警醒
血のように赤い月が瞬く空。
見渡す限り草木のない不毛な大地。
魑魅魍魎の棲む異界の地、そこに見慣れぬ建造物が築かれていた。
長大な城壁──ヒトの世界で喩えるなら万里の長城。
侵略者を阻むため積まれた壁の随所に射眼が設けられている。
一定間隔に塔が築かれ、城壁の上には複数のカタパルトが確認できた。
この城壁は、インクブスが災厄を食い止めるため築き上げた防衛線の一つだ。
「なぁ……」
ボウガンを携えた矮躯のインクブスは、眼下の荒野から隣に立つ同志へ視線を移す。
傷が刻まれた浅緑の肌、先端の欠けた耳。
それは彼が歴戦のゴブリンであることの証左。
「どうした?」
「そろそろ交代の時間じゃねぇか?」
2対の視線が城壁に付随する塔へと向けられる。
そこはインクブスの戦士たちが身を休める居住塔であった。
「ユリエフたちは前の防衛戦で駆け回ってたからな……仕方ねぇ」
そう言って同志は塔から城壁の下へ視線を落とす。
壁面には無数の擦過痕が走り、随所に欠損が見られる。
この防衛線に配されたインクブスたちは、災厄の攻勢を2度も退けていた。
疲弊していない者などいない。
「でもよ、決まりだろ?」
「…まぁな」
だからこそ、公平でなければならない。
不公平を許容すれば、その歪は取り返しのつかない結果を生む。
ゴブリンの戦士は互いに頷き合い、片方が踵を返す。
「ジルド、交代を呼びに行ってきてもいいか?」
そして、擲弾の束を集積する屈強なオークへ声をかける。
彼はカタパルトの指揮を任された優秀な戦士であり、戦友であった。
「俺も行こう」
作業の手を止め、オークの戦士は同行を買って出た。
防衛線で上の位に当たる者がいれば、無用な揉め事を起こさずに済む。
そういう判断だった。
「助かるぜ」
「おう」
それを理解した矮躯の戦士は拳を突き合わせる。
死闘を生き延びた彼らは、種を超えて連帯していた。
肩を並べて歩く異種のインクブスが居住塔へ足を踏み入れる。
静寂──塔の内部は、静まり返っていた。
隷属したウィッチが防衛戦に組み込まれてから、居住塔は体を休めるだけの場所となった。
ヒトの雌が許しを請い、泣き叫ぶ声は聞こえない。
「…静かなもんだぜ」
階段を下るゴブリンは、退屈そうに鼻を鳴らした。
娯楽のない日々は着実に士気を削いでいくが、それもやむを得ない。
今は種の存亡をかけた絶滅戦争の最中なのだ。
居住塔の中層に辿り着いた戦士たちは、同志が寝床としている部屋の前で足を止める。
「おい、ユリエフ」
乱雑に扉を叩き、同志の名を呼ぶ。
しかし、反応がない。
「交代の時間だぞ」
扉を叩く音が廊下に虚しく反響する。
「なんだよ、寝てんのか?」
「待て」
不用意に扉を開けようとしたゴブリンを逞しい腕が制止する。
険しい表情を浮かべたオークの戦士は、右手を腰へ回す。
「妙だ」
躊躇なく小振りのアックスを手に取り、臨戦態勢に移る。
一気に緊張感を帯びる空気。
異様な静寂──生者の気配を一切感じない。
傍らに立つゴブリンもナイフを構え、腰のポーチから擲弾を取り出す。
2対の眼が扉を睨みつけ、最悪に備える。
「行くぞ…!」
オークの重い蹴撃で扉を破り、室内へ踏み込む。
蛮行によって破壊された扉が床に倒れ、
「うっ!?」
踏み込んだ戦士たちを異臭と激痛が襲う。
堪らず後退る彼らが見たものは、外皮の爛れた同志たちの骸だった。
顔面を押さえ、血の泡を噴きながら硬直している。
「こ、これぁ……ぐぁ…かっ…」
矮躯の戦士は膝から崩れ落ち、石造の床で喉を押さえて蹲った。
まるで姿の見えぬ敵に喉を掴まれたかのよう。
「くっ…!」
咄嗟に口と鼻を覆ったジルドは、戦友の救出を断念せざるを得なかった。
室内に充満する異臭の正体は、毒。
その根源は──災厄の卵だ。
毒の霧は、同胞の骸に生える楕円形の卵から漏れ出していた。
その場に留まることは死を意味する。
「くそ!」
白煙を振り切り、居住塔から城壁内の回廊まで脱出するジルド。
短時間の曝露であっても外皮は変色し、眼には強烈な痛みが残っている。
「何があった、ジルド!」
ただならぬ様子のジルドに駆け寄るのは、この城壁のゴブリンを束ねる長だった。
周囲の戦士たちも異常事態が発生したことを瞬時に察する。
それぞれが得物を手に取り、居住塔へ通じる入口前に集い出す。
「敵襲か?」
「ぜぇ…はぁ……毒だ、毒の霧──」
ジルドが顔を上げた瞬間、ゴブリンの首を
攻撃、奇襲、敵襲──されど、インクブスたちは動けない。
漆黒の針が微かに震え、独りでに
それは曲がることによって圧力を伝え、硬い殻を突き通す工夫だ。
「な、にぃ、が…」
コバチ科にはイチジクに寄生する種が存在し、名をイチジクコバチという。
彼女たちは硬いイチジクの表面に穴を穿ち、卵を産みつける。
それを模倣したファミリアは石の壁とて貫く。
「あっが、あぁあ!」
産卵管より送り込まれた卵が外皮の内へ潜り込む。
白目を剥き、口から泡を噴くゴブリンの長が床へ倒れ伏す。
突然の凶行に歴戦の戦士も思考が停止していた。
彼らの鼻腔を異臭が刺す──それは居住塔のゴブリンを壊滅させた毒気。
いち早く硬直から立ち直ったジルドは、周囲の同胞たちへ叫ぶ。
「息を吸うな、毒の霧だ!」
刹那、卵より漏れ出した毒が回廊内を侵す。
狩蜂の一種であるギングチバチ科には、卵から一酸化窒素を放出する種が存在する。
それは黴から身を守るためのシステムだ。
「げほっ…ぁ…はっ……」
「く、くがぁ…息が…」
ジルドの警告が届かなかった者を死が襲う。
インクブスという黴を駆逐するため、ファミリアは噴出物の毒性を極端に高めている。
それは外皮を溶かし、眼を潰し、喉から臓物を焼く。
「退避、退避しろ!」
「逃げろ!」
姿の見えぬ敵を退ける術などない。
戦士たちは同胞の屍を見捨て、回廊から逃れるしかなかった。
その混乱を外壁より感じ取る翠の狩人──コバチ科を模倣したファミリア。
母の導きによって高い攻撃性を獲得した彼女たちに原種の面影はなかった。
体長こそ小型だが、長い触角と産卵管から外見はヒメバチ科に近しい。
同期のコマユバチと異なる進化を遂げた狩人は、次なる苗床を探す。
「ジルド、状況はっ!」
怒号と悲鳴に満たされた回廊内で、同族に肩を貸すジルドへ駆け寄る影。
「…アロンツォ」
その者は数多の傷が刻まれた鎧を纏う隻眼のオーク。
混乱を収拾すべく事態の把握に努めている戦士団の長だった。
「壁の外からの攻撃だ……毒の霧で、俺たちを外へ追い立てるつもりだっ」
「毒の霧だと…!?」
隻眼のオークは頬を引き攣らせ、回廊の奥に漂う白煙を鋭く睨む。
この閉所において、毒の霧とは凶悪な殺傷力を発揮する。
災厄のウィッチが従えるファミリアは、日毎に殺戮の手段を洗練していく。
「敵襲ぅぅぅ!」
突如、打ち鳴らされる銅鑼。
積み上げられた石の壁が震え、腹の底にまで重々しく響く。
それが混乱に拍車をかけ、戦士たちの動きを一段と鈍らせる。
「敵襲だと?」
「何を今更……まさか!」
ジルドは同胞と顔を見合わせ、災厄の意図を察する。
毒の霧は攪乱──これより始まるのが主攻。
局所的な攪乱作戦だが、その効果は絶大であった。
防衛線の一部が機能不全に陥った今、突き崩すのは容易だ。
「ジルドはカタパルトの指揮を執れ!」
「おう!」
内と外の両方を同時に対処しなければならない。
オークの戦士は弾かれたように駆け出す。
「虫けらどもは!?」
城壁の上に辿り着いたジルドは、呆然と立ち尽くす同胞の肩を掴む。
しかし、同胞は荒野の異変に目を奪われたまま。
身を焦がすような焦燥感を振り切り、オークの戦士は荒野を睨んだ。
そして──
「なんだあれは……」
全てを理解する。
荒野より彼方に連なる山が頂より黒く染まっていく。
麓まで達した黒は一気に荒野を侵し、城壁へ向かって前進を開始する。
まるで夜が迫ってくるよう──それは異形たちが纏う外骨格の黒だ。
戦士たちは言葉を失い、その場に立ち尽くすしかない。
もはや毒の霧など細事であった。
「だ、大地が動いている…!」
「信じられん…」
足音が地響きとなって城壁を震わせる。
大顎を打ち鳴らし、外骨格の擦れる音で行進曲を奏でる。
獲物を喰らい、膨れ上がったグンタイアリの軍勢──その総数、計測不能。
インクブスが退けた2度の攻勢とは、彼女たちにとって
配された戦力を完全に把握し、城壁の内より狼煙が上がった。
これより母の命に従い、インクブスが築いた防衛線を粉砕する。
◆
断末魔の叫び、骨肉の砕ける音、そして重々しい羽音。
水を撒くように鮮血が飛び散り、不毛な大地に染み込んでいく。
「ぎゃぁぁぁぁ!」
「く、くるぁがぐぇ!?」
敗残兵の末路とは、悲惨だ。
30体から成るスズメバチの編隊は、防衛線より逃れる戦士団を1分足らずで殲滅した。
インクブスの戦士たちは1体1体丁寧に解体され、肉団子へ混ぜ込まれる。
「や、やめっ──」
彼らが幾度と嘲笑ってきた命乞いを、彼女たちは嗤わない。
救いを求める手を二つに断ち、喧しい口を噛み砕く。
黄と黒の警告色を鮮やかな赤が彩る。
「じにだくぅ…げがぁ…!」
最後に残されたオークの眼から光が消える。
その腹部から頭を出し、引っ張り出した臓物を食むスズメバチ。
死の蔓延する荒野──そこで彼女たちは肉団子の製作に勤しむ。
時折、脚に付着した血を舐めながら。
「くそっ…!」
幸運にも彼女たちの追撃から逃れたインクブスもいる。
連なる岩の陰に身を潜め、頻りに空を睨む者。
奇怪な模様を刻んだローブを羽織るケットシーだ。
「あぅ…うっ…!」
その手に握られたリードの先には、衰弱した少女の姿があった。
インクブスに敗れた者──隷属を選んだウィッチの末路。
輝きを失った瞳は淀み、身に纏う装束は血と体液で汚れている。
「おい、まだマジックは使えないのか!」
「や、やすませ、て……」
リードを引かれるたび、首輪を押さえて荒い呼吸を繰り返す。
防衛戦でエナを使い果たし、逃避行によって心身も限界を迎えていた。
鉛のように重い体は、それ以上の前進を拒む。
「役立たずめっ」
焦燥と苛立ちから口汚く罵るケットシーは、なおもリードを引く。
災厄が刻一刻と迫る中、立ち止まるわけにはいかないのだ。
「戦えないなら、また胎を使ってやろうかぁ?」
怒りを嫌らしい笑みで覆い、少女の柔らかな腹に手を置く。
ヒトの雌を優雅に飼う、そんな己に酔うケットシーも本性は下劣だ。
極度の緊張に置かれ続けたインクブスは、雌を前にして獣欲を剥き出しにする。
「ひっ…!」
少女の口から漏れ出す悲鳴。
腹を押さえる手から逃れることはできず、ただ震えるしかない。
ケットシーは獲物を前に舌なめずり──違和感。
獲物へ喰らいつく直前、残された理性が獣欲を抑え込む。
違和感の正体を探り、少女の目を見る。
「お前……」
恐怖に染まる瞳は、
「何を見て──」
背後より迫る硬質な足音。
ケットシーは弾かれたように振り返り、指先より鋭利な爪が迫り出す。
「なっ!?」
しかし、全ては手遅れ。
捕食者は8本の長大な脚を広げ、ケットシーへ躍りかかる。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!」
鋭い鋏角が首筋を貫き、悍ましい断末魔が岩陰を反響する。
すかさず消化液を流し込まれ、地面に倒れ込むケットシー。
必死に手足を振って抵抗するも、捕食者の
抵抗など無意味だ。
「い、いや……」
ケットシーの変色した手からリードが滑り落ち、少女の足下に転がる。
無力な少女は異形の捕食者──アシダカグモの幼体から逃れんと足を引く。
しかし、疲労困憊した体は鉛のように重く、手足は意のままに動かない。
仄かに漂うインクブスの残滓を嗅ぎ付け、少女へ振り向く異形たち。
「ひぃ!」
その眼には敵意も悪意もない。
鋏角を触肢で小刻みに擦り、汚れを落とすアシダカグモの幼体。
新鮮な餌に有りつけなかった幼体は、新たな獲物を求めて動き出す。
「こ、こないで…こないでっ」
言葉の通じぬ異形が迫る。
あらゆる逃避は無意味だとインクブスに凌辱された体が覚えている。
それでも無力な少女は、本能的な恐怖から両腕で顔を覆ってしまう。
「──大丈夫」
異界に吹く風が、淀みを連れ去っていく。
「怖がらないで」
闇に閉じ籠った少女の耳に届く声。
それは理知を宿し、矜持を備えた人間の声だった。
恐る恐る腕を下ろし、涙の湛える目を開けば──息を呑むほど美しい翠が靡く。
荒れ果てた異界の地で、生命力に満ちた翠は希望そのものに見えた。
「この子たちはファミリアです」
金の刺繍が施された翠の装束を翻し、ウィッチは幼子を諭すように優しく語りかける。
彼女の言葉通り、アシダカグモの幼体は少女から離れていくところだった。
「だから、落ち着いて」
すぐ傍らに腰を下ろし、少女と目線を合わせるウィッチ。
その蒼い瞳に浮かぶ慈愛の色は、心折れた少女が求めていたものだった。
押し寄せる安堵感──涸れてしまったはずの涙が溢れ出す。
全身から力が抜け、少女は静かに意識を手放した。
「…おやすみなさい」
壊れ物を扱うように抱き留め、耳元で囁く翠のウィッチ。
そして、微かに翠の燐光が舞う。
マジックの行使──少女に刻まれた傷跡が消え失せる。
安らかな寝息が響く岩陰、食事を終えたアシダカグモの幼体たちが立ち去っていく。
翠のウィッチもまた傷ついた少女を抱え、岩陰より月下へ歩み出る。
「外見だけで判断してはいけない、か……」
血のように赤い月を見上げれば、バルーニングを行うアシダカグモの幼体を捉える。
異界に吹く風を糸で捕まえ、タンポポの種子のように軽やかに飛ぶ。
人類の守護者、ウィッチのファミリアというには、あまりに異質。
「今度は間違わなかったみたいね」
そんな異形のファミリアを蒼い瞳に映し、翠のウィッチは柔らかく微笑む。
まるで女神のように。
「ラーズグリーズ」
活動報告にて第2巻のカバー公開中だゾ(露骨な宣伝)