人生病んで回り道して、得たものは、特に無かった。
2週間連続休日出勤、週3で出張。眠い。休日がとても待ち遠しい。
色々あって、病んで引きこもり、人生回り道してきた。
それで何か得るものがあったかというと、何も無かった。
今までの時間を無駄だと思いたくないから、足踏みしてきた経験に何かしら理由や意味を与える。苦しさから逃れるのに必死だった苦労や、支払ったコストのぶんだけ、何かを取り戻したい。ただ無駄な時間を過ごしたのだと思いたくない。
……みたいな感情は、もう起こらない。
無駄足踏んで、無駄な努力……本来アクシデントがなければやらなくてもいいはずだった努力をして、体力も気力も時間も浪費した、何もかも無駄だったし、奪った者からは何ひとつ取り戻せていない。頑張って頑張って頑張った、でも、何も成果が得られなかった。理不尽さ、思い通りにいかない悔しさ、虚しさ。それを塗りつぶしたくて、過去に何か意味を与えようとする。でも、無駄な苦労や努力で得たものや、過ごした時間を対価に得たものなんて、特に無かった。
結局『人間として出来損ないな私』がここにいるだけだ。何の救いもない。
無駄骨。
それでも生きてみよう、などと明るく希望を持って生きている訳でもない。死ぬのは怖い死ぬのは嫌だと別の自分が叫ぶ、だから死なずにいる。その気になればいつだって死ねる、だから今はとりあえず生きる、を続けている。
何も解決していない。私には何のサクセスストーリーも無いし、勇者も救世主も理解あるパートナーも登場しない。トラウマのひとつも解消されていない。仕事の時は湧き出さないようにひたすら過去の首を絞めて殺し続けているだけだ。気を抜けば溢れる醜いものが全身をみたしている。
人生継ぎ接ぎのキメラのまま、ずっと、だましだましを続けているだけ。
当事者としての特別性みたいなものに、ある種の恐ろしさを感じている。それに固執しないと生きられない怖さ。周囲が無意識のうちに期待を寄せ、コミュニティが加熱し、『当事者としての役割』を一層輝かせ、特別性を加速させる。そうして自滅していく当事者を眺めてきた。
当事者としての特別性を捨てるということは、今までの時間や経験、労力、人生の中で重きを置いてきたものを根こそぎ捨てることだ。捨てて何が残るのか、無力な自分しか残らない。何者にもならなかった、その虚無に耐えられるのか。それでも特別性を手放したいと思えるだけの希望はあるのか。死んだ方がラクではないか。
正直、死んだ方がラクだと思う。
死にたくない怖い、と本能が叫ぶから生きているだけだ。
生き延びていることに深い意味なんて無い。
『過去と他人は変えられない、変えられるのは未来と自分だけ』みたいな言葉を目にするけれど。じゃあ未来や自分を変えよう、などと前向きには思えない。過去や他人を、自分さえも、ずっと恨み憎んでいる。赦せる日が来る気もしない。
ただただ、だましだまし生きているだけ。
人生病んで回り道して、得たものは特に無かった。
何も為さない命でも、生きることを赦されない理由はない。
何もかも手放す勇気なんて持てそうにない。
一時しのぎの延長線上で、今日も生きている。
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