タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2023-05-28 (Sun) 16:24

伊野線鏡川橋停留場 複線と単線の境界を守る当務駅長

鏡川橋電停a01

高知県は高知市本宮町にある、とさでん交通の鏡川橋(かがみがわばし)停留場。
すぐ南側に細藪山を水源とする鏡川が流れ、そこに電停名の由来である鏡川橋が架かっています。
電停の所在地である本宮町(ほんぐうちょう)には、熊野本宮大社の分社に当たる「本宮神社」があります。
本宮神社は1519年に秦氏親(はた・うじちか)が大願主となり再建した神社で、熊野本宮の象徴である3本足の八咫烏(ヤタガラス)を絵馬や提灯に描いています。

その境内にはもう一つ、「八頭神社」の神殿を併設しています。
この神社の起こりは1560年、長宗我部の軍勢に討たれた鴻ノ森城の武将8人の首を埋め、祠を作り祀った事によるそうです。
地域の人々は8つの頭から「八頭様」と呼び、頭の病気をはじめ様々なご利益があるとして多くの参拝者が訪れました。
しかし近年は神社の維持・管理が難しくなり、2015年6月24日に本宮神社の境内に遷座したという訳ですね。

現在の本宮町は長閑な住宅地です。
電停の至近には高知自動車学校があり、最短14日で卒業できる「短期取得コース」、県外から帰省する大学生などを対象とした「夏休み短期コース」を設けています。
北側にも旭小学校、高知開成専門学校、高知特別支援学校・・・と学校が集まります。
隣の長尾山町にはJR四国土讃線の高知商業前駅があり、鏡川橋電停との距離は330mほどです。


JR四国 国鉄 土佐電鉄 土佐電気鉄道 鏡川橋駅 鏡川橋停留所 運転取扱業務
鏡川橋電停a03

1905年12月5日、とさでん交通の前身に当たる土佐電気鉄道が高知市本町乗出~吾川郡伊野町字坊ヶ崎間の軌道敷設免許を取得しました。
伊野町字坊ヶ崎は現在の伊野電停がある場所で、この免許取得から伊野線の敷設工事が始まったのです。

そして1906年10月9日、乗出(現:グランド通)~鏡川橋間が開業。
単線での敷設で、鏡川橋電停は延伸区間の終点として開設されました。
この敷設に当たり県道松山線(現:国道33号線)の拡幅工事を必要としたため、立ち退きを懸念した住民達による過激な反対運動も起きたといいます。

なお、当時は堀詰~乗出間を「本町線」と称し、乗出~鏡川橋間は「伊野線」の第一期工事区間という位置づけでした。
現在は堀詰~乗出間も伊野線に組み込まれています。

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 川島新体制の課題は伊野町までの軌道延長であった。明治27年、“田辺新道”と呼ばれた県道松山線は田辺良顕知事の献身的な努力で完通したが、升形から本町筋五丁目までは道幅は僅か3.6㍍、馬車の通行がやっとという有様だった(注=以前は本町筋の南、通町が上の新地を抜けて伊野町など西部に通じる往還であった)。伊野町まで軌道を延ばすためにはまず升形―五丁目間の道路を広げねばならなかった。道路拡張には人家の立ち退き、移転を必要とした。「水通町の中を貫流している小川の上に枕木を移し、その上に軌道を敷いて電車を通せばよいではないか」関係住民の間から、そんな声も聞かれたが、立ち退きに反対する一部過激派は升形に住む松村取締役宅に投石するなどの過激な行動に出た。
 土佐電鉄では県と協議、本町筋の各戸について実測を行った結果、多くの家は敷地の奥行きに余裕があり、南北それぞれ3.5㍍内外人家を後退させればよく、移転させねばならない戸数は少ないことが分かった。そこで社では道路の拡張工事費、補償費として5万円(注=のち複線化工事の際、さらに7万円を寄附)を県へ寄附、県道松山線の改良工事として県の管理でこれを実施することに決定、39年4月末、第一期工事(乗出―鏡川橋間軌道敷設)に着手した。五丁目までの工事は難航したが、それ以西は、ほとんどが田畑であったため用地の買収は比較的スムーズに運び同年10月9日、乗出―鏡川北詰め間を単線開通、五丁目電車通り北側に電車車庫を設けた。

《出典》
土佐電気鉄道株式会社(1991)『土佐電鉄八十八年史』p.p.76,77
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鏡川橋電停a04
伊野線の「鏡川上ノ橋」を渡り、桟橋(現:桟橋通五丁目)に向かう18号電車
土佐電気鉄道株式会社(1991)『土佐電鉄八十八年史』p.77より引用

土佐電は続いて伊野線の第二期工事(鏡川橋~伊野間)に着手。
当該区間では工事が完了した区間から順次開業する事とし、1907年9月16日には鏡川橋~咥内間が単線で開業しました。
この敷設に際し、鏡川橋の脇に電車専用の鉄橋として「鏡川専用鉄橋」を架設しています。

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 二期工事は引き続き行われ40年9月16日鏡川橋~咥内間(咥内坂東)が開通した。同年6月6日付土陽新聞は工事の進行状況について「本工事に使用する材料は買収を終へ大半其使用の箇所に運搬し又縣道を擴築し、又専用軌道に要する敷地は全部買収を終へたり。鏡川上ノ橋(注=鏡川専用鉄橋)架設工事は大半を終り目下軌道敷設中なり、而して上島橋、枝川橋改築工事竣工、咥内坂前後専用軌道掘さく築堤工事は全部の半以上を終了、上ノ橋南詰縣道より土佐郡朝倉村字咥内に至る間の大部分は軌道を敷設せり」と報じている。

《出典》
土佐電気鉄道株式会社(1991)『土佐電鉄八十八年史』p.78
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鏡川橋電停a05
桟橋線の鉄橋だった「鏡川下ノ橋」
土佐電気鉄道株式会社(1991)『土佐電鉄八十八年史』巻頭カラーp.20より引用

ところで「鏡川上ノ橋」という通称ですが、これは下流に「鏡川下ノ橋」が存在した事に由来します。
鏡川下ノ橋は桟橋線堀詰~梅ノ辻間(1906年4月6日開業)にあった鉄橋で、正式名称は「潮江専用鉄橋」といいました。
鏡川下ノ橋は1928年8月10日、はりまや橋~梅ノ辻間への線路切替に伴い役目を終えています。
この線路切替は国鉄高知駅と潮江橋を結ぶ道路の拡張・新設工事に合わせたもので、切替後の潮江橋は併用軌道となりました。



鏡川橋電停a02

鏡川橋電停の話に戻りましょう。
伊野線は1907年11月7日、枝川~伊野間が飛び地的に開業。
それから3ヶ月後の1908年2月20日、咥内~枝川間の延伸開業によって第二期工事区間が全通しました。
同時に伊野町方面と桟橋を結ぶ貨物輸送が開始し、土佐電と船舶の連携によって京阪神への積出、到着貨物の配達ともに迅速化しました。

1945年7月4日、高知市空襲によって土佐電も車両・諸施設に甚大な被害が及び、路面電車網は壊滅状態に陥りました。
同年7月21日からは御免町~伊野間で代行バスを運行。
終戦直後の8月18日に本丁筋五丁目~伊野間が復旧し、鏡川橋電停での客扱いも再開しています。

1946年12月21日、南海大地震で若松町電車車庫に浸水し、電車33両が水びたしになりました。
伊野線も本丁筋五丁目~伊野間が運休となりましたが、2日後の12月23日に運行を再開しています。

1948年6月1日、鏡川専用鉄橋の架け替え工事が竣工。
初代鉄橋の橋桁は暫く残り、看板を取り付け広告塔として活用されました。



鏡川橋電停a06

1956年4月21日、鏡川橋電停の北側に「鏡川橋変電所」が開設されました。
土佐電としては初の無人変電所です。

1958年10月1日、伊野線蛍橋~鏡川橋間が複線化。
同時に知寄町車庫前(現:知寄町)~鏡川橋間が「市内線」となり、これまで蛍橋電停で折り返していた市内線電車が全て鏡川橋の発着に変わりました。

1958年10月21日、鏡川橋電停に待合所を新築し使用開始。
これと引き換えに蛍橋電停の待合所を廃止しています。



鏡川橋電停a07

1971年5月5日、鏡川橋~鴨部間で伊野発知寄町行き電車(200形203号車)と知寄町発伊野行き電車(200形205号車)の正面衝突事故が発生。
重軽傷者66人を出す事態となりました。
鴨部電停の西側には交換設備を備えた鴨部市場前電停(現在は待避所)があり、本来は知寄町行きが伊野行きを待ち合わせ、通票交換をしてから出発する事になっていました。
しかし知寄町行きの運転士は待避を失念して鴨部市場前を通過し、単線に進入。
鏡川橋南詰のカーブに差し掛かった所で伊野行きと正面衝突し、更にブレーキが壊れて後方のダンプカーにも衝突したのです。
土佐電は事故の反省で同年12月15日、鏡川橋~鴨部市場前間を特殊自動閉塞化しています。



鏡川橋電停a11

1972年12月31日、RKC高知放送が600形615号車をチャーターし「サヨナラ72」企画の一環として「73年は電車に乗ろう」を放送。
郷土史家・橋詰延寿さんを交えて知寄町~鏡川橋間で撮影しました。
当時はモータリゼーションの直撃で土佐電が乗客減に喘いでおり、この番組も路面電車の利用促進を狙ったものだったようです。

1973年6月4日、鏡川橋梁北詰の軌道一部移設工事が認可されました。



鏡川橋電停a08

1977年8月2日、ダイヤ改正に伴い鏡川橋~朝倉間に備えた特殊単線自動閉塞装置の保安区分を鏡川~鴨部市場前間、鴨部市場前~朝倉間の2保安区分に改めました。
書籍『土佐電鉄八十八年史』の年表によると鴨部市場前待避所の復活に伴う処置だといいますが、いつから同待避所が使用停止となったのか、いつ朝倉電停まで特殊自動閉塞区間が延伸したのかは一切記述が無く不明です。

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昭和52年(1977) 8.2
軌道 伊野・朝倉線増便(伊野線は21分間隔を20分に 朝倉線はラッシュ時のみ7分~12分間隔で運転していたものを7時台~18時台運転とする)
このため枝川待避所を八代通に移転 鴨部市場前待避所を復活 また鏡川―朝倉間の特殊単線自動閉塞信号装置の保安区分を鏡川橋―鴨部市場前 鴨部市場前―朝倉間の2保安区分とする

《出典》
土佐電気鉄道株式会社(1991)『土佐電鉄八十八年史』p.568
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ただし『土佐電鉄八十八年史』の年表には「昭和47年(1972) 10.6 軌道 枝川停留所行き違いのため待避線設置工事認可」(p.550)ともあります。
1972年10月6日は鴨部市場前停留場が客扱いを停止した日だというので、これに伴い枝川電停に待避線を新設したという事なのでしょう。
すると鴨部市場前の待避線は4年近く使用停止の状態だったと考えられますね。



鏡川橋電停a12

1979年5月8日、鏡川橋の架け替え及び南北取り合わせ箇所の軌道移設工事が完成。
3代目となる鏡川専用鉄橋は2つの車道橋に挟まれています。

1979年7月10日、鏡川橋電停の安全地帯に水はね防護柵を設置。
1981年9月7日、伊野線鏡川橋~伊野間のき電線増設工事が完了しました。

2010年8月には安全地帯のバリアフリー化工事が完成。
横断歩道脇の段差をスロープに改良した事で、車椅子の乗降が改善されました。

2014年10月1日、土佐電気鉄道、高知県交通、土佐電ドリームサービスの3社が経営統合し「とさでん交通」が発足。
鏡川橋電停も同社に引き継がれています。



鏡川橋電停a14

併用軌道にありながら立派な「駅舎」を設けた鏡川橋電停。
先述したとおり1958年10月21日に竣工した待合所ですが、実は駅務室を併設した「有人駅」なのです。
駅務室には2人の社員が常駐し、「駅長」と「配車係」の業務を交代で行なっています。
なお、とさでん交通の社内に「駅長」の職名は存在せず、実際には「助役」が駅長業務に当たっています。

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 鏡川橋は土電で唯一の有人駅となってしまった。路面電車で「駅」というのもおかしいと思われるだろう。実際、社内でも職名上は「助役」だが、「駅長」のほうが通りが良い。かつては後免町、知寄町、朝倉、伊野などで「駅長さん」が見られた。終点であったり、折り返し点だったり、重要な場所に配置されていたのである。細かく言うと今でも後免町には朝と夜だけは居るのだが、電停と離れていて人目に触れることは少ない。

《出典》
土佐電鉄の電車とまちを愛する会(2006)『土佐電鉄が走る街今昔』(JTBパブリッシング)p.38
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鏡川橋電停a20

長らく土佐電で唯一の有人駅だったという鏡川橋電停ですが、2019年3月25日からは朝倉電停と八代待避所の「駅長」が復活しました。
同日に保安方式違反があり、朝倉交差点であわや正面衝突寸前の事態が起きたからです。
伊野線の朝倉~八代間では通票式(スタフ閉塞)を施行しており、当該区間を走行するには通票の携帯が必要となります。
しかし、伊野行き電車の運転士は対向電車の到着を待たず、通票を持たないまま朝倉電停を出発してしまいました。

当時、朝倉電停では駅舎工事を実施しており、軌道信号機の電源が断たれた状態でした。
そのため鏡川橋~朝倉間では特殊自動閉塞装置を停止し、指導法による代用閉塞を実施していました。
運輸安全委員会は事故の一因について「鏡川橋停留場の駅長が保安方式を通告した後、基本である復唱を運転士にさせるなどの通告内容の相互確認が行われなかった」との見解を示しています。
そして運転士は「朝倉~八代間でも指導法が続行されている」と勘違いし、朝倉電停で電車を進出させてしまったのです。

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(4) 本件駅長
 宿直で朝から鏡川橋停留場の駅長業務をしていた。8時30分ごろ、指令から電話で、「予定どおり9時30分から、鏡川橋停留場~朝倉停留場間の保安方式を特殊単線自動閉そく式から指導法に変更する」との連絡があったので、鏡川橋停留場を9時32分に出発する伊野停留場行き車両から指導法による保安方式を施行した。配車係と駅長業務を二人で交代しながら行い、11時ごろから駅長業務を行っていた。
 11時40分ごろ、本件車両が鏡川橋停留場に到着した。本件運転士は指導法が初めてのことだから分からないと思い、指導票と運転通告券(2.4.2.2参照)を渡すとともに、「朝倉まで指導法なので、軌道信号は点かないこと、帰りも軌道信号は点かないのでこちらから合図を出すこと、分からなかったら無線で確認すること」を指示した。本件運転士から「分かりました」との返答があったので、理解したものと思い、本件車両が出発した後に駅務室に戻った。
 しばらくすると、本件運転士から指令に「誤って朝倉停留場を過ぎて朝倉駅前停留場まで来てしまいました」と無線連絡が聞こえたので、直ちに、無線で本件対向運転士に停止するよう指示したが応答はなかった。その直後、指令より本件対向運転士に停止を指示する無線連絡が聞こえたので、直ちに現場に向かった。

《出典》
運輸安全委員会(2022)『鉄道重大インシデント調査報告書』(発生日時:平成31年3月25日11時47分ごろ)p.p.5,6
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八代待避所は2021年1月9日、ダイヤ改正で行き違いが無くなったため駅長の配置を終了。
朝倉電停は引き続き駅長を配置しています。



鏡川橋電停a15

鏡川橋電停a16

待合室の様子。
狭いですがベンチ、トイレ、手洗い場・・・と必要最低限の設備が揃っています。
隣の駅務室からは社員達の会話が聞こえてきました。



鏡川橋電停a17

室内には整形外科のレトロな広告看板があります。



鏡川橋電停a18

こちらはとさでん交通が制作した、地震発生時の安全行動を示した注意書き。



鏡川橋電停a10

鏡川橋電停a19

駅舎の玄関脇にはバス停を設けており、自社の路線バスが発着します。
待合室は電車の乗客だけでなく、バスの乗客も利用します。



鏡川橋電停a13

安全地帯は上り線(はりまや橋・御免方面)が1面、下り線(朝倉・伊野方面)が2面の合計3面を設けています。
構内中間に渡り線を敷いており、市内線電車の折り返しに使用しています。


鏡川橋電停a23

鏡川橋電停a24

鏡川橋電停a21

鏡川橋電停a22

構内東側は2面の安全地帯が向かい合っています。
「鏡川橋」と電停名を掲げた方が上り線(はりまや橋・御免方面)の乗り場。
反対側は下り線(朝倉・伊野方面)の降車専用ホームです。
ホーム全長は結構長く、12m車が4両は収まるくらい容量があります。



鏡川橋電停a26

鏡川橋電停a27

鏡川橋電停a28

鏡川橋電停a33

こちらは下り線(朝倉・伊野方面)の乗り場。
くねくねとスラロームを描いています。
「7~8両は収まるんじゃないか?」と思うほど、かなり長い安全地帯です。



鏡川橋電停a29

スラロームの西端にはY字の分岐器。
ここから先は郊外型の単線区間となり、市内線とはガラリと景色が変わります。



鏡川橋電停a25

上屋は降車専用ホームを除き設置しています。



鏡川橋電停a30

下り線乗り場に停車する200形214号車。
伊野行きの電車は「いの」と書かれた赤い行先表示板を掲げます。


駅長 駅員 鏡川橋駅 駅舎 駅事務室 運転取扱業務
鏡川橋電停a31

朝倉・伊野方面行きの出発には駅長が立ち会います。
駅務室から出ると挙手しつつ手笛を鳴らし、運転士に出発指示合図を送ります。
とさでん交通には駅長専用の制帽が無いため、駅長も一般の運転士と全く同じ制帽を被ります。

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 駅長さんの仕事は忙しい。始発から終電まで、暇無くやって来る電車の番号を見て、運転整理を行う。夜は6両の電車が隣の蛍橋車庫で泊まるが、入庫の時間になるとポイントの切換にも出向く。
 もう一つ重要な仕事がある。ここからは単線になる。ここから先へ行く電車は、鉄道のように駅長の合図で発車する。後ろから「鏡川橋」止め電車が近づいて来る。その運転士が手を振る。乗り継ぎ客が居ない合図である。すると駅長さん、頭上の信号機を確認して、「ほいたら行こうかぁ~」と言い、笛を吹く。片手が挙がるといよいよ発車である。この光景、いつまで見られるだろうか・・・・・・。

《出典》
土佐電鉄の電車とまちを愛する会(2006)『土佐電鉄が走る街今昔』(JTBパブリッシング)p.p.38,39
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鏡川橋電停a32

ホーム上の駅名標。




※写真は特記を除き2023年5月4日撮影

最終更新日 : 2023-07-02

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