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今まで仲哀天皇は外征に興味がなかったのかと思い込んでいましたが、よくよく「日本書紀」を読むと、外征派だったような気がしてきました。


「日本書紀」は細かい記事が多くて読み飛ばしがちですが、よく読むといろんな発見が(ノ∀`)


このシリーズはとりあえず読んでいくというコンセプトで、自分も初めて通しで読むので(^^;)

途中で見解が変わったりしますが、お付き合いいただけると幸いです。


大学の先生方も忙しくて、ご専門の必要な部分しか読まれないので、

そういう点ではいっしょにおつきあいくだされば、かなりの値打ちはあると思います‼️(p`・ω・´q)(宣伝w)


まあ、今回は七支刀なので、いろんな研究者がガン見しているところですけど💦


その年、千熊長彦チクマナガヒコを久氐クテイ等にそえて百済に遣わした。その時に(神功皇后は)大恩イツクシビを垂れて

「朕は神の示されたところに従って、初めて通交の道を開きました。海の西を平定して、百済に賜り、今また厚く友好を結んで、永らく百済を寵愛し、賜り物を与えましょう。」と仰せになった。


この時百済王の父子は、並んで頭を地につけ、

「貴国=日本の鴻恩イツクシビは天地より重いのです。何日、何時といえどもそれを忘れることがあるでしょうか?聖ヒジリの王キミは上にあって、日や月の如く明るく、今我等は下にいて、山岳の如く固く、永遠に西蕃(西の臣下)として、最後まで二心はございません。」と申し上げた。


52年秋9月10日、久氐等は千熊長彦に従って、(日本の都に)詣でて、七枝刀ナナツサヤノタチを一口フリ、七子鏡ナナツコノカガミを一面、および種々の重宝を献上し、
「我等の国の西には河があります。源は谷那コクナ(未詳)の鉄山から出ています。その土地は遠く七日進んでも到着しません。まさにこの水を飲み、この山の鉄を取って、永遠に聖朝ヒジリノミカドに奉ります。」と申し上げた。

そして(肖古王は)孫の枕流トンル王に、
「今わたしが通う海東の貴い国は天が啓ヒラいたところで、天恩イツクシビを垂れて海西を割サきわたしに賜った。それゆえに国の基盤は永く固くなったのだ。汝も善く和好を修めて、百済の産物を集め、絶えず朝貢を行うなら、わたしは死んでも何の心残りがあるだろうか?」と言って、これより後は、毎年朝貢を続けた。

まあこれは日本が上位という概念で脚色されているので、話半分で読めばいいのですが、

七支刀は石上神宮に永らく所蔵(というか、禁足地に埋まっていた。)されて、教科書にも載っているので、関係性は事実。枕流王も肖古王の孫です。

さて、七支刀ですよね(;^_^A

Wikipediaの概要を見ると

七支刀(しちしとう)は、奈良県天理市の石上神宮に伝来した古代の鉄剣である。全長74.8センチメートル、剣身の左右に段違いに3本ずつ、6本の枝刃を持つ。剣身に金象嵌の銘文が記されている。1953年(昭和28年)指定国宝。


ということですが、

そこに銘文が入っています。しかも錆びてるし、読みにくい字がいっぱいあります。
銘文の書き起こしはWikipediaですが、わからないところはおいといて読んでみましょう。

〔表面〕
泰■四■■月十六日丙午正陽造百練銕七支刀■辟百兵宜■供侯■■■■■作

泰?四年??月十六日丙午ヒノエウマ(の日)正陽、百練銕(鉄)の七支刀を造る。?は?して?百兵を辟(避)く。侯?に?供するに宜ヨロし。????作る

〔裏面〕
先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖■故為倭王旨造■示後世

先世以来、未だ此の(ごとき)刀は有らず。百済王・世子?、奇しくも聖?に生まれるが故に倭王の旨の為に造る。後世に?示せ。

で、解釈が山のようにありまして💦
すみませんが、ご興味があればこっちで👇️

七支刀



銘文の意味を考えるために、とりあえず近肖古王のあたりの三韓の動静を説明しておきます。

まず高句麗の故国原王ですが、369年に2万の軍隊を率いて百済を攻めました。ところが雉壌(黄海南道白川郡)の地で敗れ、371年10月には逆に百済の近肖古王が兵3万を率いて高句麗平壌城に攻め込みます。
故国原王は防戦に努めますが、10月23日、流れ矢に当たり戦死しました。

百済はこの戦果をもって、漢山に遷都し、372年正月に中国の東晋に朝貢し、
6月には東晋から使者が百済に派遣され、
百済王余句(近肖古王)は鎮東将軍・領楽浪太守に封冊され、百済王の地位と、その子余須(貴須王)に跡継ぎの世子の地位を認めてもらいます。

銘文の「百済王、世子?」はこれを指すと考えられています。

東晋は318年に建国した晋の後継王朝。長安・洛陽の中原に異民族国家が建国され晋が滅亡するのに合わせて、晋の皇族が避難先の江南で建国し、南北朝時代のの南朝の始まりとなった。

「侯王?に供?供するに宜し」という文は、中国の冊封体制に入った場合、周辺の諸国の王は、○○王となって諸侯に列するので、百済王から送る相手の倭王も「侯王」なのですが、倭王が東晋に朝貢していたかは記録がなく、
裏面の「倭王」も以前は「倭主」と読んでいたので、百済王からしたら「侯王」でない倭王を「倭王」と呼べないので「倭主」が正しい可能性もあります。

泰?の年号について、「神功皇后52年」は干支の二巡繰り下げで372年になるので、東晋の太和(泰和)四年(369)で、つじつまがあう気がするのですが
諸説紛々💦  諸説はwikiを読んで👆️

「倭王旨」も、倭王の名前が旨なのか、倭王の旨ムネによってなのかも微妙です。

けれども「日本書紀」と実物が一致というのはなかなかすごいですね❗

肖古王の時代は高句麗を破って、中国王朝の後ろ楯を得た時代でした。
国勢が盛んな間に倭を味方に引き入れようと思ったのでしょう。

実際この後に、倭は半島で百済とともに高句麗の好太王と戦うことになります。

55年(375)、百済の(近)肖古王が薨御された。

56年(376)、百済の王子貴須が立って王となった。(近仇首王)

62年、新羅が朝貢しなかった。その年、襲津彦を遣わして新羅を撃った。

百済記に云わく、壬午ミズノエウシの年(382?)、新羅は貴国=日本に朝貢しなかった。貴国=日本は沙至比跪サチヒコを遣わしてこれを討たせた。新羅人は着飾った美女を二人、港へ迎えに行かせて誘惑した。沙至比跪はその美女を受け入れて、裏切って加羅国を討った。

加羅国王コキシの己本旱岐コホカンキ及び児百久至コハククチ・阿首至アシュチ・国沙利コクサリ・伊羅麻酒イラマス・爾汶至ニモンチ等が、加羅の人民を率いて百済に逃げ来て、百済は厚く彼らを迎えた。
加羅国王の妹の既殿至ケデンチは、日本まで赴いて
「天皇は沙至比跪を遣わして新羅を討たせようとされましたが、彼は新羅美女を召しいれて、新羅を討たず、反対に我国を滅ぼしました。兄弟・人民は皆さすらいの身となり悲しみの思いに堪えられません。それでやって来て申し上げるのです。」と申し上げた。
天皇は大変お怒りになり、すぐに木羅斤資モクラコンシを遣わして、軍を率いて加羅に集合させて、その国を復興された。

一に云わく(別伝)、沙至比跪は天皇の怒りを知ってあえて公には帰らず秘かに帰国し、自ら隠れていた。その妹で皇宮に仕える者がいたので、比跪は密かに人を遣わして、天皇のお怒りは解けたか聞いた。妹はそこで夢の託宣のようにして
「今夜沙至比跪を夢に見ました。」と天皇に申し上げたが、天皇は大変お怒りになって
「比跪がなぜ来たのだ⁉️」と言われたので、妹は天皇の言葉を兄に報告しました。
比跪は許されないと知って、岩穴に入って死んだといいます。

ここでは天皇になっているので、この時代、皇后や女帝でなかった可能性も(^^;)
長すぎますもんね、60年て……
応神天皇はすでに62歳wお母さん頑張りすぎです。ここは干支が合っているので「二倍年暦」説は使えませんよ(  ̄▽ ̄)

葛城襲津彦は武内宿禰の長男で、葛城氏の祖先です。次の仁徳天皇の皇后巖之媛の父なので、こういう人だとすると整合性がないというか、
新羅を討って外征派の中心になったと思うのですが('_'?)

史実なら仁徳朝の話になるように思います。


64年、百済国貴須王(仇首王)が薨御された。王子の枕流王を立てて王とした。

65年、百済の枕流王が薨御された。王子の阿花は年少であった。叔父の辰斯が王位を奪って国王となった。

66年。是の年は晋の武帝の泰初2年(266)である。晋起居注に云わく
「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」

晋は魏の将軍、司馬仲達シバチュウタツ(「死せる孔明生きる仲達を走らす」の仲達で、五丈原での諸葛孔明と戦いが有名)
の孫の司馬炎が魏から禅譲を受け、265年に成立した王朝です。
ここに朝貢した倭の女王は、卑弥呼の死後女王になった薹與トヨ?とされています。


さっきの東晋はこの晋の後継王朝ですよね。ここは干支を二巡繰り上げているので、ややこしいことになっています。

そんなことをしてでも、邪馬台国の二人の女王を時代をずらして神功皇后に当てているのは、
外国へ進出したオオタラシヒメの言い伝えが、8世紀頃にけっこう残っていたのだと思います。なお、オキナガタラシヒメという名も「諡号オクリナ」と次にはっきり記されています。結局この4世紀の女王については本当の名前はわかりません。


69年夏4月辛酉朔丁丑、皇太后は稚櫻宮で崩御された。時に年齢は100歲であった。冬10月戊午朔壬申、狹城盾列陵に葬った。この日、皇太后を追号して、気長足姫尊オキナガタラシヒメノミコトという。是の年は、太歲己丑。

結局薹與の遣使までも「神功皇后紀」にいれたので、神功皇后が超長生きになったのでしょうね。
ここはもう応神天皇とか、場合によっては仁徳天皇の治世かもしれません。

肖古王の前、百済は高句麗に押されていたので、倭と組むことを考えて、倭の半島進出が始まった。
そのために北部九州の制圧は大和王権にとっては必須だったでしょう。

仲哀天皇、神功皇后の時代はそういう時代だったと思われます。

長かった「神功皇后紀」も終わりました。前半は邪馬台国の終焉から、神話的な三韓征伐。
後半は一転、外国との国交記事で、雰囲気が変わりますね(^^)

これ以降はいよいよ5世紀の「倭の五王」の時代になります。
まだまだ伝説のような記事も多いですが、日本の姿がはっきりしてくる時代です。

引き続きご訪問をいただければ幸いです。




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