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「日本」という国号の起源【後編】

2683年(R5)5月9日(火)改稿 2679年(R1)3月17日(日)初稿 2676年(H28)4月18日(月)草稿
【前編】からの続きです。
今日、3月17日は最古の「日本」の用例である禰軍墓誌に記された禰軍が死去した日なのである。すなわち禰軍墓誌によれば禰軍の命日は儀鳳三年二月十九日、ユリウス暦に換算するとAD678年3月17日(水)になるのである(グレゴリオ暦だと20日)。今年、令和元年は禰軍死去1341周年、仏教式にいうと1342回忌ということになる。まぁ禰軍はこちらを裏切って唐に帰化した元百済人だから追悼してあげる義理はまったくないが。せっかくなので長年ほったらかしだった【後編】を書いてみた。

【前編】のまとめ
【前編】ではあーでもないこーでもないと議論した結果、倭国から日本国に国号を変更したのは天武十二年(AD683年)であったと結論した。しかも国号は「ヤマト」(という読み)のままで国号それ自体の変更ではなく単に漢字表記の仕方の変更にすぎなかったと述べた。そしてこのことは国内的には(日本人向けには)ヤマトのままで国号の変更ではないのだが、中国人向けには国号の変更としてアピールされることになる。このことは当然に日本側でも認識しつつ、中国に通達したのは則天武后の長安二年(日本では大宝二年:AD702年)のことだった。
…というところで【前編】は終わった。本題にかんしてはこれで終わっている。
【後編】の内容はオマケ的なものです。本題に興味ある人は【後編】ではなく【前編】を読んで下さい。

対中国と対朝鮮で時期が異なる説
さて【後編】に入ろう。
ヤマトという読みはそのままで漢字表記だけを「倭」から「日本」に変えた訳だが、ところで、そうは言っても新表記を決めるにあたって「日本」以外にも候補はいくつもありえたはずだ。後世に日本の別名としてあげられた中国の神話上の地名としては日本の他にも
「日下」「日域」「日東」「烏卯国」
「扶桑」「扶木」
「阿母山」「阿母郷」
「蓬莱」「瀛洲」「方丈」
「東海姫氏国」
「君子国」「大人国」
「東海女国」「女子国」「女国」

等がある。それぞれの語源や由来もおもしろいネタが満載だが今回は触れない。で、それらの中からなぜ「日本」が選ばれたのかという問題はある。おそらく正式な名称ではないながらも、倭国の別名として日本という名は並行して使われたていたからではないか。これは何もわたし個人の説ではなく、本居宣長は中国に対して日本を使うより前に、中国には倭と称するが三韓(朝鮮)諸国には日本と称していた時期があったとしている。宣長は、大化元年(645年)七月に高句麗と百済に下賜した詔書に「明神御宇日本天皇」と書かれていることから、対中国では702年の遣唐使から日本という名を使ったが、三韓(朝鮮)諸国に対してはそれ以前から日本を使っていたのではないかと考えた。現在ではこの部分の「日本」は『日本書紀』が書き換えたものとして宣長の説は否定されているが、個人的には宣長の方が正しいのではないかと思う。
なぜか。
書紀に引用された百済三書のうち『百済記』と『百済新撰』は倭(正確には「委」だが便宜上「倭」とする)と書いているのに『百済本記』だけが日本になっている。書紀が一律に日本に書き換えたというならなぜ『百済記』と『百済新撰』は倭のままなのか説明がつかない。そこで小林敏男は、日本という名は「百済から倭国を呼ぶ表記」として成立し、国号として正式に採用される以前から、ヤマトを日本と書く行為が流行していたのではないかと推測している。このことは軽く流してはならない。これは事実上、宣長説の復権だからだ。
(※この小林の説が現在なぜ顧みられてないかというと一つには百済三書における倭と日本の使い分けが同じ書物の中のある時代で分れず、書物ごとになってるのでその書物の編集方針にすぎないと見られてるのだろう。しかし後述のようにこの切り替わりの時期は新羅でも国号の変化があったので何かしら連動した事件があったのではないかとも疑われる。また『百済本記』で「日本」になってるのは編纂時期が日本に改号した時期より後だと見られているからだともされているが、別にだからといって絶対に過去に遡って改変しなければならない訳でもなく、『百済記』と『百済新撰』は『百済本記』よりも後に編纂されたという説が有力なのに現にこの二書は「倭」のままなのはどういう訳か)
それで、百済三書ではいつまで倭で、いつから日本になっているのかを調べると、武烈四年(502年)に百済の昆支王子(こんきせしむ)が倭国にやってきたという『百済新撰』の記事が「倭」の最後で、継体三年(509年)に久羅麻致支弥(くらまちきみ)が日本から百済に派遣されてきたという『百済本記』の記事が「日本」の初出だ。さすれば「502年〜509年」の間に倭から日本への改名があったことがわかる。しかしこの時期に国名をかえねばならないような特別な理由として一体なにがあったのだろうか?
『三国史記』新羅本紀によると、新羅は503年にそれまで様々に書かれていた国名を「新羅」に統一し、尼師今(にしきん)という君号を「国王」に変更したという。倭から日本への改名があったと推定されるその期間内に、新羅が国名を定めたというのは何か関係がありそうだ。では新羅はなぜこの年になって国名表記を統一することになったのだろうか? 史書にはなんの説明もないが、いろいろ探ってみた結果、512年に新羅が鬱陵島を併合したこととどうやら関係があるらしい。

「于山国」の滅亡
512年、新羅は現在の鬱陵島にあたる「于山国」(うさんこく)を亡ぼして併合している。
これより7年前の505年には悉直国(しっちょくこく)を併合して悉直州(日本海沿岸地方)を置き、異斯夫(ゐしふ)という臣下を悉直州の軍主(地方長官)に任命。512年には異斯夫は何瑟羅州(かしらしゅう)の軍主となって于山国を征服したという。
が、悉直州も何瑟羅州も同じものの別名で、ただ州治所が悉直(今の江原道三陟市)から何瑟羅(今の江原道江陵市)に遷ったため州名もそれに応じて変わっただけのようだ。この年「于山国」を服属させたといい、異斯夫列伝にも同じことが書かれているが、これがおかしい。鬱陵島の対岸の三陟にいた時は何もなく、北に遠ざかった江陵に遷ってから島を攻めたというのは不自然だ。原資料には何瑟羅州の軍主になった時とあったために編纂者の金富軾は512年のことと判断したのだろうが、州の治所が移転しただけなのにまるで別の州の軍主に転任したかのような書き方になってるのは、悉直州と何瑟羅州が同じ州だと知らない者が誤認に基づいて書いた原資料を、金富軾がそのまま載せているのだ。同じ州の軍主なのだから異斯夫は二回ではなく一回しか軍主になっていない。軍主になったのは512年でなく505年。従って「512年に于山国を滅ぼした」というのは実は512年ではなく「505年に悉直国を滅ぼした」という話と混同されているのである。
では于山国の滅亡はいつなのか。

ところで于山国の征服戦については妙な話が伝わってる。于山人が勇猛でただ攻め入ったのでは勝てないと考えた将軍異斯夫は獅子の像をたくさん作って船に乗せ「従わなければこの猛獣に襲わせるぞ」と脅かしたので于山国は降伏したというのだ。新羅兵でも勝てないような勇猛な于山人がそんな子供騙しで恐れいるとは思えないし、戦う前からなぜ勇猛だとわかったのか。そういう前評判があったとしても一応は戦ってみて確認するのではないか。
実は鬱陵島に伝わる伝説では于山国の最後の王は「于海」という名で、対馬から「豊美女」という妃を迎えてから妃の贅沢をかなえるためたびたび新羅を略奪したという。そのため新羅に滅ぼされたというのだ。つまり平和な于山国を新羅が突然侵略したのではなく、先に于山国が新羅に攻め込んでいたというのだ。「たびたび」というからには一度ではなく漠然と数回(最低でも二度?)あったことになる。すると新羅と于山との戦いはある年の一年こっきりの戦争ではなく、数年越しの断続的な戦争だったと考えられる。
于山国が新羅を侵略するようになった背景には475年の高句麗の強大化があったろう。後述のように于山国の民俗文化は高句麗人や濊人と近縁で、于山人は広義の濊族の一部だったと考えられる。江原道の濊族は高句麗の属国のような存在で、高句麗の軍事行動には濊人の兵も加わることが多かったから、その中には于山国の兵もあったのではないか。

そこで新羅本紀を確認してみると于山が攻めてきたという記事はないが、倭や高句麗が攻めてきたという話なら沢山ある。多すぎてキリがない。
おそらくそれらの倭軍や高句麗軍に于山軍が加勢していたとかあるいは同盟して連合軍になっていたということではないか。ただ于山の兵力は少なかったので史書では単に倭とか高句麗とのみ書かれた。あるいは高句麗軍が靺鞨(『三国史記』では濊を誤って靺鞨と呼称している)を伴っている場合はその靺鞨に于山兵が含まれていたのだろう。

新羅が敵を撃退することも多いが、勝敗不明なケースもあれば、高句麗や倭が要所を占拠してしまった戦いもある。倭または高句麗と連合軍をくんでる于山軍を新羅が撃破して、勝ちに乗じて于山島(于山の本国)まで進軍したってことだろう。505年以前でいちばん近い戦いをあげると497年八月には高句麗が、500年には倭が新羅に攻め込んできたが、この二つの戦いでは侵入者が要所を占拠して終わり新羅が敗北したと読めるので除外。その直前には496年に高句麗が、497年四月には倭が攻め込んでいる。496年の戦いでは高句麗軍を新羅が撃退しているので、新羅が于山国を攻め滅ぼしたのはあるいはこの直後ではないかとも思われないこともない。だが続く497年四月の倭の来寇では倭が侵入してきた場所も書かれてないだけでなく事件の顛末も書かれておらず勝敗が不明になっているから後続の文が欠落しているのではないか。おそらくこの時も倭兵だけでなく于山兵もいて連合軍か同盟軍の様相だったのだろう。内地に引き込まれて壊滅した倭兵は上陸地点の海岸に大量の艦船を残したのかも知れない。その艦船を鹵獲した新羅は勢いに乗ってそのまま渡海して于山島を占領したんだろう。

「獅子の像」とはなんのことか
ところで異斯夫が船に乗せた獅子の像だが、いくら于山国の兵が愚昧だといってもそんなものに騙されて降伏するなんて荒唐無稽でありえんだろう。これは何か意味があるに違いない。
日本人が「獅子」ときけばまっさきに浮かぶのがコマイヌ(狛犬)だろう。現代では獅子とコマイヌの区別もつかない人が多いぐらいだ。コマイヌという言葉は日本語であってコマとは高句麗のこと。中国語にコマイヌという言葉はないので、中国も新羅も経由しないで高句麗から直接にはいってきたんだろう。中国のものならば漢語の名前がついているはずなのでコマイヌは高句麗で生まれたものであり、いわば高句麗の象徴ともいえる。ツノの有無を除けば獅子と同じ姿をしている。おそらく獅子の像だといってるのはツノを折られたコマイヌ像だったのではないか。これを見せて高句麗が敗退したこと、援軍はこないということを于山軍に示してみせて士気を挫き降伏を促したという話なのである。
なお狛犬と高句麗の関係については「狛犬は高句麗からきた」を参照。

梁書の「扶桑国」
この「于山国」だが、毛利康二は『梁書』にでてくる「扶桑国」とはこの于山国であることを詳細に論証している。
新羅に征服される前の于山国(=扶桑国)は仏教の栄えた独立王国として中国にもその名が知られていたのである。ただし、毛利康二は『三国遺事』にでてくる延烏郎(えんうろう)と細烏女(さいうじょ)が日本の国王になったという話に出てくる日本とは、日本列島の倭国とは関係なくて、この鬱陵島のことだったという。この説の真偽は後で検討する。ただ、延烏郎と細烏女の伝説なぞ持ち出さずとも、扶桑というのはもともと中国の神話にでてくる架空の地名を借りたもので、現地の土着語ではないし、鬱陵島の本来の地名でもない。そして日本というのも元は中国の神話上の地名で、東をはてをさす漠然とした言葉だったという点では、扶桑の類語というか、ほぼ同義語、同語なのであり、于山国(鬱陵島)には扶桑国の他に「日本国」という別名もあっただろうことは容易に想定できる。そして、扶桑にしろ日本にしろ、どちらも、後年倭国がそう呼ばれることになった名でもある。これは偶然だろうか。前述の、百済が倭から日本へ呼び名を変えた時期(502年〜509年の間のいつか)に、于山国が新羅に征服された本当の年と推定される497年は近い。
『日本書紀』雄略二十二年に浦島子が蓬莱山に行った話がでている。『丹後国風土記』では蓬山になっていてこちらが正しく、書紀が蓬莱山と書くのは蓬山を蓬莱山の略記だと誤解したからだが、蓬は扶桑の「扶」と音通、蓬莱山の山は于山国の「山」で、蓬山=扶桑=于山はいずれもフサンの音写である。鬱陵島の扶桑国は中国にまで有名だったのだから、鬱陵島に独立国があることは倭国にも知られていて当然だろう。なお浦島伝説についてはこの記事の最後にまた触れる。

倭国から日本へ改名した時期(対三韓)
毛利康二は平安時代にも細羅島の住民が山陰地方に流れついた例をあげてこの「細羅島」とは「紆羅島」(ウラ島)の誤記で鬱陵島のことだとしている(つまり鬱陵島の鬱陵は浦島のウラの音写)。平安時代に鬱陵島から漂着したのなら、于山国が新羅に滅ぼされた時も、倭国に逃げてきた者がそれなりにいたのではないか。倭は新羅を属国とみなしていることは于山国にも知られていたろうが、仮に知らなかったとしても、彼らが倭王(天皇)に助けを求めることはありうる。彼らが第二の故郷と定めた倭国に、改めて扶桑または日本という名をつけたのではないか。そもそも扶桑も日本も、于山国の本来の名ではなく、中国の神話にでてくる仮想上の地名であり、東のはてを漠然とさしたものである。しかしその名を借りた国家は新羅に滅ぼされてなくなった上、倭国は鬱陵島よりも東へと広がっているのだから、むしろ倭国のほうが扶桑や日本の名にふさわしい。ただし、その時には扶桑の名は選ばれず、日本という名だけが採用された。そのわけは、扶桑国がすでに仏教の栄えた国としてだけでなくその他の特殊な文化も含めて中国に有名になっていたので、現実の倭国とのイメージのギャップが大きかったためと思う。我が国の別名として扶桑が使われたのは三百年以上あとの貞観元年(859年)のことで、この頃は倭国とは別に扶桑国が存在したこともほぼ忘れられていたのである。
なお、新羅も于山国を併合したことで扶桑もしくは日本を名乗る資格を得たわけで、そこで国名改定の議が起こった。『三国史記』新羅本紀によると、新羅は503年にそれまで様々に書かれていた国名を「新羅」に統一し、尼師今という君号を「国王」に変更したというが、この記事はすこぶる怪しい。考古学的に判明している事実としては、この後も新羅は長いこと寐錦王と葛文王の二重王制であり、まだ「国王」制ではなかったのである。503年の事実はそれまでの寐錦を寐錦王、葛文を葛文王に改めたというだけであり、事実と微妙に異なっている。国号の話が出てきたのも、つまり于山国を併合したからこそ国名改定の議題が生じたわけで、今まで何の支障もなかったのに、この時になって訳もなく国名改定の議がでてきたとしたらおかしいだろう。だからこれ以前に懸案になっていたのである。具体的には于山国が滅亡した497年以降、新羅でも倭国でも非公式な別名あるいは通俗的な別名として「日本国」とか「扶桑国」と名乗っており、名前がバッティングして新羅のことをいってるのか倭国のことをいってるのか紛らわしく国際問題になっていた。
そこで倭国が圧力をかけて「日本」も「扶桑」も新羅には使わせないことにしたのだろう。新羅本紀に「いろいろな書き方があったのを新羅という表記に統一した」というのは、その真相は国名変更が沙汰止みになって「新羅」に固定させられたということなのである。むろん、とはいっても非公式な私称としては稀に使われた。唐の頃になってもまだ新羅の別名として日本が使われることがあったのはこの名残だろう。ちなみに『日本書紀』の編年では503年は武烈天皇五年にあたるが、武烈天皇は実際はもっと前の人で、この頃はとっくに継体天皇の時代になっていたと思われる。

まとめると今の鬱陵島に「于山」という独立国があり、別名を「日本国」または「扶桑国」ともいっていた。日本にしろ扶桑にしろ古代中国の東のはてにあるという神話上の地名であり、それを自国の別名とするのは雅びで美しくはあるが、中国より東の国ならどこでも日本でありうるし扶桑でありうる訳で、本来は特定の国が独占するようなものではない。497年に新羅が于山を併合すると自称主体が消えたので日本や扶桑という言葉は新羅や倭国をさす言葉となり、その後、軍事抗争の結果なのか平和的な外交での決着なのかは不明だが、503年になって「日本」は倭国の称であって新羅のものではないと確定した(「扶桑」は旧「于山」の印象が強すぎてしばらくは倭国も新羅も自国名に使わなかった)。つまり「日本」という国号ができたのは503年なのである。終わり。
扶桑樹152
【オマケ】于山国のすべて
「于山国」はもとから新羅領だった?
新羅が于山国を勝手に征伐すると、それを口実に倭国が干渉してくる恐れがあったはずだ。現に、524年に新羅が金官(そなら、今の金海)と喙己呑(とくことん、今の慶山)という2ヶ国を併合した時は、日本は新羅を成敗するため6万もの大軍を派兵して任那が大騒ぎになったことがある(この時の将軍が近江臣毛野)。鬱陵島は任那にはふくまれないが、理屈はなんとでもつく。当時の国際社会は現代と違って、「たとえ国力に大差があっても独立国ならお互いに対等だという建前」が存在しない。「罪もない于山国に攻め入るとは極悪非道、よって悪を糺すための正義の軍だ」と称して、高句麗や倭国や百済が攻め入ってこないとも限らない。通常ならそのはずなのだが、今回はそういう情況が見あたらない。実は、于山国はもともと新羅の一部だという認識が、五世紀の初めぐらいから倭国にも高句麗にも共有されていたのではないかと思われるのだ。
ところで江原道は濊(わい)という民族の居住地で、彼らは統一政権を作らず集落に分かれたまま、ある時は高句麗、またある時は中国の楽浪郡に服属していた。江原道の東に浮かぶ鬱陵島に居住していた民族は、江原道の濊人と完全に同一民族の濊人だったのか別民族だったのかは不明だが、別民族だったとしてもかなり近縁な文化をもっていた。

「延烏郎と細烏女」の神話
新羅の王都がある慶州盆地のすぐ東の隣りが「迎日」でその名の通りの太陽信仰の地。迎日湾からみると鬱陵島はかなり北にズレてる。真東にまっすぐ線を引くと日本の隠岐島があり、もとは隠岐島を太陽の生まれる聖地とする信仰があったと思わるが、迎日湾からは遠すぎて隠岐島は見えない。鬱陵島は迎日湾からすると北北東で、太陽の昇るところとしてはかなり方角ちがいだが、何より対岸の江原道から目視できる距離だ。
有名な「延烏郎と細烏女」の伝説では迎日湾のほとりに住んでいた夫婦が日本に渡り王になったという。この日本を倭国のことではなく今の鬱陵島のことだというのが上述の毛利康二の説だ。だとするとこれは于山国の建国神話にも思えるが話はそう簡単ではない。
この段階までは、まだ隠岐島と鬱陵島、両方を漠然と聖地とみていたのが、この時に延烏郎が鬱陵島の王になったので、以後、鬱陵島のみをさすようになったのではないか。『三国遺事』は「延烏郎と細烏女」を日月の精だというが名前からすると夫婦とも烏なんだから太陽の精にみえる。月の精なら「烏」ではなく「蟾・蜍・蝦・蟇」等の字になるはず。三国史記より古い『新羅殊異伝』には「迎烏」とあって「延」の字は誤字であることが明らかで1484年編纂の『東国通鑑』もこれに従う。したがって「延烏郎は延氏の一族だ」なんてことはありえない。「烏」は太陽の象徴なのだから「迎烏郎」とは「迎日の男」の意となる。ならば、対する「細烏女」は「鬱陵島の女」の意味のはずで、上述の平安時代に漂着したという「細羅島」民を毛利康二が「紆羅島」の誤記としたように、おそらく「細烏女」の「細烏」は「紆島」の誤記だろう。「紆島」とはもちろん「紆羅島」の略。
(※「紆島」の誤記ではなく「紆良」の誤記だとも考えられ、この場合は「紆良」(うりょう)は鬱陵(うつりょう)と同じくこの島の名であり、もとは日本語の浦島の「浦」(うら)。ただ、字形としてより似てる方を取るなら「紆良」の誤記とするよりは「紆島」の誤記とした方がよいだろう。)
つまり延烏郎と細烏女のコンビは「迎日湾側の男」と「鬱陵島側の女」のセットである。『三国史記』では夫婦が日本に渡って国王になったとあるが神話類型から推定すると元の話は男だけが渡海して現地の女を妃にして国王になったという話だったに違いない。太陽の精が地上で一般人として暮らしている等というのは神話、民話、寓話の類として歴史事実とは考えないのが普通だが、阿達羅尼叱今四年(AD157年)という具体的な年代を与えられているのだから、例によってこのブログでは元になった事件はあったんだろうと考える。現代の天文学では翌158年7月13日(ユリウス暦)に日食があったことがわかっており、この事件が日食を表わしていることは明らかだから一年間違ってる可能性もなくはない。しかしなにもないところに日食が起こるたびに神話が発生するわけではないから、やはりなんらかの政治的な元の事件があり、それが日食によって神話化したと考えたい。

迎烏郎と倭国との関係
『三国史記』阿達羅尼師今五年(AD158年)三月に竹嶺(今の栄州と丹陽の境の峠)を開通させて倭人が来訪したとあり。『三国遺事』年表では9年後のAD167年に「與倭國梖嶺(以下欠文)」(倭国と梖嶺を?)とあり、この梖嶺は写本によっては「根嶺」とあり、梖嶺または根嶺が今のどこかは不明だが158年と同じく峠街道か関所を整備して倭人との通交を開いたことをいうのだろう。『三国史記』では倭人との関係を隠すために「延烏郎と細烏女」を載せていないが、これが結末ならば最初から倭国がらみの事件だったと思われる。なのでここに出てくる「日本国」が鬱陵島のことだったとしても「事件そのものが倭国とは関係ない」とする見解は支持できない。
「迎烏郎」はむろん本名ではなく太陽祭祀の神官を意味する言葉で本名ではない。おそらく金氏王朝の祖先の誰かだろう。『三国史記』や『三国遺事』に伝えられている伝説を分析すると新羅の三王家、朴昔金はそれぞれ神話学でいうF2(第二機能=軍事)、F3(第三機能=豊穣生産)、F1(第一機能=祭祀主権)に対応しており、普通ならここで「だから神話だ、史実でない」となるところだが、そうではなく朴氏は将軍家、昔氏は富豪、豪商の類、金氏は祭祀を司る神官家だったと考えればよい。
(※なお「金・朴・昔」という中国式の姓は6世紀以降につけられたものでそれ以前にリアルタイムで存在した名称ではないが朝鮮では早くから固有語の漢語への置き換えが進んだので古代語が日本のように豊富には残っていない。おそらく中東のように始祖の名をそのまま氏族名としていた。「金・朴・昔」はそれぞれの始祖の名を漢字で音写して頭文字をとったもの)
倭人の「瓠公」という重臣は朴氏と昔氏に仕え、朴氏の初代赫居世と同一人物視する説もあり、金氏の始祖、閼智を発見したのもこの「瓠公」であり、朴昔金3氏の起源に倭人がかかわる。昔氏は海を渡って倭国からやってきたと史書に明記あり、朴氏と金氏は始祖が天から降りてきたとははっきりとは書かれてはいないがそれを暗示する書き方になっていて、金氏と朴氏も倭国から渡っていったのだろう。

金氏は本来的に新羅王になるべき家柄だったが、朴氏と昔氏に遅れて第四代脱解尼師今の時にやってきたので両氏が先行利権を主張し、七代目の味鄒に至るまでの六代に渡って即位できなかった。しかし続く第五代婆娑と第六代祇摩は金氏の娘を夫人(妃)としており、つまり王に娘を入れて外戚となるという待遇をされていた。しかし第七代逸聖と第八代阿達羅はなんらかの事情で同族の朴氏から夫人を迎えており、外戚の地位を失い不満を抱えた金氏(延烏郎)は太陽祭祀をストライキして倭国に帰ってしまった(つまりこの場合の「日本国」は鬱陵島ではなく倭国の意味)。倭国の力を借りて朴氏と昔氏に抵抗して新羅の王位につこうとしたが、倭国に仲裁されたかして3氏の間で妥協が成立し、鬱陵島が金氏の食邑として与えられた。この時(AD157年)に延烏郎が日本国の王になったというのは鬱陵島の領主になったという意味である(つまりこの場合の「日本国」は倭国ではなく鬱陵島)。
金氏の始祖、閼智が出現した時の物語は太陽神話になっており、もともと迎日湾での太陽祭祀を司っていたが、AD157年以降は本来の隠岐島に代わって鬱陵島を聖地とした。15年後の172年に金氏の仇道が波珍飡(はとりかん)に登用されたりしている。波珍飡は後世には官位の第四位の称となるがこの頃は対倭国関係の外務大臣に該当する。これは迎烏郎の倭国とのパイプを継承したもので、世代的にみると仇道の父の「郁甫」なる者は迎烏郎の本名だろう。

新羅の内紛と「于山国」の建国
ところが五世紀になってから新羅の内紛があり、それには高句麗がかかわっていた。その内紛の結果、鬱陵島が新羅から独立して敵対することになった。

それはいつか。
『三国史記』新羅本紀には奈勿二十一年(AD376年)に「夫沙郡、一角の鹿を進む」とあり、井上秀雄はこの夫沙郡を百済時代の分嵯郡(全羅南道昇州郡の楽安)だとしている。百済の分嵯郡は楽安面の「平沙里」が遺称地名だろう。井上は新羅と高句麗が国交があったからここに新羅の郡があってもよい等と気が狂ったようなことをいってるが当時百済ですら届いていない馬韓の東南の隅に新羅の郡などあるわけがない。慶尚南道陜川郡草渓面にあてる説もあるが、草渓は『日本書紀』の「散半下国」で加羅諸国の一つなのだからこの説もありえない。それで毛利康二が扶桑=于山つまり鬱陵島だろうとしている説がよい。つまりこの段階(AD376年)では鬱陵島は新羅領だった。金氏の食邑(所領)だったという話とも食い違わない。また「一角の鹿」というのは麒麟のことだが麒麟はまた狛犬の正体でもある。このへんの話は「狛犬は高句麗からきた」を参照。これによれば狛犬は高句麗の象徴でもあり、于山国が文化系統的に高句麗と近縁だったという話ともつながる。
また『梁書』では扶桑国に仏教が伝来したのは宋の大明二年(AD458年)というから、扶桑国が独立したのは376年から458年の間のこととなる。
この期間内でそれらしい事件を探すと、AD417年に起こったと想像される新羅のクーデターがある。これは史書に明記あるわけではないが、奈勿尼師今の死はクーデターによるものではないかと推定されるのだ。
当時「広開土王碑文」で有名な倭と高句麗の戦争が起こり間に挟まった新羅と百済はてんやわんやになっていた。新羅は王族の実聖を高句麗へ人質として送る一方、倭国へは未斯欣(みしきん)を人質として送った。未斯欣は書紀の微叱己知波珍干岐(みしこち・はとりかんき)で、王子(味鄒王の子)なのに対し、実聖は金氏ではあるが王女の婿というだけで系統不明(ただし『三国遺事』では味鄒の甥)。よって新羅が高句麗より倭国を重く見ていたといえる。AD401年に実聖は高句麗から送り返され、翌年に奈勿尼師今が死に、王子らが幼少だったので実聖が即位したと『三国史記』は書くが井上秀雄は他の記事との整合性から幼少だったとは考えられないとして、高句麗の政治的影響が強まる中で高句麗と近しい実聖が王に選ばれたと推測している。しかし先代が死んだのが実聖が高句麗から帰国した翌年。高句麗からの圧力だけならおとなしく譲位すればいいのに、新羅人からすると実聖は金氏の中でも王室とは遠縁で、王に推戴するには抵抗があったのではないか、それで先代は暗殺されたのではないかと思われる。現に『三国史記』には実聖は自分を高句麗送りにした連中を殺そうと計画していたとある。危険を察知した先代の長男、訥祇は逆に実聖を殺して王位を奪い麻立干となる。
この時、殺された実聖王の家臣団は生き残りの子女を奉じて鬱陵島に逃亡して、そこで独立したのではないか。実聖は王家の者ではなかったのに、高句麗への人質として申し分ない身分だった訳だから、金氏の中でも本家に次ぐ特別な家柄で、鬱陵島の代官(管理人)として代々世襲する家柄だったのではないだろうか。あるいは『三国遺事』のいうとおり味鄒の甥だったとしても、だからこそ金氏の聖地鬱陵島を管理する代官の役職についていたと考えられる。

ここまでをまとめると、417年に于山島は新羅から独立して「于山国」となり江原道の濊族と一緒に高句麗を後ろ盾として新羅と対立することになった。475年に高句麗が南下して強大化してからは新羅への出兵に参加するようになって何度も戦っていたが497年に新羅に滅ぼされた(『三国史記』が512年だとするのは誤り)。

仁賢天皇との関係
なお于山国では国王を「乙祁」(おけ)というとあり。それで平田篤胤は「乙祁」は仁賢天皇の名前「意祁」(おけ)と同じだから仁賢天皇その人であるとし、扶桑国は日本列島そのものの日本(倭国)だといっている。いき一郎や宝賀寿男は仁賢天皇でなく顕宗天皇だとするが顕宗天皇は「袁祁」(をけ)であって乙祁とは音韻があわない。
扶桑国は日本列島ではなく鬱陵島の于山国であることは上述の通りなので普通に考えると「乙祁」が仁賢天皇だとは考えられない。高句麗語で国王をオリコケという。真相は乙祁も国王を意味する高句麗系の言葉だろう。
だが上述の浦島伝説で、浦島太郎の名前が「浦島子」(うらのしまこ)というのは仁賢天皇の別名「島郎」(しまのいらつこ)と妙に似てないだろうか。「浦島子」を「島浦子」と転倒させるとシマノウラツコと読める。もちろん浦島伝説そのものは世界各地に類例のある民話にすぎないが、具体的な年代が与えられてる場合は歴史的な事件の暗喩でありうる。『日本書紀』では浦島の物語が雄略天皇の崩御直前に設定されており、これは仁賢天皇が地下に潜伏して全国を放浪していた時に鬱陵島に渡ったという話ではないかと思われる。そうするとストーリーから考えて当時の于山国の王家には女子の跡取りしかおらず男子の婿を探していた訳だろう。それを知った島郎は、日本で永遠に逃亡生活を続けるよりは外国の王室に婿入りして一花咲かせようと思ったのではないか。だが、婿の悲しさ、お世継ぎさえ生まれてしまえば用済みになる。『丹後国風土記』逸文では島郎子が滞在したのは三年という。これは跡継ぎが生まれたので追い出されたか婿養子扱いに気まずくなって自主的に帰国したんだろう。
(※だがそうすると男子が生まれて于山国のお世継ぎになっていたのだから、のちに武烈天皇で皇統が途絶えた時に継体天皇の出る幕はなく于山国から継嗣を迎えたはずだが、実際にはそうなってないのはなぜか。497年に于山国が新羅に滅ぼされた時、王家の者は日本に亡命しただろうから皇位継承のチャンスはあったはずなのである。その頃は継体天皇の時代だったがあくまで中継ぎの仮の天皇であり、正式に即位したのはかなり遅い。書紀には仲哀天皇五世孫という倭彦王という候補が逃亡したという妙な話があるが実はこれ允恭天皇五世孫の間違いなのではないか。
ところで中田憲信が地方伝承を収集して編纂した『皇胤志』では仁賢天皇と顕宗天皇は兄弟ではなく従兄弟になっており、仁賢天皇の父が島郎子、顕宗天皇の父が久米若子(くめのわくご)としている(日本書紀では仁賢天皇の別名が島郎、顕宗天皇の別名が久米若子)。兄弟だとする記紀の伝承と折衷するなら、『皇胤志』でいう島郎子と久米若子という二人の父は同一人物となる。父のもつ二つの名を兄弟が分けて襲名したものと思われる(相撲の若乃花、貴乃花の兄弟のような例)。仁賢天皇は古事記を信ずる限り子供の頃に朝廷に発見されてるので鬱陵島へ渡った島郎子とは父の方だろう。書紀ではその事件は雄略朝の末年に近いが、ワイの個人的な計算では于山国が建国されたAD417年から十年も経ってない頃に当たるので、殺された実聖の一族は鬱陵島に逃げてそこで独立したはいいが当主不在で実聖の娘を奉戴していたと思われる。で、島郎を受け入れて男子が生まれた、それが倭彦王だった。于山国の歴史は60年程度はあるので二世代に相当し、王位はさらにその子に引き継がれた上で滅亡したが、倭彦王は息子に于山国王位を譲った後で日本にきていたのだろう。)
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Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な一介の町人です。そして佐久間靖之先生の主宰されていた「古事記に親しむ会」の常連メンバーでもあります。「古事記に親しむ会」は今も存続して浅草橋&世田谷代田で活動しています。

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