pixivは2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
pixivは2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
自分の体はアルコールに強いと信じて疑わなかった。二日酔いと悪酔いは縁遠い。年端も行かぬ頃に一度、新年会の席で兄貴分に一気飲みを強いられ痛い目を見たことがあるが、酒の失敗はその程度。むしろそれは消化器官の限界に挑んだからなので、その範疇には含まれない。
アルコールの耐性は県地性、遺伝、体質のいずれかが影響するが、気づけば天涯孤独の身、生まれた地はおろか身内の酒癖だって分からない。しかし親の嶋野は酒豪で、当然その取り巻きもウワバミだった。酒の席で素面の時間など無いに等しい。酩酊状態の彼らによる理不尽な物言いに泣いて逃げ出す子分もいた。そんな中で、真島は酒への耐性をつけることを何よりも優先した。勧められた飲みかけの酒樽は二つ返事で全て飲み干し、それでも千鳥足にならぬよう、ひたすら肝臓の強化に努めたのだ。
つまるところ真島はいわゆる、酒に呑まれたことがなかった。成人を迎えて早数十年。合徳利、升、斗。どれだけの酒を口にしたのか、計測するすべはない。しかしどれだけ飲んでも醜態を晒したことはなかった。
ーーしかし、その日の朝は何もかもが今までと違っていた。
真島は尋常ではない胃の重たさで目を覚ました。海底まで沈んでいた意識をクレーンで無理やり引き上げたかのような、言うならば気分は最悪だった。意識の輪郭が曖昧だ。目を開けることすらままならず、口内は唾液で粘ついている。その舌先を勢いよく離し音を立てようにも、脳髄をバットでスイングされたかのような鈍い痛みが走り抜けた。
真島は自らの記憶を手繰るよりも先に、未だかつてない経験からくる直感で、これが深酒による二日酔いだということに気がついた。齢四十二にして初となる経験だ。
「……ぅう」
ずきずきと痛む頭と倦怠感にさいなまれる体に鞭を打ちながら、どうにかその場を起き上がる。ついでに鈍痛をまぎらわすためにこめかみの辺りを指で揉み、昨夜の行動を振り返ろうと試みた。しかし、頭の中は霞がかったように薄ぼけていて、まるで思い出せない。あるのはこの体が証明する「酒を大量に飲んだ」という事実だけ。
そして真島が目を覚ましたのは、どう見てもラブホテルだった。なんとなく高級そうな内装にアンティーク調の家具。女の不快指数を上げない小綺麗なそれは、どう見たってビジネスのためのそれじゃない。
ーー面倒なことになった、というのが真島の所感だった。次いで信じられない、とも。しかし過ぎてしまったことにあれこれ念を抱いている場合ではない。真島はすかさず大きなベッドの枕元に鎮座する箱ティッシュと、その隣にある正方形の袋を確認した。どちらも使われた痕跡はなく、新品同様のまま置かれている。残る選択肢は未遂か、最悪の事態かの二択だ。
しかし真島は至って冷静だった。なぜならば、酒の失敗というのは深層心理を引き起こした末のものであり、言うならばかねてからの欲望のあらわれだからだ。真島の深層心理に情欲はなければ、それに執着するようなこともない。なので酒による興奮で性行為にもつれ込んだとは俄には信じがたく、よって考えられるのは精々ペッティング程度の触れ合いだ。
だが真島は今、下着以外何ひとつ身に着けていない。それはすなわち刺青の全貌を露わにしているということだ。相手の女が泣いて逃げ出し無理やり迫られたと訴えたものなら、警察は喜んで元東城会直系組長である真島を逮捕することだろう。
なのでこれまでの分析に意味はない。問題は右隣で眠る女が起きてからだ。女は頭のてっぺんから爪先まで布団にくるまっているため、顔は見えない。布団を占めている面積からして長身であることは確かだ。
キャバ嬢か行きずりの女か。真島の好みの話をすれば、後者の方がそれらしいのだが、話が早く済むのは前者だ。金に物を言わせるやり方を真島は好まない。それでも堅気相手にはこれが最も有効な手段なのだ。
しかしやはり真島は思う。いくらひとときの迷いや未遂であったとしても、そもそも自分が見ず知らずの女とラブホテルに入るのかと。
自らの手で幸せを物にして欲しいと願った女がいる。誓いの証に手放しはしないが執着はしない。しかしそれきりだと思っていた。結局自分はどこまで行っても根からの喧嘩師で、金より生き様を重んずる昔ながらの極道だ。人並みの幸せなどとうの昔から望んじゃいない。そんな自分が、酒の勢い余って人肌を望むのだろうか。
真島はさらなる平静を取り戻すため顔を上げ、辺りを見回した。鉛のような重さゆえに、室内は歩き回れそうにない。不自然なほどに大きいベッド。真っ白なシーツ。やたら華美な装飾の壁。なぜか猫足のテーブル。やはり安っぽい装飾の内装をひとしきり見渡したところで、視界がある一点に定まった。
「……は?」
それは革張りの巨大ソファだった。しかし真島が頓狂な声を上げたのはそこではない。問題はその上に脱ぎ捨てられた衣服にあった。
蛇柄のジャケットと黒のレザーパンツの下に潜る、すっかり皺だらけになったライトグレーのジャケットには見覚えしかない。そしてそのさらに下、勢い余って床に落ちたと思われる、ワインレッドのワイシャツにもだ。
全身の毛穴から冷や汗が吹き出したかのような感覚。あるいは肌の上を蛇が這う悪寒のような。
散らばった衣服の持ち主である、桐生一馬はつい最近、一年の隠居を経て神室町へ戻って来た。関西最大組織、近江連合が巻き起こそうとしている抗争に、真島の知らないところで首を突っ込んだらしい。望まぬ引き金を引かざるをえなかった子分の尻拭いのため、親として全ての責任を負った真島は桐生が去った二ヶ月後に、東城会から足を洗った。なので自分にできることはないと、事態の静観を決め込んでいたのだが、面と向かって頭を下げられ、腰を上げぬほど真島も鬼ではない。その後桐生とは真島建設の社長と現場監督として、悪徳不動産との熾烈な戦いを繰り広げ、それなりの友好関係を築いてはいた。
つまるところ真島と桐生は、そういった関係では断じてない。再度ソファの上を見ようにも、そこに放られた布に一切の変化はない。茫然自失としているのも束の間、背後にある塊がもぞりと動き出す。一度確信してしまったのだ。後はもう気配だけで、隣にいる男が桐生であると分かる。
桐生は気だるげな吐息と共に薄く目を開け、ゆっくりと瞬きを繰り返す。それからこめかみを指で摘まみ、迫り来る頭痛をひとしきり堪え忍んだ後に、自分の隣にある気配の全貌を捉え始める。
「は?」
桐生は視界に真島の姿を認めると、それだけを発し、先ほどの緩慢さが嘘のように真島と一定の距離を取る。寝込みを襲われるとでも思ったのだろうか。桐生は即座に両方の拳を構える。しかし下着以外何も身につけていない真島と、まったく同じ格好をしている自分とを見比べて、ようやく置かれた状況を理解したらしい。
「…………マジか……」
「桐生ちゃん、昨日のこと覚えとるか?」
困惑の表情を浮かべている桐生が口を開くより先に、真島は尚も混乱した頭の中で「まずは」と繰り返す。真島は昨夜己と桐生の身に何が起きたのかを知らない。それを思い出すには否が応でも他人の、他ならぬ桐生の手を借りなくてはならない。
とりあえず目の前の現実を受け入れはしたらしい桐生は、それでもなお顔は歪ませたまま、真島の問いを受けて考え込む。
「いや、悪いが全く覚えてない。兄さんは覚えてるのか?」
「いや……」
なぜかやけに返答の思い切りがいい。会話の主導権を一息で渡されてしまった真島は当惑の色を見せる。
「酒を飲んだんは覚えとる、っちゅうか……体がやけに怠いし、こんなん、二日酔いしかありえへんやろ……」
「……どういうことだ?」
「お前も俺も、お互い一番知りたいことは分からへんってことやな」
ただでさえ凄惨なこの場の空気をこれ以上悲惨なものにしないよう、言葉は慎重に選ばねばならない。
しかしここで一つ想定外だったのが、桐生が思っていたよりも冷静であることだ。困惑の表情は浮かべ続けているものの、取り乱してはいない。お互い似たり寄ったりかと思いきや、どうも真島の方が心を乱されているらしい。
「桐生ちゃん、体の方はどうもないか?」
「ん? ……言われてみれば少し怠い気もするが、兄さんの言う通り、二日酔いなんだろう。だから、その……多分、あんたが思っていることは起きていないはずだ」
「そうか……」
桐生に問うなり真島も、そこでようやく自分の臀部に意識を向けた。しかしこれといった違和感はない。お互い二日酔いによる倦怠感の方が勝っていると言うのなら、これはもしや単に酔ったその場の雰囲気に身を任せ裸で騒いで寝ただけなのかもしれない。
とにかく真相は闇の中だ。しかし誰にも知るすべがないということなら、これはもう「なかった」ことにできる。それは相手が顔見知り以上の仲である桐生だからこそなのだが。
「はぁ〜あ、焦って損したわ。そこら辺の女引っけてたらどないしようとばかり思ってたわ」
「フッ……。あんたに限って、それはないだろう」
「桐生ちゃんは分からへんなぁ。なんせ、仲良うなったキャバ嬢と一緒に入っとるぐらいやしな」
「なっ……い、今はしてねぇ!」
とりあえずボトムスを履き、まだ下着以外何も身にまとっていない桐生に衣服を投げてやる。その合間、服と同じように放り投げ出されていた桐生の腕時計で時間を確認する。針が指す時刻は思っていたよりも早い。
「何時だ?」
「七時半や。普通に考えると、チェックアウトは十時やな」
「なら、シャワーでも浴びるか……。腹も減ったな」
桐生の独り言で、真島は髪を洗った形跡がないことに気づく。ひとしきり汗もかいたようで、頬はおろか背中も濡れていた。
桐生がシャワーを浴びている間、真島は上半身は裸で過ごすことにした。桐生が上がったら自分もシャワーに入ろうと思ったからだ。上着は適当に椅子にかけ、手袋もそこら辺にあった机に置いておく。
「ん?」
手にとって初めて気がついた。馴染み深い愛用の革手袋に何やら滑り気を感じる。その正体を探るため、形の崩れたそれを一度、指先まできちんと広げてみる。
「……はぁっ!?」
革手袋が黒であることをこれほどまでに恨んだことはない。偽物や寄せ集めではない牛革で造られたそれに、てらてらと光る白濁とした液体。それはまごうことなき精液であった。それが真島の手袋に付着しているのだ。普通に考えてそれは真島自身のものである。
「どうした?」
「あかん……アカン、由々しき事態や」
「どういうことだ?」
風呂場に向かう途中だった桐生が真島の側に寄ってくる。こうなってしまった以上、手の中のものを覗き込もうとする桐生にやめろと制すことはできない。しかし真島も人の子だ。自分のそれを開けっ広げに見せるのだけは気が引けた。
「マスかいとったらしいわ」
「は?」
「なんや、聞こえなかったんか? マス……」
「ま、待て。言わなくていい!」
新たに判明した新事実に桐生は見るからに取り乱す。目の前の現実を直視できない、とでも言いたげにあからさまに顔を背け、それから訝しげな視線を真島に向けた。
「つまり……これはどういうことなんだ?」
ついに事の整理、すなわちこの事態の行く末まで委ねられてしまった。しかしここは得た情報を基にして、事実のみを告げねばならない。
「……俺とお前が酔った勢いでホテル入って、裸になってマスかいて、そのまま酔い潰れて寝たってことやろ」
「おい、その言い方だと俺までやったことになるじゃねぇか」
「んなこと言うても、俺だけってのもおかしな話やないか」
「むぅ……」
否定の意を言いあぐねる桐生を前に真島は、自分なりに昨夜のことを想像しようとし、ーーやめた。鮮明に想像できたとて事態は何も変わらない。信じがたい。だが物的証拠が残ってしまっている以上、もはや否定はできなかった。
「でもまぁ……よくよく考えたら、そこまで酷くないんじゃないか?」
「はぁ?」
「未遂なのには変わらないだろ」
確かに、と思わず同意の言葉が出そうになるのをすんでのところで飲み込んだ。言われてみれば、これまで「一線を超えたのか?」という点に重点を置いていた自分たちにとって、自慰と思わしき跡は未遂の決定的証拠かもしれない。
しかし真島はその事実よりも、すぐに落ち着きを取り戻した桐生の方が気にかかっていた。ほぼ確実に未遂だったことに安心しているにしても、それにしたってやけに落ち着き過ぎているのだ。
「桐生チャン……もしかしてソッチもいけるクチなんか?」
「は?」
特にこれといったことは考えず、真島は浮かんだ所感をそのまま口にした。桐生は今日一番の苦い顔を見せる。
「何でそうなるんだ」
「なんや、妙に落ち着いとるから慣れてんのかと思うて」
「そんな訳ねぇだろ!」
さして若くもない男が二人、酔った勢いでラブホテルに入り自慰行為に及んだことを突きつけたよりも遙かに過剰に反応する桐生に、真島は益々困惑した。怒りの沸点がよく分からない。
「満更でもないんやろ? せやったらそう思ってもしゃーないやんか」
「言ってる意味が分からねぇな。だが……その、なんだ。相手があんただから、ってのもある」
「は……はぁ!? な、なんやそれ!?」
またもや予想外の返答に真島は遂に桐生を前に取り乱した。あんただから、の後に続く言葉は会話の流れから明らかだ。それを理解しているからこそ、桐生の軽率な発言に動揺してしまう。
「見ず知らずの他人より知り合いの方がマシで、その中であんたはとりわけてマシ……ってことだ」
言ってる内容は理解できるものの、その中身はとうてい納得しがたいものだった。一体桐生は何を根拠に真島をマシと言っているのだろうか。なるほど分かったと首を縦に振れるまで問いただしてやろうとも思ったが、真島はふと我に返る。
こうと決めた己の生き様をどこまでも貫き通す桐生の在り方は、世の中の酸いも甘いも噛み分け臨機応変に生き抜く真島にとって決して納得できないものだった。しかし真島は一年前、そんな愚直とも言える桐生の生き様の末を、桐生が取り戻したかつての力を通じて見届けた。理解はできたが納得はできない。だがそれをどうこう言うつもりはない。桐生には桐生の生き方があるし、真島には真島の生き方がある。死闘に誇りを懸けることはあれど、そのものを否定する権利など誰にだってないのだ。
真島は桐生の生い立ちを知らない。同じく桐生も真島のこれまでを知らない。だから十年の服役が真島にとってどれだけ短いものか知らないし、その真意を分かってもらおうとは思わない。
言わば価値観の相違だ。これまで生きてきた環境が違えば考え方も違うもので、それを強要することはあまりに醜い。そして桐生は自分の在り方考え方を他人の意見で曲げるような男ではない。それを真島は身をもって理解していた。
「……もうええわ。とっとと風呂入れや」
「あ、あぁ……」
桐生がシャワーを浴びて終えてから、間もなく部屋を後にした。真島はシャワーを浴びないことにした。腹も空いていたのだが、とてもそんな気分ではない。ルームキーを握る手から流れる汗が、拭ったはずの気まずさの行方を物語っているようで、真島は桐生と別れるその瞬間まで、まるで生きた心地がしなかった。
人間は精神的動揺が起こると、何をするにしても手がつかなくなるらしい。ーーあれから、桐生と共に朝を迎えてからというものの、真島は本調子ではいられなくなった。作業に勤しむ社員らを横目に積み上げられた角材に腰かけ、一日中煙草をふかす。紫煙を吐く間だけは心が落ち着いた。
結局のところ、真島は桐生の言い分に納得できなかった。男同士でラブホテルに行くという発想すらなかった真島にとって、今回の一件は何から何まで未知の事態だ。何より相手は桐生だ。さすがに思うところはある。記憶がないとなれば尚更だ。そして、互いにあの場で自慰行為に及んだのは紛れもない事実。それもわざわざ服を脱いで、だ。用を足す際には必ず外している手袋はつけたまま。つまり外す余裕すらなかったということになる。
変に意識してしまっているのは自覚していた。笑い話にすらならないのなら、いっそのこと忘れてしまった方が利口だ。しかし日も暮れ街の喧噪が落ち着き始めると、持て余した静寂に乗じて昨夜の想像をしてしまう。困ったことに想像の中の自分の手は躊躇いもなく桐生の肌を滑る。ならば熱に浮かされるがまま、睦言を囁いたりもしたのだろうか。あるいは、キスとか。
そこまで考えると、咥えていた煙草の火が消えかかっていた。吸い込むでもなくただ咥え続けていただけのそれをコンクリートに捨て潰す。すると真島は自分の足下に人影が落ちていたのに気がついた。
「真島の兄さん、こんなところで何してるんだ?」
声につられ、真島は顔を上げる。見上げた先には不思議そうな顔をして真島を見つめる桐生がいた。
何食わぬ顔で見下ろす桐生に、真島は何と声を掛けたらいいのか分からなかった。しかし顔の均衡は崩さない。動揺は決して表に出さぬようにと、真島は顔の筋肉に神経を研ぎ澄ましながら必死に次の言葉を考えた。
「桐生チャンこそ、こないな時間に何の用や? 蒼天堀支店含め、真島建設の闘いはもう終わっとるんやで」
「あいつらの様子を見に来たんだ」
桐生が顎で指した先には、かつて死闘を繰り広げた蝶野や長州たちが作業に勤しむ姿がある。
「そうか、あいつらはよぉやっとるで」
「あぁ……。どうやら、そうみてぇだな」
「せやったらもう帰れや」
「え?」
安堵を含んだ微笑みも束の間、困惑の声を上げた桐生はいかにも怪訝な表情を浮かべた。
「部外者にいちいち構ってられるほど、ワシらも暇やない。分かったならとっととウチに帰りや」
「……まぁ、元から長居するつもりはないが。それにしてもあんた、一体どうしたんだ? 具合でも悪ぃのか」
桐生は真島の側に寄り、俯いたままの顔を覗き込む。
先の出来事を忘れているのか、それとも本気で気にしていないのか。どちらにせよ真島はその理由が分からなかった。分からないから今も頭を悩ませ、挙げ句の果てにまともな会話すらできないでいる。それでも桐生はそんなことなど気にも留めていないという様子で真島の容態を案じている。
ーーいったい何にそんな心を乱されているのか。その答えはもう、明らかだった。
「え?」
いつになく至近距離にその顔があった。鼻先を掠めた煙草のにおいがどちらのものなのか、そんなことはどうだっていい。
まるで吸い寄せられるように、真島は困惑で開いた桐生の唇に顔を寄せていた。桐生が目を見開く。輝きを失うことのないその瞳をきれいだと思った。寄せただけでは触れられない。顔を少し傾ける。
柔らかい感触は時間をかけて味わった。その全体にしっかり触れて、余韻を残すように離す。
ようやく思考が追いついたのか、見開いたままの瞼がぱちぱちと瞬きを繰り返し始める。
「…………マジか……」
動揺で泳いだままの視線から目を逸らさずいれば、その頬が赤く染まっているのに気がついた。不意を突いたのは我ながら卑怯だった。桐生は自分の唇を手の甲で覆っている。だから今度は前もって、その甲を引き剥がすように手のひらを重ねた。
真島はもう、逃げも隠れもしない。だからこの自覚したばかりの感情の行く末は、最後の選択は、すべて桐生に委ねることに決めた。