日顕宗の「妄説:96」を破折する(その六) 連載145回
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:96」を破折する(その六) 連載145回
妄説:96 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違(たが)ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承(う)くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 1-176頁)
〔御文証の解釈〕
御本仏への信心が、不善・不浄の邪心・迷信となり、仏意に背く姿となったときには、御本仏からの法水は、通路がふさがってしまい流れません。根本に信順しなければ、迷いの衆生となり、即身成仏の血脈・信心の血脈を受ける資格が消滅してしまいます。
〔創価学会の解釈〕
○日顕(上人)は、仏意仏勅の学会を破門し、仏意に背(そむ)いた邪信の徒であり、「即身成仏の血脈」を受ける資格を失っている。よって御本尊を書写し、下付する資格も消滅した。(聖教新聞 H五・九・一九 取意)
〔創価学会の解釈に対する破折〕
この御文は「信心の血脈」についての一段ですが、学会は「学会こそ仏意仏勅の団体」という前提に基づいて、その学会を破門した日顕上人と宗門こそ「悪」であり「仏意に背いた邪信の徒」と解釈しています。
しかし、仏意とは御本仏日蓮大聖人のお心であり、それは血脈相承として御歴代上人に受け継がれています。
創価学会は昭和二十六年、宗教法人を取得する時に宗門と約束をしました。それは、
①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
②当山の教義を守ること
③仏法僧の三宝を守ることの三ヶ条を遵守(じゅんしゅ)することです。
以来、総本山大石寺を根本と仰ぎ、この大原則を守りつつ宗門外護と、広宣流布への前進があったことは周知の事実です。
しかし正本堂建立のころから、徐々(じょじょ)に仏法上の逸脱が現われ始め、ついに「昭和五十二年路線」で当初の三ヶ条の約束を完全に破棄し、学会は「仏意に従う団体」の資格を自ら放棄したのです。一度(ひとたび)は日達上人に謝罪し、反省をしたうえで正道に進むことを誓いましたが、平成二年の末に至り、その反省が虚偽であったことが明らかになりました。
宗門から仏法の道理に基づく教導を受けながらも、「仏意に違う」姿となって反目し、誹謗を繰り返し、自らの団体が定めた基本原則をも捨て去ったために、学会は破門となったのです。
「即身成仏の血脈」を受ける資格を失ったのは創価学会なのです。
この御文の真意は、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人血脈相承を「仏意」と拝さなければ正しく理解できないのです。
破折:
13.火災直後の宗門
(1)管長代務者は〝宗門の謗法〟を認めた
昭和二十年六月十七日の午後十時半ごろ発生した大石寺の火災により、六十二世鈴木日恭法主が焼死した。このため一時、管長代務者となった中島廣政(日彰)は、昭和二十年九月の妙光寺彼岸会において、日恭の死は〝考えられないような不運〟が重なった結果であると話した。
◇
ここに、日恭亡きあとの宗務を統括した管長代務者・中島廣政が、大火三カ月後の九月に品川・妙光寺で話した話の記録がある。この記録は、中島の話を直に聞いた信徒の竹尾清澄が「数日後」にまとめたものである。それによれば、中島は、
「皆様も御承知の大石寺の対面所、大書院及客殿が炎上し日恭上人が御焼死なさったことについて一言申上げます」
と前置きし、出火の原因が、
「一所化の失火」
であったとし、大火になったのは、以下の不幸が重なったためであったと公言した。
「書院には三百名の農耕兵が居りましたが或事情のため消火に協力出来ず門前にあった消防自動車は故障のため使へず上井出から来た戰車学校の自動車はガソリンを忘れたため是亦役に立たず富士宮では消防自動車が大石寺出火と聞き逸早く出動準備を整へたのでありますが署長不在のため命令を受けられず、空しく時を過ごし上野署よりの応援要請で馳著けた時は火は既に客殿に移り手の下しやうもないと云ふ此上ない悪條件揃ひであって洵(まこと)に宿命と申す外はないのであります」
そのうえで、
「然し金口嫡々の法主上人が此くの如き御最期を御遂げになったと云ふことは僧俗共に深く考へなければならぬことで是は大聖人大慈の御誡(おんいましめ)であります」
と結論しており、その後の話のなかでも、
「大聖人様の大慈の嚴誡でありませう 私共は深く省み奮然と起って行学の本道に邁進し廣宣流布の大願成就を期せなければなりません」
と強調している。
(『地涌』第888号 1995年11月5日)
中島はこのとき、出火原因が「一所化の失火」であることを認めている。やはり宗門の公式記録(※)は、都合の良いように創作したものであった。
(※)宗門は『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』(日蓮正宗布教会〈代表・細井精道〉昭和三十一年発行)において「丁度静岡市空襲の晩に此れ等の兵隊がガソリンを撒布して、將校室となつていた其の對面所の裏側の羽目に火を付けたのである」と記して朝鮮兵農耕隊による放火と捏造、宗門在籍者による失火の咎(とが)を転嫁したのである(前回「妄説:96」(その五)連載144回参照)。
また中島は「宿命」と言った。すなわち法主の焼死は〝因果律〟の下にあり、謗法による〝罰〟であったことを認めていたのである。
(2)高僧が〝宗門全体に對する御罰〟と悔恨
また久留米の霑妙寺住職、渋田慈旭大僧都が懺悔した言葉は以下の通りであった。
◇
顧(かえり)みれば昭和二十年の六月時(とき)恰(あたか)も空襲酣(たけなわ)なる十七日の夜半それは終戦も間近い頃であつた。吾が總本山の不祥事件を地方の新聞でも初號(しょごう)活字の見出しで相當大きく取り扱つて居た、私は其の記事に引きつけられて空襲警報のサイレン等は勿論不感症になつてたゞ震へる手に其の記事を見守つて居た。何と云(い)う事だ、宗門は駄目だ、戦争も駄目だ、思はず大きな聲で一人言を云つて見た。どう考へて見ても御戒旦(ごかいだん)の霊場にかゝる不祥事が起らうとは實際割り切れぬ問題である。私は愛山護持の任にある本山の僧侶方のみを責むるには余りにも大きな問題である。宗門全体に對する御罰(おんばち)でなくて何であらう、今こそ宗門の僧俗一同の責任に於て深く惣懺悔(そうざんげ)をしなければならぬ。(中略)
宗門も中古以来神天上等の法門などすつかり棚に上げて自然と世間の風潮になじんで軟弱化して来た事、特に戦争中は軍の一色に塗り潰ぶされて官憲の手前大事な国家諌暁等は勿論、眞の布教は封ぜられ結局時局便乗で進むより外は實際に手も足も出なかつた。大聖人の弟子として何と情けない事か、本山の霊場も當時は其兵團の本部に汚されて居た事等をも自省せずにはいられなくなつた。
(『宗報』昭和二十三年六月号「懺悔と復興」)
宗内の高僧でさえ、この大不祥事の原因を「宗門全体に對する御罰」と受け止め、悔恨したのである。今この手記を読めば、ことごとく正鵠(せいこく)を射た指摘であると納得する。
しかし現宗門は、これらの懺悔を「個人の感想」でしかないと言い、未だに宗門全体の謗法による厳罰であったことを認めようとしない。
だが、管長とは〝宗門の意志を体する者〟であり、代務者は管長に準ずる者ではないか。その代務者の言葉が、単なる「個人の感想」なのか。宗門の高僧とは、それほど軽い立場にあるのか。
宗門は一度、深く懺悔した。だが日顕宗はそれを否定した。ゆえに宗門は今に至るまで謗法が続いているのである。
14.法主の焼死が意味するもの
本山の火災当日におけるエピソードが、管長代務者であった中島廣政の懐古談にある。
◇
日恭上人がお隠れになる、その日ですね。私はその頃、財務の方を預かっていたから、ある用件を、行って申し上げた。それは、すっかりお聞きになった、帰ろうと思って奥を出て、次の間に来たら、「おい」と呼ばれた。「何ですか」と言ったら、「あれはな」という。「御相承に関するのは、こういうところに入れてあるから、あなた覚えておきなさい」と。「承知しました」と言って、私はそのときに奥を下ってきたけれども、〝まてよ、今日に限って日恭上人が変なことを言われたぞ。日恭上人に何か事がなければいいな〟と思っていた。そうしたところが、その晩でしょう。
そのときに、日恭上人が私にお話なさった言葉を、その翌日か翌々日に、堀猊下がいらっしゃった時分に、一切のことを申し上げたら、堀猊下は「それは日恭上人は、それぐらいのことはあるはずだ」とおっしゃって、手帳へお書きになった。
それから、次の猊下になられた日満上人にも、私はこのことを申し上げた。
(『大白蓮華』昭和三十二年十二月号・第七十九号)
火災当日、日恭法主が死を予兆したかのような発言をした、との談話である。宗門はこれをもって法主は死を覚悟していたと言う。
「日恭上人の御最期は確かに、明治維新における廃仏棄釈以来の神道中心の国家的謗法行為と、その結果としての戦争の世紀を総括される一切の責任を負われた崇高なお振る舞いであられたことは、その従容たる覚悟のお姿によって明白である」(『大白法』H14.9.1)
日恭が「明治維新以降の国家的謗法」を総括してその責任を取った、とはいかにも大風呂敷に話を広げたものである。
それでは中島廣政の話に登場した堀日亨師はどう思っていたか。日恭の直弟子であった大橋慈譲(神奈川県・正継寺)は、日亨師の当時の言葉を記している。
◇
客殿の焼失され恭師の亡くなった理由をお伺いした。処が以外な解答かかえって来た。 私はもっともらしく信仰的意味づけがあると思ったら、何もなく唯原因あって焼けた、それ迄であると云う。
即ち恭師は足腰の弱いのに二階に住んでおった。「私(亨師)は再三、貴師(恭師)は二階が好きらしいが、脚気等を起こして足腰が弱いのですからいざと云う時危険です。二階住いはやめなさいと注意しておったが、一向にやめないで、終りにあの様な最後を遂げた。二階住いしなかったら焼けなかったろうに。
信仰的意味づけは立派であるが、それは事実と違うのではないか。原因結果しかない。」と、淡々と語られた。私は全くびっくりした。全く予想しないことであった。それは私は自分が思っている隠居さんと実際のイメージとは、相当の隔たりを予想しない訳には行かなかった。
(『大橋慈譲講本集』より堀日亨上人御指南)
日亨師はあけすけに答えたが、大橋にとってはかなりのショックであった。前出の『大白法』が言うような「もっともらしく信仰的意味づけ」を期待していたのである。
大橋は不遜にも、日亨師に対し「見損なった」と言わんばかりの不満を手記に洩らしている。裏切られた思いなのであろう。
しかし、大橋の意に沿うようなことを日亨師が話さなかったからと言って、それを恨むには当たらない。日亨師の言うことは事実であり、また日恭が「足腰が弱い」ことを平素から気にかけていたのである。
◇
日恭法主が逃げ遅れた理由は肥満で、足腰も弱かったためであった。堀日亨上人は、日恭について次のように書き残している。
「(日恭は)酒は一升程も飲んでいたが、酩酊して前後不覚になることはなかった」というから、余程の大酒飲みだったようだ。
「脂肪は摂取過ぎ」だったとのことだから、肉食を好む生臭坊主だったことが分かる。更に「運動不足の為か老年にはビヤダル(樽)式に腹部が肥満して不格好で不健全の体に見え足弱であった」「阿蘇火山に誘引せし時の先達の愚老が大に迷惑して世話のやけた事夥しかった。山登りばかりで無く、平地の歩行も予が健脚には及ばず」と。
(『フェイク』第1216号 発行=11.06.29)
日亨師が「二階住いはやめなさいと注意」したのに聞き入れなかった、このことは、日恭が峻厳なる因果律の果報を受けることがすでに決定していたため、と納得するのである。火災当日になって日恭が死を予兆したというのも、逃れるすべはないことを感じたためであろうか。
そのゆえに「御相承に関するのは、こういうところに入れてあるから、あなた覚えておきなさい」と言い置いたわけであるが、それも大火災の中でどうなったか。このことは回をあらためて話したい。
日恭は、本来なら火事で被災するような状況下にはなかった。日恭はそのころ本山に住まっていなかったが、火災当日になってにわかに本山に宿泊することとなったのである。
◇
① 日恭は耳が悪くなり、上井出地区の寿命寺に逗留して、その近くにあった戦車学校の軍医に治療をうけていたが、この日に限ってわざわざ登山した
② 有力信徒が登山すると連絡があり、無理を押して登山したが、その信徒は急用で来なかった
③ 上井出から迎えが来たが、それを断って大奥に泊まった
(前出『フェイク』)
「偶然が重なる」と言うことは仏法にはない。すべての物事が、因果律のもとで作用した結果である。
それに対し前出の『大白法』のように、死亡した法主の周囲で勝手に美化すれば、仏法の道理を誤って解釈することになる。しかし、安易に人情に落ちてはならない。
それでも日亨師は、大橋慈譲は日恭の直弟子であり、その師匠である日恭が「大聖人大慈の御誡(おんいましめ)」、罰を蒙った等の直截な言い方をしては、大橋には酷である、そう配慮してか「二階住いはやめなさいと注意した……原因結果しかない」との、卑近な例をもって説明するに留めたと思えるのである。
(続く)
妄説:96 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違(たが)ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承(う)くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 1-176頁)
〔御文証の解釈〕
御本仏への信心が、不善・不浄の邪心・迷信となり、仏意に背く姿となったときには、御本仏からの法水は、通路がふさがってしまい流れません。根本に信順しなければ、迷いの衆生となり、即身成仏の血脈・信心の血脈を受ける資格が消滅してしまいます。
〔創価学会の解釈〕
○日顕(上人)は、仏意仏勅の学会を破門し、仏意に背(そむ)いた邪信の徒であり、「即身成仏の血脈」を受ける資格を失っている。よって御本尊を書写し、下付する資格も消滅した。(聖教新聞 H五・九・一九 取意)
〔創価学会の解釈に対する破折〕
この御文は「信心の血脈」についての一段ですが、学会は「学会こそ仏意仏勅の団体」という前提に基づいて、その学会を破門した日顕上人と宗門こそ「悪」であり「仏意に背いた邪信の徒」と解釈しています。
しかし、仏意とは御本仏日蓮大聖人のお心であり、それは血脈相承として御歴代上人に受け継がれています。
創価学会は昭和二十六年、宗教法人を取得する時に宗門と約束をしました。それは、
①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
②当山の教義を守ること
③仏法僧の三宝を守ることの三ヶ条を遵守(じゅんしゅ)することです。
以来、総本山大石寺を根本と仰ぎ、この大原則を守りつつ宗門外護と、広宣流布への前進があったことは周知の事実です。
しかし正本堂建立のころから、徐々(じょじょ)に仏法上の逸脱が現われ始め、ついに「昭和五十二年路線」で当初の三ヶ条の約束を完全に破棄し、学会は「仏意に従う団体」の資格を自ら放棄したのです。一度(ひとたび)は日達上人に謝罪し、反省をしたうえで正道に進むことを誓いましたが、平成二年の末に至り、その反省が虚偽であったことが明らかになりました。
宗門から仏法の道理に基づく教導を受けながらも、「仏意に違う」姿となって反目し、誹謗を繰り返し、自らの団体が定めた基本原則をも捨て去ったために、学会は破門となったのです。
「即身成仏の血脈」を受ける資格を失ったのは創価学会なのです。
この御文の真意は、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人血脈相承を「仏意」と拝さなければ正しく理解できないのです。
破折:
13.火災直後の宗門
(1)管長代務者は〝宗門の謗法〟を認めた
昭和二十年六月十七日の午後十時半ごろ発生した大石寺の火災により、六十二世鈴木日恭法主が焼死した。このため一時、管長代務者となった中島廣政(日彰)は、昭和二十年九月の妙光寺彼岸会において、日恭の死は〝考えられないような不運〟が重なった結果であると話した。
◇
ここに、日恭亡きあとの宗務を統括した管長代務者・中島廣政が、大火三カ月後の九月に品川・妙光寺で話した話の記録がある。この記録は、中島の話を直に聞いた信徒の竹尾清澄が「数日後」にまとめたものである。それによれば、中島は、
「皆様も御承知の大石寺の対面所、大書院及客殿が炎上し日恭上人が御焼死なさったことについて一言申上げます」
と前置きし、出火の原因が、
「一所化の失火」
であったとし、大火になったのは、以下の不幸が重なったためであったと公言した。
「書院には三百名の農耕兵が居りましたが或事情のため消火に協力出来ず門前にあった消防自動車は故障のため使へず上井出から来た戰車学校の自動車はガソリンを忘れたため是亦役に立たず富士宮では消防自動車が大石寺出火と聞き逸早く出動準備を整へたのでありますが署長不在のため命令を受けられず、空しく時を過ごし上野署よりの応援要請で馳著けた時は火は既に客殿に移り手の下しやうもないと云ふ此上ない悪條件揃ひであって洵(まこと)に宿命と申す外はないのであります」
そのうえで、
「然し金口嫡々の法主上人が此くの如き御最期を御遂げになったと云ふことは僧俗共に深く考へなければならぬことで是は大聖人大慈の御誡(おんいましめ)であります」
と結論しており、その後の話のなかでも、
「大聖人様の大慈の嚴誡でありませう 私共は深く省み奮然と起って行学の本道に邁進し廣宣流布の大願成就を期せなければなりません」
と強調している。
(『地涌』第888号 1995年11月5日)
中島はこのとき、出火原因が「一所化の失火」であることを認めている。やはり宗門の公式記録(※)は、都合の良いように創作したものであった。
(※)宗門は『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』(日蓮正宗布教会〈代表・細井精道〉昭和三十一年発行)において「丁度静岡市空襲の晩に此れ等の兵隊がガソリンを撒布して、將校室となつていた其の對面所の裏側の羽目に火を付けたのである」と記して朝鮮兵農耕隊による放火と捏造、宗門在籍者による失火の咎(とが)を転嫁したのである(前回「妄説:96」(その五)連載144回参照)。
また中島は「宿命」と言った。すなわち法主の焼死は〝因果律〟の下にあり、謗法による〝罰〟であったことを認めていたのである。
(2)高僧が〝宗門全体に對する御罰〟と悔恨
また久留米の霑妙寺住職、渋田慈旭大僧都が懺悔した言葉は以下の通りであった。
◇
顧(かえり)みれば昭和二十年の六月時(とき)恰(あたか)も空襲酣(たけなわ)なる十七日の夜半それは終戦も間近い頃であつた。吾が總本山の不祥事件を地方の新聞でも初號(しょごう)活字の見出しで相當大きく取り扱つて居た、私は其の記事に引きつけられて空襲警報のサイレン等は勿論不感症になつてたゞ震へる手に其の記事を見守つて居た。何と云(い)う事だ、宗門は駄目だ、戦争も駄目だ、思はず大きな聲で一人言を云つて見た。どう考へて見ても御戒旦(ごかいだん)の霊場にかゝる不祥事が起らうとは實際割り切れぬ問題である。私は愛山護持の任にある本山の僧侶方のみを責むるには余りにも大きな問題である。宗門全体に對する御罰(おんばち)でなくて何であらう、今こそ宗門の僧俗一同の責任に於て深く惣懺悔(そうざんげ)をしなければならぬ。(中略)
宗門も中古以来神天上等の法門などすつかり棚に上げて自然と世間の風潮になじんで軟弱化して来た事、特に戦争中は軍の一色に塗り潰ぶされて官憲の手前大事な国家諌暁等は勿論、眞の布教は封ぜられ結局時局便乗で進むより外は實際に手も足も出なかつた。大聖人の弟子として何と情けない事か、本山の霊場も當時は其兵團の本部に汚されて居た事等をも自省せずにはいられなくなつた。
(『宗報』昭和二十三年六月号「懺悔と復興」)
宗内の高僧でさえ、この大不祥事の原因を「宗門全体に對する御罰」と受け止め、悔恨したのである。今この手記を読めば、ことごとく正鵠(せいこく)を射た指摘であると納得する。
しかし現宗門は、これらの懺悔を「個人の感想」でしかないと言い、未だに宗門全体の謗法による厳罰であったことを認めようとしない。
だが、管長とは〝宗門の意志を体する者〟であり、代務者は管長に準ずる者ではないか。その代務者の言葉が、単なる「個人の感想」なのか。宗門の高僧とは、それほど軽い立場にあるのか。
宗門は一度、深く懺悔した。だが日顕宗はそれを否定した。ゆえに宗門は今に至るまで謗法が続いているのである。
14.法主の焼死が意味するもの
本山の火災当日におけるエピソードが、管長代務者であった中島廣政の懐古談にある。
◇
日恭上人がお隠れになる、その日ですね。私はその頃、財務の方を預かっていたから、ある用件を、行って申し上げた。それは、すっかりお聞きになった、帰ろうと思って奥を出て、次の間に来たら、「おい」と呼ばれた。「何ですか」と言ったら、「あれはな」という。「御相承に関するのは、こういうところに入れてあるから、あなた覚えておきなさい」と。「承知しました」と言って、私はそのときに奥を下ってきたけれども、〝まてよ、今日に限って日恭上人が変なことを言われたぞ。日恭上人に何か事がなければいいな〟と思っていた。そうしたところが、その晩でしょう。
そのときに、日恭上人が私にお話なさった言葉を、その翌日か翌々日に、堀猊下がいらっしゃった時分に、一切のことを申し上げたら、堀猊下は「それは日恭上人は、それぐらいのことはあるはずだ」とおっしゃって、手帳へお書きになった。
それから、次の猊下になられた日満上人にも、私はこのことを申し上げた。
(『大白蓮華』昭和三十二年十二月号・第七十九号)
火災当日、日恭法主が死を予兆したかのような発言をした、との談話である。宗門はこれをもって法主は死を覚悟していたと言う。
「日恭上人の御最期は確かに、明治維新における廃仏棄釈以来の神道中心の国家的謗法行為と、その結果としての戦争の世紀を総括される一切の責任を負われた崇高なお振る舞いであられたことは、その従容たる覚悟のお姿によって明白である」(『大白法』H14.9.1)
日恭が「明治維新以降の国家的謗法」を総括してその責任を取った、とはいかにも大風呂敷に話を広げたものである。
それでは中島廣政の話に登場した堀日亨師はどう思っていたか。日恭の直弟子であった大橋慈譲(神奈川県・正継寺)は、日亨師の当時の言葉を記している。
◇
客殿の焼失され恭師の亡くなった理由をお伺いした。処が以外な解答かかえって来た。 私はもっともらしく信仰的意味づけがあると思ったら、何もなく唯原因あって焼けた、それ迄であると云う。
即ち恭師は足腰の弱いのに二階に住んでおった。「私(亨師)は再三、貴師(恭師)は二階が好きらしいが、脚気等を起こして足腰が弱いのですからいざと云う時危険です。二階住いはやめなさいと注意しておったが、一向にやめないで、終りにあの様な最後を遂げた。二階住いしなかったら焼けなかったろうに。
信仰的意味づけは立派であるが、それは事実と違うのではないか。原因結果しかない。」と、淡々と語られた。私は全くびっくりした。全く予想しないことであった。それは私は自分が思っている隠居さんと実際のイメージとは、相当の隔たりを予想しない訳には行かなかった。
(『大橋慈譲講本集』より堀日亨上人御指南)
日亨師はあけすけに答えたが、大橋にとってはかなりのショックであった。前出の『大白法』が言うような「もっともらしく信仰的意味づけ」を期待していたのである。
大橋は不遜にも、日亨師に対し「見損なった」と言わんばかりの不満を手記に洩らしている。裏切られた思いなのであろう。
しかし、大橋の意に沿うようなことを日亨師が話さなかったからと言って、それを恨むには当たらない。日亨師の言うことは事実であり、また日恭が「足腰が弱い」ことを平素から気にかけていたのである。
◇
日恭法主が逃げ遅れた理由は肥満で、足腰も弱かったためであった。堀日亨上人は、日恭について次のように書き残している。
「(日恭は)酒は一升程も飲んでいたが、酩酊して前後不覚になることはなかった」というから、余程の大酒飲みだったようだ。
「脂肪は摂取過ぎ」だったとのことだから、肉食を好む生臭坊主だったことが分かる。更に「運動不足の為か老年にはビヤダル(樽)式に腹部が肥満して不格好で不健全の体に見え足弱であった」「阿蘇火山に誘引せし時の先達の愚老が大に迷惑して世話のやけた事夥しかった。山登りばかりで無く、平地の歩行も予が健脚には及ばず」と。
(『フェイク』第1216号 発行=11.06.29)
日亨師が「二階住いはやめなさいと注意」したのに聞き入れなかった、このことは、日恭が峻厳なる因果律の果報を受けることがすでに決定していたため、と納得するのである。火災当日になって日恭が死を予兆したというのも、逃れるすべはないことを感じたためであろうか。
そのゆえに「御相承に関するのは、こういうところに入れてあるから、あなた覚えておきなさい」と言い置いたわけであるが、それも大火災の中でどうなったか。このことは回をあらためて話したい。
日恭は、本来なら火事で被災するような状況下にはなかった。日恭はそのころ本山に住まっていなかったが、火災当日になってにわかに本山に宿泊することとなったのである。
◇
① 日恭は耳が悪くなり、上井出地区の寿命寺に逗留して、その近くにあった戦車学校の軍医に治療をうけていたが、この日に限ってわざわざ登山した
② 有力信徒が登山すると連絡があり、無理を押して登山したが、その信徒は急用で来なかった
③ 上井出から迎えが来たが、それを断って大奥に泊まった
(前出『フェイク』)
「偶然が重なる」と言うことは仏法にはない。すべての物事が、因果律のもとで作用した結果である。
それに対し前出の『大白法』のように、死亡した法主の周囲で勝手に美化すれば、仏法の道理を誤って解釈することになる。しかし、安易に人情に落ちてはならない。
それでも日亨師は、大橋慈譲は日恭の直弟子であり、その師匠である日恭が「大聖人大慈の御誡(おんいましめ)」、罰を蒙った等の直截な言い方をしては、大橋には酷である、そう配慮してか「二階住いはやめなさいと注意した……原因結果しかない」との、卑近な例をもって説明するに留めたと思えるのである。
(続く)
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