウなどは育たなかった(^^; ) 海人が現地で必要とするのは食糧と舟の補修用の木材。 木曽の山中にぽつんと銅鐸がある、この頃には林業集団が登場しているのかもしれない。 |
[11981] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月 2日(金)13時34分 | |
萩原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』に次のようなことが書いてありました。 古代中国では祖霊をよくまつれば季節の運行にも恵まれ、穀物の豊穣がもたされる。という考え方があった。死者の霊魂は地中に埋めた死体とともに地中で暮らし、子々孫々を見守ると言うのが中国の来世観である。 魂魄に分かれて魄は地中にいて、魂は天に上り、時々降りてくる というイメージで、殷の時代に、そのような考え方があったと理解しておりましたが、意外な来世観にぶつかりました。 もし、このような来世観が、日本列島にも来ていたとしますと、銅鐸の祀りは地中の祖霊を祀るという意味がありそうです。 そこへ、いや、魂は天に上るから、天を祀るべきであると、銅鏡の祭祀が優位に立ったと、銅鐸から銅鏡への祭祀の転換を理解することができます。 この来世観、本当なのでしょうか。 |
[11980] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年11月30日(水)15時32分 | |
かたばみさんへのお返事です。 銅鐸は謎の多いく、興味はつきません。 最古の神であろう雷を呼び、豊作を祈願するとか、沼地にスズ(水酸化鉄のかたまり)が生成するようにとか、古代人が祈りに使用したもののようですが、目的などよくわかりません。 地域別の銅鐸出土数と祭神について相関をとってみました。片や約2000年前、祭神数は現在の『平成祭データ』からとったという意味の分かりにくいものですが、何らかの参考になればと計算をしてみました。 基礎資料は、 http://www.kamnavi.jp/doutaknew3.htm にアップしております。 ニギハヤヒ 0.53 海神 0.50 アジスキタカヒコネ 0.49 大国主・大物主 0.05 ヒルコ 0.02 ニギハヤヒとかアジスキは後世にブームがあったような感じのしない神だと思います。それらに若干関係がありそうな雰囲気です。 |
[11979] 弥生の海人 かたばみ 投稿日:2016年11月29日(火)22時43分3 | |
銅鐸分布図に小銅鐸も追加しました、けれど暫定、最新版などで修正中です。 (PDF化の要領がいまいちよくわからない) 小銅鐸は海人の実用品とみていましたが、内陸にもあるのが不可解。 しかし弥生の海人が資源探査で行動をしていたと考えれば・・少なくとも関東では氷解(^^) 海人は土地に縛られず行動範囲が広くかつ移動が速い。 当初は一般的な輸送を行ったと思いますが、金属資源探査に従事する特化集団が登場したと考えています。 出雲系では安曇(阿曇)、大綿津見神の系譜。 西南諸島から南九州や北九州に至る広範囲です。 BC500あたりから中国の戦乱と寒冷化から逃れる人々が半島経由で列島にやってきた。 これの支援で漁労から離れて輸送に特化する海人がいた、これが安曇系海人の起源。 北九州の出雲勢力の拡大と共に瀬戸内への輸送開始。BC150頃からか。 瀬戸内へ運んだのは八島士奴美系の出雲。 そして一部が資源探査に特化、内陸にも入りさらに東北へ。 もうひとつが東シナ海系の海人。代表が大己貴と少彦名だと考えています。 登場はずっと新しく、北九州で弥生文化が形成されてからの渡来でBC180頃からか。 (古事記では少彦名を神皇産霊尊の手からこぼれた腕白坊主とする) 大己貴は素戔鳴の娘の婿となって北九州で勢力を急拡大。 北九州の開拓、福岡平野や吉野ヶ里など。山陰では鳥取あたりまでが行動範囲(因幡の白兎は医療伝承とみる)。 甕棺葬の風習を持ち、中国系の最新技術の導入。 もうひとつが物部系の海人。 原点は安曇と同じく大綿津見神と思いますが、輸送に特化するのは天孫降臨以降。BC130頃か。 天火明に随伴して日向から尾張へ、太平洋岸です。 天火明に随伴していた天之忍穂耳系(長江系)とまじりあった混成グループ。 (すなわち後の物部氏は単一の始祖を持たない) 安曇と同様に一部は資源探査に特化。内陸へも進出。 ただし、こちらには小銅鐸を使う習慣はなかったとみます(九州南岸~伊勢志摩に小銅鐸がない)。 資源探査の第一は鉄と銅でしょう。 安曇の発見したのがまずは琵琶湖の湖成鉄かな。ついで黒姫山の褐鉄鉱、秩父の自然銅、秋田の自然銅、そして岩手の餅鉄。 物部の発見したのは琵琶湖の湖成鉄程度でさしたる収穫なし(^^; おそらく吉野の水銀も両者が発見していると思います。 奈良周辺で安曇と物部(天火明系譜)が接触する。 たぶん、この時代では大喧嘩にはならない。資源を共有できるなら約定締結あたりでOKとみます。 土地に縛られる農耕民ではないから。 そのルートのひとつが伊勢湾(尾張)~琵琶湖~若狭の内陸の道。 (後に若狭での天火明系譜と出雲系譜の鳥鳴海神系譜の結合へ、尾張では朝日遺跡の異文化の二重構造) もうひとつが伊勢湾(津)~奈良~紀ノ川の道。 (こちらでも出雲系譜と天火明系譜の結合へ、記紀では長髄彦伝承の源) 淡路島は安曇海人の瀬戸内での拠点。 伊勢志摩は物部海人の近畿での拠点。 大己貴系海人の拠点は北九州の糸島半島と宗像あたりかな(安曇と共有)。 さて、関東で小田原から北へ内陸部で小銅鐸が発見されています。 安曇は姫川(糸魚川)を遡上して黒姫山の褐鉄鉱を発見。 諏訪の和田峠の黒曜石、信州縄文と東北縄文の交流ルートがあるはずです(碓氷峠経由と思う)。 安曇はここから岩手の餅鉄の存在を知る。 (安曇から碓氷峠を通る途中に巴型青銅器が出土) そのルートの途中で秩父の黒谷の自然銅を発見。そこから南下すれば小田原、舟で自然銅を輸送できます。 後の武蔵国の国府の大国御魂神社は武蔵の六つの神社を武蔵六宮とする。 武蔵六宮の成立そのものが和銅の輸送路ではないか。 で、六宮の並びと小銅鐸の位置が重なります(^^) 関東の内陸での小銅鐸の意味はこれだと思います。 出雲崩壊の時その情報は隠蔽され、秩父の自然銅の存在はAD708まで知られることがなかった。 日本武尊の関東渡来で太平洋航路が復活したとき、随伴者は物部系の海人と兵士でしょう。 そのような過去があったことはつゆ知らず、東京湾の千葉県側へ上陸・・ さて、弥生の製鉄遺跡はまだ発見されていませんが・・ 粒状褐鉄鉱を使う製鉄はタイのバンドンブロン遺跡にBC200頃に登場しています。 (1991に伊那史学会にて褐鉄鉱(鬼板)による製鉄実験に成功) 黒姫山の褐鉄鉱と岩手の餅鉄がクロスするのは諏訪(サナギの鈴あり)。 天竜川を下って浜松なら日本海経由で運び出すよりずっと近道。 安曇の重要な拠点が浜松周辺と小田原周辺にあった可能性大。 |
[11978] Re: どんたくさん かたばみ 投稿日:2016年11月24日(木)10時44分 | |
神奈備さんへのお返事です。 どんたくさんなど、なつかしいお名前です。 >銅鐸が沢山出土している地点については、そのことがわかるような工夫ができたら カシミール3Dという地図ソフトではオリジナルの地名データを記録することができます。 地名を地図にプロットするとそのサブデータ(250文字まで)も記録されます。 (弥生遺跡とか神社といったレイヤ別もできます) また補助データとして画像などを含む任意のファイルをリンクさせることもできます。 私的なデータベースになっています。 それをベースにして全体を把握する目的で、画像ソフトにて色分け銅鐸を地図にプロット。 注目地域では拡大図を作っても良さそうですね。 |
[11977] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年11月22日(火)23時32分 | |
銅鐸は自然神に対する農耕祭祀と考えています(山東半島の斉の瑯邪八主と推定)。 天秤棒のごときに銅鐸を吊して、キンコーンと鳴らしながら田畑を練り歩いていたのではないかなあ。 年代についてはちょいと修正(今後も常に修正がありえます(^^; ) 初期開拓者(BC500以降によって青銅器が持ち込まれることがあっても、例外的と考えます。 持論:須佐之男渡来BC190頃、天之忍穂耳渡来BC150頃がすべての基本です。 少なくともこれ以前に銅鐸は存在しない(小銅鐸を除く≒海人御用達)。 天之忍穂耳渡来後の北九州では戦闘激化、青銅剣の生産優先と考えます。 参考図1 山口県長門市の向津具銅剣(明治時代に土中より出土) 参考図2 佐賀県吉野ヶ里の銅剣(甕棺内)対馬にも同形があるらしいけれど未確認 どうも半島系銅剣の由来と使用者を考えることに目をつぶるような傾向が・・(^^; 参考図3 大分県日田市 吹上遺跡の鉄剣(甕棺内) 北九州甕棺の東限 甕棺から鉄剣がでています。 持論にて甕棺葬は大己貴系譜の出雲と考えています。 大己貴系の海人が前漢か後漢初期に輸入していて不思議なし。 福岡県宗像の田熊石畑遺跡から15口の細身青銅剣出土。BC100~200とされるようですが、いいところかな。 須佐之男系譜と天之忍穂耳系譜、加えて地元縄文+初期開拓者(持論にてアマテラスと称す)の激戦の時代。 北九州の戦死者遺骨が大量にでる時代です。 だがBC100~BC60頃に出雲と天孫の政略結婚がうかがえる(深淵之水夜禮花の妃、淤美豆奴神の妃) 大国主の父の天之冬衣、なにゆえ「天」を冠するのか・・ ある程度の平穏期間もあったと考えています。 最初の祭祀用銅鐸、福田型が登場し得るのはそういう時代だと推定。 島根、鳥取、広島、岡山の福田型銅鐸は、出雲系の先駆者が瀬戸内と山陰へ開拓地探索で運ばれたものと推定。 (広島の福田型は細身銅剣とともに出土) 初期の農耕地開発はBC80頃か、北九州からの福田型銅鐸搬入は紀元前後頃か。 その後、山陰ではさしたる農耕適地なく開発は停滞、銅鐸の搬入はAD36頃(大国主の引退)以前では搬入されず。 瀬戸内では、岡山、兵庫、香川、徳島、河内などの沿岸部の開拓が進み、奈良盆地の発見。 銅鐸の生産が急拡大、おそらくは菱環紐式の始発。生産は岡山か兵庫西部あたりか。 神武朝(AD36-AD100頃)の直前か。 大国主は瀬戸内や奈良の開発が進んでいることをみこして、九州を神武に譲って島根に引退ということです。 山陰開拓は大国主の子の鳥鳴海神系譜が鳥取から若狭まで進出。 使う銅鐸は外縁付紐式から扁平紐式へ変化して、これが山陰にも登場する。AD50~AD150あたり。 銅鐸は作れる場所でどんどん作られた(^^; 弥生の寒冷化がはっきりしてくる時代で、銅鐸が大型化し祭祀も盛大となる時代。 大阪には銅剣鋳型が2ヶ所、奈良盆地には石剣はあるけれど銅剣は出土していません。 奈良は武器の必要のない平穏な弥生世界だったと推定(奈良湖の干拓(^^) )。 名古屋の朝日遺跡も大環壕はあるけれど戦闘痕跡はない。 北九州では神武朝が終了して争乱の時代へ。孝昭105-137、後漢へ王朝交代の使者=後漢書の倭国王師升。 倭国争乱となって邪馬壹国台頭(日向宮崎)、そして卑弥呼登場(新羅本紀、卑弥呼の使者AD173) 淡路島では・・ 南あわじ市の古津路から銅剣14本が出土しています。 そのうちの2本が大分県大分市と広島県尾道市の中型細身銅剣と同じ鋳型の銅剣。 銅鐸に先行する重要なリンクとみています。 この銅剣がいつ持ち込まれたかはなんともいえず、ですけれど。 淡路島に後期型銅鐸がないのは、農耕不向きの土地で初期開拓だけで終了したためではなかろうか。 周囲には大阪や播磨など農耕適地がたくさんある、開拓の主力(人手)はそちらへ展開。 新しい銅鐸を追加する必要がなかった・・ということですね。 現在の淡路嶋の農業はタマネギやレタス。 「古代淡路国の社会・経済的特性」によると、律令時代では海産物と塩が租税だったようで、淡路島は海人の国だった。 (伊勢志摩も類似みたい) 淡路の五斗長垣内遺跡の鉄製品出土詳細を把握していませんが、毎度ヤマタイコクの鉄器うんぬん論・・(^^; この遺跡は周辺で使われた鉄器(農耕具)のリサイクル工房じゃなかろうか。 鉄原料をここへ運んで生産、は考えにくい(褐鉄鉱なら長野県の黒姫山、餅鉄なら岩手、砂鉄はまだ無理と推定)。 破損したりちびてしまった鉄器を再生利用するための工房です。 出荷品のメインは釣り針・・弥生の海人の必需品だと思います。 錆びてめったに残らないと思うけど、広島市の長う子遺跡ナガウネや,福岡県(豊前)徳永川ノ上遺跡などから出土。 |
[11976] どんたくさん 3 神奈備 投稿日:2016年11月22日(火)21時37分 | |
銅鐸については、学者さんも一目置いている どんたく さんにマップを紹介しましたら、次のようなコメントをいただきました。披露します。 大変な労作ですね。 突線鈕式銅鐸は、色を変えて、青色にしている点、わかりやすくていいですね。 あと、銅鐸が沢山出土している地点については、そのことがわかるような工夫ができたら よいのになあ、と感じました。 神奈備の注 http://pcrescue.b.la9.jp/kodai3.html 小銅鐸の出土表は氏の作成です。 http://pcrescue.b.la9.jp/syoudoutaku.html |
[11975] Re: 比屋武 神奈備 投稿日:2016年11月22日(火)21時27分 | |
琉球松さんへのお返事です。 > 琉球の『おもろさうし』など、古文書にも小書きのひらがながありません。 > 王都首里は「しより」などと記されていますから「ショリ」と訓むべきでしょう。 > > 聖地「比屋武」は、実際には「ヤブ」だった可能性はあるかもしれません。 > 「藪」を「ヒャブ・ィヤブ」に近い発音をする古老は多いですね。 > 世界遺産に登録されている首里の「園比屋武御嶽石門」は拝所であり、聖地本体は背後の藪全体ですから「藪薩御嶽」と同じなのでしょう。 > 「藪薩御嶽」の「ツ」が、接続詞「の」だとすると「藪サの御嶽」となり、面白くなるのですが。。 面白いですね。 藪サの御嶽 この サ がまた、社の訛りとすると、どうなってくるんでしょう・ |
[11975] Re: 銅鐸の分布図 かたばみ 投稿日:2016年11月21日(月)17時52分 | |
神奈備さんへのお返事です。 > moritayaさん、移転中のようです・ 面白いと思ったWEBはそのときに保存しておくべきですね。 以前にみたんだけど・・みつからない、というのが結構あります。 プロットミスやプロット忘れ、あります(^^; ま、各種情報を加えてぼちぼち修正。 正確な位置を特定するのがたいへんです。 地名が変更されているとますますですが、古くからある橋は地名の変更や架けかえがあっても橋の名前は残しているみたい。 淡路島など銅鐸のありようについての一考は、また後ほど。 参考図 淡路島の詳細 |
[11974] 比屋武 3 琉球松 投稿日:2016年11月20日(日)12時04分 | |
琉球の『おもろさうし』など、古文書にも小書きのひらがながありません。 王都首里は「しより」などと記されていますから「ショリ」と訓むべきでしょう。 聖地「比屋武」は、実際には「ヤブ」だった可能性はあるかもしれません。 「藪」を「ヒャブ・ィヤブ」に近い発音をする古老は多いですね。 世界遺産に登録されている首里の「園比屋武御嶽石門」は拝所であり、聖地本体は背後の藪全体ですから「藪薩御嶽」と同じなのでしょう。 「藪薩御嶽」の「ツ」が、接続詞「の」だとすると「藪サの御嶽」となり、面白くなるのですが。。。 |
[11973] やぼさ、やぶさ 5/e 神奈備 投稿日:2016年11月19日(土)19時41分 | |
藪と神社 『原始の神社をもとめて』岡谷公二著 amazon中古で400円 に、「ヤボサ神」としての節がありました。以下、内容を若干紹介いたします。 「ヤブサ」は、小さい森や藪に祭られることから「藪」であり、「サ」は「社」の訛りと有力な説としています。 ヤブサ神社の祭神については、「神社帳」の作成を迫られた神職が推測を以て記入したものとしています。 ヤブサ神についての諸説 中山太郎 古い墓の跡が聖地化したもの 『日本巫女史』 三間十郎 開拓。開墾の守護神 『矢保佐神社考』 「戦の神さん」 「火の神さん」 江口司 黄泉の国の神さん 『南島交易とヤブサ』 折口信夫 元古墓で祖霊のある所 『雪の島』 だいたい畑の神 『壱岐民間伝承探訪紀』 谷川健一 古い墓跡を叢祠としたもの ヤボサ神の範囲 対馬・壱岐から九州西海岸全域、薩摩 藪薩御嶽がヤブサと関係があるなら沖縄まで。 ヤボサと朝鮮半島との関係は、今のところ見いだせていない。 大三元さんご紹介の「八幡の藪知らず」は、この藪に入ると出てこられないという祟りの藪のようです。 『 怪異・妖怪伝承データベース』によりますと、佐賀県東松浦郡鎮西町打上の藪墓・藪神については、「誰のものかわからない墓を藪墓といい、発熱・足の痛み・腰痛は薮神の崇りだという。」との解説が なされています、ここはヤブサ神社の多い肥前国松浦郡に属します。 神奈備の家の墓は伊太祁曽神社の南の山中にあるのですが、夏に墓参りの際に、敷地内に竹が二本生えていました。ノコギリなど持ち合わせがなかったので、そのままにして来ました。竹藪というよりまだ竹林の側から中へ組み込まれていくような気がしました。最近の腰痛も気にかかります。 神奈備の感想として、素朴な祖霊信仰の姿なのだろうと思っています。 |
[11972] やぼさ、やぶさ 4 神奈備 投稿日:2016年11月18日(金)15時13分 | |
沖縄のこと 『青草』への投稿から転載します。 琉球神話でアマミクが造ったとされる九つの御嶽の一つに薮薩御嶽(ヤブサツウタキ)があります。アマミクがヤハラヅカサ上陸して浜川御嶽を経由しミントゥン城を安住の地としたとあります。実は薮薩御嶽の名は出てこないのですが、ヤハラヅカサから浜川御嶽とその上の森を総括して薮薩御嶽と称しているようです。以上 http://kamnavi.jp/ok/yahara.htm http://kamnavi.jp/ok/hamagawa.htm 沖縄の御嶽巡りに東御回り(あがりうまーい)というものがあります。初穂巡礼で、国王や聞得大君・神女たち・臣下が一年おきに巡拝したのです。それに薮薩御嶽があります。アマミクの上陸地では唯一の御嶽となります。 この御嶽の名が「ヤブサツ」であり、聞得大君・神女たちのまいるのは、命婦(いちじよ)は「やぼさ社」に常に参ると言う壱岐の風習と似ているように思います。転載以上。 薮薩御嶽を探そうと思ったのですが、「今は個人の住宅の庭の中。」と聞かされて断念しましたが、どうやら森の中に拝所があるそうです。 http://luckluck.me/okinawa/100/yabusatsu_utaki/ さて、祖霊との関連ですが、ここぞアマミクを祭る聖所ということのようで、本土とは性格が少し異なっているようです。 また、琉球松さんが、昔、当掲示板に投稿してくれました。 > 沖縄島にも、南部に「藪薩(ヤブサツ)御嶽」、首里に「園比屋武(ソノヒヤブ・方音 スヌフィアン)御嶽」、今帰仁に「金比屋武(カナヒヤブ・方音 カナフィアン)御嶽」、中部太平洋側にも「藪地(ヤブチ)島」がありますね。 さて、園比屋武御嶽は首里城の門の前です。これらの「屋武」がヤブサの仲間かどうか、今の所よくわかりません。 |
[11971] やぼさ、やぶさ 3 神奈備 投稿日:2016年11月17日(木)20時42分 | |
神奈備さんへのお返事です。 ペギラさんの「古代の謎へ <銅鐸>」は、2016/11/10 15時で消滅し、取りあえず http://pcrescue.b.la9.jp/kodai.html に仮置きされているようです. とどんたくさんから教えていただきました。 |
[11970] やぼさ、やぶさ 3 神奈備 投稿日:2016年11月17日(木)09時33分 | |
壱岐には祖叡社が一つだけ見つかりました。 壱岐では、のぼさ、とも訓でいるようです。 野保佐神社(大己貴尊 事代主命 埴安命) 長崎県壱岐郡石田町筒城東触 野保佐神社(大己貴命 天忍日命 天津大日命) 長崎県壱岐郡郷ノ浦町東触 青草掲示板ログ平二十年 二月 [3582] に、 神奈備が、 「柳田国男翁は『石神問答』で、「ヤボサ社は壱岐の外に薩摩に箭武佐社あり 又筑前に天台藪佐あり」と記しています。」と書き込みました。。 さて、中山太郎著 『日本巫女史』から 少々概略を紹介します。 壱岐国の巫女(イチジョウ)は「ヤボサ」と称する一種の憑き神を有している。同国へ親しく旅行して民俗学的の資料を蒐集された、畏友折口信夫氏の手記及び談話を綜合すると、その「ヤボサ」の正体は、大略左の如きものである。 壱岐のイチジョウの祀る神は、天台ヤボサであって、稲荷様はその一の眷属で、ヤボサ様の下であると云う。そして壱岐の「ヤボサ」については、後藤守一氏が「考古学雑誌」に写真を入れて記載されたことがあるので私は後藤氏から写真の種板の恵与を受くると共に「ヤボサ」の墓地であること_然も原始的の風葬らしい痕跡のあることまで承っていたことがある。而して更に近刊の「対馬島誌」を見ると、矢房、山房、氏神山房、天台矢房、やふさ神などの神名が、狭隘な同地としては驚くほど多数に載せてある。概略以上。 「ヤボサ」とは墓地である。祖先の眠る地であるとの中山太郎氏の結論のようです。 対馬や九州島からの祖神を祀る事と差異はないようです。 |
[11969] Re: 銅鐸の分布図 神奈備 投稿日:2016年11月17日(木)09時31分 | |
かたばみさんへのお返事です。 興味深い分布表です。 おおいに刺激を受けそうです。 moritayaさん、移転中のようです・ 古代で遊ぼ をクリックし、 別図 :2016/11 銅鐸形式と分布(銅鐸年代推定)(PDF) をクリックしますと、到着します。 http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/kodai/sankou/doutaku.pdf |
[11968] 銅鐸の分布図 かたばみ 投稿日:2016年11月16日(水)22時33分 | |
銅鐸の分布図をmyHPにアップしました(別図 銅鐸形式と分布)。 形式を色分けして直感的にイメージできるようにしてあります。 混みあっている部分の出土位置は正確ではありません、形式の表示が優先です。 WEB上の「銅鐸出土地名表」をベースにしています(現在切り替え中のようでアクセスできないみたい)。 ある文化の様式が、古式から新式に変化し継続しているなら、その地域の文化圏は安定に成長していたと考えられます。 怖れ知らずで銅鐸の推定年代を仮定してあります(すなわち銅鐸形式が弥生中期~末期のマーカーにできる、銅鐸編年)。 持論の年代観、ここでは大国主の国譲り(=神武)がベースです。 (もっと早い時代とする論もありますが根拠がみえないので却下(^^; ) 北九州には最古型とその鋳型があるがその後がない。銅鐸文化の始発であったが直後にその文化は消えたということでしょう。 東海の浜松以東は最新型のみ。銅鐸文化の最終時代にその文化がここまで達していたということでしょう。 奈良大阪は銅鐸が密で、AD50頃からAD200頃まで銅鐸文化が栄えていたことがみえます。 岡山県の瀬戸内側も同様。 伊勢湾西岸も規模は小さいけれど同様。 山陰沿岸では後期型の銅鐸がない。大国主引退後に発達したがAD200頃には消滅か。 ただし、内陸部と瀬戸内側には後期型があります・・伝承として葦原色許男と天日矛・・じゃないか。 土佐の田村遺跡の銅鐸は不可思議です。 天火明と物部(の先祖)の拠点だったはず・・古式の銅鐸がありませんし。 ところがAD200頃の後期型の銅鐸出土、この時代では出雲が支配していたとみえます。 特に不可思議なのが淡路島。 古式の銅鐸は多数出土(松帆銅鐸7個など)、だが「銅鐸編年AD100」以降の後期型が存在しない、なぜ?? 周囲には後期型の銅鐸がごろごろしているのに。 五斗長垣内遺跡(ごっさかいと)は鉄器生産集落、32棟のうち12棟が鉄器工房(推定AD100~200頃とされる)。 昨年に国史跡に指定。 また北部に舟木遺跡が発見された(平成27年)。AD100頃とみられる後漢鏡の破片出土。 (後漢への倭国の使者はAD107の倭國王帥升、持論で孝昭105-137 、これ以降は後漢の混乱と滅亡で記録なし) 淡路島は大国主の(九州)国譲り(持論AD30頃)の後に、ここも神武朝に割譲されたのではないか・・ だから後期型の銅鐸はないけれど後漢鏡がある、そして天孫勢力の出雲攻撃のための拠点となった・・ 神武東征説話(持論開化225-248)での東からの攻撃とは淡路島からの攻撃、だが撃退された。 淡路島の周囲は後期型を含めて銅鐸だらけですし。 弥生の青銅、総量で10トンほどらしい、たったの1立方メートルほどです。 この程度なら自然銅の採掘で足りていたのではないかな。 (奈良の大仏で1000トンあたり、江戸時代で年間に5000トンを輸出、生産技術は違うにしても) 九州以東における出雲と天孫の抗争は、「入り乱れて」の複雑な抗争であった可能性あり。 もし、開化が奈良突入に失敗していたら・・ 九州の倭国は食糧不足と混乱で崩壊するのは同じとして、天孫系譜のあらかたも消滅(^^; その後の列島の歴史はまったく別物になっていた・・空想が広がってゆきます(^^) |
[11967] Re: 谷川健一の「藪薩御嶽」 神奈備 投稿日:2016年11月16日(水)19時34分 | |
琉球松さんへのお返事です。 > 谷川健一が、著書『列島縦断地名逍遥』で「ヤブサ・ヤボサ・ヤブサツ ー 祖先の古墓」を考察されています。 > https://books.google.co.jp/books?id=X6ADZTG-d6oC&pg=PA77&lpg=PA77&dq= 藪薩%E3%80%80谷川健一&source=bl&ots=RdyDmIP5zH&sig=x16zdtLVjaf0h8GdQ5nNL1LUjGY&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiRqKaa9azQAhWKU7wKHZKwD30Q6AEIHTAA#v=onepage&q=藪薩%E3%80%80谷川健一&f=false 琉球松さん、ありがとうございます。 2008.2月にも、この件でお教え頂いております。重ね重ね感謝です。 大御所が言っているのと、同じような結論に到達しそうですが、めげずに頑張ってみます。 |
[11966] 谷川健一の「藪薩御嶽」 琉球松 投稿日:2016年11月16日(水)18時11分 | |
谷川健一が、著書『列島縦断地名逍遥』で「ヤブサ・ヤボサ・ヤブサツ ー 祖先の古墓」を考察されています。 https://books.google.co.jp/books?id=X6ADZTG-d6oC&pg=PA77&lpg=PA77&dq= 藪薩%E3%80%80谷川健一&source=bl&ots=RdyDmIP5zH&sig=x16zdtLVjaf0h8GdQ5nNL1LUjGY&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiRqKaa9azQAhWKU7wKHZKwD30Q6AEIHTAA#v=onepage&q=藪薩%E3%80%80谷川健一&f=false |
[11965] Re: やぼさ、やぶさ 2 神奈備 投稿日:2016年11月16日(水)10時51分 | |
大三元さんへのお返事です。 > 神奈備さん 興味ある話題をありがとうございます。 > > ヤブサ・ヤボサに関しては琉球方面への目配りも必要かもしれません。 > なんでもアマミキヨが創った7つのウタキの一つに「藪薩御嶽」があるそうです。 > 「沖縄古語大辞典」では「やぶさす」として掲出されてました。 > > 「養父」なんかもつながっているのかも??? 大三元さん、ありがとうございます。 沖縄へ行った時、藪薩御嶽を探してみましたが、民家の庭にあると聞いていきませんでした。こんな面白そうなテーマの一齣になるんなら、行っておけばよこったと思っています。 ヤブサは鹿児島まではつながっているようですが、沖縄に一つだけという感じです、 伊勢国の式内社の夜夫多神社や、おっしゃっておられる養父神社など、広がるのかどうか、まだよくわかっていません。 藪の中の野暮な人間ですので・・・ |
[11964] Re: やぼさ、やぶさ 2 大三元 投稿日:2016年11月16日(水)08時43分 | |
神奈備さん 興味ある話題をありがとうございます。 ヤブサ・ヤボサに関しては琉球方面への目配りも必要かもしれません。 なんでもアマミキヨが創った7つのウタキの一つに「藪薩御嶽」があるそうです。 https://allabout.co.jp/gm/gc/76538/2/ など。 「沖縄古語大辞典」では「やぶさす」として掲出されてました。 「養父」なんかもつながっているのかも??? |
[11963] やぼさ、やぶさ 2 神奈備 投稿日:2016年11月15日(火)21時28分 | |
九州本体のヤブサ・ヤボサの神々 筑前国宗像郡 宗像大社摂社,矢房神社(大己貴命) 福岡県宗像郡玄海町 矢房神社(天照大神 大己貴命 田心姫命) 福岡県宗像市日の里 筑後国上妻郡 矢鏑社(やぶさしゃ) 福岡県筑後市大字羽犬塚 肥前国松浦郡 矢房神社(天穗日命) 佐賀県唐津市中里 住吉神社摂社矢房神社(天神七代ほか) 佐賀県東松浦郡肥前町 矢房神社(天穗日命) 佐賀県東松浦郡呼子町 青幡神社摂社矢房八幡神社(應神天皇) 佐賀県伊万里市東山代町 矢保佐神社(息長帶比賣命 大己貴神)長崎県北松浦郡田平町 矢保佐神社(大己貴命)長崎県北松浦郡福島町 矢房神社(祭神不詳) 佐賀県西松浦郡西有田町 日島神社摂社矢武佐神社(猿田彦大神) 長崎県南松浦郡若松町 矢保佐神社(素盞雄命) 五社 長崎県佐世保市野中町、柚木町、松瀬町、白岳町、上本山町 矢保佐神社(火産靈神) 二社 長崎県平戸市大川原町、木場町 肥前国三根郡 八幡神社摂社矢保佐社(未記入),佐賀県三養基郡三根町 肥後国菊池郡 木柑子菅原神社摂社矢房神社(矢房大神) 熊本県菊池市広瀬 肥後国八代郡 豊葦原神社摂社矢房神社(武甕槌神 ) 熊本県八代市豊原上町 肥後国球麻郡 大瀬阿蘇神社摂社矢房神社(祭神不詳) 熊本県球磨郡球磨村 渡阿蘇神社摂社矢房神社(祭神不詳) 熊本県球磨郡球磨村 薩摩国日置郡 八房神社(孝靈天皇 源爲朝) 鹿児島県串木野市下名 薩摩国出水郡 矢房神社(豐受姫命 琴平神) 鹿児島県阿久根市脇本 薩摩国鹿児島郡 八房神社<通称>健康神社(八幡太郎義家) 鹿児島県鹿児島市犬迫町 祭神はさまざまです。 先ず、鹿児島市の八房神社については、由緒か載っていましたので、検討して見ます。 平成に入って社殿改築や境内整備、「地球一の大虎」安置などが行われ、とても綺麗に整備された神社でした。「トラ(阪神タイガース)ファン」にとっては格好の祈願社なのでしょう、この日も男性が二人、大虎に向かって熱心にお参りしていました。 御祭神:八幡太郎義家、瓊々杵命、木花開耶姫命、彦火々出見命、玉依姫命、鵜鴎草葺不合命、神武天皇 由緒:享禄3年(1530)比志島義祐により建立されたものです。祭神のうち瓊々杵命以降は近くの霧島神社を合祀した故のようです。 神社を建立した比志島氏は源為義の末裔で、為義の祖父は源義家すなち八幡太郎で、源氏の祖とあがめて祀ったのでしょう。比志島義祐は祖先を祀る神社に八房の名を付けたのです。子孫が多くのブドウの房のように栄えることを願ったネーミングなのか、虎の乳首は八つあるとかで八房とか、祖先を祭ることを、当時にはヤブサと言う言葉で表していたのか、よくわかりません。 もう一つの矢房神社 福岡県宗像市日の里 については由緒がネット上にありました。 矢房神社は、鎮座地が古墳の墳丘跡だった可能性もあるけど、位置関係から見て「東郷高塚古墳の遥拝宮」だった可能性も考えられなくもない。 と言うコメントに遭遇しました。古墳を祀ることは、そこに眠る祖神を祀ることに他ならず、ヤブサを祖先を祀る意味があったと思われます。 |
[11962] やぼさ、やぶさ 神奈備 投稿日:2016年11月14日(月)21時12分 | |
対馬を五十猛神を祀る神社を参詣しようと訪問してから約10年になります。 その時に由緒を調べていましたら、天台矢房という言葉に ;二度も突き当たりました。一体何だろうと思いつつ、今日まで来てしまいました。 地主神社 対馬市上県町女連85番地 貞享三年(1686)の『神社誌』には佐奈豊軍殿(さなどいくさどん)、天台矢房(やぼさ)が記載されている。 国本神社 対馬市上県町瀬田1番地 『対州神社誌』によれば、瀬田には熊野権現、三宝神、天台矢房がある。 曽根崎神社 対馬市上対馬町五根緒 「神社大帳」には「曽祢山形社。或は野菩薩神と云ふ。神体紫石」とあり、この名称の曽根というのは地形状の「そね」とみられ、山房というのは町内に多いヤブサ神で、矢房と書いた例が多い。 神社の由緒には上記のような記述がありました。 やぼさ、やぶさ の名前の神社を、『平成祭CD』とネットで調べて見ますと、全部九州でした。それも西側が主でした。 対馬国下県郡 山本神社摂社矢房神社(矢房神) 長崎県下県郡美津島町 嵯峨神社摂社矢房神社(氏子の祖靈) 長崎県下県郡豊玉町 とりあえず、対馬のヤブサについて検討します。『上對馬町誌』に、以下のようにあるそうです。 野菩薩、山房、矢房、曽根山房、そばへやぶさ、天台矢房など様々である。「やぶさ神」の全島分布は、豊崎郷九社、伊奈郷三社、与良郷三社、計一五社である。社殿、鳥居のない社が多い。「天台やぶさ」の名称が多いのは、天台密教が関与したものであろう、神仏習合の信仰か……。 ……たまたま、古里氏が家に伝わりし、天台野菩薩の掛繪を見るに、雲中に龍の如きもの、又異獣有りて、人雲に乗り、中程に烏帽子の如きものを着し人、弓を持ち、頭は龍の如く、体は馬の如きものに乗り、以下左右に具足陣笠を着、手にものを持ち、二人雲上に立つ。又一幅は具足を着て帯刀し手弓矢を持て、左右に立筆四人、何なる事を知らず。と述べている。しかと性格がわからぬ信仰故、参考に記しておく。 以上 『仮称リアス式』の 『長崎県大百科事典』引用から 壱岐、対馬は最も多く、壱岐では梓巫女市の念じ神でもある。市は矢保佐の神前で弓を弾じ百合若説教を読誦して病魔退散平癒の祈祷をする。これを風打(かぜうち)と称して業とした。この神の本質はわかりにくいが、天台矢保佐の名があり、天台宗の巫女の帰依神である。対馬の一神職は「対馬の神は岳神、茂神、藪神の三種です」といった。天台宗は山岳宗教であるが、巫女は女性であるから山岳に入るを得ず。藪神によって得道するものであったろうか。矢保佐の神はきつねを令使とする。ヤボサの「サ」は神霊を意味し、上に地名を冠し何々ヤボサと称する。 ここまでの資料では、対馬のヤブサ神につてはよくわからないと云うことですが、祭神に「氏子の祖靈」がありました。普通、祖霊社などと称しますが、対馬の場合は『平成祭CD』では、嵯峨神社摂社矢房神社以外には見あたりません。祖先を祭らない日本人はいないと思います。対馬の場合には、それが矢房神の名で祀られた可能性が感じられます。 |
[11961] Re: 土佐から還ってきた神について 神奈備 投稿日:2016年11月 7日(月)09時25分 | |
6.『三代実録』(859) 高鴨阿治須岐宅比古尼神が従二位勲八等から正一位に昇っている。 高鴨神が従一位になっている。 この時期には阿治須岐宅比古尼神は高鴨阿治須岐宅比古尼神と呼ばれていたと云うこと。一方、高鴨神は一言主神(事代主神)の祖神であるから大穴持神社の神と云うことになる。 7.延喜式神名帳(905) 葛上郡 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 現在は、阿治須岐高彦根神 配 下照比賣命、天稚彦命の三柱である。これに母神の多紀理毘賣命を加えれば四座となるが、アジスキ以外は不詳。 外の葛上郡の式内社 葛木坐一言主神社(名神大。月次相甞新甞。) は、後に名神大社となるが、新抄格勅符抄には記載がない。 大穴持神社 御所市朝町宮山に鎮座。この宮山には鉱床があり、現在の高鴨神社の地下につながっている。二社一体の神社と言える。 |
[11960] Re: 土佐から還ってきた神について 神奈備 投稿日:2016年11月 5日(土)10時02分 | |
4.『記・紀』(712~720) 雄略天皇が葛城山に猟に出かけた際、一言主尊が出現し、当初は緊張関係にあったが、結局、天皇と神は仲良く猟をしたこという。 ●葛城の神(一言主)の神域である葛城山に天皇が踏み込んできたと云うことである。葛城山の神々は早々に追い出したい。ある神はイノシシをして突進させたが果たせなかった。一言主は追い出しに失敗し、妥協した。そこに「老夫」の姿をした神が現れて、狩猟の邪魔をしたと思われる。それが高鴨の神であった。葛城山は鴨山とも云い、高鴨神の神奈備であった。一言主の祖神に当たる神と考えられる。またその名からは鴨神の祖神とも云うべき存在と言える。 5.新抄格勅符抄(806)年 高鴨神 五十三戸 土佐廿戸、大和二戸、伊与三十戸。 鴨神 八十四戸 大和三十八戸・伯耆十八戸・出雲二十八戸。 高鴨の神の戸数の内、大和は二戸(四石)であり、これは追放されていたので、大和での地盤を築けなかった神と見ることができる。残りが土佐・伊予である。 一方、鴨神は大和以外に伯耆・出雲であり、明らかに味鋤高彦根尊である。事代主神も鴨神と言えるが、この神は出雲に拠点はない。 ● 高鴨の神とは鴨の神々の祖神と考えることができる。即ち大穴持の神である。葛上郡には式内社の大穴持神社が鎮座しており、帰還後は暫く高鴨阿治須岐託彦根命神社の高鴨神として祀られていたが、後に大穴持神社に遷されたのだろう。 ● 大穴持神の裔である一言主は事代主の一面の姿と言える。 |
[11959] 土佐から還ってきた神について 神奈備 投稿日:2016年11月 3日(木)13時37分 | |
1.『続日本紀』天平宝字八年(764)(淳仁天皇) 再び、高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。高鴨神について法臣の円興、その弟の中衛将監・従五位下の賀茂朝臣田守らが次のように言上した。昔、大泊瀬天皇が葛城山で猟をされました。その時、老夫があっていつも天皇と獲物を競い合いました。天皇はこれを怒って、その人を土佐に流しました。これは私たちの先祖が祠っていた神が化身し老夫となったもので、この時、天皇によって放逐されたのです。(以前の記録にはこの事は見当らなかった。) ここにおいて天皇は田守を土佐に派遣して、高鴨の神を迎えて元の場所に祠らせた。 ●戻って来た神は、「高鴨の神」であるが、その正体は何であるのか? 2.『釈日本紀』に引用された『土佐国風土記逸文』風土記編纂の官命は713年に発せられた。 土左の郡。土佐の高賀茂の大社がある、その神の名を一言主尊とする。その祖ははっきりしない。一説ではその神の名を大穴六道尊の子、味鋤高彦根尊であるという。 式内大社都佐坐神社(土佐神社)の現在の祭神はアジスキタカヒコネである。 ● 「高鴨の神」とは、一言主尊なのか味鋤高彦根尊なのか、はたまた。 3.日本霊異記(787) 文武天皇の御代(697~707)、葛城の役小角(高賀茂朝臣と云う者)が鬼神たちに吉野の金峰山と葛城山との間に橋を架け渡せと命じた所、葛城の一言主大神が人に憑いて、役小角が天皇を滅ぼそうと陰謀を企てていると讒言した。そのため役小角は伊豆の島に流されるが、大宝元年(701)に許されて仙人となって飛び去ったと云う。その後一言主大神は役小角のために呪縛され、今の世に至るもその呪縛は解けていないという ● 一言主はは文武天皇の在位中に活躍しており、土佐に流されていた訳ではない。 |
[11958] 桜川断層 神奈備 投稿日:2016年11月 2日(水)14時05分 | |
大阪市内を走る断層で有名なのは上町断層ですが、桜川断層というんがあります。 地下鉄・阪神の桜川駅付近から地下鉄堺筋本町駅西200mをつなぐラインとなっています。 地下鉄四ツ橋駅付近を通っていますので、散歩がてらガンマ線量を図ってみました。 地下鉄が走っているうえでは、ほとんど検出できませんでした。ガンマ線は鉄やコンクリートで遮断しやすいそうですから地下鉄の走っていない路地に入り込み、測定をしてみました。南船場町界隈です。 測定値を南から北に歩きながら計ってみました。 0.05μSv/h 0.09~0・14μSv/h この幅が3m程度 0.05μSv/h 南北に3mとしますと、45度の傾きですがら 断層の幅は2m程度とでました。 |
[11957] 柏原市の式内社 神奈備 投稿日:2016年10月30日(日)20時08分 | |
γ線はXと同じ波長ですから強すぎますと害があるのですが、天然のものはそれほど強くありません。マイナスイオンを作り出しますから快適に感じることはあるでしょう。神社立地との関係を見てみました。柏原市のγ線濃度マップはネットから。
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[11956] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 言蛇 投稿日:2016年10月29日(土)23時59分 | |
「娘子らが 織る機の上を 真櫛もち 掻上げ栲島 波の間ゆ見ゆ(万葉集1249)」 神奈備さまこんばんわ、実家で喪に服す事態があったりスマホに振り回されていましたが神奈月ということで挨拶に伺いました。 写真は横須賀に配備された護衛艦「いづも」です。艦内には出雲大社の分御霊が鎮社しています。さしずめ現代の「草薙の剣」とも呼べるでしょうか? |
[11955] 萩原天神 神奈備 投稿日: 2016年10月22日(土)20時30分 | |
萩原神社に初めて参詣してきました。16年ほど前になりますが、神社オンラインネットワイクのオフ会が京都でありました時、ここの神社の南條宮司様とお会いして、神社のHPのありかたなどをお話させていただき、それ以来の再会でした。 お互い、そこそこ元気で、楽しいひと時を持つことができました。感謝。 |
[11954] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月22日(土)12時35分 | |
八坂神社の御祭神(八坂神社HPから)。 素戔嗚尊 (配祀)櫛稻田姫命 神大市比賣命 佐美良比賣命 八嶋篠見神 五十猛神 大屋比賣神 抓津比賣神 大年神 宇迦之御魂神 大屋毘古神 須勢理毘賣神 稻田宮主須賀之八耳神 稻田宮主須賀之八耳神は櫛稻田姫命の父のアシナヅチ 抓津比賣神は素戔鳴尊の娘、五十猛命とともに樹木の種を播くとされる。 大屋毘古神は五十猛命の別名ともされるが? 御祭神は記紀に書かれる人物群でまとめられており、記紀が完成してからのものと考えられる。 大己貴命がいない、血縁がないから。 大国主命がいない、6世代も後の人物だから。 縁起(八坂神社HPからの抜粋)。 八坂神社は明治元年まで祇園社と称していたので、祇園さんの名で親しまれ信仰されている・・ 斉明天皇2年(656)高麗より来朝せる調進副使の伊利之使主(いりしおみ)が新羅国牛頭山(ごずさん)にます素戔嗚尊を山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのに始まる・・ 新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なりとある記録と考え合せて・・ 「高麗」をコウライと読むなら、この縁起書は「高麗」918が成立してからのものとなるでしょう。 AD656で神仏習合はありえず、「祇園社」なるものは存在しないはず。 神仏習合が登場しはじめた頃に「祇園社」となったことがうかがえる。 (おそらくは天代密教の最澄以降、810以降) 「新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なり」 狛国とは高句麗のこと(持論、箕子朝鮮≒後の高句麗)。 新羅国の牛頭山とありますから、隣接していた伽耶諸国の伽耶山でしょう。 伽耶山の海印寺の「海印寺事跡」という古文書に「伽耶山は牛頭山」と書かれています。 (同上に「牛頭」登場の由来らしきも書かれる) 「高麗」はコマ。 武蔵国に高麗郡コマがあります、分散していた高句麗系渡来人を716に住まわせた地域。 東京湾沿岸部に716より早くにやってきた高句麗系の人々がいたと考えられます。 高麗郡にはなぜか氷川社がありません。 氷川社(ちかつ社源流とみる)の方が後からの登場だからじゃないか(延喜式967以降)。 656は孝徳645-654であり、持論では葛城皇子(天智)が百済問題処理で北九州にあった時代と考えています。 (斉明655-660-天智661-670、白村江の戦663、高句麗滅亡668) 656の伊利之使主が高句麗人(狛国人)であった可能性はきわめて高い。 すなわち八坂神社縁起の656創建が正しい可能性もきわめて高い。 高句麗人なら祖先でもある箕子朝鮮(崩壊)の情報を持っていておかしくない。 伽耶≒出雲系譜である情報も同じく。 列島から伽耶に引退した素戔鳴尊とそれに直結する人物を祀った。 656当時での祭神は素戔鳴尊だけだったかもしれない→国記、天皇記が残っていれば・・ (北九州での類似事象が宇佐神宮とみます、辛島氏など、および韓国岳ですね) 家康はなにゆえ城内にあった太田道灌などが祀った江戸社/江戸神社(創建702年)ではなく、神田神社を江戸の鎮守としたのか。 最古とみえる鳥越神社や根津神社を鎮守としなかったのか。 第六天神ではないのはあいまいで自然神に近いからでしょう(民の社ですね)。 しかし、城内鎮守には日枝神社(大山咋神)を置いています。食べ物は必須。 うすうすとではあってもそれらの意味と由来を家康は感じとっていたからではなかろうか。 素戔鳴尊は渡来者そのもの・・それを江戸の守護神とするのはいかなものか・・ (天之忍穂耳が天皇の初代とはされないことにも通じる) 鳥越神社や根津神社は日本武尊由来の社、朝廷による関東制圧での社。 神田神社であればワンクッションのある大己貴命(海人とみる)であり、「房総にやってきた人々が江戸湊を開拓し海神を祀った」は江戸の開拓に通じる。 アンチ朝廷の平将門、家康の意識の根底にはアンチ朝廷があったとみています。 大宝八幡宮は関東最古の武家の神、平将門が奉斎。 神田神社の旧地の地主神が「祇園社」であれば素戔鳴尊につながり、江戸の牛頭天皇の疫病退散祈願にもつながるでしょう。 |
[11954] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月19日(水)00時21分 | |
今井よりさんへのお返事です。 >お城の鎮護について教えて頂けませんでしょうか 鬼門は風水から発した陰陽道の考え方のようですね。 もっとも、風水では磁北で、建築などでは真北(北極星か太陽の南中)を使う。 東京では5度ほどずれる。さて、陰陽道ではどっち? うちの場合の鬼門にはまずまずの神社がすぐ近く(^^; 家の北東側には出入り口はありません、隣地なので作れない。 窓もない。日当たり悪く無意味だから。防火上も安全だし。 江戸社(素戔鳴尊)(神田神社内、江戸神社) 702年に現在の皇居内に素戔鳴尊を祀ったそうです。 だれが祀ったかは不明、 京都八坂神社縁起の「高麗の伊利之が牛頭山の素戔鳴尊を656に祀る」からそう離れてはいない。 だが、この時代に当地にやってきた人物がいるか? 鎌倉で江戸氏奉斎 室町~戦国で太田道灌1450頃 上杉氏 北条氏 奉斎 1603江戸城拡張で神田神社内の境内社となる。 神仏習合による牛頭天王はまだ登場していないはず(隅田川の牛島神社、慈覚大師860頃、など)。 創始は出雲系譜の渡来による可能性が高いか・・ ひょっとして、氷川社(近津社と同じ流れとみる)が素盞鳴尊を祀るきっかけの可能性あり。 神田神社(神田明神) 千代田区外神田2丁目16-2 (大己貴命、少彦名命、平将門) 天平2年(730)に現在の大手町1丁目付近に大己貴命を祀って創祀。 房総にやってきた人々が江戸湊を開拓し海神を祀ったという。 (往古の東京湾東岸には出雲系譜の痕跡少なからず) 延慶二年(1309)に鎌倉の僧侶が平将門の怨念を鎮めるためにここに合祀(首塚現存)(築土神社参照)。 江戸開府にあたって家康が当社を江戸の総鎮守とする。 慶長8年(1603)江戸城の鬼門に当たる駿河台に移転、元和2年(1616)に現在地に移転。 (1625 鬼門にあたる上野に寛永寺創建) 明治維新で平将門が削除されて少彦名命に置き換え、現在は平将門復活で三神を祀る。 江戸名所図会によれば現在地(神田神社)の地主神は祇園三社とあるので、素戔鳴尊。 すなわち京都八坂神社縁起と連なり、江戸社とも連なる可能性あり。 日枝神社(御祭神大山咋神)千代田区永田町2-10-5 江戸氏、江戸郷の守護神、山王宮 太田道灌が川越山王社勧請 徳川家康が城内鎮守とする。 大山咋神は「先の神楽の山神」に相応するのかもしれません(もうひとつの候補は大山祇神ですが縄文系)。 myHP大年神グループ参照(天知迦流美豆比売の子とされる、おそらく灌漑治水) 祖先神と自然神の中間かな。文化を表すグループ(弥生の初期開拓者)とみなしています。 隅田川神社(墨田区堤通2丁目17-1) 本来は水神社で隅田川の鎮守、新編武蔵風土記稿に御神体龍神、水神が亀に乗ってこの地に上陸の伝承有り。 江戸名所図会に「昔は橋がなかったが今は浮橋がある、鹿島詣に浮橋を渡った(夫木和歌抄、1310頃)」とあります。 太田道灌(1432-1486)が下総の千葉氏を攻めるために長橋三条を構えたという文の紹介と、1750年頃の文献の引用で、隅田川の渡しより一町ほど川上に昔の橋の古杭が水底に残っていて船の通行の障害になっていたとあります。 この橋の修復をやらなかったのはおそらくは軍事上の考えからだと思います。 江戸時代に隅田川を渡る橋は千住大橋のみでした。 日光参詣へ向かう街道があったからかな。 このために明暦の大火で隅田川を渡っての避難ができず、10万ともいわれる死者が出た。 明暦の大火直後から両国橋をはじめとして次々に橋が架けられて、江戸の発達は隅田川の東側へ広がります。 大宝八幡宮 茨城県下妻市大宝667 城跡あり 大宝元年(701)、藤原時忠が宇佐神宮を勧請(位置的に正倉院戸籍721の藤原部と同じ流れと思います) 関東における最古の「八幡」だそうです。 平将門の戦勝祈願 吾妻鏡には下妻宮。 参考図1 江戸神社の御輿 参考図2 神田神社 茅輪くぐり 参考図3 神田神社の祭礼 |
[11953] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月17日(月)09時40分 | |
私の歴史探訪のスタンスは 地元の氏神様の呼称の謎解きから始まり 伝承の史跡や祭事の現場へ足を運んで 且つ埋蔵文化財報告書や 史資料の精査に努めています。 考察・推論を展開する場合は これらの事象に基ずいて 出典ありきでバックデーターを 掲載するように心がけています。 過去に掲載したデータも忘失することが多々 再度閲覧し史資料の内容を掲載 もしくはページを付記するようにしています。 この掲示板に投稿される方々は博識で造詣が深くて 私の浅学のレベルでは 理解できない箇所が多々あり、 療養中の身にはしんどくなりつつあります。 今後は楽しく拝読させて頂きます。 ☆鹿児島神宮「お浜下り」 祭事前 16年10月16日 |
[11952] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月16日(日)17時25分 | |
かたばみさんへのお返事です。 > 少々の火山灰では雨に流されて消えると思いますし。 車に着いた降灰は速やかに洗い流さないと 雨で固まってしまいます。 降灰は、大抵が石英、ガラス成分が多いですから 傷が付きやすいです。 目に入って擦ったりすると危ないです。 これも同じく速やかに洗い流した方がベターです。 雨どいに溜まった降灰は、適時掃除をしないと 雨でセメントみたいにこびりついてしまいます。 先日熊本の阿蘇山が大噴火しました。 この時停電が多発しました。 これも高圧送電線の碍子に灰がこびりついて ショートしたのが原因です。 雪国の「雪害」と似てます。 こちらの場合は、水滴や雪が碍子や電線に凍り付いて ショートしたり、重さで断線したり、、、 霧島山には、8代将軍吉宗の頃の 火砕流の痕があります。 大樹が建ったまま炭化しています。 御嶽もそうだったかと思うと 聊か不気味です。 古代や中世に於いては 現代では想像に絶するようなことも。。 都会では計り知れない事故が田舎にはあります。 |
[11951] Re: 古事記の国生み筑紫島 今井より 投稿日: | |
かたばみさんへのお返事です。 埋蔵文化財の史料の説明ありがとうございます。 > > YouTube 根津神社 三座の舞。 > 三座の舞のうちの山神の舞ですね。 > 山神ってなーに(^^; ま、祖先神ではなさそう。 > このあきるの市のサイトは凄いですよね。 プロの歌舞伎の写真家ですね。 時々伺っては楽しんでいます。 > >南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。 > > パミス測定法というのは軽石を使うんですね。 > 土器の焼成年代を測定するための、可能性のある測定法群のひとつかな。 私のページにも記載していますが、 大正5年の桜島の噴火を基準にして、地層の年代測定をするようです。 近年、確立した年代測定方法です。 桜島の降灰は日本全土を覆ってカムチャッカ半島にまで達していますから。。 6500年前の大噴火は旧ロシアの方でも確認されたとか。。 土層に含まれる「石英」成分を測定するようですね。 専門家に伺ったことがありますが。。 根気のいるお仕事だな~と驚嘆しました。 遺物の欠片も数年経つと一つの土器に生まれ変わったりします。。 縁の下の力持ち。。 未だ、未調査の遺物が多数ありますが、、 熊襲や隼人の痕跡が判るようになると嬉しいです。 今日は、熊襲所縁の鹿児島神宮のお浜下りです。 午前中神宮の境内や参道で撮影しました。 さっきアップしましたよ。 youtube/yorihime3/ 長時間の見物は流石に疲労が、、 特に視力の低下は否めません、80歳に近い我が身に鞭打って励みましょう。 |
[11950] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日: 2016年10月16日(日)10時22分 | |
今井よりさんへのお返事です。 >神楽らに造詣の深い東京在住の方です YouTube 根津神社 三座の舞。 三座の舞のうちの山神の舞ですね。 山神ってなーに(^^; ま、祖先神ではなさそう。 >南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。 パミス測定法というのは軽石を使うんですね。 土器の焼成年代を測定するための、可能性のある測定法群のひとつかな。 地層として残るような火山灰、大規模噴火だと思います。 夜になると山肌が赤く染まる程度の中小規模の噴火が地層として検出できるのだろうか。 少々の火山灰では雨に流されて消えると思いますし。 平安時代に噴火記録が増えるのは、記録されるようになったからでしょう(その火山灰は地層になっているのか)。 失礼してちょっと遺跡発掘の追求。 加治木堀遺跡、鹿児島県曽於郡大崎町、自動車道建設での発見のようで、まだ湯気が出てる(^^; 鹿児島県立埋蔵文化財センターの加治木堀遺跡PDFからの引用です。 ------ Ⅱ層は黒褐色土を主とし,この中に黄褐色のパミスが混在する層(Ⅱb層)がみられる。 Ⅱb層は,テフラ分析の結果(第4章第2節参照),桜島起源のP4(AD764 ~766)に対比される可能性が高いことが判明した。 その直下のやや茶褐色の層(Ⅱc層)及びその下の黒褐色(Ⅱd層)が遺物包含層である。 Ⅲ層は桜島起源のP7(約5,000年前)火山灰層に比定され,硬質の土壌で層厚は10cm程である。 ------ 参考図1 同上の地層図 地層Ⅱbというのは書かれていませんが、ⅡcとⅡd層が弥生遺物の出土(山ノ口式土器)。 桜島起源の地層に挟まれた地層に弥生遺物がある。その地層がどのような由来かは決定していないと見えます。 (そこが知りたい) なお、Ⅰ層とⅢ層の間にはⅡ層欠落の攪乱がみえます。この攪乱は雨水による流失か? 参考図2 同上の出土物の地層(山ノ口式土器) 開聞岳 - 地形及び地質概説 - - 地質調査総合センター https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/kaimondake/page4_1.html 開聞岳の2000年前の噴火、加治木堀遺跡との距離は桜島より2倍も遠い。 火山灰が降るとして、その成分は桜島と開聞岳でどう違うのか。それも知りたい。 記紀の「燃える小屋から火須勢理が飛び出してくる」。 天之忍穂耳から下ればBC100~BC50頃、燃える小屋が火山由来なら年代と位置の推定が可能になる。 景行311-333での13年「襲国を平定して市鹿文を火の国の国造」。 (襲国、現在の鹿児島県曽於郡周辺とみて間違いないと思います) この記事は火山学の立場からの状況を知り得るかもしれない、という方向でしょう。 景行紀18年では八代海の不知火を以て「火國」としている。 夜空に赤く染まる山、その程度での噴火で十分に「火の国」だと思います。 肥後国風土記逸文では崇神時代に火山噴火を以て「火の国」としている。 一応文献とみておきます(^^; おそらく雲仙、これも弥生~古墳あたりでの「大規模噴火」はみえないみたい。 山ノ口遺跡(山ノ口式土器)、肝属郡大根占町馬場山ノ口、開聞岳から東へ海を渡った海岸にあります。 調査報告書に 「開聞岳起源の暗紫ゴラの直下に当たることが判明」とあります。 {第二次の開聞岳噴火の時期に環状配石に供献されていた土器群で,優に2000年を越える弥生中期の土器である」 とあって、こちらは決定している。 当時の社会を特徴づける極めて珍しい祭祀とのこと。 この遺跡はたいへんに興味深い。 開聞岳が火須勢理の「燃える小屋」の原因であるなら、火須勢理の時代と場所が推定できるからです。 山ノ口式土器は奄美や沖縄からも出土(海神族も用いていた可能性大)。 加治木堀遺跡も山ノ口遺跡も同年代で同じ文化圏に属す、となります。 火須勢理(彦穂々出見)、火と穂、種子島の宝満神社や浦田神社(鵜草葺不合)の稲とも符合してきます。 また、穀璧のありようの推定にもつながる。 ・・火須勢理はこのあたりで生まれたが、火山灰に追われて志布志湾に引っ越し(穀璧)。 だが今度は大津波に襲われて(海幸山幸)、内陸部に引っ越し。 そして鵜草葺不合誕生、種子島で陸稲から水稲への変化・・神武誕生して鹿児島へ(紀元前後頃)。 参考図3 山ノ口遺跡の軽石を用いた岩偶 |
[11948] 江戸城、大阪城の鎮護 今井より 投稿日:2016年10月15日(土)12時06分 | |
以前、当地の国指定史跡「隼人塚」の鎮護について 調査していましたが、、 さっき、地震で崩落寸前の熊本城を タモリさんが散策されてました。 (崩落前の録画でした) どなたか名城と言われる各地のお城の 鎮護について教えて頂けませんでしょうか。 (東西南北、鬼門、寺院) ○江戸城 ○大阪城 ○名古屋城 ○姫路城 他、ご存じの処で結構です。 ここに繋いで下さい。 宜しくお願い致します。 |
[11947] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月15日(土)06時20分 | |
かたばみさんへのお返事です。 > 参考図2 拾芥抄の日向、大隅、薩摩(の郡名?) > > ご紹介ありがとうございます。 私はこれを参考にしてページを作成しております。 多分2000年頃の作成かと思います。 隼人探訪==>>隼人抗戦==>>稲積の里 この地は、和気清麻呂が流刑され一年弱居住していた処です。 幕末の志士 坂本龍馬も、新婚旅行の途中訪れています。 絵手紙には近くの「犬飼滝」のことを「蔭見滝」と 音読で記載して紹介しています。 「犬飼」は大分県に地名があります。 多分、隼人抗戦(720年)前後に当地を平定のために移住してきた 方々が居住したのではと推察しています。 この辺りの小字は「中津川」、上流には万膳と云う小字もあります。 どことなく当時の地名が残っているような。。。 ☆倭名類聚鈔 ☆犬飼滝(いぬかい) ☆高千穂の峯と霧島神宮の大鳥居 | |
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[11946] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月14日(金)18時12分 | |
>かたばみさんへのお返事です。 > > 参考図1 東京根津神社の神楽(しゃもじ持ってる神様の素性不明(^^; ) 神楽らに造詣の深い東京在住の方です わざをき通信 http://www.asahi-net.or.jp/~tq7k-wtnb/index.html 凄いリンクです。2000年頃から存じてましたが、 リンク集を南九州ゾーンだけに特化した折、削除してました。 再度歴史探訪にリンクしました。 詳細はお尋ねください。 |
[11945] 西米良の神楽由緒 今井より 投稿日:2016年10月14日(金)14時16分 | |
一応、西米良の神楽について由緒を掲示いたします。 文明3年(1471) 御川(おんかわ)神社に 懐良親王の霊を祀り 神前に舞を奉納した のが始まりと伝える 現在は 例年12月18日 に近い前後土・日曜日に 開催される。 豊穣感謝・無病息災を 祈願し舞われる。 鎮守や地主神が 多く登場し、着面の舞も多彩 神面の中には 「小べし見」と呼ばれる鬼面や 狩面と通称される道化面等の古面もある 神楽は厳かな「神かぐら」 賑やかな神楽囃子が歌われる「民かぐら」に 分けられ 翌朝の全演目終了後 狩法神事としての 「狩面シシトギリ」が演じられる 当社の神楽は「村所神楽」と呼ばれる 小川の米良神社の神楽 越野尾の児原稲荷神社(こばる)の 神楽と合わせて 西米良神楽として 県の無形民俗文化財に指定されている また、村所神楽は 当社の他に竹原の竹原八幡宮や上米良の本山神社 ほかで奉納されている。 ========= 田の神舞は、この神楽の中で舞われます。(33番の中の一つ) 「山の神」が郷に降臨して「田の神」となります。 他の関しては拙宅のサイトのページを適時ご覧ください。 |
[11944] Re: 古事記の国生み筑紫島 今井より 投稿日:2016年10月14日(金)04時02分 | |
かたばみさんへのお返事です。 > > 確かに新しい火山ではあるようです。逆に縄文以降では元気いっぱいじゃないかな(^^; > > Volcanoes of Japan > 第四紀火山岩体・貫入岩体データベース > 九州 > https://gbank.gsj.jp/volcano/ > 桜島の活動年代・最新活動年 約2万2000年前以降、とあります( 764とあるのは続日本紀記事でしょう)。 > 地質学的詳細はどこかに研究資料があるのでしょうけれどみつけてはいません。 > 縄文とほぼ同時期に火山活動が活発になって、彦穂々出見時代(BC100頃とみる)ではさかんに火を噴いていたとみるところ。 > 南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。 それでは3500年前以降の桜島の噴火爆発は見当たりません。 水蒸気爆発はあったかもしれませんが。。 拙宅の近くのマール(噴火趾、すりばち状、現在は畠)が噴火していた記録はあります。 この手の書籍は絶版が多くて、高価で入手困難です。 鹿児島大学の応用地学講座は入学者激減で閉講されました。。 昔は先生方とは交流がありましたが、 最近、防災意識が高まってますから。。どうでしょうか。 > 銀鏡神楽(米良神楽)、高千穂神楽など起源を弥生にまでゆけそうなものがたくさんありそう。 > ただし、あくまで起源が、であってその後の変化は大きいと思います。 > 山の神や田の神を楽しませ祈る、自分たちも楽しむ、神楽の原型と思います。 > では神武、さらに天火明命の祭祀とは・・ > 神武の子にはみな「耳」がつく、祖先への意識がそれだと思います。 > 祖先を祀る(祖先神)、があるのは必然と思いますが、では農耕においての祈りや楽しみ(芸能)は如何に。 高千穂や村所、日向の方にも何回か祭り探訪に出掛けて採取しています。 伊勢神楽としての伝承はあくまでも南北朝以降のこと。 残念ながらそれ以前は承知しておりません。 只、村所(西米良)の方は古文書を拝見していません。。 江戸時代の神楽の古文書は幾つか所持しています。 (66番の内の一部ですが) それには由緒は未記載、所作だけです。 以前は土砂崩れ跡や採掘現場らにも足を運んでいました。 健康状態が良ければ地層確認でも出かけたいのは山々ですが。 しょせんは空論です。 歴史探訪は健康第一!! ☆9500年前の上野原縄文遺跡の地層 |
[11943] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日: 2016年10月13日(木)22時17分 | |
桜島の活動年代・最新活動年 約2万2000年前以降、とあります( 764とあるのは続日本紀記事でしょう)。 地質学的詳細はどこかに研究資料があるのでしょうけれどみつけてはいません。 縄文とほぼ同時期に火山活動が活発になって、彦穂々出見時代(BC100頃とみる)ではさかんに火を噴いていたとみるところ。 >この出自はどれでしょうか? >歴史探訪===>>南北朝動乱 銀鏡神楽(米良神楽)、高千穂神楽など起源を弥生にまでゆけそうなものがたくさんありそう。 ただし、あくまで起源が、であってその後の変化は大きいと思います。 宮崎県椎葉村は最後の焼畑でもあるようです(柳田國男も調査していますね)。 崇神時代に創始されたとみえる伊勢神宮(の原型)の当時の祭祀はいかなるもので、どこから運ばれたのか。 自然神に限りなく近い神、例えば山の神のごとくであったと考えています。 伊勢の式年遷宮は焼畑を儀式化したものと考えています(天武673-685頃)。 山の神や田の神を楽しませ祈る、自分たちも楽しむ、神楽の原型と思います。 では神武、さらに天火明命の祭祀とは・・ 神武の子にはみな「耳」がつく、祖先への意識がそれだと思います。 祖先を祀る(祖先神)、があるのは必然と思いますが、では農耕においての祈りや楽しみ(芸能)は如何に。 崇神以前の伊勢地域には弥生遺跡がないに等しい。 奈良盆地には遺跡が多数ある、出雲文化圏の中枢。 そこでの祭祀は銅鐸でしょう、狩猟や農耕、動物の絵が描かれています。水流を思わせる文様も。 その祭祀に「神が楽しみ民も楽しむ」が付帯していなかったはずがない。 銅鐸の絵柄からみて限りなく自然神だと考えています。 出雲文化圏の登場年代からみて、その自然神は山東半島の瑯邪八主の影響下にあると推定。 天主、地主、日主、月主、陰主、陽主、四時主(歳、季節)、兵主(例外的に祖先神、蚩尤)。 残念ながら「古出雲神楽」の痕跡はない、奈良が天孫系譜の中枢となって数百年が経過して完全に消えたのだと思います。 (民のレベルでの痕跡は全国に残るとは思いますけれど) 書紀で出雲が抹消され、自然神があいまい化されていてはなおさらで、平安あたりでの伊勢神楽に飲み込まれていったと考えています。 ちょっと追求(^^; 景行紀「13年の五月に悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。 景行紀「18年五月、八代県・・日没・・人の火にあらずといふことを知りぬ・・その國を名づけて火國と・・」 襲國を平らげてから5年後に、八代海の不知火をみているとみえます。 ここでの「火國」は八代海付近。 景行大王が「襲國を平らげ」たときの「市鹿文を火の国の国造」任命から5年後となります。 景行紀には「火」が2回出てくる、一方はおそらく桜島の噴火、一方は八代海の蜃気楼。 肥後国風土記逸文に「崇神天皇の御代に火の空より下りて山に燃えしも怪し、火の下りし国なれば火の国と名ずくべし」 この「火」はおそらく雲仙の噴火によるものと思われます。 「又、景行天皇が球磨囎唹を誅ひたまひ・・・諸国を巡狩しましき・・」、続けて書紀の景行紀18年と同じ文が続きます。 肥後国風土記逸文では南九州での事象と、雲仙、不知火、3種類の「火」の記事がまじりあってる。 なお、ウィキペディアの熊襲の項に「筑前国風土記に球磨囎唹がある」とありますが、これは誤り。 筑前国風土記は存在しません。筑前国風土記逸文および筑後国風土記逸文が残るのみ(風土記/岩波書店)。 「球磨囎唹」が書かれるのは「肥後国風土記逸文」です。 (筑前国続風土記/貝原益軒では未確認) 肥後国風土記逸文に「球磨県の北西70里の海中に島あり」とある。 おそらく天草諸島でしょう。 この記事が正しいなら、古事記の「熊・曾国」の一部がAD720頃には球磨県になっているとみえます。 位置は現在の熊本県南部、球磨川周辺でよいと思います。 大隅と薩摩の語源は不明。 延喜式では大隅国、薩摩国が存在。肥後国の中に球磨あり。 拾芥抄では大隅国のなかに贈於あり。肥後国のなかに球磨あり。薩摩国のなかに薩摩と鹿児島あり。 薩摩は球磨の「球を薩」に変えての呼称ではないか。 大隅はAD720頃では「襲」あるいは「贈於」であったが、延喜式の頃では「大隅」に変更され、現在に曽於郡が残った。 参考図1 東京根津神社の神楽(しゃもじ持ってる神様の素性不明(^^; ) 参考図2 拾芥抄の日向、大隅、薩摩(の郡名?) |
[11942] Re: 古事記の国生み筑紫島 かたばみ 投稿日:2016年10月13日(木)21時40分 | |
神奈備さんへのお返事です。 >国生みの順序ですが、淡路島を中心に距離が近い順になっていると考えることができます 書紀編纂者が伊弉諾伊弉冉尊をどのようにイメージしていたか、ですね。 伊弉諾伊弉冉尊以前では具体性はほとんどなく、イメージだけ。 縄文末期の寒冷化で移動する縄文人、そのかすかに残る痕跡。それが伊弉諾伊弉冉尊の源だと考えています。 スタートは奈良周辺と木曽あたりからの縄文。 当時において距離の記憶は無理だと思います。何日もかかる、何ヶ月もかかる遠いところ、その程度。 現代人でも東京から大阪と東京から青森と、どっちが遠いかなんて?、でも方角はわかる。 いつの時代でも太陽というコンパスがあるし(冬至とか春分の概念も必須)。 書紀では縄文海退の記憶を含めた国生み島生みのイメージを構成。 説話として淡路島スタートでよいと思います(書紀の一書はばらばら(^^; )。 そして九州へ。 ここで、神々の体系を構築するために夫婦神を捨てる。 縄文イメージの終わり。 北九州から今度は日本海沿岸を東へ。ここでは半島経由の渡来者(漂着者)登場のイメージが重なる。 弥生の開始。 天照大神と素盞鳴尊、宗像三女神など登場。 住吉三神が関門海峡あたりで登場も妥当なところと思います。 素戔鳴尊は嫁さんの存在を明示。天照大神や月読尊に比して素戔鳴尊は強い具体性があったからだと考えています。 出雲文化圏の登場、その祖先神として。 天之忍穂耳尊も同様で嫁さんを書いている。 天照大神を別枠として、祖先神(歴史)の流れに変化させたのだと思います。 参考図 筑紫島の四面を少し修正 後の筑前や筑後での前や後ろは、街道の完成をもって畿内からの道程として近い方が「前」ですね。 |
[11941] 上町断層 神奈備 投稿日:2016年10月13日(木)16時04分 | |
大阪市内を南北に走っている上町断層の場所が、ネットの地図を見ていましても、松屋町(まっちゃまち)筋やひどいのは大阪城の西側の上町筋としています。断層からγ線が出ているとのことで、本町通りを御堂筋から東に歩きながら測定してみました。エアカウンターという測定器をつかいました。 御堂筋 、0.05μSv/h、 堺筋 0.09μSv/h 東警察前 0.05μSv/h 東横堀川 0.19μSv/h 内本町 0.05μSv/h 谷町筋 0.09μSv/h 上町筋 0.05μSv/h 生魂御旅所 0.09μSv/h(大阪城内) これから見ますと、断層は東横堀川の下にあると言えます。 |
[11940] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日: 2016年10月12日(水)23時25分 | |
かたばみさんへのお返事です。 > 「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。 この出自はどれでしょうか? ご承知のように九州は、朝廷からみたら「僻地」のなにものでもありません。 所謂「流刑の地」ですから、、 当時の朝廷から誅された公家や皇族が多数配流されています。 その流れで、中央の文化が移入されました。 伊勢神楽として有名な、日向の「西米良神楽」は後醍醐天皇繋がりです。 鹿児島の谷山には、懐良(かねなが)親王が この辺りは拙宅サイトに、判る範囲で掲載しています。 歴史探訪===>>南北朝動乱 民俗芸能の所作は、専門家にお話を伺って 史資料を精査しながら、神舞を初めとする 田舎の民俗芸能を見物するのが楽しみです。 ☆鹿児島神社のお祭り風景 桜島を核として三方に「鹿児島神社」を配祀した伝承有 ○鹿児島神宮(霧島市隼人町) ○鹿児島神社(垂水市) ○鹿児島神社(鹿児島市草牟田) |
[11939] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月12日(水)13時19分 | |
かたばみさんへのお返事です。 > > 地名には危険が伴う。 > 奈良県に磯城郡がありますが、延喜式と拾芥抄(鎌倉時代頃)では城上と城下、郡名考(青木昆陽1750頃)では式上と式下、郡区町村編制法(明治11年)で磯城郡。 > 「磯城」の地名は明治維新後の地名改訂で登場したもので、それ以前の奈良にはない。 > 書紀に登場する磯城に符合させるための画策、と邪推(^^; 奈良県 磯城郡(しきぐん) というと、田原本町近辺ですね。 昔、名古屋在住の頃、弟が居住していたので 近鉄特急で、何度か足を運んでいます。 似たような地名呼称が、現在では真逆の処が、鹿児島でもあります。 姶羅(あいら) がそうです。古代から中世は、大隅半島の鹿屋辺りを指しますが 現在の「姶良市」は薩摩半島の加治木町、蒲生町、帖佐町です。 市町村合併で、故地が消滅するの忍び難いものがあります。 でも、史資料に登場する平安時代の小字が残っていたりすると小躍りします。 > 「伊勢」の地名由来は日向の五ヶ瀬川(現在はゴカセ)の五ヶ瀬(五瀬命、イツセ)の五瀬であり、崇神あたりで運ばれたものと考えています(隣接して五十鈴川もある)。 > 「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。 > 神話伝承の小字が残っていると興味をそそります。 いつかゆっくり探訪したいものです。 「神楽」当地では「神舞(かんめ)」ですが 民俗学的に貴重な生きた史資料、文化財です。 古語拾遺では「神遊」で登場します。 当地でも史資料に登場するのは、島津藩の初期の頃からです。 目下のところそれ以前は承知していません。 この16日は、鹿児島神宮の「お浜下り」です。 隼人の霊を弔った「放生会」の現代版です。 お天気がどうも下り坂。。心配です。 ☆鹿児島神宮のお浜下り |
[11938] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月12日(水)12時32分 | |
かたばみさんへのお返事です。 > 景行紀では熊襲という「部族」ライク登場(日本武尊は登場しない)。 > 「熊襲を討たむことを議りたまふ」「襲國に厚鹿文アツカヤとセ鹿文という者あり」 > 「この両人は熊襲の渠帥者(イサオ?)なり」「是を熊襲の八十梟帥という」・・・ > 景行)13年の五月に「悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。 > > 書紀では熊襲が地域か部族か、あいまい。 > 八十梟帥には市乾鹿文と市鹿文の二人の娘がいて、市乾鹿文が景行側について父の八十梟帥殺害の手助けをする。 > (景行の婚姻融和策の一環とみていますが、お話では市乾鹿文は殺される) > 景行は市鹿文を「火の国の国造」とするけれど、市鹿文が古事記での熊曽国の人物なら異なる地域の肥国の国造りにするか? > > 古事記では「熊曽国」が地域であること明確、4つの面のひとつですから範囲は広そう。 > 「火の国」とは(常識では)肥前肥後だと思いますが、はてさて、どのように解せばよいのか。 > こんにちわ。 ご多忙の処、当地「隼人の抗戦」について テーマを提起して頂いてありがとうございます。 このあたりに関しては、拙宅サイト==>>隼人探訪==>>隼人抗戦 でも少し触れていますが、残念ながらお先真っ暗状態です。 一応、伝承の地として「拍子橋」や「長袋」があります。 「拍子橋」==>>熊襲猛が酒宴をはった場所跡 酔狂に紛れて日本猛尊が。。。 「長袋」====>>熊襲が抗戦時に立て籠もった洞窟 妙見温泉にはこの観光用の洞窟があります。 この地は伝承の場所ではありません。 対岸にありましたが、洪水で崩落しました。 「火の国」===>>どこでしょうか? ご教示の桜島ですが、縄文時代の噴火の記録がありません。 火口やカルデラ、墳丘は多々ありますが、、 どうもそれ以前、25000年位前らしいです。 6500年前には姶良カルデラが大噴火をしています。。 降灰はカムチャッカ半島迄達しているとの報告があります。 ===>>「パミス年代測定法」:火山灰堆積層で年代測定 現在の阿蘇地方、特に阿蘇カルデラには、 縄文時代の噴火趾が多数あります。 こちらの方が縄文時代は有力かも。 ★地元としては、観光活性化で「桜島」を押したいのは山々。 ☆隼人首塚 ☆拍子橋 ☆隼人舞(隼人塚) |
[11937] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 神奈備 投稿日:2016年10月12日(水)11時49分 | |
かたばみさんへのお返事です。 国生みの順序ですが、淡路島を中心に距離が近い順になっていると考えることができます。 島根県の隠岐島の次に九州島、それから壱岐、対馬となり、佐渡の次に、大倭豊秋都島(本州)となりますが、記紀の記された頃には蝦夷の棲むあたりへの認識が高まっていたと、ここは苦しい言い訳も含めてのお話ですが。。。。 |
[11936] 古事記の国生み筑紫島 かたばみ 投稿日:2016年10月10日(月)20時39分 | |
古事記の国生み神話での筑紫島と景行紀の熊襲制圧での地域推定図です。 熊曽国/建日別は南九州全域を示す(熊・曽の混合)。 景行紀の火の国はさらに限定して桜島周辺を示す。 火遠理命/彦穂々出見命の火(桜島)に通じるものです。 であるならば、景行紀の市鹿文を「火の国の国造」とする記述は妥当。 しょっちゅう火を噴いているのは桜島だと思います。 火の国は肥国にあらず。 隼人が支配者(高級官僚)に登用された事象がみあたりません。 元邪馬壹国の末裔(開化の末裔)ならば、大隅薩摩の国造りに登用されて妥当だと思うのです。 建日向日豊久士比泥別/肥国 古事記での文字は発音と意味が共存で危険ですが、肥国は肥えた国でよいと思います。豊国と意味は同じです。 建・日向・日豊・久士比泥・別、かなあ。 日向と日豊と久士比泥という地域を混合したもの、だから呼称が長くなった。 九州中央部を横断する地域、すなわち宮崎県の日向も含む。 (後世では肥国は西岸の熊本に限定) .隠伎之三子島/隠岐島/天之忍許呂別は五島列島だと考えています。 なーんとなく島根の隠岐である、と感じてしまうところですけれど、古事記の国生みの順からはずれてしまう。 国生みで書かれる島が流刑地になってはおかしいですし。 島根の隠岐の文字は、国生みの記述から後鳥羽上皇あたりに「沖」に代わって採用されたものではないか。 .津島/対馬/天之狭手依比売 .伊伎島/壱岐島/天比登都柱 これらに共通するのは天を冠すること。 天之忍穂 |
[11935] Re: 古事記の国生み筑紫島 かたばみ 投稿日:2016年10月 9日(日)23時27分 | |
今井よりさんへのお返事です。 古事記の国生み神話で 此の島(筑紫)は身一つにして面四つあり、面ごとに名あり。 筑紫国を白日別、豊国を豊日別、肥国を建日向日豊久士比泥別 (やたら長くて丁寧、範囲が広いのか?) 熊曽国を建日別(曽の字、音を用ふ) 景行紀では熊襲という「部族」ライク登場(日本武尊は登場しない)。 「熊襲を討たむことを議りたまふ」「襲國に厚鹿文アツカヤとセ鹿文という者あり」 「この両人は熊襲の渠帥者(イサオ?)なり」「是を熊襲の八十梟帥という」・・・ 景行)13年の五月に「悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。 書紀では熊襲が地域か部族か、あいまい。 八十梟帥には市乾鹿文と市鹿文の二人の娘がいて、市乾鹿文が景行側について父の八十梟帥殺害の手助けをする。 (景行の婚姻融和策の一環とみていますが、お話では市乾鹿文は殺される) 景行は市鹿文を「火の国の国造」とするけれど、市鹿文が古事記での熊曽国の人物なら異なる地域の肥国の国造りにするか? 古事記では「熊曽国」が地域であること明確、4つの面のひとつですから範囲は広そう。 「火の国」とは(常識では)肥前肥後だと思いますが、はてさて、どのように解せばよいのか。 地名には危険が伴う。 奈良県に磯城郡がありますが、延喜式と拾芥抄(鎌倉時代頃)では城上と城下、郡名考(青木昆陽1750頃)では式上と式下、郡区町村編制法(明治11年)で磯城郡。 「磯城」の地名は明治維新後の地名改訂で登場したもので、それ以前の奈良にはない。 書紀に登場する磯城に符合させるための画策、と邪推(^^; 「伊勢」の地名由来は日向の五ヶ瀬川(現在はゴカセ)の五ヶ瀬(五瀬命、イツセ)の五瀬であり、崇神あたりで運ばれたものと考えています(隣接して五十鈴川もある)。 「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。 神武の言語はいかに、神武の祭祀はいかに、神武御用達の土器はいかに・・ 弥生時代の九州南部と北部での「方言」は通じる程度であったのか。 九州北部が出雲文化圏であったら通じるとは思えないのですけれど。 紀元前後頃の重要なヒントになると思っていますが、記紀にヒントはみえないなあ。 http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/ |
[11934] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月 8日(土)04時04分(水)01時28分 | |
かたばみさんへのお返事です。 > 書紀の書く熊襲は隼人ではないと考えています。 > 九州の日本武尊は熊襲から名をもらって、小碓命から日本武へ。 > 熊襲が蛮族であるなら名を受け取るとは考えにくい。 > 書紀がいう熊襲とは、消滅した邪馬壹国の末裔。 > すなわち日本武尊の祖先(開化225-248など)の末裔。だから名を受け取った。 > > もし、隼人が熊襲であるなら書紀は隼人と書くと思うのです、それで不都合はない。 > 日本武尊の祖先が宮崎日向であることをあいまいにするために書紀は熊襲とぼかしたと考えています。 > ただし、大隅までゆくと卑弥呼との抗争の継承で大隅隼人が王朝に反発していたかもしれないけど。 > 曽於(曽於郡)のクマですね。 > > 球磨とはなにか、免田式土器の分布と神武の関係に注目しています。 > 神武の誕生とその祭祀、神武北上に関連するのではないかと。 この辺りは、遺物なり木簡なりの出土を期待しましょう。 どのような喋り方(発音)をしていたかも興味あります。 江戸時代の「薩摩弁」については旧ロシアに 辞書が残っています。 ゴンザ辞書、一応所持しています。参考になります。 > > 九州における出雲の南下は熊本ないし阿蘇山麓までと考えています。 > したがって南九州で出雲系が登場するのは飛鳥奈良以降であろうと考えています。 > (韓国岳とか韓国宇豆峯神社の呼称の由来とは、です) これは以前もお話ししたように、当地の民俗芸能に宿っています。 当地では、神楽の事を神舞(かんめ)と呼びますが 出雲神楽と伊勢神楽の両方が舞われます。 宮崎までは伊勢神楽が多いでしょうか、 それ以南は出雲神楽系統です。 史資料はもとより、民俗学的な考証も重要と考えています。 ★霧島東神社 国の無形文化財「祓川神楽(神舞)」 尚、映像はyoutube==>>yorihime3でどうぞ。 |
[11933] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月 8日(土)03時27分 | |
かたばみさんへのお返事です。 またまた、割り込みで恐縮に存じます。 > 東京の神社の散策をしていたとき、東京蔵前の榊神社が日本武尊の創始とされ第六天社とも称することを知ったのが第六天社とはなにか、のきっかけです。 > 当時はこの二つの社がつながる可能性などまったく考えていませんでしたけれど、今は関東における歴史の重要ヒントです。 私の神社探訪の動機と酷似してます。 私は氏神様(稲荷神社)を江戸末期生まれの祖母が「おみょうけんさ~(妙見)」と 呼ぶ不思議さでした。 この氏神様が、平家物語の敦盛愛用の「青葉の笛」所縁のお社とは。。 驚きの連続で今日に。。 > > >神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる 当地の場合、明治の廃仏毀釈で、約2500ケ寺が焼失しています。 残存した寺院は、社名を変えています、近場の例 ○鹿児島神宮再建の「日秀神社」(旧三光院) ここには唯一お堂があります。 ○旧国分市上水道の第一号井戸に鎮座する「医師神社」(旧門倉薬師) ○姶良市の米山神社(旧米山薬師) らでしょうか。 歴史の変遷を。。翻弄された神々でしょうか。 |
[11932] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月 7日(金)21時34分 | |
神奈備さんへのお返事です。 氷川社とはなにか、を考えていたとき、楡山神社さんのうぶすな研究室の近津の記述で「ちかつ社」の存在を知りました。 東京の神社の散策をしていたとき、東京蔵前の榊神社が日本武尊の創始とされ第六天社とも称することを知ったのが第六天社とはなにか、のきっかけです。 当時はこの二つの社がつながる可能性などまったく考えていませんでしたけれど、今は関東における歴史の重要ヒントです。 >神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる これは納得していません(^^; そもそもが本地垂迹といった神仏習合は仏教サイドからのものではないでしょうか。 書紀の神々を仏教に包含しようとする意識であって、宗派によって習合のさせ方が異なり、統合された概念にもなっていない。 書紀「第六天神」、仏教「第六天魔王」の文字の偶然に惑わされた後世でのイメージとみております。 第六天神は「書紀ではあいまいな自然神」を代表させ、水害や風害除けとして開拓成就を祈願する神として扱われていた、と考えています。 (幕末~明治の国学者にもの申す(^^;;; ) ヒンズー教のシバ神には100(だったと思う)の姿があるとされます。 インド各地の多数の部族の神をひとつに統合させるためです。 肌の黒い部族に対して、おまえさん達の神様はシバ神の化身なのだ・・マハーカーラ=真っ黒けのシバ神登場。 後に仏教に取り込まれて大黒天、日本では大国主命と重なって大黒様(鎌倉以降)。大国ダイコクでしょう・・たぶん。 第六天神でのイメージもその程度の類とみております。 書紀の編纂目的のひとつは仏教などに対抗できる「概念」の構築にあると考えています。 その統一のための概念が天照大神の和魂と荒魂だと考えています。 単純には、その源流が天照大神(おおまかに天孫)に対抗する存在だった場合は荒魂。 日本の場合はインドに比せば、氏族の差は微々たるもの、「ふたつの姿」だけで事足りた。 神社建築において「千木」の形状で、先端が垂直に切られる場合は荒魂、水平に切られる場合は和魂、と聞きました。 また、千木の装飾の穴?が先端部で切り欠き状になっている場合は女神、切り欠きになっていない場合は男神、とも聞きました。 もっとも、そういう慣習があったとしても、社殿建設の時にどれだけ引き継がれるか。 東京駒込の天祖神社(源頼朝縁起)の境内に、榊神社(面足尊)、熱田神社(日本武尊)、須賀神社(素戔嗚尊)があり、この由来を神主さんにおたずねしましたが??でした。 寺院でも同様、大昔にある問いかけに答えられなかった若い坊さんが今は要職に。 余談 さっきNHKの歴史秘話ヒストリアで明治日本語の話をやっていました、なかなか面白かった。 標準語は必須だがどうやるのがよいか、英語にしてしまえなんて案もあったらしい(^^; 文化と血脈(部族)、その中間にあるのが言語だと考えていますが、うかつに統一化すると文化を失うかもしれない。 なかなか難しいところ。 そういえばエスペラント語なんてのがありましたが今はどうなっているのかなあ。 最近ちと気になっているのが、「なになにだそう」です。 |
[11931] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月 7日(金)16時35分 | |
ちかつ社と第六天社を重ねてみました。 (第六天社は七所とか十二所といった伊弉諾伊弉冉尊以前としての面足尊を祀る社を含みます) ちかつ社の変化とみる氷川社の集中する地域では省略しています。 参考図 (画像サイズが横800ドットを越えると自動縮小されて画像がぼやけるみたいですね) みえてくる特徴は、ちかつ社は鬼怒川以南(現在の利根川以南)にはない。 茨城~福島での「ちかつ」は蝦夷が濃厚で、関東平野の西側では諏訪の千鹿頭が濃厚、であろうとみています。 第六天社は群馬にはない。 茨城と福島ではちかつ社と第六天社が混在する。 第六天社は平安中期以降の蝦夷制圧の北上ルート(茨城県~福島県)に登場しているとみえます。 正倉院文書の戸籍721に書かれる藤原部、クサカ部、卜部、物部などの人々の北上とともに、茨城の蝦夷が制圧され、その後の開拓に伴っての面足尊ではないか。 東京台東区の榊神社の縁起は「日本武尊が東征のおりこの地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊と惶根尊の夫婦神を祀り」とされます。 日本武尊時代に面足尊が存在することはありえない。地元住民の祭祀を日本武尊が遵守した、ということで良いと思います。 ただし、境内社に 七福稲荷神社/倉稲魂神 繁盛稲荷神社/倉稲魂神 事比羅神社/大己貴神 豊受神社/豊受姫神 があります。 出雲と食糧神です。このあたりにも第六天社の本質が隠れているかもしれない。 雄略456-489の開拓民(孔王部)は埼玉以北へは達していない。稲荷山鉄剣付近までの開拓、ということでしょう。 倭王武(武烈)の上表文の「東は毛人を征すること、五十五国」はちょいと誇大表示ということになりそう(^^; ちなみに雄略が祀ったという外宮の豊受大御神は食糧神とみえますが、素性があいまい。 祖先神でもなく自然神ともいいにくい(あえていうなら大気都比賣命か)。倉稲魂神も同様。 ま、雄略時代にそういう概念があったかどうかもありますが、もともとあいまいだったのではなかろうか。 BC500以降の初期開拓者たちの農耕文化、その神格化が豊受大御神でよいと考えています。 倉稲魂神は稲作文化に特化で、後に稲荷にも重ねられる。 第六天が雄略につながる痕跡があるかどうか、関東で豊受大御神を主神として祀る社をざっとチェックしてみました。 たくさんありすぎていまのところ??(天照大神を同時に祀る社は除きます)。 稲荷と複合もしていて識別が容易ではなさそう。これからの課題としておきます。 古語拾遣807に鹿島の武甕槌命が登場しますから、この頃には書紀の神々の体系ができあがっているはず。 この頃に蝦夷を制圧した地域(茨城南部~千葉)で面足尊を「開拓の成就祈願」として祀りはじめたのではないか。 群馬に第六天社がないのは、平安中期において、この方面へは開拓民が送られていなかったからだと考えています。 おそらく源頼朝は第六天には関与していない。 三島大社は崇敬したようです、こちらの祭神はあいまいなれど大山祇神とされますが、本来は海人だと考えています。 建長寺の建立にあたって浅草の宮大工を呼び寄せています。 頼朝は当時の東京湾の浅海を渡河するのに苦労しており、千葉氏と接触していても祭祀まで受け継いではいないとみるところ。 武人ではあっても開拓者ではない、だから鎌倉を拠点に選んだ。 関東平野に密集する第六天ははるかに遅く、戦国以降でしょう。 関東平野に第六天を運んだのは、おそらくは千葉氏で、祖は平常長(1051頃)。 千葉氏-北条氏-徳川幕府の流れでの展開。 小田原の周囲に第六天社が少なからずあるのは、北条氏による開拓でのものと考えられます。 面足尊を祀る社に胡録神社があります(少なくとも5社以上)。 東京荒川区の胡録神社の縁起では、上杉謙信の配下の武士がここに住んだとあります。 第六天を称していたが、明治初期に胡録の呼称となったそうです。 胡録の意味不明なれど、胡粉ゴフンの胡の文字を使った可能性あり。 胡粉は貝を石臼で引いて作る、胡録社はすべて海岸沿いあるいは海岸近くの川沿いにあります。 さて、ちかつ社。 由来はメインが諏訪の千鹿頭。これは動かないと思います。 長野県佐久市の近津神社はかっては千鹿頭神社であり、池から大蛇がでてきたという由来があるそうです。 ただしいつ頃に近津社になったかは不明。 弥生後期~古墳時代に寒冷化で山岳地域から南下する人々が関東平野の山岳ぞいに展開した。 関東では碓氷峠からでしょう。 碓氷峠の東に貫前神社と咲前神社があります(高地性集落)。祀るのは経津主命。 諏訪から関東平野へ流入する諏訪系氏族の押さえだと思います。 貫前神社の成立は鹿島神宮や香取神宮の成立と同じ頃とみています。 鬼怒川水系(現利根川)の北岸で蝦夷との戦いが始まった。 おそらく・・垂仁273-311の五大夫のひとり物部十市根の頃、東京湾岸では豊城入彦命、鹿島側でも王朝系のだれかが上陸。 ここでは対出雲系譜の意識のなかの蝦夷であって、開拓の意識はまだない。 (この頃の王朝祭祀はいかなるものであったか) そして正倉院文書の戸籍721に書かれる藤原部やクサカ部や物部など、おそらくは武装開拓民の登場。 鹿島神宮の社としての登場は721以降だと推定。 対蝦夷の社、書紀は強力そうな武甕槌命を創作。香取神宮は穏健な経津主命。 貫前神社はこれに習った、こちらは相手が出雲系譜で蝦夷ほど恐ろしくはなかったから経津主命(^^; 「ちかつ社」の多くが「近津」の文字を使いますが、なぜ?? 近くに港があるわけでもないのに、疑問でした。 その起点は鹿島神宮のすぐ北にある近津社ではないかと考えています。 社名や御祭神の変化が大きかったであろう頃、すなわち延喜式の時代927頃での登場。 鹿島の港に近い、の意を以て「近津」に変更された。 御祭神も面足尊と風神の級長戸辺命、近津としては例外的に自然神ライク。 その他の社の多くがこの呼称に習った(千勝や千方など)。 ただし御祭神は別です、出雲系譜を主とする祖先神に切り替えられた。 その代表が氷川社だと考えています。 「ちかつ」にこだわらず、書紀や出雲国風土記から御祭神を素戔鳴尊とし、島根の簸川を氷川に置き換えた。 関東で河川の凍結はありえないけれど、諏訪湖の御神渡りをイメージしての氷川ではなかろうか。 そして延喜式以降に大勢力に発達した。 福島と茨城の県堺では都々古別社がグループを形成(味耜高彦根命)。 ここでは東北縄文が濃いゆえに、ツツ蛇の子の意だと思います。 鬼怒川沿いにある数社(千勝)では御祭神に猿田彦命を祀る。 おそらくは、現地の古い祭祀(≒弥生に遡る)の意をもって猿田彦命(書紀での縄文イメージ)としたのではないか。 (ひょっとすると強制的に) 全国的に、現地の古い祭祀を延喜式以降に猿田彦命に置き換えた社が少なくないと考えています。 |
[11930] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月 7日(金)16時16分 | |
今井よりさんへのお返事です。 書きかけていたのを誤って消してしまったみたい。 マツタケご飯とぎんなんの食い過ぎかな(うんと安いカナダ産です、香りがやや洋風ですが十分)。 >海岸線に位置する2社は、ご神體の磐座を控えています。 磐座を伴うなら縄文にも遡り得る祭祀があった可能性もありますね。 南九州での「天智」は白村江の準備での海人(隼人など兵を含む)の招集と船の建造に関連ではないでしょうか。 >東北の蝦夷と南方の熊襲(隼人)討伐 >どちらにも「日本健尊」伝承があります。 九州での日本武尊が関東での日本武尊と同一人物かどうかはわかりませんが・・ (仲哀356-360)も日本武尊のひとりといえる) 関東では豊城入彦命は痕跡が少なくなんともいいにくいですが、日本武尊については戦闘痕跡がみえません。 また、日本武尊は出雲の残勢力の制圧であって、蝦夷との戦闘があったとしても出雲制圧の一部であったと考えています。 別項の榊神社の縁起のごとく先住者への対応が紳士的。 鳥越神社の縁起も住民が日本武尊を祀っている(榊神社は鳥越と同じ社地だったが、徳川幕府の土地利用の都合で移転)。 上野台地には出雲関連社がありますが、ここでも医療をもって日本武尊を援助しています。 景行311-333には無数の子女がいる。 婚姻融和策をとっていたと考えています。おそらく関東の日本武尊もそれを継承していると考えています。 あちこちで子を作った・・はず。 すなわち、関東には日本武尊のみえない末裔がたくさんいる・・まほとんど民間人で伝承は残っていないでしょうけれど。 書紀の書く熊襲は隼人ではないと考えています。 九州の日本武尊は熊襲から名をもらって、小碓命から日本武へ。 熊襲が蛮族であるなら名を受け取るとは考えにくい。 書紀がいう熊襲とは、消滅した邪馬壹国の末裔。 すなわち日本武尊の祖先(開化225-248など)の末裔。だから名を受け取った。 もし、隼人が熊襲であるなら書紀は隼人と書くと思うのです、それで不都合はない。 日本武尊の祖先が宮崎日向であることをあいまいにするために書紀は熊襲とぼかしたと考えています。 ただし、大隅までゆくと卑弥呼との抗争の継承で大隅隼人が王朝に反発していたかもしれないけど。 曽於(曽於郡)のクマですね。 球磨とはなにか、免田式土器の分布と神武の関係に注目しています。 神武の誕生とその祭祀、神武北上に関連するのではないかと。 >この大穴持神社の伝承の「神輿搬入ルート上」に >太玉神を祭祀する神社が幾つか鎮座しますが 大穴持神はちとやっかい。 大穴持神は山陰で最古、半島経由の農耕渡来(BC500以降)と接触していた文化圏、サヒメ伝承。 大穴牟遅命と大己貴命は同じで、東シナ海系海人。須勢理姫の婿(素戔鳴尊渡来BC190頃。島根のキサガイヒメ(出雲国風土記)、因幡の白兎。 大国主命ははるかに下って神武 36- 66とほぼ同世代の豊後、神武への国譲りと島根への引退。 同名処理によって出雲系譜の年代や位置がぐちゃぐちゃに(^^; 九州における出雲の南下は熊本ないし阿蘇山麓までと考えています。 したがって南九州で出雲系が登場するのは飛鳥奈良以降であろうと考えています。 (韓国岳とか韓国宇豆峯神社の呼称の由来とは、です) 太玉神は天孫降臨の随伴者ですから、南九州に存在しておかしくないと思います。 かえって北九州はほとんどが出雲文化圏であり、こちらには存在しなかった可能性あり。 ただし神武が運んだ可能性はあります。 さて、丹波の大粒の栗が到着。 栗むき器なるもの購入、なにせ渋皮むくのがやっかいで栗ご飯作るのを敬遠していたので。 |
[11929] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 神奈備 投稿日:2016年10月 5日(水)20時13分 | |
かたばみさんへのお返事です。 楡山神社さんのHPに、こんなのがありました。http://nire.main.jp/rouman/ (3)面足命(おもだる-のみこと) 一部の"ちかつ社"の祭神でもある面足命とは、不思議な神である。古事記冒頭の神代七代の第六代目に当ることから、神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる。 三面六臂、八面六臂などの慣用句は、仏像の姿から来た言葉といひ、多面多肢の仏は多い。埼玉県熊谷市下増田の近殿神社(祭神:稲田姫命)は、武蔵風土記稿に「村の鎮守なり。本地十一面観音を安置す。観音寺持」とある。日本では十一面観音は四臂で描かれることも多いといふ。面足命とは、もと多面多臂の仏像を祀ったことから、近代に定められた祭神名なのかもしれない。 漢字の字形のよく似た「百足」から来たかについては未調査である。馬蹄石のやうに、何かの動物の足跡が石などに残ったことから来たのかどうかも、考慮中である。 『平成祭CD』を見ていますと、由緒の書いたものは少ないのですが、第六天社は鎌倉時代以降に創建されたものが多いように思われます。 |
[11928] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月 3日(月)18時26分 | |
かたばみさんへのお返事です。 > > 参考図 鹿児島での面足尊を祀る社(住所と御祭神は神社庁平成祭りデータによる) > 野井倉神社 曽於郡有明町野井倉6833 惶根命、淤母陀琉神を祀る(国土地理院地図では神社マークなし) > 若宮神社 東市来町伊作田827 仁徳天皇 武内大臣 面足命 猿田彦命 > 宮浦神社(宮浦宮) 姶良郡福山町福山2437 國之常立神~伊弉諾尊伊弉冉尊 天之忍穂耳尊~神武 > 檍神社 末吉町南之郷4772 天之御中主尊~伊弉諾尊伊弉冉尊 その他 > > 鹿児島の三社は海岸にある(檍神社は内陸ですが宮浦神社の勧請とある)。 > いつの時代かは別にして、関東同様の開拓と治水の成就祈願での伊弉諾伊弉冉尊以前、があるのではないか。 > ま、順次全国をチェックしてゆくつもりですが、消えたり変化したりしないでほしいところ。 > > こんばんわ。 せっかく鹿児島の話題を掲載して頂きながら、、 遅くなり恐縮に存じます。 海岸線に位置する2社は、ご神體の磐座を控えています。 航海の目印になったと感じます。 昔は山頂にお社があったようです。 檍神社は住吉神繋がりです。 三社とも「天智天皇伝承」と関連があるのです。 精査は頓挫状態ですが、、 天智天皇の道先案内をした海運の長がいたのでしょうか。 南北朝の頃になると、後醍醐天皇の皇子らが当地へ。 四国~日向~谷山(鹿児島) この頃になると史資料が幾つか散見されます。 |
[11927] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年 9月14日(水)01時28分 | |
かたばみさんへのお返事です。 またまた、割り込みで恐縮に存じます。 > 関東平野北部では日本武尊の北上で蝦夷勢力は征圧されていたが、現在の利根川より北側では蝦夷勢力が残存していた。 > そこに送り込まれたのが平安中期あたりでの開拓民で、おそらくは武装開拓民。 > 藤原部、壬生部(香取郡)、クサカ部、卜部(おそらく中臣)、物部(常陸国) > AD721頃以降に鹿島神宮と香取神宮の登場とみます。 > 対蝦夷の拠点としてです。 > 東京湾側からの上陸だと利根川水系の横断がやっかい。そこで太平洋岸の鹿島に上陸拠点を作った。 > 当地には、神奈備さんが興味をお持ちの「韓国宇豆峯神社」が鎮座しています。 ☆韓国宇豆峯神社 ☆剱神社 日本武尊上陸地 |
[11926] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月 2日(日)17時07分 | |
かたばみさんへのお返事です。 割り込みで恐縮に存じます。 > アラハバキ神とはなにか・・東北における門客神。登場はBC100頃に遡る。 > すなわち東北縄文と出雲の接触、出雲の人が門客神。高度文化をもつなら神格化されると思います。 > 起点は青森の砂沢遺跡あたり。秋田にもあるかもしれない。 > 出雲の資源探索部隊(おそらく安曇氏)と「縄文の自然神」が結合したものがアラハバキ神であろうと考えています。 > すなわち蝦夷の神。 > 西日本にはないといってよいです(門客神はある)。 > 秀真伝(ほつまつたえ)は、8世紀、蝦夷が多数、日向へ配流されていますので 伝承は残っていると考えます。 現に当地にはその記録があります。 ===>>神社探訪==>>鎮座地別==>>霧島市・国分==>>大穴持神社 で精査途中ですがご覧ください。(一昔前の作成です) > 古語拾遺によると、忌部氏の祖は天太玉命でこれに従う五神があり、そのうちのひとりが天日鷲命。 この大穴持神社の伝承の「神輿搬入ルート上」に 太玉神を祭祀する神社が幾つか鎮座しますが 由緒等が土砂崩れで流失し、精査を頓挫しています。 一応、御参考になれば幸いです。 ☆大穴持神社(国分) ☆太玉神社(福山) |
[11925] Re:第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年 9月28日(水)14時59分 | |
神奈備さんへのお返事です。 >結論としては近津と惶根尊の関連はなんとも言えないということになります。いかがでしょうか。 近津社と第六天社の決定的な違いは、祖先神を祀るか自然神を祀るかであろうと考えています。 近津は諏訪の千鹿頭、これに蝦夷が結合。寒冷化による山岳地域からの南下で弥生末期あたり。 第六天社は開墾と治水であり、千葉側からで。もっとも古い場合でも古墳時代かなあ。 面足尊を祀るのは、書紀の解釈によるもので、そうなるのはむろん書紀が一般化してからで平安中期以降。 自然神を祀る場合は、人間の技術の発達で消えやすくあるいは変化しやすいと思います。 myHPに関東開拓と第六天神をアップしてあります(暫定書きかけ) myHP近津神社と日本武尊も再アップ 関東で最古の可能性のあるのは天日鷲命。 天火明命の随伴者・・土佐(田村遺跡)-阿波-尾張-関東が存在するならBC100頃、物部氏(の祖)を含む。 水稲(農耕)はなさそう、布と紙。手工業品ですね。 参考図1 酉の市 この紋所は千葉氏でしょう(七曜星もある)(酉の市の風習は関東からだと思います) 古語拾遺によると、忌部氏の祖は天太玉命でこれに従う五神があり、そのうちのひとりが天日鷲命。 酉の市の起源は足立区花畑(旧花亦村、伊興古墳群)の大鷲神社ともされる(myHP江戸名所図絵と神社散策の鷲神社) 日本武尊も祀っています。 だが、こちらは祖先神であって開拓とか第六天社とつながるとは考えにくい。 書紀の書く自然神ライクは埴山姫と迦具土命、そこから登場のクラオカミ神(≒水神)などか。 書紀では自然神はあいまい、神代三代目から七代目(伊弉諾いざ見尊)は夫婦神。 夫婦であるなら、そこから自然神が誕生とは考えにくい。 だから・・書紀は伊弉諾尊が独り神としてから、不可思議手段で何人かの神々を誕生させた。 このあたりは書紀編纂者の苦しいところ(^^; だから、開拓と治水をひっくるめた自然神を意味するとして「伊弉諾伊弉冉尊以前」が登場した。 ま、書紀解釈の問題でもあり、当然ながら書紀が一般化して以降のことだと思います。 これに類似は菊理姫と白山信仰だと思います。 こちらは縄文の山岳信仰と書紀解釈の結合なのだと思います(後に修験とも結合)。 関東で明確に開拓が登場するのは、雄略だと考えています。 関東到来だけであるなら、豊城入彦命と日本武尊(AD320頃)ですが、これは開拓ではなく出雲系譜の征圧。 信濃の古文献の仁科濫觴記に崇神の末太子の仁品皇子の到来記事(記紀にはみえない)。 おそらくは垂仁273-311の子の豊城入彦の縁者を書いたものと推定。 碓氷峠の東に貫前神社があります。経津主命と姫大神を祀る。 姫大神は養蚕機織の神とされるのが興味深い。おそらくはこちらが最初の御祭神ではないか。 この社の周囲は高地性集落であり、戦闘を意識していたとみえる。 だれと誰の戦闘か・・古墳時代初期、寒冷から南下する諏訪の千鹿頭系譜と関東平野側のだれか(平安中期に経津主命に変化)の可能性あり。 そして雄略456-489時代。 埼玉県行田市の稲荷山古墳の鉄剣銘文(雄略471とみる)。 東京都足立区の伊興遺跡群(古墳群)(縄文~古墳)。縄文海進で海没していなかった地域の最南端です。 さて、雄略の祭祀はいかに。 伊勢外宮の豊受大御神は社伝によれば雄略時代とみえる。祖先神かどうかは不明なれど食物神ではある。 外宮の境内社に土宮と風宮、他に月夜見宮があって、なーんとなく自然神っぽいであります。 東京湯島天神の本来の御祭神は手力雄命(雄略縁起)。 ここから谷の向こう側には上野台地があり出雲系譜が濃厚、その監視の社であったと推定。 この後しばらく情報途絶。 男大迹王と磐井王の内戦、半島情勢の緊迫化。 天武673-685に至るまでの王朝の混乱によって関東への行動が断絶していた時期とみています。 正倉院文書の下総国大嶋郷戸籍AD721に孔王部。 おそらくは安康(穴穂天皇)-雄略時代の開拓民の子孫だと思います。 雄略の開拓民が下総台地の西側を北進した結果が稲荷山古墳鉄剣に連なると推定。 近津社の分布は猪苗代湖以南かつ関東平野で、現在の利根川より南の千葉側にはありません。 すなわち東北縄文の流れの存在した地域(蝦夷でもある)に近津社がある。 (東京で青森の亀ヶ岡土器が出土しています) ちょっとずれますが 参考図2 門客神を祀る社の全国図 神奈備さんの採録されたもののそっくりコピーです。 ただし、一覧表は関東だけを抜き出しています(赤印がアラハバキの痕跡あり)。 アラハバキ神とはなにか・・東北における門客神。登場はBC100頃に遡る。 すなわち東北縄文と出雲の接触、出雲の人が門客神。高度文化をもつなら神格化されると思います。 起点は青森の砂沢遺跡あたり。秋田にもあるかもしれない。 出雲の資源探索部隊(おそらく安曇氏)と「縄文の自然神」が結合したものがアラハバキ神であろうと考えています。 すなわち蝦夷の神。 西日本にはないといってよいです(門客神はある)。 関東平野に多数あるようにみえますが、ほとんどが氷川社です。 氷川社は本来は近津社であって、延喜式以降に御祭神を素戔鳴尊に変更してグループ化した社と考えています。 その後に有力化したためにアラハバキの痕跡も残った。 その他の近津社もそれぞれの考えで千鹿頭を(書紀記載の)御祭神に変化させたが、非力でアラハバキの痕跡は消えた。 猪苗代湖の南に味耜高彦根命を祀る社が数社あります(myHP近津神社と日本武尊) おそらくは小規模でグループ化して味耜高彦根命を祀る、とした社であろうと考えています。 近津社の北限かもしれない(諏訪の影響力の北限)。 さて、 下総国倉麻郡意布郷戸籍AD721では藤原部がほとんどを占める(千葉県我孫子市付近)。 王朝の混乱が落ち着き藤原姓が登場する元明707-714あたりの開拓民じゃないかな。 関東平野北部では日本武尊の北上で蝦夷勢力は征圧されていたが、現在の利根川より北側では蝦夷勢力が残存していた。 そこに送り込まれたのが平安中期あたりでの開拓民で、おそらくは武装開拓民。 藤原部、壬生部(香取郡)、クサカ部、卜部(おそらく中臣)、物部(常陸国) 藤原秀郷(俵藤太伝説)AD900頃、の祖は不明とされますが文献的には藤原部AD721でいいんじゃないかな。 奥州藤原氏もここからの一族。 藤原秀郷は騎射の始祖とされますが、おそらくは蝦夷の騎射を取り込んだのではなかろうか。 AD721頃以降に鹿島神宮と香取神宮の登場とみます。 対蝦夷の拠点としてです。 東京湾側からの上陸だと利根川水系の横断がやっかい。そこで太平洋岸の鹿島に上陸拠点を作った。 そして、書紀は手力雄命より強そうな武甕槌命を創作する(^^; (自然神ライクから祖先神登場は不自然)。 おそらく経津主命も。こちらは穏和な神として(鹿島は北向き、香取は南向き、祭殿の向きが逆です)。 利根川の北側(常陸国)、蝦夷と王朝の抗争(接触)はまずはここから(坂上田村麻呂758)。 >近津と惶根尊との組み合わせはこの三社以外にはでてきません 参考図3 茨城のちかつ社(細かくやるとちとたいへんなので概略のみ) 現在の利根川(江戸以前の鬼怒川と小貝川)沿いにある「ちかつ」は一社を除き猿田彦命。 これより南(すなわち千葉県)には「ちかつのち」すらでてこないのです。 (近津で面足尊を祀る社は茨城県の北浦東岸≒太田市) 面足命を祀る社は一社を除き級長津彦命を祀るのが興味深い。 風の神のようですなわち自然神。この地域が強風の地域かどうかは知りませんけど雷の多い地域ではあるようです。 すなわち現在の利根川以南(千葉側)には「蝦夷」はやってきていない。 鹿島神宮が北を向いている理由でもあります(香取は温厚で南を向く)。 茨城南部の「ちかつ」は平安中期頃には制圧され、社名変更ないし御祭神の変更がなされた(強制的の可能性あり)。 北浦の近津+面足尊は鹿島からの開墾の流れを受けて御祭神の変更があったものではないか・・ |
[11924] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 神奈備 投稿日:2016年 9月27日(火)08時57分 | |
神奈備さんへのお返事です。 > かたばみさんへのお返事です。 > > 近津神社で惶根尊を祭神とするのは、以下の3社。 > 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町町付1218,常陸国 久慈郡 > 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町下野宮1626,常陸国 久慈郡 > 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町上野宮3208,常陸国 久慈郡 > 近津と惶根尊との組み合わせはこの三社以外にはでてきません。(平成祭りCD) また、この三社は同じ町にあり、二社は勧請されたものでしょう。 そうすれば、近津と惶根尊とは、たまたまの組み合わせでできたとも考えることができます。 結論としては近津と惶根尊の関連はなんとも言えないということになります。いかがでしょうか。 |
[11923] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 神奈備 投稿日:2016年 9月25日(日)19時45分 | |
かたばみさんへのお返事です。 惶根尊と近津神社 茨城県の場合 全ての本社と摂社は2468+932=3400社 惶根尊を祀る神社は本社摂社含めて19社。 0.55% 一方、チカツ神社は本社摂社含めて16社。 0.47% 共に、希な祭神であり、神社名です。 近津神社で惶根尊を祭神とするのは、以下の3社。 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町町付1218,常陸国 久慈郡 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町下野宮1626,常陸国 久慈郡 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町上野宮3208,常陸国 久慈郡 この3社は共にppmの単位の中での出現は奇跡的と言えます。 何らかの関係がありそうですね。 |
[11923] 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年 9月21日(水)22時17分 | |
第六天神を祀る理由のチェックをぼちぼちと。 伊弉諾尊伊弉冉尊神話の島生みでは、淡路島、四国、隠岐島、.筑紫島、壱岐島、対馬、佐渡島、.大倭豊秋津島。 ただし、隠岐島が隠岐であるなら、これのみ順序的に例外。 すなわち、瀬戸内から九州へ至り、九州から日本海へ、の流れとして書いている。 島生み神話は縄文海退での奈良周辺~瀬戸内~九州に至る縄文人の移動が源流と考えています。 大倭豊秋津島はまとめとして追加されたものか。 壱岐島~佐渡島は半島経由での漂着者(土笛)での、初期農耕の登場を示す。 持論での初期開拓者AD500以降、伊弉冉尊の死による穀物の登場に相応。 平安時代に縄文や弥生といった区分意識はありませんから、区分するなら書紀の書く伊弉諾伊弉冉尊より以前かどうか、だと思います。 書紀における天照大神や素盞鳴尊登場以前の意でもあります。 社の御祭神としては、後世で変化の結果、というのも少なからずとは思いますけれど。 関東の場合だと、濃密に分布するのは縄文海進で海、縄文海退で陸地化した地域。 徳川幕府の開拓した農地はその地域がほとんどを占める。ひとつの村に1社あるともいえます(新編武蔵風土記稿)。 いまのところ千葉県の加曽利貝塚と小田原の中里遺跡が関東での最古の水田痕跡のようで紀元前後頃。 東北の砂沢遺跡(BC300頃)よりはるかに遅く、長野の塩崎遺跡群よりも遅いとみえる。 水稲のはじまりを弥生時代と定義するなら、関東の弥生は紀元前後以降。 武蔵野台地に限定するなら水利が悪く農耕適地なし。縄文遺跡は多数、弥生遺跡はないに等しい。 弥生の開拓者がやってくる理由がなかった、だと思います(武蔵野の森が現代まで残る)。 青森の砂沢遺跡は出雲系の資源探索部隊の開発で近畿より早い可能性あり。 中里遺跡も加曽利貝塚もおそらく出雲系(小銅鐸、近隣に最古型の前方後円墳)。 正倉院文書の下総国葛飾郡大嶋郷戸籍AD721には、関東平野の半ばが海であったとみえる大嶋郷の住人が詳細に記録されています。 そこには孔王部刀良アナホベのトラや孔王部佐久良賣なんて人物も書かれる。 (葛飾柴又、男はつらいよの山田洋次監督いわく偶然らしいけど) 大嶋郷の住人はほとんどが孔王部アナホベ、安康454-456(穴穂天皇)-雄略456-489で送り込まれた開拓民だと思います。 (安康は倭王済AD440頃~456と推定、允恭から近畿王を簒奪とみる) この人々がいかなる祭祀をもっていたか不明なれど当時の九州系祭祀ではないか。 雄略の武神は手力雄命=雄略創始という湯島天神の御祭神(鹿島神宮/武甕槌命は平安あたりでの登場)。 景行311-333日本武尊は船橋市付近上陸(入日神社、意富比神社の元宮とされる)。 縁起に日本武尊が天照大神を祀ったというが、これはありえない。 相殿に萬幡豊秋津姫(天之忍穂耳尊の妃)と天之手力雄命あり。こちらが本来の御祭神であった可能性少なからず。 日本武尊の祭祀は雄略と類似と推定(伊勢外宮の豊受大御神は雄略の創始とされる)。 文武697-707浅草付近の隅田川に「浮嶋牛牧」登場。 万葉集3387に、「葛飾の真間の継橋」が謡われています(下総の国府、真間の入江、千葉県市川市)。 慈覚大師(円仁)が860頃に隅田川に牛御前社(素戔鳴尊)を造立(新編武蔵風土記稿、現在の牛島神社)。 平将門の乱939 武蔵、下総。 更級日記(1000頃)にて下総の市川から太日川(旧利根川)を渡って武蔵~東海道へ向かう道が登場。 千葉氏の祖の平常長が下総に登場1050頃。 源頼朝が千葉氏の支援で隅田川を渡る1180、これを謝して牛御前社に領地を奉納。 この流れの中に第六天神の登場があるのではないか。 縄文海退後の東京湾は千葉県側からの開墾と見えます。 伊弉諾尊伊弉冉尊以前は自然神だと思います(三代目からは夫婦神で書紀の意識も微妙ではある)。 書紀が一般にも読まれるとすれば平安後期あたりと思います。 開墾と治水、これの成就を祈願するとしたら、自然神を祀るだと思います(水に特化すれば水神様でもある)。 書紀の神話時代は時間軸の概念がない、区分するなら穀物登場だと思います。 そこから登場するのが「伊弉諾伊弉冉尊以前の神」、代表させての面足尊と惶根尊ではないか・・ 関東の近津社(千鹿頭)は関東平野の山岳に添っており縄文が濃密で狩猟系でしょう、諏訪が源流で紀元前後以降。 関東の第六天社は千葉側に源流があるのではないか。これも紀元前後以降。 (ひょっとすると千葉県側の近津社は・・) 平安時代となってさらに後の戦国時代、関東平野の支配者となるのが千葉氏-北条氏-徳川氏。 その農地開拓の流れに乗った信仰。 (徳川幕府は北条家臣だった武士を開拓村の指導者としている) 参考図 鹿児島での面足尊を祀る社(住所と御祭神は神社庁平成祭りデータによる) 野井倉神社 曽於郡有明町野井倉6833 惶根命、淤母陀琉神を祀る(国土地理院地図では神社マークなし) 若宮神社 東市来町伊作田827 仁徳天皇 武内大臣 面足命 猿田彦命 宮浦神社(宮浦宮) 姶良郡福山町福山2437 國之常立神~伊弉諾尊伊弉冉尊 天之忍穂耳尊~神武 檍神社 末吉町南之郷4772 天之御中主尊~伊弉諾尊伊弉冉尊 その他 鹿児島の三社は海岸にある(檍神社は内陸ですが宮浦神社の勧請とある)。 いつの時代かは別にして、関東同様の開拓と治水の成就祈願での伊弉諾伊弉冉尊以前、があるのではないか。 ま、順次全国をチェックしてゆくつもりですが、消えたり変化したりしないでほしいところ。 |
[11922] Re: 女神の御神像 宮本634 投稿日:2016年 9月21日(水)21時31分 | |
神奈備さんへのお返事です。 2年前に登ったんですか!元気ですね! 酒殿神社から丹生都姫神社までの歩かれた道は三谷坂または勅使道ともいい世界遺産目指しているようです。 昔は三谷坂からそれて、丹生都姫が降臨された滝まで行く道があったと思うのですが、あのきれいな滝が三谷坂から見えるようになるとすばらしいんですがね。地元の人でなければ絶対気づかないのでもったいないです。ちなみに、三谷は、丹生都姫が降臨された「御瀧(みたき)」がなまって「三谷」となったと言う伝承があります。 そう言えば、先日大河ドラマで「九度山」の「九度」が「空海さんが母上のおられる慈尊院に九度会いにきた」ことから「九度山」と出てましたが、九度山町史を読んだ記憶が正しければ、昔は「九度」ではなかったような気がします。丹生氏には、昔そこで「くど(かまど)」を作ったことから「くど山」と名づけられたと伝承が残っています。話し言葉も地名も時代に伴って変わっていくので難しい分野です。私にはなかなか入っていけない分野です。 しかし、丹生明神、厳島明神、気比明神の像を作った目的はなんだったのでしょうかね?どうして高野明神の像はないのでしょうか?気になるところです。 私は、最後に念願の秩父にて丹治氏を調べて、丹生氏の謎解きを終えようと思っています。何年かかるかわからないんですけどね。とりあえず来年あたりから(^^;)またいろいろとご教授ください。<(_ _)> |
[11921] Re: 女神の御神像 神奈備 投稿日:2016年 9月19日(月)20時55分 | |
宮本634さんへのお返事です。 > 神奈備様、ご無沙汰しております。 こちらこそ御無沙汰です。ご投稿、ありがとうございます。 「高野山麓 祈りのかたち」は4年前に行われた特別展でしたね。見学したと思いますが、この女神像には注意をはらっていませんでした。ありがとうございます。 その2年前に、酒殿から天野まで歩るきました。その道筋が境内全部と言うか、参道だったとは実に広大な神域です。 鉾立岩がありました。神跡でした。 |
[11920] 女神の御神像 宮本634 投稿日:2016年 9月18日(日)23時16分 | |
神奈備様、ご無沙汰しております。 先日、神奈備様もご存知?の三谷薬師堂でこんな記事を見つけました。↓ http://kenpakunews.blog120.fc2.com/blog-entry-539.html?sp 丹生都比売、気比明神、厳島明神のご神像の木型が、丹生氏の本拠である三谷の薬師堂で見つかったそうです。丹生酒殿神社にあったのもが、神仏分離で薬師堂に移されたのだろうと。 ちなみに、丹生都比売神社と丹生酒殿神社とはどう言う関係であった説明しますと。丹生都姫が三谷に降臨し、何百年かの後、応神天皇の時代に、山上の天野にご神体をお遷しし、酒殿神社が里宮、丹生都姫神社は山宮となります。通常人々は丹生都姫神社には行かず、神主がいる酒殿神社から拝みました。紀氏も代替わりの時はこの酒殿神社に参拝しました。古代においては現在の丹生都姫神社から酒殿神社までが丹生都姫神社なのです。しかし、空海さんが高野山に来てから変わります。空海さんが丹生都姫神社を祭り、山宮であった丹生都姫神社は建物が増え、高野山真言宗の神事がどんどん増えました。また、平氏の時代に気比明神、厳島明神が勧請され、ちょうどこの頃、現丹生都姫神社では、丹生氏の神事の年4回?に、真言宗の神事が足され、年50回以上となり、神主さん達は三谷から移住し、丹生総神主は天野に単身赴任すると言う形になりました。丹生氏で、「天野は親が祭る宮、三谷は子が祭る宮」と言われるのはこのためです。 このように、丹生都姫神社は高野山の影響が強くなり、それと違い酒殿神社は高野山の影響が少ない状況となります。そのためか、丹生都姫神社で祭られている気比明神と厳島明神は酒殿神社では祭られていません。では何故「酒殿神社にあったものが神仏分離の時に薬師堂に移されたらしい」のか?酒殿神社は丹生都姫神社の遥拝所で関係は密接ではありますが、気比明神と厳島明神は酒殿神社とは関係ないのに何故?私の見方は違います。三谷薬師堂はもともと昭和の初期まで丹生氏(今苗字は変わっています)の所有で、神事においても重要な場所だったので、もとからここに神像の木型があったと見るほうが、なんかぴたっとはまる感じがします。まあ、真実は分かりませんけどね。 たまにネット上で、丹生都姫神社はどうして北向いてるの?って言う記述を見ますが、私は単純に「自分たちを見守ってほしい」との祭る人々の思いから、人々の住んでいる里宮のある三谷をむいているんだと思います。例えば家の中で神棚を後ろ向きには祭らないですよね。必ず自分たちがいる家の中向きに祭りますよね。それと同じだと思います。 私はそれより、何故何百年もたってから三谷からあえて不便な天野に神様をお遷ししたのか?「北から攻めて来たときに、南に逃げるために天野にお遷しした」との伝承もあるが・・・。酒殿神社の神事は今はなくなっていますが、もともとここで行っていた神事は丹生氏本来の神事であり丹生都姫に由来する神事で、丹生都姫を知る上で最も重要な神事であったことは疑いのないことであり、明治の世襲制廃止による神事の消滅は悲しいことだったと思います。昔8月に丹生都姫神社の池に魚を放つ神事が、酒殿神社の縁起に出てきます。明治ぐらいに丹生都姫神社の春と秋の大事な神事が8月にまとめられたことがありましたが、これは神事を減らす上で8月の神事のほうが重要だったと思われます。それらからすれば、8月の神事は実は丹生都姫が天野に鎮座したのが8月だったことを表しているのかも知れません。今は酒殿神社にも丹生都姫神社にもこの神事はありません。 古い神事はその神様がどういう神様なのかを想像するのに非常に重要で、古い神事を継承できている神社は非常にすばらしく、うらやましい神社だと言えます。 神奈備様 ながながと書いてしまいました。申し訳ありません。<(_ _)> またいつかお会いしお話できればいいですね。 |
[11919] Re: 弥生の鉄器と馬 今井より 投稿日:2016年 9月16日(金)07時37分 | |
かたばみさんへのお返事です。 > > 江戸では新編武蔵風土記稿がメイン。編纂は幕末ではありますが明治維新の影響を受けない記録で貴重です。 > (目がかすんできましてCD化を期待(^^; ) > しかし、当時でさえも隅田川の築堤や江戸川改修など徳川家康時代であろう事象の記事がない。 > 江戸初期ではまだ公式の記録所ももなく、大名による記録も明暦の大火で失われたのかもしれません。 > 編纂時の250年も昔のことですし、江戸川の名称由来すら不明(江戸時代に開削された川なら明快)。 江戸の神社探訪ガイドありがとうございます。 楽しい興味津々のお話し いつもありがとうございます。 私は、地元の寺社探訪もなかなか捗りません。 由緒繋がりで、前出の諏訪大社や稲荷神社関連を調べている程度で 現在は地元だけで手一杯です。 このサイトやかたばみさんのサイトのデーターを参考にして また神社探訪に精を出しましょう。 昨夜は十五夜でした 7時から1時間程河川敷で眺めていましたが 残念ながら、雲が多くて、、、 今朝3時半、西方の空に満月を。。 そしていつもの公園に5時過ぎまで。。 西の山影に沈む満月を撮ろうと思ってましたが 生憎雲が多くて、、、隠れてしまいました。 しかし、目を凝らすと、満天の星空でした。 なんか救われました。。 風も爽やかでした。 |
[11918] Re: 弥生の鉄器と馬 かたばみ 投稿日:2016年 9月15日(木)22時44分 | |
今井よりさんへのお返事です。 >結局のところ、江戸末期の「三国名勝図会」と「国分諸古記」を 江戸では新編武蔵風土記稿がメイン。編纂は幕末ではありますが明治維新の影響を受けない記録で貴重です。 (目がかすんできましてCD化を期待(^^; ) しかし、当時でさえも隅田川の築堤や江戸川改修など徳川家康時代であろう事象の記事がない。 江戸初期ではまだ公式の記録所ももなく、大名による記録も明暦の大火で失われたのかもしれません。 編纂時の250年も昔のことですし、江戸川の名称由来すら不明(江戸時代に開削された川なら明快)。 参考図 第六天社分布図 関東平野には第六天神社が多数ありました(第七天神の一つ前、面足尊オモタルと惶根尊カシコネを祀る)。 その位置からおそらくは、家康による関東平野の開墾時代にその多くが運び込まれたと考えていますが、だれが運んだのか・・ 全国に分布して九州にもあるんですよね。 面足神を祀るのは、伊弉諾伊弉冉尊より古いという意味だろうと考えています。 すなわち縄文に遡る・・ しかし、明治維新後では伊弉諾伊弉冉尊より前を祀ることはありえないという当時の論に従い、また仏教の第六天魔王と重ねられることを嫌って呼称や祭神が変更されています。 myHP江戸名所図絵と神社散策の榊神社、高木神社、胡禄神社、おおざっぱな探索でも三社も残る。 (榊神社の解説の別項参照) うちのすぐ近所にもあったのですが、20年ほど前には近くの氷川社の境内に移されて消えていました。 明治維新前にははるかに多くが(全国に)存在したとみていますが、未だに未解決の社となっています。 |
[11915] Re: 弥生の鉄器と馬 今井より 投稿日:2016年 9月14日(水)07時04分 | |
かたばみさんへのお返事です。 古代から中世にかけては、 当地は、御承知のように「僻地」 峻険な山地が多いですから 牛馬は重要な担い手、 祭祀されている神々からも推察できます。 馬頭観音や馬櫪尊神など。 現在でも春祭りは賑やかですよ。 牛馬は、昭和の終わりまで山間部(棚田)では 農耕に従事してました。 今でも棚田は、時々見かけますが 大半はハンディータイプの農機具でしょうか。 数年前、人力のマンガを曳いて、、 暫く拝見してましたら、、 その後暫し談笑を。 馬は結構泳ぎが得意ですよ。 遠泳をしたかは、、 鹿や猪はニュースになります。 最近は、牛馬は、当地のような田舎でも 滅多に見かけません。 牧場にでも足を運ばないと。。 しゃんしゃんと鈴や鉦を鳴らし踊り 南国に春を呼ぶ「初午踊り」は 南九州の春の風物詩です。 < |
[11914] Re: 弥生の鉄器と馬 かたばみ 投稿日:2016年 9月14日(水)01時28分 | |
今井よりさんへのお返事です。 >農業の近代化で役目を終わり 東南アジア系の小型の馬が列島に運ばれたとして、いつ頃になんのために、ですね。 ?(テン)、春秋戦国に遡り得る雲南省の国。?王之印が出土し漢委奴国王金印に類似。 You tube知られざる文明、?(てん)王国など参照。 この人々の生活を写した「貯貝器」が興味深い。 馬に乗る人物があります。 以下myHP長江流域の初期文化から引用 BC3300頃、長江中流域に屈家嶺文化、銅鉱石と銅片、甕棺あり 同じく良渚文化、巨木列柱あり、金属器なし 同時期の山東半島南部の大ブン口文化から良渚製の玉が出土 BC1400頃、洞庭湖やポーヤン湖周辺に青銅器王国登場 青銅器が単体で周囲に遺跡などがない山頂、山麓、水辺に埋められている。 深さ1m程度で周囲には細砂や黒っぽい黄土を詰めている 春秋戦国の「楚」はこの風習を引き継いでいるようで、山東省泰安(泰山南方)でも類似風習がある。 参考図 騎馬文化の造形 さて、?(テン)王国の馬、造形的には小型にみえます。 漢より早い時代に馬に乗っている可能性あり。 (鐙アブミが中国で登場は西晋時代でまずは片側のみ、馬に乗り降りするときのためとみえる) さーて、列島に馬がもたらされたとするなら、いつ、どこからなんの目的で・・ 運ぶ手段は双胴船なら可能と思います。 沖縄に双胴サバニあり(フィリピンまで漁に出ていたそうな、海洋博での情報だったと思うけど) 南西諸島で馬が必要だったか?? 南九州で縄文末期に馬が必要だったか?? わかりませーん(^^; |
[11913] Re: 弥生の鉄器と馬 かたばみ 投稿日:2016年 9月13日(火)21時19分 | |
とみたさんへのお返事です。 魏志韓伝高句麗に 其国東有大穴、名隧穴、十月国中大會迎隧神還於国東上祭之、置木隧於神座 高句麗の東とは日本海、そこにある隧穴とは鬱陵島のこととみています。 (鬱陵島には洞窟がたくさんあって観光地になっている) 参考図 半島と日本海概略図 いつの頃かはなんとも言い難しですが、鬱陵島が日本海の海人の拠点になっていたと考えています。 (ちなみに10月は始皇帝が年始としている、出雲では神在月) 海流や季節風などがどうかはありますが、島根-隠岐-竹島-鬱陵島-半島東海岸(??)の航路は十分あり得ると思います。 鬱陵島あたりで荷物の受け渡しをしたかもしれない。 半島東海岸なら「倭国の見張り」は及ばず、その点で安心。 魏志韓伝の弁辰にて、国出鉄、韓?倭皆従取之、諸市買皆用鉄・・ 韓、?(ワイ)、倭、は名指し(韓は馬韓や辰韓と思う、要は伽耶周辺国)。 伽耶から入手できなくても?からなら入手可能(後に高句麗支配下)。 出雲側の対価はなにか、穀物でなんとかなったのではなかろうか。 ま、足下をみられて法外な値段をふっかけられたと思うけど(すなわち国内の鉄資源の探査)。 考古学での弥生前期とか中期というのは「そう規定する」の意で絶対年代じゃない。 また考古学は「物の歴史」どまりで「人の歴史」にはならないのが苦しい(記紀などとのジョイントがない)。 (絶対年代ではないので、離れた場所での事象とのリンクも取りにくい、各地域での編年とのずれ) 持論では土器編年など相対年代ではなく、絶対年代で考えています。 マーカーは箕子朝鮮崩壊BC194(素戔鳴)と呉楚七国の乱BC154(天之忍穂耳)です。 これ以降では記紀などに書かれる系譜(人脈)と書紀年代の復元をすりあわせて絶対年代を構成しています。 したがって、素戔鳴と天之忍穂耳の仮定が間違っていれば崩壊します(^^; いまのところ崩壊はないですけど(^^) 四隅突出墓は弥生中期以降とされますが、持論では大国主以降(AD30頃以降)なんてことになります。 大風呂南(その周辺=若狭)は大国主の国譲り以降の神武朝時代に樂浪と交易。 奈良出雲陥落AD239以降で若狭の氏族は「天孫」に恭順して古墳時代に入る(ガラス釧は首長の伝世品を副葬とみる)。 そんな流れとなります。 (ただし・・恭順に不満を持つ人物もいた、彦坐王の子の沙本毘古王の反乱ですね) 自慢は「人の歴史」を10年程度の誤差範囲で考えることができること。 物語を作ることができる、でもあります。 ただし絶対年代のマーカーがない素戔鳴以前では、自然環境や春秋戦国からの避難者、といった程度の仮定しかできないのでおおざっぱになります。 縄文になると、アカホヤ火山灰など地質年代がベースになるので少なくとも数百年以上の誤差になります。 年輪年代法はミスさえなければ絶対に近いけれど、土器の焼成年代を50年程度の誤差で判定できるようになることを期待しています。 |
[11912] Re: 弥生の鉄器と馬 今井より 投稿日:2016年 9月13日(火)19時36分 | |
神奈備さんへのお返事です。 > 3.住吉三神の住吉への鎮座三題 > > 『日本書紀』 神功皇后元年 > 表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えて曰く。吾が和魂を大津の渟中倉(ぬなくら)の長峽(ながを)に居さしむべし。そうすると徃來する船を見守ることができる。そこで、神の教えのままに鎭坐していただいた。 > こんばんわ。いつも楽しく拝読しています。 ちょうど、熊襲の征伐命令を出した時ですね。 そうすると、住吉三神は日向の橘におられたのですよね。 現在の宮崎の住吉神社の創建ということに。。。 この住吉神社ですが、橘三喜が参詣した時は 日向大地震の後で、社殿は流失していたようです。 以前、父と参拝した時 宮司さんが、古文書が流失して由来が判らないのですよ。 と残念がっておられました。 住吉大社と島津忠久 そして 何の因果か「熊襲」と 繋がるとは。。。 歴史は摩訶不思議。。 だから面白くて止められない。 |
[11911] Re: 弥生の鉄器と馬 今井より 投稿日:2016年 9月12日(月)03時43分 | |
かたばみさんへのお返事です。 ご丁重に長文で ご教示頂いて感謝致します。 馬の情報について 平成10年頃でしたか、 当地の「初午祭り」関係で 少々調べました。 一応、当地の情報をお知らせ致します。 ○ご指摘のように南西諸島では交配もあって 在来種は無くなったようです。 ○開聞岳の野生馬「トカラ馬」に関しては説明板に 南西諸島の一つ中ノ島に共生して 農耕らに従事していた在来種。 農業の近代化で役目を終わり 昭和39年ここへ移された。 とあります。 ご指摘のように、日本の在来種として 北海道・根室市の無人島ユルリ島と 對馬馬として長崎の對馬に居るようですが 詳細は判りません。 ○出水貝塚の馬について ☆縄文早期及び中期から, 後期の中葉に及ぶ遺跡 馬遺物は後期に出土 ☆馬は矮小であつて, トカラ馬と大さ殆んど等しく, 体高110cm前後と考えられる. ☆飼育馬の埋葬 とあります。 「貝塚」としてのイメージは、 中学生の頃の社会科以来「ゴミ捨て場」でしたが、、 縄文時代は「神聖な場所」でもあったようで 目から鱗でした。 結構、丁重に埋葬されていたようで 祭祀道具の欠片も出土していたとか。。 垂水市の縄文犬に関してもしかり。。 当地には「縄文貝塚」や「遺跡」が 多数あるのですよ。 幼い頃は結構土器片もあったのですが、、 当時にタイムスリップしたいものです。 (平成に帰郷してから知ったのです。 当時は単なる土器片としか。。。) また、戦国時代の馬は小さかったと聞いています。 なんでも今のポニー程度とか。。 そう言えば、担いでいる挿絵を見たような。。。 現に当地の中世の磐城の「切通」は、一応馬が通ったようです。 そう幅広ではありません。 当初はこんな狭い処をと思ってましたが。。。 どこかに剥製でもあると嬉しいですが。。 ここで、馬具の鉄鋳造らについて知識を頂きましたので 今後の精査の糧にしたいと存じます。 ありがとうございます。 |
[11911] Re: 弥生の鉄器と馬 かたばみ 投稿日:2016年 9月11日(日)23時38分 | |
今井よりさんへのお返事です。 >出水貝塚から縄文早期~中期 で出土しています 参考図 アジアの小型中型馬の分布 日本古代文化の探求/馬/社会思想社/森浩一編集 トカラの馬は東南アジア系の小型馬の流れとみえます。 奄美~八重山の小型種は現在では交雑して古形はないらしい。 森浩一氏は出土物には攪乱されている場合があるので要注意と述べられています(食糧とされた骨が埋めらるなどですね)。 時重初熊(獣医学者)が分類した記録1889だと 重馬:南部馬、秋田馬、華岡馬(場所不詳) 中馬 仙台馬、三春馬(たぶん福島県)、最上馬、蝦夷馬 軽馬 鹿児島馬 小馬 沖縄馬 隠岐馬 土佐馬 五島馬 対馬馬 この時代では列島では在来馬だけらしい。 隠岐にあるのが興味深い。離島ゆえに残ったのだと思います。 小型馬を運んだのは南西諸島系海人じゃないか。東シナ海系海人ではないとみるところ。 弥生の北九州の甕棺には大量の副葬品がありますが、馬関連の出土はひとつもないからです。 (甕棺=出雲系譜かつ大己貴系(東シナ海系)のもの、とみています。きっぱり(^^; ) 半島南岸にも小型がある、この馬は神武朝が怪しい。神武北上で小型馬が荷駄を背負って随伴・・ 対馬の弥生後期では車馬具や馬鐸出土ですが、騎馬に使われた様子はありません。 魏志倭人伝には牛馬なしとある。食べられてしまったのだと思ってます、マジです(^^; 倭人伝に末廬国から伊都国に至る道は草ぼうぼうで前が見えないとあります。倭国の表玄関の道が、です(AD240頃か)。 倭国が疲弊して草刈りすらできない状況だったのだと考えています。 寒冷化による食糧不足に加えて、卑弥呼による九州以東への出兵による疲弊。 飢饉多発で牛馬を飼育するゆとりなどなくなっていたとみるところ(新羅本紀に倭人が飢饉で逃げてきた193などあり)。 参考図 気候変化概略 安田喜憲の花粉分析などによる 素戔鳴の起源とみる箕子朝鮮~BC194には車馬具出土、ただし騎馬はみあたらない。 書紀神話に素戔鳴が馬を機織り小屋に投げ込む話があります。 もし、素戔鳴が馬(中型のモンゴル馬)を運んでいても、大切な動物のはずでそんなことはしないでしょう、書紀の創作とみます。 文献で確実なところでは応神紀に百済王が馬二匹を送っています。 古事記では照古王とあるので、おそらくは近肖古王346-374で、七支刀369と同時じゃないかな。 高句麗系の中型馬だろうと思います。小型馬じゃ高句麗の重装騎兵は無理でしょう。 |
[11910] Re: 弥生の鉄器と馬 とみた 投稿日:2016年 9月11日(日)19時53分 | |
かたばみさんへのお返事です。 > とみたさんへのお返事です。 > > >朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。 > > もう少し情報がほしいところです。 かたばみさんへのお返事です。 > とみたさんへのお返事です。 > > >朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。 私は、考古学中心で考え、それが記紀、史記などの文献との接点を従として見る立場です。 歴博の報告書で鉄の論考は一応目を通しております。 弥生時代は500年も遡りましたが、揺り戻しもあり、ただいまの年代観は 弥生時代前期末はbc300-350年。 中期初頭はbc250年 中期後葉はbc108年(前漢武帝の楽浪郡成立)、 後期初頭は紀元0年 後期後葉は紀元150年 終末期前半(庄内式古式)紀元後190年~ 終末期後半(庄内式新式)紀元後220年~ 古墳時代初頭 紀元後250年 と考えています。 鉄は燕の時代の鋳造鉄斧が北部九州に入るのが、戦国時代から前漢時代でしょう。 韓半島の南東部の蔚山達川里に鉄鉱山が見つかりましたのが須玖Ⅱ式土器(中期後半)ですが、まだ鋳造鉄斧を作る技術はなく、楽浪郡の技術(鋳型が出ている)を使われています。釜山の東莱莱城や泗川勒島では鍛造鍛治工房がありそこからは紀元前後に既に鉄の素材を日本に入れていたようです。 本格的には紀元後2世紀に慶州の隍城洞で断面梯形鋳造鉄斧が作られるようになりました。 日本にも輸出するようになりました。 北部九州の福岡の三苫永浦では袋状の鉄斧の一つである有帯鉄斧が作られ始め熊本などを皮切りに全国に広がります。 私のささやかな知識です。 丹後の大風呂南墳墓は弥生時代後期後半とされその前の弥生前期・中期には、三坂や左坂で勢力を張る族がいます。 赤坂今井墳墓は大風呂南の後で後期末か終末期のものですね。 > 田和山遺跡の硯の破片、大風呂南遺跡のガラス釧の輸入です。 > 交易ルートのひとつは北九州を通らず、山口県長門あたりから対馬へ密航するルート。 > もうひとつは、島根半島あたりから半島東岸の高句麗へのルートです(山陰の四隅突出墓の源はこれにあると考えています)。 > ま、しかし、自由に伽耶へ渡れた時代と比せば、鉄や最新文化の導入はできなくなったに等しいでしょう。 北部九州ルートでなく響灘経由のルートがあるような気がしますが、自信がありません。 対馬と日本海岸を結ぶルートがあれば出雲と丹後への鉄のルートが肯定できますが。 北部九州の土器(海上運搬具)が西出雲の山持遺跡や古志本郷遺跡に出たり東出雲の隠岐に出たりしているので、北部九州経由も十分あり得ます。 韓国直通と北部九州経由の両建のルートを持っていたのでしょうね。 いずれにせよ楽浪土器と三韓土器の出土地の分析が必要だと思います。 |
[11909] Re: 「○○タラシ」 今井より 投稿日:2016年 9月11日(日)12時16分 | |
福島雅彦さんへのお返事です。 > ※「狗奴國」=「高(氏)ン國」と認識しています。 > ・「高句麗」建国王「朱蒙」の姓は「高氏」。「高句麗」=「高(氏)グル(仲間)」か、と。 > ・「高…」の姓は関連があるかも、と思います。 早速のご教示ありがとうございます。 これから関連付けて また精査に勤しみます。 当地の「韓国岳」や「韓国宇豆峯」らの由来も 踏まえて精進致します。 ☆16-9-1:韓国岳 古代に噴火で上部が吹き飛んでいます。 えびの高原側から望む 案外、ここから古代は朝鮮が見えたかも? 現在、長崎の普賢岳は時々、近くに見えます。 ☆韓国宇豆峯神社 ここから剣神社を勧請しています。 ☆居世神社(垂水市) 朝鮮王朝の始祖?? |
[11908] Re:「○○タラシ」 福島雅彦 投稿日:2016年 9月11日(日)11時56分 | |
中国『隋書』には「タラシ彦」と、男王であるとしていますね。 当時は推古天皇の代で女王であるはずなのに、これは不可解です。 そこで琉球古語で「タラシ」を解釈すると、「たらす(誑す)」。。。これは「騙す」や「躊躇する」という意味で、中国側に気を使って、躊躇しながらもあえて騙したのではないかと考えてみました。 現代日本語でも「女タラシ」とかあるわけで、当時の倭国のしたたかさの表れでしょうか? まあ、他の「タラシ彦」にもそういう性格があるのか精査してみないと何とも言えないのですが。。。 |
[11907] Re: 弥生の鉄器と馬 かたばみ 投稿日:2016年 9月11日(日)11時56分 | |
今井さんへのお返事です。 >「居住地に因んで名を賜う」 韓國===>>高原 改名していますが。 ※「狗奴國」=「高(氏)ン國」と認識しています。 ・「高句麗」建国王「朱蒙」の姓は「高氏」。「高句麗」=「高(氏)グル(仲間)」か、と。 ・「高…」の姓は関連があるかも、と思います。 |
[11906] Re: 弥生の鉄器と馬 今井より 投稿日:2016年 9月10日(土)13時36分 | |
かたばみさんへのお返事です。 > とみたさんへのお返事です。 > > >朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。 > > もう少し情報がほしいところです。 こんにちわ。 割り込みで恐縮です。 南九州の「馬」に関して 次にあります。 ===== 『日本書紀』巻二二 推古天皇二十年(六一二) 正月丁亥《七》 ◆廿年春正月辛巳朔丁亥。 置酒宴群卿。是日。大臣上壽。 歌曰。夜須彌志斯。 和餓於朋耆彌能。訶句理摩須。 阿摩能椰蘇訶礙。異泥多多須。 彌蘇羅烏彌禮麼。豫呂豆余珥。 訶句志茂餓茂。知余珥茂。 訶句志茂餓茂。 知余珥茂訶句志茂餓茂訶之胡彌弖。 兎伽陪摩都羅武。烏呂餓彌弖。 兎伽陪摩都羅武。宇多豆紀摩都流。 天皇和曰。 摩蘇餓豫。蘇餓能古羅破。 宇摩奈羅麼。辟武伽能古摩。 多智奈羅麼。句禮能摩差比。 宇倍之訶茂。 蘇餓能古羅烏。 於朋枳彌能。兎伽破須羅志枳 ==== ===>>宇摩奈羅麼。辟武伽能古摩。 馬なら日向の駒 ○また、発掘遺跡等に関しては 出水貝塚から 縄文早期~中期 で出土しています。 トカラ午サイズだそうです。 ○馬具は、近年、福岡の古賀市から 出土してますが、国内産かと 云ってましたがその後どうなったのでしょうか http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3440/1.html ○以前、お隣、宮崎県でも 宮崎市山崎町の 山崎下ノ原第1遺跡 金 銅 張 馬 具 ===>>以前リンクしてたのですが 今日、検索でヒットしません。 ○邪馬台国論争で有名な「西都原古墳」でも出土しています。 ☆都井岬の日向駒 ☆開聞岳のトカラ馬 ☆当地のお祭り「初午踊り」 |
[11905] 弥生の鉄器と馬 かたばみ 投稿日:2016年 9月 9日(金)19時28分 | |
とみたさんへのお返事です。 >朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。 もう少し情報がほしいところです。 韓半島における初期鉄器の年代と特質 https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185003.pdf なぜかというと、持論にて大国主が九州を神武に譲ったのはAD30頃。 その後、綏靖、安寧、懿徳 92-105、までは神武朝であり、出雲との混合王朝であった、と考えているからです。 すなわち、この時代では出雲は伽耶や樂浪とも交易可能で、鉄の入手もできたと考えています。 田和山遺跡の硯の破片、大風呂南遺跡のガラス釧の輸入です。 出雲は大国主時代(紀元前後)では奈良の開発に成功し大発達中(唐古・鍵など)。 これあるゆえに大国主は九州を神武に譲った。 しかし対馬-伽耶の交易ルートを失うことは想定していなかった。 これをやったのが孝昭105-137、孝安137-175だと考えています。 北九州から出雲を排し半島との交易も遮断した(専有化する)。 困ったのは出雲文化圏、鉄器の使用は困難を極めるようになった。 黒姫山の褐鉄鉱や東北の餅鉄など必死の資源調達。 鉄器は錆びて消滅することもあるでしょうけれど、最後まで青銅剣を使わざるを得ず、武器の差=戦闘力の差は明白になっていたと考えています。 (開化225-248の奈良突入はせいぜいが数百人とみています、それでも制圧されてしまった) 交易ルートのひとつは北九州を通らず、山口県長門あたりから対馬へ密航するルート。 もうひとつは、島根半島あたりから半島東岸の高句麗へのルートです(山陰の四隅突出墓の源はこれにあると考えています)。 ま、しかし、自由に伽耶へ渡れた時代と比せば、鉄や最新文化の導入はできなくなったに等しいでしょう。 古事記に八千矛神が馬に乗って歌を詠むシーンがあります(大国主や大己貴の別名になってるけど)。 鞍と鐙が登場、これが事実とすればこの馬はどこから入手? 魏志倭人伝では牛馬なしとある。 高句麗からだと考えています。 応神386-402頃では百済から騎馬を入手しているはずで、これが山陰経由で蝦夷に渡る可能性あり。 だが、ひょっとしてひょっとすると・・八千矛神の馬は応神の百済系の馬よりはるか昔に蝦夷に渡ったかもかも。 馬具は作れないが繁殖はできた。 南部馬はすでに消滅のようですが(北海道に残滓が残る)、高句麗の馬は残っているのかなあ。 DNA分析はいかに・・ |
[11904] Re: 「○○タラシ」 今井より 投稿日:2016年 9月 9日(金)09時14分 | |
福島雅彦さんへのお返事です。 おはようございます。 早速のご教示ありがとうございます。 神社探訪を始めた頃 「保食神」の名称が各神社でまちまち 不思議に思ったものでした。 そして今度は江戸時代の史料らにも。 考えれば、昔は、文盲率が高かったわけで 神社仏閣の方々位が識者。。 お坊さんが重宝されたのも頷けます。 当地の苗字(姓)を暇に任せて ピックアップしていて ちょっと面白い現象を発見して ついほくそえんでしまいました。 明治初期、平民苗字必称義務令で 苗字を名乗るようになります。 江戸時代、当地では「門割制度」があって 防災の要として威力を発揮したようです。 当地の場合、その集落の主に農民には 門割の字を付けたようです。 結構、重なる地域が多いのです。 ある集落は同姓が多くて 過疎地の場合は、皆親戚という処もあります。。 そう言えば、中世の頃にはこんなお話も。 ===== 『続日本紀』巻■ 延暦九年(七九〇)十一月壬申《十》◆壬申。 外從五位下韓國連源等言。 源等是物部大連等之苗裔也。夫物部連等。 各因居地行事。別爲百八十氏。是以。 源等先祖塩兒。以父祖奉使國名。 故改物部連。爲韓國連。 然則大連苗裔。是日本舊民。 今號韓國。還似三韓之新來。至於唱■。 毎驚人聽。因地賜姓。 古今通典。伏望。 改韓國二字。蒙賜高原。 依請許之。 ===== 「居住地に因んで名を賜う」 韓國===>>高原 改名していますが。 ご多忙の処 ご教示ありがとうございます。 |
[11903] Re: 「○○タラシ」 福島雅彦 投稿日:2016年 9月 8日(木)23時18分 | |
今井さんへのお返事です。 お目に留めていただき多謝 謝々! >鹿児島には、中世の「薩摩弁」の辞書がロシアに残っています。 「ゴンザ辞典」。。これで、当時の薩摩弁が判って楽しいです。 江戸末期の坂本龍馬が当地へ新婚旅行に来た折、 近くの「犬飼滝」(いぬかい だき)を 地元民は鹿児島弁で「いんけん だっ」と呼んでいます。 龍馬はそれに充てて「陰見滝」としています。 >===>>ある識者はこれは聴き違い、間違いと。 *これは、聞き間違いではなく其の様に聞こえたのです。 ・筑後弁でも「犬=いん」と発音します。 ・「飼=けェ」と訛ります。“kai”の母音の二重母音化? ・筑後弁でも「カイツブリ(水鳥)」⇒「けェツグロ」と訛ります。 ・「飼の」の意の「の」=格助詞で「ン」に訛ります。 ・「滝」=“tak”と閉音化して促音になった? ∴「犬飼の滝」=「いんけぇンだッ」と聞こえた、と。 *薩摩=“?”(sa)投馬(つま)國=南・投馬(つま)國。 ・投馬國=“??”(tuma)國=双山国(直訳)=筑肥山地と「水縄連山(耳納山地)」の間の国。 ・「對馬國」も同義⇒“??”(tuma)國=双山国(直訳)=上県郡・下県郡。 *鹿児島=土地の人は「かごンま」と。 ・“????”(kagon-maeul)=「行った人の村」(直訳)=投馬國の飛び地、かと。 ∴薩摩弁と筑後弁は親戚? *文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。 |
[11902] Re: 「○○タラシ」 今井より 投稿日:2016年 9月 8日(木)20時01分 | |
福島雅彦さんへのお返事です。 > かたばみさん、またまた横レス、失礼します。 > > >後漢書東夷伝107に倭国王帥升の朝貢記事があります。 > 帥升とは何者か、持論年代にて孝昭105-137の送った使者となります。 > > *倭王 「帥升」は、中国書記官の認識=“shuai-sheng”です。 > ・「倭人」が口述した音価に当て字しています。 > ・これは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」=“??”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」であろうと思います。 > *「生口」160人の献上は、曽尸茂梨???-???(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)からの製鉄技術者であろう、と。 > 時のハイテク産業で最高の贈り物です。 > > *文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。 > 興味深く拝読しています。 鹿児島には、中世の「薩摩弁」の辞書がロシアに残っています。 「ゴンザ辞典」。。これで、当時の薩摩弁が判って楽しいです。 江戸末期の坂本龍馬が当地へ新婚旅行に来た折、 近くの「犬飼滝」(いぬかい だき)を 地元民は鹿児島弁で「いんけん だっ」と呼んでいます。 龍馬はそれに充てて「陰見滝」としています。 ===>>ある識者はこれは聴き違い、間違いと。 古代の言語も国際交流となると当て字が多いでしょうから 先生方のお話は勉強になります。 |
[11901] Re: 「○○タラシ」 福島雅彦 投稿日:2016年 9月 8日(木)17時05分 | |
かたばみさん、またまた横レス、失礼します。 >後漢書東夷伝107に倭国王帥升の朝貢記事があります。 帥升とは何者か、持論年代にて孝昭105-137の送った使者となります。 *倭王 「帥升」は、中国書記官の認識=“shuai-sheng”です。 ・「倭人」が口述した音価に当て字しています。 ・これは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」=“??”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」であろうと思います。 *「生口」160人の献上は、曽尸茂梨???-???(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)からの製鉄技術者であろう、と。 時のハイテク産業で最高の贈り物です。 *文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。 |
[11900] Re:「○○タラシ」 琉球松 投稿日:2016年 9月 7日(水)09時30分 | |
福島雅彦さん、かたばみさへ "裴世清は畿内には行っていない" のは、ありそうな話です。 『魏志』の倭人伝さえ、陳寿は北部九州あたりを取材したに過ぎないかもしれませんね。 いわゆる「邪馬台国」は、博多あたりのオジさんから聞いた噂をもとに書いたのかも。。。 ところで、「タラシ」は7世紀初頭あたりではすでに尊称となっていると言うのもアリですね。 もともと意味はあったはずなのに「足=たりる=十分で豊かな時代」などは、過去の天皇への諡号ですね。 うがった見方をすれば。。。井沢元彦風に言うと "実はそんな時代ではなかったから" 祟りを恐れた後世の人が与えた名かもしれません(笑) あと、若干気になるのは「北」は「比」の誤写だとする説。。。これは同感なのですが、説としては「北狐=ペィコ(矛)」の可能性もありそうです。「銅矛」は北部九州や出雲の男王を擬人化したブランドでしょうか。 |
[11899] Re: 「○○タラシ」 かたばみ 投稿日:2016年 9月 7日(水)00時23分 | |
琉球松さんへのお返事です。 >中国『隋書』には「タラシ彦」と、男王であるとしていますね タラシ外伝ですね。 (隋書の多利思北狐は「北」と「比」の誤写だろうとみています) 新唐書に「用明亦曰目多利思比孤」もあります。 この時代では血脈は薄れて高級ブランド的タラシの尊称になっているかもしれないです。 また、タリシが発音に近いなら、この時代では「足りる」のイメージに近くなっている可能性もあり。 孝安137-175日本足彦国押人と天足彦国押人の流れに筑紫磐井がある、いまのところそう考えています。 書紀では懿徳 92-105-孝昭105-137-孝安137-175-孝霊175-204ですが、先代舊事本紀の天皇本紀ではいささか不可解。 懿徳-孝照-孝安-孝照-孝霊となっています。 「孝照」が二度登場、なんだこりゃ・・書紀のそれとは異なる情報を持っていることがうかがえます。 神武朝の終わりの時代であって、錯綜と混乱があるのでしょう。 後漢書東夷伝107に倭国王帥升の朝貢記事があります。 帥升とは何者か、持論年代にて孝昭105-137の送った使者となります。 神武朝に代わって新王朝が登場したことの報告でしょう。 位置はなんともいいにくいですが北九州ではあると思います。 神武朝が出雲との混合王朝であるのに対し、出雲を排した王朝。すなわち倭国争乱のはじまりです。 この流れが一方では日向宮崎の邪馬壹国へ(孝安137-175、卑弥呼、孝霊、孝元、開化225-248)。 もう一方が書紀にはでてこない北九州の天足彦国押人であり、旧事本紀が書くもうひとりの孝照でもあると考えています。 書紀が日本足彦国押人と天足彦国押人というそっくりの名を書くのには訳がある、といったところ。 その後の倭国争乱で天足彦国押人の系譜の記録は消滅かな。 筑紫磐井は天足彦国押人の末裔であり、おそらくは継体と同じく日本海系氏族(彦坐王)の流れも引く。 母系においては継体と筑紫磐井は縁戚者だと考えています。 で、欽明539-571は筑紫磐井の縁戚者(九州王)であって継体の子ではない。 以下用明585-586目多利思比孤(短命ではない、九州王)、多利思北狐(近畿王)と続くわけです。 敏達572-584は継体の子で近畿王、敏達死去して用明が近畿王兼務、用明に帯同した蘇我氏が物部氏を滅ぼす。 (物部滅亡によって敏達の子の押坂彦人大兄皇子は近畿王を継承できず) で、書紀は推古と聖徳太子という創作を登場させるわけですが、また機会があれば・・ |
[11898] 十五夜 お月見 今井より 投稿日:2016年 9月 5日(月)16時05分 | |
この15日は、鹿児島神宮の例祭「十五夜」です。 幼い頃から、春の「初午祭り」が 賑やかなので「例祭」かと思ってましたが、、 こちらが「例祭」なんですね。 いつからの祭事なのかちょっと勉強不足ですが、、 他の地方では、どのような祭事があるのでしょうか 興味津々です。 壱岐対馬には「十五夜相撲」があるようですね。 幼い頃は、河原で、すすきから注連縄を作って 相撲大会がありました。 結構強かったので賞品が楽しみでした。 御天気が良ければ、のんびりお月見をしたいものです。 |
[11897] 琉球松さま 福島雅彦 投稿日:2016年 9月 5日(月)14時58分 | |
ご高説を何時も興味深く拝読しています。 ご返信を賜り、多謝 謝々! >中国『隋書』には「タラシ彦」と、男王であるとしていますね。 当時は推古天皇の代で女王であるはずなのに、これは不可解です。 ※私は、『日本書紀』が馬脚を現した部分だと観ています。 ・即ち、『隋書』は九州皇統の「阿毎多利思比孤」に面会した、と。 ・裴世清は畿内には行っていないのであろう、と観ています。 |
[11896] Re: 「○○タラシ」 初心者 投稿日:2016年 9月 5日(月)11時51分 | |
福島雅彦さんへのお返事です。 > 横レス、失礼します。何時も興味深く拝読しています。 > > ※この「○○タラシ」の初出は「天照大神」ではないかと、愚考します。 > > 即ち、「阿毎」=「天(あま・あめ)」、「多利思」=「照」の事である。 ハングルについては、知識が全く及びませんが >初出は「天照大神」ではないか については、実は私も可能性を感じています。 >「多利思」=「照」 「多利思」については未考察ですが(全く頭が働きません) 「照」=「帯」=「垂」の可能性についてのみ考えておりました。 |
[11895] タラシについて かたばみ 投稿日:2016年 9月 5日(月)09時43分 | |
(たぶん皇極と斉明の天豐財重日足姫が最後) 訂正(^^; 元正715-723が日本根子高瑞浄足姫がタラシで(いまのところ)最後。 天武673-685の子の草壁皇子の子で日本根子と足を共有する女帝。 非九州系大王、継体507-530-安閑531-534-宣化535-538-敏達572-584-舒明629-641-天武673-685-(草壁皇子)-元正715-723。 持論では宣化-敏達に重なって、九州系の欽明539-571-用明(推古)があります。 myHP倭王五代~聖徳太子~壬申の乱シミュレート参照 皇極と元正、共通するのは敏達の子の押坂彦人大兄皇子。 敏達は継体(彦坐王系譜とみる)の子。 なにゆえ押坂彦人大兄皇子は(近畿王)敏達の後を継承できず、(書紀では)推古や聖徳太子が割り込んでくるのか。 物部氏が蘇我氏に滅ぼされて背景とする豪族を失ったからだとみています。 皇極も元正も古い祖先に彦坐王、あるいはずっと近くに継体の妃の尾張連の目子媛、が存在するという共通項があります。 パズルですね(^^; |
[11894] 「○○タラシ」 福島雅彦 投稿日:2016年 9月 5日(月)07時50分 | |
横レス、失礼します。何時も興味深く拝読しています。 ※この「○○タラシ」の初出は「天照大神」ではないかと、愚考します。 *「天照大神」=「天」は前述。(他のレジメ抜粋の為、後述) ・「照」=古代倭語“???”(ddal-li-da)[付く、属する、付いている]の語幹の当て字である。即ち、「高天原所属(出自)の大神」であり棚田での稲作農耕神。固有名詞ではないので、何代も何人(神)でも襲名できるし、性別は問わなくて良い。 ・因みに高良大社の主祭神「高良・玉垂尊」=“?-?-?-??”(ta-ama-ddal-li)尊=「全・天照大神」=歴代「天照大神」。左右に「八幡神と住吉神」を従える神格。 ・「阿毎多利思比孤」=同伝で「大神」が「比弧(日子)」に置き換わっているだけ。 即ち、「阿毎」=「天(あま・あめ)」、「多利思」=「照」の事である。 *「天(あま・あめ)」は⇒「高天原」=神々が居るところ、天上界を思わせる記述であるが…。「タカマガハラ」と読んでいては地上の場所は見つからない。「たか・あま ン ばル」と読むべきである。 ・「高」は高低の意ではなく、寄って「集(たか)って」の当て字、古代倭語で、“??-”(taka-)=[傍へ寄り付く、寄り添う、近付く、詰め寄る(民衆書林・韓日辞典)]と、語幹を同じくする語彙である。 ・「天(あ・ま)」は、前章の東の意と「ま・め」=膨れている、山の意の古語との合成。「(国の)東の聖なる山」(水源のある山)となる。 ・「原=ばル」とは、“?”(beol)[原;野原(民衆書林・韓日辞典)]で、筆者註としては、「耕作地=邑」である。従って、「東の山(聖地)に寄って集(たか)っている原」と成る。 水縄連山(耳納山地)の東の端のうきは市(旧・浮羽町)の狭い谷間に、百箇所近くの「○○原」の字地名が犇いている。此地に「日向」の地名が現存している。「浮羽」も“???”(u-kil-beol)[旭日原]の語尾子音欠落清音化であり、「高天原=阿斯達」とも同義。 ※「天照大神」=「天(あま・あめ)出自の大神」。 ∴「○○タラシ」とは「○○出自」を謳っているのでは? *文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。 |
[11893] Re: 生駒について かたばみ 投稿日:2016年 9月 4日(日)21時42分 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
>初心者さんへのお返事です。 >「帯」については、私の聞いたお話は、字ではなく「タラシという音」に注目されている印象でした。 名からの推測・・ 崇神248-273の御間入彦五十瓊植、垂仁273-311の活目入彦五十狭茅、垂仁の兄弟の豊城入彦、豊鋤入姫など今度は「入」が続々と登場。 これは新しい土地に「入城」の意味だと考えています。すなわち出雲の勢力地だった奈良への入城。 孝昭105-137の子の孝安137-175はタラシですが、続く孝霊175-204、孝元204-225、開化225-248では日本根子に尊称に変わります。 (書紀は日本ヤマトと書き古事記は倭ヤマトと書く) 倭根子とは「倭を祖先とする子」の意とみています(出雲とは無関係を強調する)。 孝霊175-204で倭国争乱の本格化、卑弥呼の登場(新羅本紀173に、倭の女王卑弥呼の使者来訪、の記述あり) 開化では稚日本根子になっています。稚とは稚児、幼いの意でしょう。 幼いとは孝霊-孝元と続いた倭根子(倭国)とは異なる「新しい倭国」の誕生を意味すると考えています。 新しい土地に新しい倭国を作った人物の意、ゆえに「開化」でもあるわけです。 書紀が書いていない(隠蔽)した部分にも(意図的に)痕跡は残している。 (古事記では単なる当て字少なからず、逆に発音を類推できる) 彦坐王など王の呼称、大国主の主の呼称、このあたりにも意味があるはず。 タラシの場合も人脈を調べるといろいろでてきますね(たぶん皇極と斉明の天豐財重日足姫が最後)。 ま、書紀には用意周到と不注意が混在しているとみてますので落とし穴には東注意ではあります(^^;
大阪の待兼山丘から発見され、現在大阪大学待兼山修学館に展示されているワニを中心に書かれています。子供用の本になっていますが、本格的な入門書です。
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[11861]Re: ワニについての統一理論琉球松 投稿日:2016年 2月18日(木)09時04分 | |
神奈備さんへ 幕末期の奄美大島住用川にワニがいたかもしれません。 左遷された薩摩藩士が記録してますね。この川はマングローブの群生で有名です。 画像は奄美のワニ?・『南島雑話(名越左源太)』より
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[11860]Re: ワニについての統一理論神奈備 投稿日:2016年 2月14日(日)20時51分 | |
かたばみさんへのお返事です。 ご一読ありがとうございます。 補充編がありました。 http://www.kamnavi.jp/as/yamanobe/nodaronbun2.pdf |
[11859]Re: ワニについての統一理論かたばみ 投稿日:2016年 2月14日(日)20時12分 | |
神奈備さんへのお返事です。 > 鳥取県出土の銅剣にサメらしい線刻が発見されました。 面白そうな会のようですね。 私の場合は亡くなられた森浩一先生の影響が大きいですが、資料としては東アジアの古代文化(大和書房2009年廃刊)がたいへんに参考となりました。 素人投稿も可能でしたが敷居が高い、廃刊後では参考になる論が入手難になった(^^; (代わりにWEBでの論がいろいろ登場なれど、敷居が低すぎて(^^; 玉はめったに(^^; ) ワニ、列島に大型爬虫類がいたか。 縄文形成時にまで遡れば、ジュゴンなどとともに列島に鰐がいたと考えています。 ただし、弥生まで生き残ってはいないと思います。 列島の河川じゃ餌がたりないでしょう、縄文中期には絶滅じゃないか。 ただし、「ワニ」の言葉は「縄文語」として弥生でも生き残っていた可能性をみています。 揚子江ワニ、弥生の東シナ海系の海人なら普通に見ていた動物と思います。 その話が大己貴命や少彦名命などによって伝わり、後に因幡の白ウサギなど別名としての大国主命に重ねて神話化された。 (書紀の書く「大己貴命」は古事記の書く「大穴牟遅神」と同一とみる、素戔鳴尊時代BC170頃か。むろん大国主命とは無関係) (和珥氏、ひょっとするとその源流はここにある可能性、漢文化の海人、そのトーテム) 銅剣の絵はサメだと思います。 サメないしワニを描く場合の違いは、ヒレの表現か手足の表現か、だと思います。 ワニでしたら水平方向へ4本を描くのではないか(龍に近い描き方)。 サメでしたら上と左右で尾びれあり、だと思うのです。 描いた本人はワニを知らないとみます。 サメも縄文に遡る言葉だとみています(これも呉音漢音に類似発音はない)。 寒冷の北海道でも、海のない長野でも縄文のサメの歯が出土。 「勇猛」といった海人系の象徴だったのではないかなあ。 長野のサメは安曇氏か、サメ銅剣の持ち主も。 北海道へのサメ進出は最温暖化の時代BC4000頃でしょう(礼文島の縄文遺跡の頃)。 ワニとサメは縄文~弥生において識別されており、同義と見る論は記紀編纂後だと思っています。 |
[11858]ワニについての統一理論神奈備 投稿日:2016年 2月11日(木)20時49分 | |
;"> 鳥取県出土の銅剣にサメらしい線刻が発見されました。 豊中歴史同好会の尊敬する先輩の野田昌夫氏の「ワニ孝」を想起しました。 古典の言葉ワニについての統一理論です。ご一読下さい。 |
[11857]瑞津姫命を娶る+辺津宮・高津姫神は大己貴神妃かたばみ 投稿日:2016年 1月25日(月)10時58分 | |
記紀に登場する「神々」を歴史上の人物ととらえるのかどうか、まずはここですね。 私は歴史上の人物としてとらえようとしています。 そのために必須なのは時代はいつか、だと思います。 時間軸を統合的に決定(仮定)しておかないと、記紀などの記述や神社伝承などの情報を関連づけることができなくなるからです。 書紀は神武以降から開化までの事象を削除して記述している。 目的は、「神武天皇」以降に天孫以外の対立する勢力の存在があってはならない、とすること。 (もうひとつの編纂目的は神々の体系化(理念化)。仏教など論理性をもつ宗教に対抗できるようにすること) 古事記では書紀の書かなかった(書けなかった)事象も書いている、ただし書紀に矛盾はしないように。 そのためには異なる時代の異なる人物を混ぜ合わせる必要が生じ、これが「別名」という状況を生んだ。 その典型が大国主命、別名となった人物の存在年代があいまいになる解釈が登場する。 (記紀はそれを意図的に誘導しているとみています) 高皇産霊尊、神皇産霊尊、天照大神、書紀編纂者がある文化圏の文化を擬人化した神、と考えています。 高皇産霊尊は大陸の内陸系文化を示し、神皇産霊尊は東シナ海の海洋系文化を示す。 天照大神は縄文と初期農耕が結合した文化を示す(縄文の大山祇神+稲でもある、持論でアマテラスと称す)。 幅のある時代と広範囲な地域の総合文化を擬人化したもので、これは書紀編纂者のナイスアイデアだと思っています。 先代舊事本紀、いつだれが書いたのか。 平安末期~鎌倉時代の書紀編纂者より一段落ちる学者(^^;と推定。 ただし、記紀の書かなかった情報の一部を知る学者(物部系譜の学者かもしれない)。 その情報の出所は天皇記ないし国記編纂用の資料だろうと考えています(書紀編纂でも利用されたと思う)。 だから、先代舊事本紀はタイトルに蘇我馬子と聖徳太子を書いた。 だがこれはまずかった、一撃で偽書とされてしまう。 当時では聖徳太子信仰は普遍的になっていたのでしょうけれど。 記紀を信じた上で手持ち情報を重ねた書が先代舊事本紀だと考えています。 ちなみにウエツフミ、より広範囲な情報を所持する学者が鎌倉あたりで編纂した書。 ただし学者としては先代舊事本紀の編者よりさらに落ちる(^^; やはり記紀を信じた上でそこに手持ち情報をはめ込んで書かれた書。 出雲文化圏の情報が豊富にみえます。 それ故にその年代配列は物理的に非常に苦しくなります。記紀は天孫と出雲が平行していた状況を書いていないから。 ちなみにホツマツタエ、東海限定の情報を持ってはいるが、個人の思想書であって歴史情報とはみなせないと判断。 神屋楯比賣命は大国主命の妃なのか・・大己貴命の妃なのか・・ 大国主命や大己貴命はいつの時代の人物なのか・・ さて・・名の先頭に神を関する人物がいます。 素戔鳴尊の妃とされる神大市比賣命。 瓊々杵尊の妃とされる神阿多都比売(吾田鹿葦津姫)。 大国主命の妃とされる神屋楯比賣命。 他にもいるかな。 神が先頭にある人物は水稲を普及させた重要人物だ、と考えています。 素戔鳴尊の妃の神大市比賣命も水稲、こちらは大気都比賣命と同グループ(大年神)で遠賀川か。 瓊々杵尊の妃の神阿多都比売も水稲です。 こちらは南九州での水稲普及を示す。種子島に白米を伝えたという鵜草葺不合尊のおばあちゃん。 (HPの天孫降臨~神武シミュレート地図参照) ちなみに、素戔鳴尊の妃とされる櫛名田姫命(書紀で奇稲田姫)も稲に関連する、だが縄文系の陸稲じゃないかな。 ゆえに「神」ではなく「クシ」の名どまりとなった(^^; 住まいは阿蘇の東山麓~五ヶ瀬川流域か。 神大市比賣命を妃としたのは素戔鳴尊にとって水稲が貴重だったから(半島北部に水稲痕跡はありません)。 古事記では大気都比賣命は素戔鳴尊に殺害される(大年神グループ、おそらく住まいは遠賀川)。 直接的な戦闘行為における殺害の伝承だと推定。 大気都比賣命に神を関していないのは陸稲を含む畑作系譜だったからではないか。 書紀が書く類似は月読神(月弓神、月夜見神)が保食神を殺す事象。 こちらは狩猟文化と農耕文化の抗争を表現するもので、大気都比賣命殺害とは似て非なる伝承とみています。 須勢理姫は大己貴命と素戔鳴尊の接触を示し、同時代の人物であることを示している。 古事記で大国主命は素戔鳴尊より7世代ほど後とされる。 (書紀は系譜を書いていない・・出雲関連のねつ造がばれるので書けない(^^; ) 持論の歴史観では素戔鳴尊はBC190頃(箕子朝鮮崩壊からの渡来)で、大国主命が7世代ほど後なら紀元前後となります。 紀元前後は弥生中期、稲作は普遍化しており、「神」を付帯させるほどの革新的事象はなさそうです。 神屋楯比賣命と大国主命、大国主命と大己貴命を同一人物の別名とみなすことから派生した誤リンクだと考えています。 大己貴命と神屋楯比賣命は水稲でつながっている可能性あり。 大己貴命は少彦名命ともども東シナ海系の海人と考えています。 最新文化の伝達者であり、その後の出雲発展の基盤となる人物。 宗像三女神と接触するのは同じ海人同士での結合、稲作とは無関係。 ならば事代主命の母は? 海人系譜じゃないかな(海人の大己貴命とも錯綜する)。 ゆえに事代主命が漁労の神様エビスにも変化してゆくわけです(島根の美保神社の御祭神)。 事代主命は大国主命の島根引退(杵築大社)に同行しているんじゃなかろうか。 その娘の媛踏鞴五十鈴媛は神武の妃となる。 水稲伝播には2経路ある可能性を示す、半島西南岸経由と東シナ海ダイレクトです。 半島経由が神大市比賣命、神屋楯比賣命は東シナ海系の水稲関与の可能性をみています。 |
[11855]播磨王朝5 終わり神奈備 投稿日:2016年 1月19日(火)12時22分 | |
逃亡先の異説 14性器半ばに書かれた『峯相記』 南北朝の頃に書かれた。ここでは逃亡先を播磨国宍粟郡としている。『紀』などが知られていたはずだが、、あえて異論を唱えた理由はよくわからない。 考古学的遺物 『風土記』の伝承を史実とする考古資料は見いだされていない。岩屋とか居住地などは見いだしにくいが、二王子と根日女との悲恋のしるしとなる玉丘古墳が残っているが、築造年代は5世紀前半とされており、二王子の時代は5世紀末頃であり、ガップが大きい。 『風土記』 意祁、袁祁の二人が美嚢の郡の志深の里の高野の宮におられて、山部の小楯を遣わして国造許麻の女、根日女を妻問うた。根日女は仰せに従ってお受けした。二人の王子は互いに譲り合って結婚しないで日を重ねた。根日女は年老いてみまかってしまった。王子達は悲しんで、玉で飾った墓を造ろうと仰せられた。よってこの墓は玉丘と呼ぶ。 |
[11854]Re: 眉唾かたばみ 投稿日:2016年 1月16日(土)07時41分 | |
神奈備さんへのお返事です。 >志摩や神宮周辺の地は豪族の磯部氏の跋扈する地であった。 磯辺氏はWEBに書かれることしか知りませんが、戦国以前はよくわからないみたいですね。 そのうーんと祖先が天火明命に随伴(輸送)した海人なら熊野速玉大社~伊勢志摩あたりになるかも。 九鬼水軍も伊勢志摩、こちらはより天火明命に遡る可能性があるかなあ。 出雲勢力の紀伊半島南下は西岸で田辺市まで、東岸で津市までと考えています(銅鐸出土地)。 紀伊半島の弥生遺跡は紀ノ川流域に集中して他にはないに等しい(三重県にもほぼない)。 それ以南では農耕に適する土地がないからだと思います(農地は濃尾方面へ)。 しかし海人の拠点なら熊野~伊勢志摩はぴたり。 崇神の祭祀はなぜ奈良にはないのか(宮殿らしきも未発見)。 書紀の書くごとくで、奈良には置けなかったからだと考えています。 出雲文化圏の中枢であって、強引にやれば混乱を生じたからでしょう(そこで大田田根子が仲介役で登場する)。 唐古・鍵遺跡(楼閣文様土器、銅鐸生産)が消える時代、池上・曽根遺跡も消えてゆく。 民心掌握、崇神の名は出雲の神をおろそかにしなかったの意とみています。 そして崇神は自らの祭祀を問題の少ない地域の伊勢においた。 伊勢市周辺は過疎地域だったようで弥生遺跡がありませんでしたが、外宮の最寄りに隠岡遺跡が発見された。 弥生後期~古墳初期の遺跡で崇神時代に一致、書紀の書く伊勢神宮の原型登場につながる可能性大。 (元伊勢や海部氏とのからみもでてくると思う) 九州の五ヶ瀬川の源流域の高千穂には縄文末期~弥生の遺跡が多数あり、黒色磨研土器が出土。 黒色磨研土器は縄文晩期の土器で北九州、熊本、大分などで出土。 山東省の龍山文化の黒陶の影響ありの論あり、ほぼ賛同。弥生初期農耕のひとつは山東半島経由とみています。 縄文と弥生農耕の過渡期(合体時代)、持論でのアマテラス文化圏です。 大山祇神の文化+高皇産霊尊文化(大陸側の内陸系)と神皇産霊尊文化(東シナ海の海洋系)の合体、ともいえる。 すなわち木花開耶姫など記紀の書く「大山祇神の子等」の住むところを示すと考えています。 ここへスサノオが登場、抗争がはじまる。「出雲」の始発(HPの天孫降臨~神武のシミュレート地図)。 弥生初期の九州での交易路の中継地が高千穂にあった可能性大。 様々な状況が錯綜流動し、以降の列島の「歴史」の始発となる時代だと考えています。 関連キーワード:突帯文土器、黒色磨研土器、遠賀川土器、丹塗磨研土器・・有柄式銅剣(遼寧式、半島系)、桃氏銅剣(長江、中国系)・・甕棺葬(東シナ海、東南アジア)・・ 崇神時代に九州の五十鈴川の地名と猿田彦伝承も運ばれた。 猿田彦や天鈿女の伝承をを海人が運べば海の臭いがするかも。 伊勢神宮の神饌には魚介類たっぷりですね(たしか漁労系の道具も使っていたはず)。 自宅の地鎮祭で神主さん(天照大神の社)に、もっと魚介類を多くしてくださいといわれました。 近所の八百屋に注文したので海人がおらず、アワビやスルメはおいてなかった(^^; http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/ |
[11853]播磨王朝4神奈備 投稿日:2016年 1月13日(水)14時23分 | |
新王朝と日向 神武天皇は日向かから船出をし、大和で初代の天皇位についた。 応神天皇は日向の諸県の君牛諸井の助力があったと思われる。 播磨から見いだされた二人の天皇には日下部連の吾田彦が仕えている。 身分を明かす 袁祁王は身分を明らかにすれば殺されるかも知れないと言うリクスをおかしても勇気を持って明かした。 皇位の譲り合い 二人はろくに教育も受けておらず、ましてや大王としての心構えなどもなく、皇位についたら恥をかく。袁祁王(顕宗天皇)は勇気を持って引き受けたのであるが、心労が重なり、早逝したのだろう。 顕宗天皇の陵 傍丘磐杯丘に葬ったと『紀』にある。塚口義信先生は、築造年代から狐井城山古墳は武烈天皇陵として、その北側の狐井稲荷古墳を顕宗天皇陵とされている。狐井城山古墳は全長140mであるが、狐井稲荷古墳はその20%もない。果たして顕宗天皇は後世に大王とされたが、当時はそう見なされていなかったのではないか。 そうであれば、不自然な皇位の譲り合いなどは単なる作り話となる。 雄略天皇の墓を壊すとの話があります。顕宗天皇が兄に持ち掛けたのです。兄は墓のそばの土をチョット掘って、親の仇であっても大王であったので、チョット恥をカカセテきたと報告し、天皇も良しとあいた。 その兄は雄略天皇の娘の春日大郎女を娶っている。息子の武烈天皇が仁賢天皇の後で即位しているところから見ると、結婚は播磨で発見されて大和へ来てすぐのことだろう。よく弟の顕宗天皇が了承したものと思う。 仁賢天皇の皇女に手白香皇女がいる。継体天皇の皇后となり、欽明天皇を生んだ。仁賢天皇は天智・天武天皇から現代に続く皇室の祖先である。貴い人格者で賢人であってほしい。 |
[11852]Re: 眉唾神奈備 投稿日:2016年 1月11日(月)10時18分 | |
かたばみさんへのお返事です。 猿田彦はウズメに送られて伊勢に戻り、夫婦となったようだ。猿女君は巫女や語り部として活躍した。稗田阿礼も後裔である。記紀へ伊勢の物語を持ち込んだのは猿女君だったと思われる。 阿耶訶での物語は猿田彦には海人族の匂いがする。志摩や神宮周辺の地は豪族の磯部氏の跋扈する地であった。 磯部氏は全国に磯部の地名がある。 伊勢国度会郡 伊蘇(SとTとが交替)。 三河国渥美郡 磯部。相模国余綾郡 伊蘇 信濃国埴科郡 磯部。上野国碓水郡 磯部、越前国坂井郡 磯部。美濃国席田郡 磯部。 これから見ると、磯部氏は陸地にも上がった海人族と言えよう。 『筑前国風土記逸文』 によれば、仲哀天皇が行幸した際、怡土の県主の祖、五十跡手が三種の神器を捧げてお迎えしたので、誰かと尋ねられて、日桙の末裔と名乗った。天皇は賞して、伊蘇志といい、この国を恪勤(いそし)の国と名付けるがいいと言われた。磯部は渡来系かも知れない。伊勢神宮は渡来人が祀っていたことになる。 |
[11851]播磨王朝3神奈備 投稿日:2016年 1月10日(日)21時26分 | |
二王子は双子 『紀』景行天皇と皇子の大碓皇子、小碓尊は双生児である。おおうす、おううす。 億計王(意祁王)は「おけ」、 弘計王(袁祁王)は「をけ」。 『古事記』 かれ、山代の苅羽井に到りて御粮食す時、面黥(メサ)ける老人来てその粮を奪ひき。ここにその二はしらの王言りたまはく、「粮は惜しまず。然れども汝は誰人ぞ」とのりたまへば、答へて曰はく、「我は山代の猪甘ぞ」といひき。かれ、玖須婆の河を逃げ渡りて針間国に到り、その国人、名は志自牟の家に入りて身を隠して馬甘・牛甘にツカはえたまひき。 『丹後風土記残欠』穴穂天皇の御宇、市辺王子等億計王と弘計王此国に来ます。丹波国造稲種命等安宮を潜かに作り、以て奉仕した。故に其旧地を崇め以て大内と号つくる也。後に亦、与佐郡真鈴宮に移し奉る。 日下部連使主と 丹後には彦坐王の後裔として日下部氏がいる。浦嶋子も先祖である。 吾田彦 垂仁皇后の狭穂姫の後裔の日下部連が大和にいた。 大吉備津彦の子大屋田根子命の後。 仁徳天皇と日向髪長比売の皇子の大草香皇子の御名代。生駒の日下。 隼人と同族。吾田彦の名からは日向にゆかりの日下部氏と思われる。 なぜ丹後か 大和から遠い上に同名の日下部氏を頼ったのか。。 何故播磨か 丹後の日下部氏が信用できないと感じたか。播磨国美嚢郡は明石の北側の小さい盆地で、隠里のような地である。『紀』では赤石郡としているのは、清寧天皇の頃は赤石郡に属していたからである。 なぜ縮見の里か 兵庫県三木市志染町が比定地。『播磨国風土記』履中天皇が国の境を決める時に、志染の里の許曽の社にこられている。志染町御坂243に鎮座する御坂社の由緒書きに、「また第十七代履中天皇が当社に御参拝ありしことも播磨風土記に記録している。」とある。 また、志深と名付けたのは、履中天皇がこの地で食事をされた時、ご飯を入れた箱に信深貝(しじみがい)が上がってきたので、これは阿波で食べた貝ではないかと言われたので、志深の里というようになった 二王子は履中天皇の孫であり、縁の地に落ちのびて来たのであろう。 |
[11850]播磨王朝2神奈備 投稿日:2016年 1月 9日(土)10時20分5分 | |
1.二王子にかかわる系譜 2.年表 億計王(意祁王) 弘計王(袁祁王)誕生 454 仁徳天皇と日向髪長比売の皇子の大草香皇子が根使主の讒言で殺される。 456 大泊瀬幼武皇子(雄略天皇)、市辺押磐皇子を殺す 二王子 逃亡 舎人日下部連使主とその子の吾田彦は二人をお守りして丹波国与謝郡に逃 げた。更に播磨国縮見山の石屋に避けた。使主は自殺した。弘計王は兄の 億計王を促し、縮見屯倉首に仕えた。吾田彦は離れずに仕えた。 457 雄略天皇即位 478 白髪皇子(清寧天皇)を皇太子とする 479 雄略没(雄略23年8月7日) 480 清寧天皇即位 481 山部連の祖の伊予来目部小楯が播磨国明石軍の縮見屯倉首である忍海部造細目の家の新築の宴で億計王、弘計王を見いだした。そのいきさつは、祝いの席で先に兄が舞い、次に弟が家褒めの歌をうたい、その中で、自分達は市辺押磐尊の御裔であると明かした。さっそく清寧天皇に知らされ、、二人を迎えるように指示された。 482 翌年、宮中に迎い入れた。 四月 意祁王(後の仁賢天皇)を皇太子にする。 七月 飯豊皇女(二皇子の姉、男と交合した。別に変わったことはない、以後交合しない。 483 天皇は兄の億計王を皇太子に、弟の弘計王を皇子とした。 484 清寧天皇崩御 億計王と弘計王とが皇位を譲り合う。 飯豊皇女、政務を見るも11ヶ月で没・ 485 弘計皇子が顕宗天皇として近つ飛鳥の八釣宮で即位 阿閉臣事代を任那に派遣。高皇産霊神を祀る。 顕宗天皇、八釣宮で崩御。 488 億計王が仁賢天皇として石上で即位 皇太子を小泊瀬稚鷦鷯尊(後の武烈天皇)に決定 498 天皇崩御 499 武烈天皇即位 |
[11849]播磨王朝神奈備 投稿日:2016年 1月 8日(金)16時07分 | |
『播磨国風土記』について 和銅六(713)に諸国へ土地の名、産物、肥痩、由緒、古老の伝聞などを記録し、報告しなさいとの命令がでました。『播磨国風土記』が霊亀三(717)にできあがりました。もっとも早い完成です。 賀古の郡に、比礼墓のことが記されています。景行天皇が妻問いをした印南の別嬢が亡くなって日岡に墓を造ったのですだ、遺体は風にとばされてしまい、櫛箱と褶を葬った。褶墓と言う。この古墳は日岡山古墳とされ、4世紀前半の造営とされている。年代観に合致している。 天皇行幸の回数御代として、時代を示す伝承も多く語られています。回数の多い順に記します。 12回 応神天皇 6回 神功皇后 3回 景行天皇 2回 仲哀天皇 1回 履中天皇 御世5回 仁徳天皇 御世1回 成務 応神 宇治 雄略 安閑 孝徳 天智 5世紀前後の応神。仁徳の伝承が圧倒的に多い。河内王朝から重要視されていたことを物語っている。 |
[11848] Re: 眉唾かたばみ 投稿日:2015年12月25日(金)17時45分(火)18時09分 | |
神奈備さんへのお返事です。 >岐神とは猿田彦神のこと。また、杖に椿を用いれば、霊力が強くなるそうです。 岐神は「生活圏の境界」の守護神と解しておけばよいと思います。 農耕と土地の固定化が登場してからであれば村落の境界と守護でもあって道祖神の登場。 猿田彦命の本質は天孫降臨の道案内と天鈿女命との結婚。 猿田彦命は後に道祖神、塞神など境界や道に関連する事象が重ねられて神格化されていった。 猿田彦命の容姿と意味において「伎楽の治道」の影響が非常に大きいと考えています。 伎楽は貴族だけではなく寺社で演じられたとき、庶民も参観できたと思います。 そして猿楽や能へ、あるいは白拍子など庶民の演芸へ。 庶民の旅が可能になったとき、猿田彦も伎楽の容姿で旅にでた・・ >椿大神社は猿田彦神を祀る式内社です 椿ツバキの語源、昔の神奈備掲示板でもやりましたね。 新井白石は厚葉木とか艶葉木なんて語呂合わせをやってる(^^; ツバを吐いて邪を防ぐ呪術、これは世界共通のようにみえます。 椿は硬く丈夫な木で杖や護身用に使われたのでしょう(景行大王も土蜘蛛退治に椿の枝を使ったとある)。 旅人の守護でもあり、道、旅、足・・といった「身近なこと」での守護者として猿田彦命が庶民に広まった。 わらじが奉納されたりしてますが、幸か不幸かセックスの神として広まってはいないと思うけど・・ま、天狗には若干(^^; 東京の湯島天神、縁起は雄略時代の手力雄命ですが、手力雄命にお参りする人は皆無と思います。 菅原道真は庶民にとって身近で祈願する目的も明確。 文書として手力雄命が書かれていなかったら、100年のうちに置き換わると思います。 社は古を伝えると同時に今を写す。 そういう変化は大小を問わず各地に無数にあると思っています。 三足烏の最古は長江河姆渡遺跡の文様にあるとみています(二羽の鳥が太陽を運ぶ)。 太陽に住む鳥として三足烏が登場するのは漢時代のようで、漢文化の浸透で周辺諸国へも伝播(高句麗にも登場)。 日本には天之忍穂耳尊がもたらしたと考えています(BC150頃、呉楚七国の乱、長江の呉の王族の渡来とみる)。 それが天孫降臨(日向、天火明命)をへて紀州熊野に伝わった。 山陰の穀物伝承では鳥が種を運ぶイメージはあっても三足烏はないとみえます。 佐太神社などの由来の時代ではまだ登場していないからだと思います(BC500~BC200あたり、春秋戦国~秦)。 天孫降臨では猿田彦命が道案内をした。 神武東征説話では八咫烏が道案内をした。 なぜ猿田彦命ではないのか。 紀州熊野の最寄りに猿田彦命(神)があるならば道案内の最適は猿田彦命のはずです。 書紀編纂者の意識による、と考えています。 神武(あるいは開化)の「歴史時代」では猿田彦命の紀州での出番はない。 紀州熊野の縦断で道案内と補給を支援したのは、天火明命系譜の三足烏を持つ熊野の住人。 書紀編纂者はそのあたりの情報を持っており、その人々を八咫烏として表現したのだと考えています。 ちなみに、伊勢の語源は? 日向の五ヶ瀬川ゴカセガワ、現在はゴカセですが本来はイツセであり、これがイセに転じたと考えています。 書記で神武 36- 66の兄とされる五瀬命イツセです(AD30頃か)。 日向市の五ヶ瀬川河口に伊勢と伊勢ヶ浜の地名あり(後世に伊勢の文字で逆輸入と推定)。 参考図 天孫降臨~神武 書きかけですけど | |
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