世の中を諦めること
太宰治の「斜陽」という作品。
この作品の一節に、私が一等好きな台詞がある。
「待つ。ああ、人間の生活には、喜んだり怒ったり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めているだけの感情で、あとの九十九パーセントは、ただ待って暮らしているのではないでしょうか。幸福の足音が、廊下に聞こえるのを今か今かと胸のつぶれる思いで待って、からっぽ。ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。生まれて来ないほうがよかったとみんなが考えているこの現実。そうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待っている。みじめすぎます。生まれてきてよかったと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみとうございます。」
待つ、から始まるこの文章。
例えば陰と陽で分けたら陰に当たり、朝と夜で分けたら夜に当たる仄暗さ。
待つことで得られる何かを期待しているわけでも、能動的に希望を待っているわけでもなく、かといって悟りともまた違う。
世の中の輪郭をなんとなく理解してしまった上での「諦念」という感覚が近い。
待つ、という行為。
友人や恋人を「待つ」
商品の再入荷を「待つ」
私たちの日常にある待つことには、多少なりとも、期待や好意が込められている。
しかし、この文章から感じるのは、「諦念」
小説を読んで救いとなった言葉や一節はメモするようにしているのだが、それらを一度に眺めてみた時に、一つの共通点があることに気付いた。
他にも、私の好きな作品の、好きな文章には、どこか諦めの匂いがする。
「田村カフカくん、僕らの人生にはもう後戻りができないというポイントがある。それからケースとしてはずっと少ないけれど、もうこれから先には進めないというポイントがある。そういうポイントが来たら、良いことであれ悪いことであれ、僕らはただ黙ってそれを受け入れるしかない。僕らはそんなふうに生きているんだ」
村上春樹「海辺のカフカ」より
「何ものぞない、何も主張しない、何も執着しない、誰も愛さない、誰にも愛されない、誰ともまぐわらない、だからこそ何も失わない今の生活は、案外自分に向いているのかもしれないと思うこともあった。」
中山可穂「天使の骨」より
なんというかもう、潔いほどの、諦めっぷり。
見下しているだとか、俯瞰しているだとか、そういう次元の感覚ではない。
ただ、諦念。諦念だけが存在していることが伝わってくる。
今にして思うと私の人生もまた、小学生くらいから諦念がまとわりついていたように思う。
これは、私が小学生の時に書いた卒業文集だ。
何が悲しくて小学生でこんな文章を…と思われるかもしれないけれど、「大人になった時に恥ずかしくならない作文にしよう」と思って書いたことを今でもよく覚えているので、むしろこの頃にほとんどの「諦め」アイデンティティは確率していたのかもしれない。
その結果、幼馴染からは「後ろを向きながら前に進んでいる」だとか、「楽観的に絶望している」だとか、私に関する語録をどんどん残されている。
私は世の中を諦めているような人を見るのが好きだし、生きる希望に溢れているような人を見るとその生命力に押し潰されそうになる。
ここまで読んでくださっている方の感性が近いところにあると前提して言うと、このような繊細な文章や感性を(もちろん私の作文は除く)、「メンヘラ」や「中二病」という薄っぺらい言葉で片付けられてしまうような世の中がただただ虚しい。
必ずしも心を鼓舞するものが、明るい前向きな言葉が、私たちを生かすわけではない。
絶望を以って絶望が救われることもあるし、諦めることは必ずしも「ネガティヴ」とイコールではない。
希望や期待がない時でも、文章は私に、あなたに寄り添ってくれる。
「人生とは雨降りの午後に聴くオーボエ四重奏曲のようなものだ。」
中山可穂「ケッヘル(上)」より
この諦めの文章もまた、誰かのこころの引き出しに仕舞われることを願って。
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