↑のつづき。
さて、阿波徳島の旅四日目。
徳島県西部、美馬(みま)市にやってきた。
美馬市ホームページより↓
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美馬市は、2005(平成17)年3月1日に
旧美馬郡内の脇町、美馬町、穴吹町、
木屋平村が合併してできた、
豊かな自然と数多くの文化財が残る
歴史情緒あふれるまちです。
徳島県の西部(県都徳島市から約40km)に
位置し、西側が三好市、美馬郡つるぎ町と、
北側が阿讃山脈の山頂で香川県と、
東側が阿波市、吉野川市、名西郡神山町と、
南側が那賀郡那賀町と接しています。
市のほぼ中央を東西に
四国三郎「吉野川」が流れ、
穴吹川など幾多の川が吉野川に流れ込み、
その沿岸の平野部が主な
可住地となっています。
北側の阿讃山脈、南側の剣山をはじめ、
ほとんどが山地で、総面積の約8割が
森林となっており、清らかな水と豊かな緑に
囲まれた自然の美しい地域です。
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この説明だけで、
自然豊かな良い町ということが
おわかりになるはずである。
旧美馬郡。
美馬地区に初めて宮居を定めた天皇が
『美馬城入彦(ミマキイリヒコ)』。
第10代崇神天皇のことである。
まだ昨日の雪が残ってる美馬市。
『史跡のあんない』↓
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八幡古墳群
八幡1号墳、八幡2号墳、八幡3号墳と
大国魂古墳(3基、開口しているのは1基)の
6古墳群である。
太鼓状に胴の張った形と
穹窿式(アーチ型)の天井構造をもつ、
段の塚穴型石室分布の西端にあたる。
6世紀後半の比較的小規模な円墳で、
八幡1号墳と大国魂古墳は石棚をもっている。
大国魂古墳は石室が正方形で石棚をもち
段の塚穴型石室をもつ古墳の中で
最古のものではないかといわれている。
倭大国魂神社 八幡神社の社叢
倭大国魂神社は、延喜式内社の
倭大国玉玉神・大国敷神(二座1社)にも
比定されている古代からの神社であり、
中世には重清城主の小笠原氏に崇敬された。
八幡神社は、鎌倉時代末期に
小笠原長親が重清城を築いた時に、
京都石清水八幡宮の分霊を勧請し、
源氏であった小笠原氏の守護神、
武神として祭られ、明治には郷社となり、
現在も重清の村人たちの氏神、
鎮守の神様として崇敬されている。
八幡神社と109段の石段で結ばれる
大国魂神社の境内は昼なおくらき、
うっそうとした森(社叢)である。
樹齢数百年、太さ5~6メートルの
クスの巨樹をはじめ、ムク、エノキ、
カヤ、ケンボナシ、ナギ、ウラジロガシ、
コルククヌギ、ヤブツバメ、
アカメガシワ、ヒサカキ、シイカシなどの
常緑広葉樹と落葉広葉樹が混生し、
中間温帯林と暖温帯林の接点をなす
樹相をみせていて、
樹林の美しさだけでなく
学術的にも貴重である。
重清城跡
承久の乱後、阿波に入部した
小笠原氏の2代守護長房の孫長親が
鎌倉時代末期にこの地にやって来て
築いたのが重清城である。
前に断崖、背後に讃岐山脈をひかえた
大地の上に、北と西を城ヶ谷川でさえぎり、
東と南を土堀とその外側の
二十堀に守られた約30アールほどの
本丸があり、井戸や土塀、二十堀が
遺構として残っている。
吉野川上流から下流への
交通の要衝にある難攻不落の大城で、
戦国時代、土佐の長宗我部元親の
阿波侵寇の時は、2度にわたる攻防があり、
天正6年、当時の城主小笠原豊後守長政と
その長子を謀略にかけ暗殺した。
その後一旦は阿波方に戻ったものの
再び落城、廃虚の道をたどった。
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鳥居の扁額は『八幡神社』。
阿波の青石で造られたであろう
『猿田彦大神』の石碑。
立派なクスノキ。
クスノキの前には
阿波特有の『地神塚』。
五角形というよりは、
自然の形を活かしている。
こういう地神塚も好き。
『八幡神社』。
鎮座地 徳島県美馬市美馬町八幡
祭神 応神天皇 神功皇后 姫大神
別名 重清八幡神社
鎌倉時代末期、
重清城築城の際に
京都石清水八幡宮の分霊を勧請し、
重清城の守護神として奉祀したことに
始まったとされる。
重清城は、1578年に
四国平定のため阿波に侵攻してきた
長宗我部元親率いる土佐勢と、
阿波方との合戦の地となった場所である。
拝殿。
拝殿からの景色。
横にはクスノキ。 御神木かな。
横から本殿。
さらに奥に進むと石段が見える。
『倭大国魂神社』ののぼりもある。
この先が今回の目的地だ。
石段の途中から見る八幡神社本殿。
石段を登ると鳥居が見えてきた。
扁額は『倭大國魂神社』。
阿波徳島の旅四日目。
その一社目はここしかないでしょう。
拝殿。
式内社 阿波国美馬郡
倭大国玉神大国敷神社二座 論社
『倭大国魂(やまとおおくにたま)神社』
鎮座地 徳島県美馬市美馬町字東宮ノ上
創健 不詳
祭神 大国魂命 大己貴命
由緒書き↓
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由緒は不詳だが、平安時代の
『延喜式』神名帳の美馬郡条にある
[倭大国玉神大国敷神社二座]に
比定される古社で、
大国魂命・大己貴命を主祭神とする。
その御神像は、高さ一尺ほどの剣を
杖きて立つ神人の木像で、
厨子の背後には、[大島郷倭大国魂神社]
の墨書があると言う。
小笠原氏が崇敬した神社でもあった。
『日本書紀』の第10代崇神天皇紀6年に
「天照大神・倭大国魂、二神を
天皇の大殿の内にお祀りしたとある。」が、
『延喜式』で[倭大国魂]を冠する神社は
他になく、[倭大国魂]との
強い関係性が窺える。
境内には、古墳時代後期(6世紀)の
3基からなる大国魂古墳群が築かれ、
開口する横穴式石室(全長4.6m、高さ2.2m)
をもつ1基が「大国魂古墳」で、
段の塚穴型石室の中でも
最も古い特徴をもつと考えられている。
神社北側の吉水には[吉水遺跡]があり、
弥生後期の住居7軒と東西9間・南北3間の
掘立柱建物跡等が発掘されている。
今後の周辺域の発掘によって、
「倭大国魂神社」を成立させた集団の
様子が明らかになってくるであろう。
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神紋は『梶の葉紋』。
元駐日イスラエル大使エリ・コーヘンが
この神紋を見て『メノラー』と
似ているといったのだそうな。
まあ、今はその話は置いておこう(笑)
『古語拾遺』には、
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天富命が天日鷲命の子孫を率いて、
阿波国を開拓、穀(梶)・麻の種を植えた
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とあり、梶の葉紋には
阿波忌部との深い繋がりを
感じるとともに、大国主がそもそも
天日鷲命だとする説もあるのだ。
天日鷲命は『梶』と『麻』の神。
諏訪大社の神紋に『梶』が
用いられていることも、
祭神の建御名方神が大国主の子であり、
元諏訪と呼ばれる式内社が
阿波徳島に鎮座していることで
説明がつくのではなかろうか。
横から本殿。
式内社『倭大国玉神大国敷神社二座』の
論社はここ以外に二社ある。
『医家(いげ)神社』
鎮座地 徳島県三好市池田町マチ
祭神 大国主神 少彦名神
『倭大國敷神社』
鎮座地 徳島県美馬市脇町拝原
祭神 倭大国魂命 大国敷命
各社の祭神を見るに、
倭大国魂神=大国主神
倭大国敷神=少彦名神かとも思うが、
『医家(いげ)神社』に比定している
『阿波式内神社考』では↓
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倭大国魂ノ神ニテ大己貴トハ別神ナリ
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という説も併せて記載されている。
いずれにせよ、
『倭(ヤマト)』の名を冠する社は
阿波にしか存在せず、
『大和(オオヤマト)』とは
区別して考える方が良さそうである。
阿波徳島から程近い淡路島には
淡路国二宮『大和大国魂神社』が
鎮座しており、5世紀頃、
大和国山辺郡の大和坐大国魂神社を
勧請したと考えられている。
勧請元と云われる奈良県の式内社
『大和坐大国魂神社 三座(現 大和神社)』。
※前提として、
「大和」の読み方は元々
「オオヤマト」であり、
「坐」とは元宮から遷したことを意味する。
式内社としての社名の読み方は
ちゃんと「オオヤマト」と記されている。
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第5代孝昭天皇の御代、
倭大国魂神は天照大神と同殿共床で
宮中に奉斎されていたが、
崇神天皇即位5年に流行した
疫病を治めようとした天皇は
翌年に天照大神と倭大国魂神を
宮中の外に出すことにした。
天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑へ、
倭大国魂神は渟名城入媛命に託したが
失敗に終わる。
崇神天皇即位7年、
倭迹迹日百襲姫命ら三人の夢に
同内容のご神託があり、
大物主神を大田田根子に祀らせ、
倭大国魂神は
市磯長尾市(いちしのながおち)に
祀らせたことで
ついに疫病は終息した。
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太田田根子は大物主神の直系。
問題は、同じく
倭大国魂神(大国主?)の血を引く
市磯長尾市である。
奈良の大和坐大国魂神社を
代々祭祀してきたのは『大倭直氏』。
「新撰姓氏禄」によると、
大倭直氏は神武東征の時、
水崎案内者として登場する
海人族の『椎根津彦(しいねつひこ)』を
祖とする一族。
奈良の大和神社の境内にある
祖霊社の祭神は大国主神と椎根津彦とも
云われている。
ところが、
倭大国魂神の直系である市磯長尾市と、
椎根津彦の系図は繋がってはいない。
市磯長尾市は第5代孝昭天皇の御子
天足彦国押人命の末裔に当たる。
つまり、
倭大国魂神を祖とする市磯長尾市は
大倭直氏の祖ではない。
※孝昭天皇(ミマツヒコ)を祀る
佐那河内村の御間都比古神社↓
一方、大倭直氏の祖
椎根津彦(ウズヒコ)は
速吸門(鳴門海峡)を支配した海人族。
※ウズの神名は渦潮から。
椎根津彦は神武天皇の命により、
大倭国造を任され、奈良で大倭の祖となり
その子孫が大和神社の祭主になっている。
『倭(イ)(ヤマト)』と
『大和(大倭)(オオヤマト)』は
明確に区別しなければならない。
そして、
この倭大国魂神社が鎮座するのは
美馬(ミマ)。
崇神天皇の諱は
御間城入彦尊(ミマキイリヒコ)。
崇神天皇に命じられ、
神祭の供物を準備し、
大田田根子を大物主大神の祭主にし、
市磯長尾市を倭大国魂神の祭主にした人物
伊迦賀色許男命(イカガシコオ)は、
崇神天皇の母伊加賀色許売命(イカガシコメ)
とともに、
吉野川市川島町桑村に鎮座する式内社
『伊加加志(いかがし)神社』に
祀られている。
大田田根子(オオタタネコ)は、
古事記では、美努(みの)村で見つかった。
倭大國魂神社のすぐ西隣には
三好市三野(みの)町があり、
吉野川対岸の地名が
つるぎ町貞光太田(オオタ)❗
さらに、大田田根子の母神
『鴨部美良姫命』。
高知県香美市香北町に鎮座する
式内社『大川上美良布神社』。
主祭神は大田田根子命だが、
配神には美良比売命が祀られている。
徳島と同じ四国なのだ。
そして、
崇神天皇が豊鍬入姫命に託して
天照大神を祀らせた
『倭の笠縫邑(かさぬいむら)』は、
その地名から見るに
笠作りを中心とした村だったはずである。
倭大国魂神社と同じく
美馬市の式内社
『天都賀佐比古(あまつかさひこ)神社』。
この一帯は古くから
和傘(ワガサ)の名産地であり、
周辺には多くの古墳が見つかっている。
崇神天皇にまつわる地名や史跡が
山のように残されている旧美馬郡周辺。
崇神天皇は美馬の地名に繋がる
美馬城(ミマキ)王子だったのだ❗
倭大国魂神社は阿波徳島の美馬にしか
存在しない全国一社なのである。
雪に埋もれる『大国魂古墳』。
段の塚穴型石室の中でも
最も古い特徴をもつと考えられている。
定説では、
奈良大和の大神神社周辺に
崇神天皇にまつわる神社が
集められている。
ちなみに、
大神神社の境外摂社『率川阿波神社』の
祭神事代主神は、
「阿波から勧請された」と
由緒に書かれている↓
率川阿波神社の祭神は
大神神社の御子神とされており、
祭神の事代主神は
奈良市内最古のエビス様と云われ、
その正体は厳(イツ)之事代神。
その父神こそが積羽八重事代主命。
別名を大物主神と呼ぶ。
大神神社の祭神である。
長ノ国の大王の系譜事代主神。
市磯長尾市にも
その血が流れていることは
いうまでもない。
恒例の「狛犬の見る景色」。
美馬市の神社は
のっけからとんでもなく面白いですよ
皆さん❗
日本を生んだ女神が
ついに登場する。
つづく。
ではまた❗
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