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第19話「王家の力」

 翌日、僕らはマリーシャ学長から待ち合わせに指定された場所へと向かった。

 そこには白い軍服を纏い、薄紫色の髪を編んで後ろに垂らしたエルフの女性が、ぼんやりとした様子で佇んでいた。


「では、行きましょうか」


 マリーシャ学長は僕たちを見てから、それだけ言って歩き出す。

 僕の隣にいたリズが大きな溜息を吐いた。


「あー、しんどい……」


 リズが眠たそうに目を擦りながら歩き、いきなり立ち止まったマリーシャ学長の背中に正面衝突してべたりと尻もちをついた。


「いったあぁい!? 何なのもうー!? マリーシャせんせー、いきなり立ち止まんないでよ!」

「失礼致しました。1つ大事なことを言い忘れていたのを思い出したのです」


 マリーシャ学長はこちらに振り向き、僕の後ろに立っている金髪の少女へと声をかける。


「そこの金髪のあなた……クラリスといいましたか」

「……?」


 これまでと変わらず、クラリスは陰鬱な様子でいた。

 僕たちについてこられるだけの力はあるけど、それ以外何も出来そうにない彼女へ対してマリーシャ学長は言う。


「あなたは足手まといです。宿で待機していてください」

「……」


 クラリスの様子などまったく気にしていなかった学長の言葉に最初に反論したのはリズだった。


「ちょっと、足手まといなんて言い方酷くない!? クラリスだって、元気な時はめっちゃくちゃ強いんだからね?」

「元気ではないようですが」


「マリーシャせんせーは知らないだろうけど、帝国で……ちょっと色々あったの。精神的に凄くしんどい思いしたの」

「そうですか」


 マリーシャ学長は頷いてみせると、即座に言った。


「では、宿で待機を」


 リズが何か言いかけたところで、僕は彼女を抑えた。

 そのまま学長に向けて言う。


「マリーシャ学長は僕らの事情には興味がないんだよね。本来ならクラリスがついてこようがこまいが、どうでもいいはず。でも、彼女を宿に置く理由は危険だから、でしょ?」

「ええ」


 返事をしただけのマリーシャ学長だったが、ある意味わかりやすいのかもしれない。

 私情というものが恐ろしく希薄なのだろう。


 ただ、恐らく僕らが向かう場所には危険がある以上、今の状態のクラリスを連れていくことは出来ない。

 学長自身はクラリスの生死に興味などないはず。

 それでもなお、宿で待機させて危険から遠ざける理由はクラリスもまたエインラーナ女王陛下の賓客だから。ただそれだけの話だ。


「クラリス。危険もあるみたいだから、今日は宿で休んでいてくれるかい?」

「……はい」


 リズが慌てたように言う。


「大丈夫? 1人で帰れる?」


 クラリスはこくりと頷いて、そのまま宿の方へと向かっていってしまった。

 それを黙って見ていたジュリアンが言う。


「いつまで、あの状態なんだろうな」

「それは本人次第だろうね。何か立ち直るきっかけでもあればいいんだけど」


 リズがなおも心配そうにクラリスの後ろ姿を見送っている中、マリーシャ学長は淡々とした様子で言う。


「では、私の後ろについてきてください」


 ジュリアンが学長に続き、リズも少し遅れて後に続いた。

 僕もそれに続きながら、こう呟いておくことにした。


「確かに、少し心配だね。誰かが気を利かせてくれるといいんだけど」


 その言葉に従う者はいない。

 ただ、姿が見えていないだけで――。




 聖域キラファ・リシテルの街を抜けると、幻想的な森林が姿を現した。

 様々な色に変化する木々や、そこかしこから生えた水晶など、見ていて面白い光景が続く。

 しかし、この地に住まうマリーシャ学長にとっては特別な思い入れなどないのだろう。何の感慨もないかのように歩き続ける。


 彼女は時折、懐から葉を取り出して齧っていた。

 たまにそのあたりに生えている雑草――としか思えないものの前でしゃがみ込んで摘み取るというようなことを繰り返しながら歩いている。

 まるで薬草採取か何かの授業でも受けにきたような気分になった。軍学校でも薬草学というものがあったからね。


 それから、2時間ほど経った頃だろうか。

 先程から「疲れたー」「だるいー」などぶちぶち文句を言っていたリズが、ふんふんと鼻を鳴らしてから気持ち悪そうに呻いた。


「うっ……な、何か変な匂い……しない?」


 エルフは嗅覚も人間より優れていると聞く。

 僕はむせ返るような大森林の匂いを肺腑に吸い込むように深呼吸をして、異様な臭気がわずかに混じっているのを感じ取った。

 僕らの前を歩いていたマリーシャ学長が言う。


「これより先は腐食の地。腐敗臭がするのは当然です」

「うひぃぃ、これ何か変な匂いだよ? 何ていうかその……動物の死骸か何かが腐ったような」

「現地の状態を見れば、何が起こっているのかわかるでしょう」


 マリーシャ学長はどんどん前へと進んでいく。

 そして、彼女が向かう先には軍属のエルフ2名の姿があった。

 男女のペアで、女性のエルフの方が驚いたように言う。


「セリエルス元帥閣下!? いかがなされたのでありますか?」

「腐食の現場にリーゼメリア殿下をお連れしました」


「リーゼメリア殿下を!? 大変危険です。幾重もの結界を張って何とか現状維持をしているだけですので、これ以上先へ赴かれるのは――」 

「これは私が殿下に課した特別な授業です」


 軍属のエルフの制止を振り切ったマリーシャ学長の後ろを、リズが「ごめんねー……」と申し訳なさそうに通る。

 僕たちも彼女らの後へと続いた。


 そして、すぐに目の前に巨大な結界が張られていることに気付いた。

 森林の開けた一帯を覆うその術式はかなりの強度だ。恐らくは禁術の中位階梯程度はあるだろう。

 マリーシャ学長は指をぱちりと鳴らした。瞬間、ガラスが砕けるような音と共に結界術式はいとも簡単に破壊された。


 ……凄まじい術式破壊だ。

 詠唱も必要とせず、ただ指を鳴らすだけで強固な結界を破壊するほどの魔力を送り込めるとは。

 僕の場合は魔神の姿ならともかく、人間の姿でこのレベルの術式を破壊するには少しばかり時間が必要だろう。


 リューディオ学長とは親戚同士だというが、彼と近しい血筋の者はみなこのように魔導の扱いに秀でているのだろうか?

 僕の隣にいたジュリアンも「すげえな……」と小声で呟いていた。


 そして、結界が完全に消え去った瞬間、鼻を衝くような凄まじい悪臭がその場に満ちた。

 リズがうっとえずいた後、げほげほと咳をする。


 これは酷い匂いだ。鼻が曲がりそうになる。

 レヴィが使役する死者の中には腐敗臭を漂わせる者もいるが、それと比べても引けを取らないほどの悪臭だった。


 しかし、これは紛れもなく生物の死骸が放つ匂い。腐食が進んでいるのは森林ではないのか……?

 先を進むマリーシャ学長についていくと、そこには異様な光景が広がっていた。

 

 地面からどろどろとした茶色の肉塊のようなものが生えているように見えた。

 それはまるで人間の腕1つをそのまま肥大化させたようなもので、一見しただけで10メートル以上はあるだろうか。

 腕の関節と思しき場所からは骨のようなものが突き出し、ぼたぼたと体液を地面に滴らせ、凄まじい悪臭を放っている。

 リズがそれを見て悲鳴じみた声を上げた。


「うええええっ!? キモっ!? 気持ち悪いし臭いー!! 何これー!?」

「アレは双邪神の力の片鱗です」


「うぅぅ……ど、どういうこと……?」

「腐食した大地からあのように身体の一部を顕現させようとしているのです。腐食した範囲が狭いためかあの程度の大きさで済んでいますが、これから腐食が進めばあの腕のようなものは更に巨大化するでしょう」


 僕は双邪神の腕と呼ばれたそれを見て、少しだけ口角を上げた。

 ――凄まじい生への執着を感じる。隙あらばいつ復活してもおかしくはないだろう。

 とはいえ、まだまだこの程度の大きさに過ぎないか。


 僕がかつてフュートハリアの地から見た双邪神の姿は、天を衝くほどのものだった。

 当時の力を完全に取り戻した双邪神と戦ってみたい。


 ……しかし、流石にそれはこの身体では厳しいだろう。

 何の対処もしないままかつての双邪神に近づいた者は、その腐食の影響を受けて身体を腐らせて息絶えた。

 本来の力を出して戦えない以上、身の丈に合わない破壊衝動に頭を支配されてはいけない。


 僕はそんな現状に少しだけ嫌気が差して溜息を吐いた。

 それを見ていたジュリアンが言う。


「あんだよ? まさかお前もこの悪臭で気分でも悪くなったってか?」

「……まあ、そんなところかもね」


「へえ、お前でもそういうところがあるもんなんだな。――で、アレについてどう思う?」

「双邪神が顕現しようとしていると言われれば、そう思えるかもしれない程度かな。僕もその邪神たちの存在について詳しいわけじゃないから」


 双邪神についてそこまで詳しくないのは本当だ。

 かつて僕と共にこのツェフテ・アリアに赴いたレヴィは、ダークエルフと盛んに交流して情報を集めていたが、誰も双邪神というものが何故この地に顕現したのか、そもそもあの異様な神とも言いがたい化け物とはどういう存在なのかについて答えられる者は誰もいなかったと言っていた。


 その出自について、興味は尽きないが……当時のダークエルフたちにすらわからなかったことだ。

 真相を究明することは、ある意味その存在を滅することよりも難しいかもしれない。

 僕がそう考えていると、ジュリアンもまた気分が悪くなっていそうな声で呟いた。


「しっかし、やべえ腐敗臭だな……業炎術式で焼き払ったり出来ねえもんなのか?」

「そうするとこのようになります」

「は?」


 マリーシャ学長は右手に凄まじい魔力を迸らせ、無言で双邪神の一部へと腕を振りかざした。

 瞬間、耳をつんざくような轟音と共に邪神の腕が派手に燃え上がる。

 その光景を見ていたリズが怯えたように小さな悲鳴を上げ、僕の隣にいたジュリアンは想像を超えた魔力を感じたからなのか、目を見開いたまま固まっていた。


 無理もないだろう。

 マリーシャ学長が放った業炎術式は禁術どころのものではない。これは魔法だ。

 彼女が解き放った炎は100メートル以上の巨大な火柱となって渦を巻きながら巨大な邪神を包み、周囲を焼き尽くさんばかりの熱を放っている。


 慈愛の女神の制約。それは他者を傷つける術式を放てない束縛。

 エルフに等しく課されるはずのその戒めを微塵も感じさせないほど、元帥の位を有するマリーシャ・セリエルスの魔力は破壊的なものだった。

 彼女が扱った炎の術式は、かつてミルディアナで数多くの天魔を滅したリューディオ学長のすべてを凍てつかせるような氷の術式すら超えている。


 ――マリーシャ学長は、その場にへたり込んでしまったリズを見下ろしながら言った。


「殿下。お立ちください」

「え……あぅ……」

「アレを滅するのは私の役目ではありません。あなたが為さねばならないことです」


 マリーシャ学長の魔力がふと掻き消えた瞬間、凄まじい勢いで燃え上がっていた火柱がまるで何事もなかったかのように姿を消し、肌を焦がすような熱も感じられなくなった。

 そして、火柱に焼かれた双邪神の腕はといえば……。


「おい、マジかよ……」


 あれほどの魔法を一身に浴びておきながら、双邪神の醜い巨腕は燃えることもなく大地から生えたままだった。

 マリーシャ学長はいつもと変わらず、ぼんやりとした態度を崩さずに言った。


「このように魔法が直撃しても、アレには効果が薄いのです」


 僕はこの予想外の力を持ったエルフに好奇心をそそられながらも、それを悟られないようにして問いかけた。


「双邪神の魔力耐性が強固だということかい?」

「魔力で滅することは困難を極めるでしょう」


「物理的な攻撃はどうだろう?」

「神の加護を与えられし聖剣や聖槍での攻撃を試みましたが、無意味でした」


 双邪神は元の力を取り戻してなどいない。

 たかがあの程度の顕現だけで、これほどの耐性を得るとは何とも恐ろしいものだ。

 マリーシャ学長は言った。


「アレに傷をつけられるのは神気による攻撃。もしくは、ツェフテ・アリア王国の王家に与えられた慈愛の力のみ」

「あ……あたしの力なんかじゃ、あんなの無理……無理だって……」


 完全に怯えて委縮しきってしまったリズが声を震わせながら言うが、マリーシャ学長はそんなエルフの王女を気遣うような素振りさえ見せない。


「あなたになら出来るはずです」

「そ、そんなの……どうやって……?」

「王家の力で」


 助言は一切ない。

 学長はただ、王家の力を見せてみろとしか言わない。

 魔法すら通じないあの双邪神を相手に、リズに宿る王家の力は本当に通用するんだろうか。


 僕は未だに腰を抜かして動けないままのリズの前に向かい、彼女に手を差し伸べた。

 リズは怯えの表情を強くさせたけど、僕が笑って名前を呼ぶと、おずおずとその手を掴んできた。


「マリーシャ学長が言うんだから、まずはやってみよう」

「で、でも……」

「無理なら無理って言うよ。この学長さんは」


 マリーシャ学長はまるで一仕事終えてもはや自分は関係ないとばかりに、懐から取り出した葉を齧りながらこくりと頷く。

 そんな彼女のことを明らかに警戒した様子のジュリアンに気付いている様子はない――ように見えるけど、恐らくは何かを察しているに違いない。


 リューディオ学長からは底知れない力を感じさせられたけど、このマリーシャという女性のエルフから何か特別なものを感じるのは難しい。

 まるで、僕たちと同じ世界にいながらも、実際にはどこか別の場所にいるのではないかと思わされるほど、他の者とは何から何まで違う。


「リズ。王家の力を放つというのは、どういうものなんだろう?」

「ん……。魔力を放出させるのと似た感じ、かな。ただ、王家に与えられた力は自然を豊かにするとか維持するとか、そういうものなんだよ。何かを傷つけるためのものじゃないんだけど」


 リズは困ったようにマリーシャ学長の様子を窺った。

 薄紫色の髪をしたエルフはぼんやりとした顔で呟く。


「食べる葉っぱを切らしてしまいました」

「……テオくん、あたしあのせんせーのこと、よくわかんないよ」


「大丈夫だよ。僕もよくわからないけど、彼女はこの世の真理以外には興味がないだけだから」

「ほんとーに大丈夫なのかなぁ。まあ、王家の力が必要だって言うなら使ってみるけどさ……」


 リズは少しずついつもの調子を取り戻したかのように、その手に何かの力を漲らせた。

 それが王家に宿る力なのか、と思っていた刹那。


 双邪神の腕がびくりと痙攣したかと思いきや、指と思しき部分が隆起して地面の中に潜り込み、リズへと向かって一直線に迫ってきた。

 僕は咄嗟にリズを抱えて後ろに跳ぶ。直後、リズが立っていた場所からまるで老木のように茶色で腐食した指が突き出た。


「ひっ!?」


 リズが悲鳴を上げ、僕が空いている手で即席の魔力の剣を作り出し、ジュリアンが慌てた様子で何かの術式を描いた。

 邪神の尖った指先が鞭のようにしなってリズへと襲いかかった時、僕らの目の前に結界が現れ、その槍のように硬化した一撃を防いだ。

 マリーシャ学長は特に動じた様子もなく、高度な結界をいとも容易く作り出したようだ。


 危険があると言っていたのはこのことか。

 僕はわけがわからずに混乱しているリズの耳元で「リズ、しっかりして」と言ってから続けた。


「今ここで君の役目を果たすんだ」

「……う、うん、わかってる……!」


 リズはその両手に纏った温かな光を双邪神の指に向けて放出。

 瞬間、槍のように鋭くなっていた指先が崩壊して土くれのようになった。


 リズはそのまま、遠くにある双邪神に向けて光を放った。

 その勢いはまだまだ弱々しいものだったけど、淡い緑色の光に包まれた途端に10メートルを超える双邪神の腕はもがき苦しむかのように痙攣し、やがては形が崩れていく。

 その腐った腕から放たれていた腐敗臭も消え去り、後に残ったのはマリーシャ学長が放った業炎術式が残した焦げ跡のみだった。


「……はぁ。こ、これでいいの?」

「はい。お疲れさまです」


 エルフの学長はそう言いながら、懐をまさぐり……もう葉を切らしてしまったことを思い出したのか、さして残念そうな様子も見せずにぼんやりとした口調で「葉っぱ……」と呟いた。

 僕が見た限り、リズの放った力は確かに今までに感じたことがないようなものに思えたけど、とてもマリーシャ学長の放った高度な魔法と同レベルの破壊力を持つようには見えなかった。

 双邪神の腕は、僅かな王家の力にすら耐えられないということだろうか……?


 ジュリアンが不可解そうな口調で学長へ問いかけた。


「あれだけで双邪神は消えたのか?」

「一時的に力を失っただけです」


「ほっときゃまたあの腕が生えてくるってわけか」

「ええ。場所まではわかりませんが」


 マリーシャ学長はこの場にそれ以上興味がないのか、すぐに踵を返した。


「殿下。次の場所に向かいます」

「えっ!? まだあんの!?」

「この地には腐食した場所が他にもありますので」


 淡々とした口調で言う学長はさっさと歩き出してしまった。

 リズはうんざりした顔でぼやく。


「はぁ~……テオくん、あたし疲れたぁ」

「まあまあ。もう少しだけ頑張ろうよ」


 がっくりと項垂れるリズを介抱するようにしながら、僕はマリーシャ学長の後を追う。

 ジュリアンは未だに信じられないものを見たというような表情を浮かべたまま、その後に続いた。




 ◆




 フュートハリアの地は活気に湧いていた。

 ダークエルフの領域では今日も多くの領民たちが歩き、街路の端にある数多くの露店から客足が途絶えることはない。

 昼間から営業している酒場では、喧嘩っ早いダークエルフの男たちが些細なことでいざこざを起こしては殴り合いの様相を呈しているが、それを咎める者はいないどころか囃し立てる者ばかりだった。


 罵声と笑い声。

 喧嘩の勝利に湧く歓声と、どちらが勝つかで賭けをしていた者が予想を外して嘆く声が響き渡る。


 朗らかに談笑していたり、賭けに勝って得た金を下卑た表情を浮かべながら眺めていたり、酒場の喧嘩で勝利の余韻に浸っていた男がその勢いのままこの場にいる奴の飯代は俺が持つと言って場を賑わせていたり。

 ――その雑多な賑やかさで満ちていた場の空気が、一瞬にして凍りついた。


 誰もが空を仰いだ。

 その目に映るのは、黒翼。


 背に黒い翼を生やした少女が街路に降り立つ。

 誰かが怯えたように悲鳴を上げる最中、紫色のドレスを着た黒翼の少女はにこやかに笑う。


「どうしたの、みんな? 今まで楽しそうにはしゃいでいたじゃない。もっともっと楽しみましょう? 笑いましょう?」


 ダークエルフたちはその言葉を受けて、みなが笑顔を浮かべる。

 その作り笑顔はぎこちないもので、誰が見ても違和感を抱くようなものだった。

 しかし、誰もこの少女に逆らうことは出来ない。


「そう、そう。みんな笑顔が大事。楽しく笑って笑って~。……あらぁ?」


 乾いた笑い声が響く中、地べたに座りながら怯えたような表情を浮かべているダークエルフの子供がいた。

 黒翼の少女ラナキエルは、その子供に近寄る。


「ねえ、どうしてあなたは笑わないの? どうして?」

「ひぃっ……」


 子供は王都の外にある貧民窟の育ちだった。

 実の親の顔は知らず、毎日貧しい思いをしながらも必死に生きてきた。

 このフュートハリアの王都にやってきたのはつい最近だった。この大都市でなら、働き口を探せるかもしれないし、盗みでも働けば生きていけるだろうと思って住み慣れた貧民窟を出たばかりだったのだ。


 故にダークエルフの子供は知らない。

 このフュートハリアの地において、破ってはならない不文律があることを。


『決して黒翼に逆らってはいけない』


 ただそれだけのことを、このダークエルフの子は知らなかった。

 フュートハリアの民なら誰もが知っているそれを知らなかった。

 ラナキエルは不思議そうに小首を傾げながら、座り込む子供の前でしゃがんで視線を合わせた。


「あなたは笑わないの? 楽しくないの? ねえ、どうしてどうして?」

「ひっ……うぁっ……!!」


 ダークエルフの子はラナキエルのことは噂でしか知らなかった。

 実際に出会ったのは今日が初めてであり、彼女に逆らった者の末路など知りもしない。

 しかし、その本能が警鐘を鳴らしていた。一目見ただけで自分の命に危険が迫っていると、これ以上ないほどに強い警戒心を抱かせた。


「笑わない? つまらないから? 私の言葉は聞くに値しない? 教えて教えて?」

「……っ」


 怯えたままの子供の姿を見て、ラナキエルはそれまでの穏やかだった表情をすっと無表情に変えた。

 まるで、いきなり別人になってしまったように彼女から凍てついた雰囲気が発せられる。


「つまらない、つまらないつまらない。どうしたら、面白くなるの。そうだ、あなたの頭を刎ねちゃえば面白いかも。そうだそうだ、そうしましょうそうしましょう! ぽんって刎ねて、ころころ転がる頭を蹴ってみんなで遊びましょう」


 ラナキエルは即座に大鎌を作り出した。

 ダークエルフの子はそれを見て、とうとう限界を来たして泣き叫ぶ。


「……うるさい、うるさぁ~い」


 酷く不機嫌そうに呟いたラナキエルは鎌を振るおうとした瞬間、その手をだらんと下げた。

 彼女は天を仰ぎながら、瞼を閉じる。

 しばらくの間を置いて、言った。


「……キラファ・リシテル……? これは王家の力……?」


 ラナキエルはぶつぶつと呟く。


「でも、エインラーナの力じゃない。あの子の力はこんなに弱くない。じゃあ、残るのは、リーゼメリア。リーゼメリア。リーゼメリア・キルフィニスカ。エインラーナの娘。そう、ルードのお嫁さんになる子。フュートハリア黒晶宮の主の妻となる者。ツェフテ・アリア王家の穢れた血を引く娘。ルードと交わってそれを消さなきゃいけない子……」


 黒翼の少女の独り言は続く。


「でも、でも、こんな力じゃルードと釣り合わない。ルードヴァイン・セルジェスタ・フュートハリア17世の伴侶として相応しくない。今までルードが娶った女たちと同じ。価値がない価値がない……」


 少女はそこではっと我に返ったように言う。


「あぁ……ダメ、ダメダメダメ。自分の目で確かめなきゃ。もしかしたら素質はあるのかもしれない。力を抑えているのかもしれない。決めつけちゃダメ、決めつけちゃいけない、“今回もダメだった”なんて思っちゃいけない。早まらないで早まらないで」


 ラナキエルは背中の黒い翼を広げた。


「会いましょう、会いましょう。私と会って、話をしましょう。リーゼメリア・キルフィニスカ。あなたがどんな逸材なのか、私に示してほしい」


 黒翼の少女はその場から飛び立った。

 彼女がこの地に降り立ってからまだ数分も経っていない。

 にもかかわらず、あれほど賑やかだったフュートハリアの街並みは、まるでみなが瞬く間に死に絶えてしまったのではないかというほどの静けさに満ちていた。

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