日顕宗の「妄説:96」を破折する(その五) 連載144回
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:96」を破折する(その五) 連載144回
妄説:96 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違(たが)ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承(う)くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 1-176頁)
〔御文証の解釈〕
御本仏への信心が、不善・不浄の邪心・迷信となり、仏意に背く姿となったときには、御本仏からの法水は、通路がふさがってしまい流れません。根本に信順しなければ、迷いの衆生となり、即身成仏の血脈・信心の血脈を受ける資格が消滅してしまいます。
〔創価学会の解釈〕
○日顕(上人)は、仏意仏勅の学会を破門し、仏意に背(そむ)いた邪信の徒であり、「即身成仏の血脈」を受ける資格を失っている。よって御本尊を書写し、下付する資格も消滅した。(聖教新聞 H五・九・一九 取意)
〔創価学会の解釈に対する破折〕
この御文は「信心の血脈」についての一段ですが、学会は「学会こそ仏意仏勅の団体」という前提に基づいて、その学会を破門した日顕上人と宗門こそ「悪」であり「仏意に背いた邪信の徒」と解釈しています。
しかし、仏意とは御本仏日蓮大聖人のお心であり、それは血脈相承として御歴代上人に受け継がれています。
創価学会は昭和二十六年、宗教法人を取得する時に宗門と約束をしました。それは、
①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
②当山の教義を守ること
③仏法僧の三宝を守ることの三ヶ条を遵守(じゅんしゅ)することです。
以来、総本山大石寺を根本と仰ぎ、この大原則を守りつつ宗門外護と、広宣流布への前進があったことは周知の事実です。
しかし正本堂建立のころから、徐々(じょじょ)に仏法上の逸脱が現われ始め、ついに「昭和五十二年路線」で当初の三ヶ条の約束を完全に破棄し、学会は「仏意に従う団体」の資格を自ら放棄したのです。一度(ひとたび)は日達上人に謝罪し、反省をしたうえで正道に進むことを誓いましたが、平成二年の末に至り、その反省が虚偽であったことが明らかになりました。
宗門から仏法の道理に基づく教導を受けながらも、「仏意に違う」姿となって反目し、誹謗を繰り返し、自らの団体が定めた基本原則をも捨て去ったために、学会は破門となったのです。
「即身成仏の血脈」を受ける資格を失ったのは創価学会なのです。
この御文の真意は、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人血脈相承を「仏意」と拝さなければ正しく理解できないのです。
破折:
12.大石寺炎上
日蓮大聖人の正義を奉じたゆえに、官憲の咎めるところとなった牧口会長は、昭和十九年十一月十八日、巣鴨拘置所で七十三年の死身弘法の生涯を閉じた。
その翌年、昭和二十年六月十七日の午後十時半ごろ、大石寺の大奥対面所の裏より火災が発生した。それは大奥・大書院・六壺・客殿など五百余坪を焼失し、翌朝四時ごろまで続く大火となった。
火がおさまって後、大奥(法主の居室)の焼け跡から、二階に泊まっていた管長、鈴木日恭の焼死体が発見された。大石寺の火災で死亡したのは、日恭ただ一人であった。
(1)火災の原因
① 宗門の公式記録 ~〝朝鮮兵の放火〟と捏造
火災の原因は何であったか、どうして法主は焼死したのか。宗門の公式記録文書には次の通り綴られる。
◇
先づ其の出火から言えば、大石寺大奥の管長居室は二階建の座敷であつて、其の三間程距てた所に応接室の對面所という建物があつた。世界大戰も漸く苛烈になつて來て、陸軍では朝鮮の人達を悉く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめて居たが、大石寺も其の宿舎となつた為め数百名の朝鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊して居つた。そして此れを訓練する將校が二十数名も對面所に宿泊していたのである。
丁度静岡市空襲の晩に此れ等の兵隊がガソリンを撒布して、將校室となつていた其の對面所の裏側の羽目に火を付けたのである。其の為め火は一瞬にして建物の全部に燃え上つたのである。其れが為めに將校は身の廻りの者(ママ)を持つて僅か三尺の縁側の外に逃げるのが漸くであつたのである。火はやはり殆ど同時に管長室に燃え上つたのである。侍僧は階下に寝ていたが、反対側の窓を破つて、之れまた漸く逃れたのである。此時には一山の者が駆けつけたが、最早や、手の施し樣もなかつたのであつて、忽ちのうちに二階建は焼失して了つたのである。一同は其れよりも延焼を防ぐべく努力したが、遂に客殿、書院、土蔵を灰燼に帰せしめたのである。
(『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』日蓮正宗布教会〈代表・細井精道〉昭和三十一年発行)
だが、この公式記録文書は極めて信用し難い。
◇
同書は大石寺の出火の原因を朝鮮兵農耕隊になすりつけ、それも放火によるとした。これは、まったく許すことのできない捏造である。
捏造のボロは出るもので、静岡空襲があったのは六月十九日深夜から二十日にかけてであり、大石寺に大火があったのは、同月十七日夜から十八日未明にかけてである。日時が違っている。
(『暁闇』北林芳典著 報恩社 発売日:2002.12)
日時を誤るなど記録書として杜撰であり、また放火と断定し、犯人を特定するが、何の証拠も挙げていない。
1.放火現場を目撃した者は、誰か。
2.ガソリン散布の痕跡・証拠物件等は、確認されたか。
3.警察の検証結果に、どう記されたか。
本書の記載とは裏腹に、その様に決めつけた意図が問われる結果となっている。すなわち犯人は「内部以外の者」でなければならぬ、との宗門の意向が読み取れるのである。
② 河辺慈篤の証言 ~〝所化の寝タバコ〟から類焼
火災現場に居あわせた者からの証言を聞き取った者が複数いる。証言者の名は、河辺慈篤。火災当日に、六十二世鈴木日恭法主の奥番の勤務にあった。
◇
河辺はこの時、出火の原因についても言及し、
「ともにいた所化の増田壌允が自分のところに来て、『今、押入れの中で煙草吸ってて、ボヤを出しそうになった』と言ったので、『ちゃんと始末したか』と聞いたら、『小便かけて火は消した』と答えたので安心して寝ていたところ、一時間くらいして火事になった」
と述べた。河辺の分析では、布団の綿についた火は消えにくいので「小便」くらいでは消えなかったのだろう、ということだった。
(前出『暁闇』)
出火の原因は、所化による「タバコの火の不始末」であったと言う。もとよりオフレコであるが、火災当日の法主の侍僧の発言には、説得力がある。
寝タバコが火元ならば、兵隊やガソリンの出番はない。しかし宗門としては、「宗門在籍者の不祥事がもとで管長を焼死させてしまった」と、宗史に載せることはできず、〝見てきた様な嘘〟をつくしかない――。
作り話で他人に罪をなすりつけ、事件を取り繕うとしたことは、宗教者として決して許されない。だが、これが宗門の体質である。
ともかく「唯授一人血脈相承」は、法主の死亡で断裂してしまったことは間違いない。
(2)法主の遺体
① 宗門の公式記録 ~「法主は自決」
公式記録の続きである。
◇
夜が明けて、さっそく管長室のあたりを調べたところ、日恭上人の御遺骸を灰の中に見出したのであった。一山の大衆はじめ村人も、ただただ涙にくれるばかりであった。それで、その御遺骸を、慎んで御墓所に埋葬申し上げたのである。何にせよ、夜を日についでの空襲に、戦火相次ぐ時、葬送は一山と近隣の村人で虔修したのである。
その後、話は、その日一日の上人の御様子のことが折りにふれて語られるのであるが、各人の語る結論は、上人が覚悟の上で焼死をなされたということである。(中略)
また灰燼の中から上人の御遺骸を見出したのであるが、それは御寝所の部屋でなく、御内仏安置の部屋であり、その御内仏の前あたりにうつ伏せになっておられたと思われる姿勢が拝せられたこと、その他いくつも話はあるが、いずれ上人が戦場のごとき大石寺に於て兵火の発するのを見て、ついに力の及ばざるを御考えなされて、むしろ自決なされたと拝せられる。
(前出『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』)
② 河辺慈篤の手記 ~「法主の覚悟」
もう一つ、公式記録ではないが、法主の焼死を物語る者の手記がある。記載者は、前項で火災原因を打ち明けた河辺慈篤である。
◇
その内に、背中の方が熱いので目を覚ますと、部屋の周圍のガラス戸が燃え、寝ている布団に燃え移っていた。私はビックリして飛び起き、大坊中庭を突っ切り、大奥階下に駆け付けた。O師と大奥階下東端の雨戸を蹴破ると、既に階下は猛煙に包まれ、入れる状態ではなかった。それでも何とか中に入ることが出来ないものかと、階下の周圍に右往左往しているところへ、誰かが「御前様は無事避難された」という声が聞こえたので、O師と私は「では御宝蔵だ」と、御宝蔵に駆け付けてみると、既に戒壇の御本尊と御宝物は無事避難された後だった。(中略)
火災が下火になった頃、誰かが「御前様の姿が見えない」と云い出した。全員が上人を必死になって捜したが上人を見つけることができなかった。私はそれでもと思い、大奥焼け跡の焼棒杭(やけぼっくい)をどけながら、上人を捜していると、大奥二階の内仏安置の部屋の処に、上人が、お姿の上体を御宝蔵の方向に向かわれ、お頭は大腿部の間にお俯せになり、「覚悟の死」と思われるお姿で御遷化されておいでになった。この時、私は「もし御前様が避難しようと思えば、寝室の隣の部屋(内仏様御安置)に行くことが出来たくらいなのだから、北側のベランダのある部屋に御宝蔵側はガラス戸と欄干があり、そこから空襲時の用意に常備してあった非常梯子を使って避難出来たのに」と思った。しかし、今にして思うと、上人は當時の幾つかの決意を覚悟するものがあったと拝するのである。(中略)
上人が戒壇の大御本尊に向かわれ、お詫び申し上げる姿勢で御遷化されていたことは、その御覚悟の姿と拝するものである云云。
(「日恭上人第五十回遠忌御逮夜法要」の折、遺弟代表の大橋慈譲〈神奈川・正継寺〉の追憶談において紹介した河辺慈篤の手記より〈『大白法』H6.7.1〉)
宗門の公式文書と、法主の奥番(侍僧)であった河辺慈篤の手記とは、内容がほぼ一致する(一致しないと具合が悪い)。
③ 『地涌』からの通信 ~ 峻厳なる罰の姿
ところが、宗門による一方的破門通告(1991年〈平成3年〉11月28日)が出された後、それまでの日恭焼死の公式記録内容を覆す出版物が発刊された。
◇
「昭和二十年六月十七日、大石寺は炎に包まれた。対面所裏より出火した炎は対面所、客殿、六壺、大奥などを焼き尽くした。朝四時まで燃え盛ったといわれる炎は、第六十二世日恭の生命を奪った。焼け跡から発見された日恭の焼死体は、仏法の厳しさを示して余りあるものであった。日恭は、客殿一階部分の、主に従業員などが食事をしていた食堂の一角にあった竈(かまど)で発見されたのである。日恭は竈の中に下半身が嵌まり込み焼け死んでいた。しかも無残なことには、下半身と腹わたは焼けず、生身のままで上半身のみ黒焦げとなって死んでいたのであった。
日恭は前日、静養先の隠居所からたまたま大石寺に戻り、火事の夜、客殿二階にあった管長室に泊まった。日恭は巨躯と病気のために歩行困難であった。
その日恭が火に巻かれ、速やかに逃げることができなかったのは無理からぬことであった。恐らくは火事のため客殿二階の床が焼け落ち、日恭は一階に落ち、意識のあるまま竈に嵌まり込み、逃げるに逃げられないまま焼け死んだと思われる。上半身のみ焼け、下半身と腹わたが残った死体が、そのことを物語っている。
時の法主が本山で無残な焼死をしたことは、仏法の因果からして当然のことであった。軍部の猛威を前にして恐怖し、御書削除、御観念文の改竄、そして神札甘受と大聖人の教えを次々と打ち捨て、その上あろうことか、仏意仏勅の団体である創価学会(当時・創価教育学会)を自己保身の故に見捨てた宗門に、厳罰が下ったのだ」(筆者注 日恭は大奥に隣接する「奥台所」の竈にはまり込み焼け死んだと、後に判明した)
(「『地涌』からの通信・別巻(1)資料編」著者:不破優 はまの出版 1993年3月22日初版発行 引用:『地涌』第679号 1993年7月15日)
宗門側の反論に対し、『地涌』はこう書いている。
◇
この文について『慧妙』は、「読むも汚らわしい文章だが、『文は人なり』とはこのことであろう。学会の御歴代を貶(おとし)めんとする体質がにじみ出ているではないか」と、反論の冒頭に書いている。
まず、念を押しておきたいのは、「『地涌』からの通信・別巻(1)資料編」の発行者は、日蓮正宗自由通信同盟の不破優で「学会」ではない。今後ともくれぐれも間違わないよう気をつけてもらいたい。
では、本論に入る。この文章は、「御歴代を貶めんとする」目的で決して書いたのではない。仏法の因果律の厳しさを読者に知ってもらおうとしたものである。したがって、この文章それ自体が汚らわしいのではなく、日恭の死が汚らわしいのである。
この事実を、まず明確に認識する必要がある。竈に嵌まり込み、上半身が焼け焦げ下半身と腹ワタが焼け残った死体について、耽美的な文章をもって表現できる人はいない。
(前出『地涌』第679号』
前述の記事内容につき、後日に判明した事実は次の通りである。
◇
日恭がはまり込んだ竈は、日恭が寝所として使っていた二階建ての建物に接する平屋の奥台所(対面所とは三尺の廊下を隔て、向かい合う)の竈と思われる。おそらくは寝所二階より奥台所の屋根づたいに逃げようとして、屋根を踏み抜き、竈にはまり込み逃げるに逃げられず、生きながら焼かれ死んだものと推測される。
(『地涌』第888号 1995年11月5日)
日恭焼死の真相を明かした者、それは前述の「日恭上人第五十回遠忌」において、遺弟代表の大橋慈譲が読み上げた手記を書いた人物、すなわち河辺慈篤である。
④ 河辺が法主焼死の真相を語る
河辺慈篤から日恭焼死の様子を聞いた人物による証言である。
◇
所化として当時、現場にいた河辺慈篤に私は、鈴木日恭の死の真相を聞いたことがある。
「日恭上人が亡くなられた時は、どんな様子だったんですか?」
河辺からは思いもよらぬ言葉が発せられた。
「ありゃー、二回、焼いたんじゃ」
河辺は、火災がおさまった後、鈴木日恭の姿が見当たらないので、必死になって探し灰燼の中から発見したと話した。河辺によれば、発見された鈴木日恭の遺体は凄惨を極めており、大奥の大釜の中に太った身体がずっぽりとはまり、はらわたが生焼けとなり、上半身黒焦げだったという。河辺の目撃談を私は東京・新橋の第一ホテルで聞いた。(中略)私が河辺から鈴木日恭の焼死について聞いた時は、後藤隆一(元(財)東洋哲学研究所所長)も同席していた。
(前出『暁闇』)
河辺の目撃談を聞いた人は、他にもいたらしい。
◇
所化時代、この焼死体を現場で目撃した河辺は近年、瞼に焼きついた衝撃のもようを、
「アレ(日恭)は二度、焼いたんじゃ……」
と、改めて半焼けの死体を荼毘に付したことを述べ、前記した日恭の死体のもようを知人に語っていたということである。
(前出『地涌』第888号)
この峻厳なる事実から導き出されること、それは御書の仰せをあだおろそかにする者は、法主と言えど臨終の際、恐ろしい相を現ずるということである。
顕立正意抄(五三七㌻)にいわく、
「我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず等云云」
(我が弟子らのなかにも、信心薄い者は臨終のときに阿鼻地獄の相を現ずるであろう。そのときに日蓮を恨んではならない)
⑤ 河辺の脳裏に刻まれた悪夢
当時の状況を再現した実録小説から、火災現場での緊迫した様子がうかがえる。
◇
紅蓮の炎が空に向かって咆哮しながら客殿を覆った。
その炎は野に放たれた獣のように暴れ狂い、大石寺を飲み込もうとしていた。顔を向けるだけで皮膚が焦げ付く火炎の熱さに誰も近づけない。その地獄の業火の如き炎が蛇のように頭をもたげ、自分に襲いかかってくる。叫び声をあげる気管が熱で焼かれ、その苦しさから自分で自分の首を掻きむしる――そんな悪夢に何度もうなされた河辺慈篤は、宗門の秘史として自分が目撃した生々しい光景を何人かだけに語ったことがある。
「御前さんは、竈の中に下半身がはまり込んだまま焼け死んでいた。上半身だけが黒焦げで下半身と腸は生焼けだった。逃げ遅れたんだ。そして、大奥の二階が崩れ落ちた時に、御前さんも一階の食堂に落ち、そのまま竈にはまったに違いない……」
初めて話を聞いた者は、その酸鼻な情景を思い浮かべ、文字どおり息をのんだ。竈にはまって動けないまま焼け死ぬ。まるで地獄絵図だ。聞いてはいけない話を聞いてしまったと後悔する者もいた。
昭和二十年六月十七日、午後十時半頃、大奥対面所裏の部屋から出火した炎は翌朝四時まで燃えつづけ、大奥対面所だけでなく客殿、書院、六壺などを焼き尽くした。この時、河辺は所化として本山にいた。
「火事だ!」という誰かのわめき声に驚いて寝床を飛び出した河辺や本山の僧侶たちは慌てて、日恭法主を捜し回った。日恭法主はその火事の前日に静養先の隠居所から大石寺に戻り、大奥に泊まっていたのだ。
河辺ともう一人の所化が大坊の廊下を走って大奥へ行こうとしたが、生命を持ったように暴れる炎が彼らの行く手を阻んだ。二人はいったん外に出て、大回りをしてようやく大奥に駆け付けた。しかし、大奥の雨戸は閉まっており、中からカンヌキが掛かっていて開けることができない。
河辺は「御前様はどちらに!」と叫んだ。本山の僧侶たちは混乱していた。ある者は「学寮にいらっしゃるはずだ」と言い、またある者は「きっと寿命寺に避難されたに違いない」と言う。河辺らはやみくもに本山の中を走り回った。蓮蔵坊にも行ってみたが、そこにも日恭法主の姿はなかった。
ある僧侶は付近の檀家の家の、玄関の戸を叩きながら、「御前さんを見かけませんでしたか?」と尋ねて歩いた。そのただならない様子に檀家たちも何か大変なことが起こっていると感じた。
木造の建物は一度燃え出すとその火の勢いは時間とともに増していく。消防団が駆けつけたが消火作業は遅々として進まず、とても誰か人を捜索できる状態ではなかった。あとは火がおさまるのを待つしか手立てはなかった。
六時間にも及んだ火の手の勢いは本山の東側の建物すべてを焼き尽くし、ようやく満足したかのように弱まった。そして、夜が明けてから現場検証が始まった。ところどころで火はまだ踊るように揺れ、息をするとむせるほど煙は充満していた。
本山の役僧たちは消防団員と一緒に、まだくすぶっている残骸をよけながら、まっすぐ大奥に向かって足を急がせた。しかし、大奥があった場所のすぐ手前まで来たところで、皆、足がすくんで動けなくなった。そこはちょうど大奥の食堂があったところだ。そしてそこには大きな竈が焼けただれてはいたが、その形状のまま残っていた。そしてその竈の中から黒い物体が木が生えたように突き出ている。役僧たちの後に付いてきた河辺は煙でしみる目をこすって視線を凝らした。それが人間の屍骸だと気づくまで数秒かかった。
「ああー」
河辺は言葉にならないうめき声をあげた。
焼け跡から発見された日恭法主の焼死体の詳細な状況は長い間、ごくわずかな者しか知らなかった。それは、あまりにも無残な姿であった。
(『転落の法主』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 エバラオフィス 2004年4月)
⑥ 河辺発言の真意
河辺慈篤が洩らした六十二世鈴木日恭法主の焼死の有り様は、「日恭上人第五十回遠忌」の折に読み上げられた、河辺本人の手記内容とは大違いである。同一人による証言が、ここまで異なるものか。
河辺の打明け話は、もとよりオフレコである。宗門にはすでに公式記録が存在する以上、一個人として何を表明できようか。
宗門はこの話を「毒々しい作り話」「与太話」「頭の中で作り上げた、妄想の産物」等と言う。しかし、「法主の奥番」という目撃証言者として最重要の立場にあった僧、河辺慈篤から聞いた話とあれば、与太話では済まない。
現場にいた者でなければ、誰もが耳を疑う衝撃的な言葉が、妄想だけで出るわけがない。
だが、河辺の話しぶりには明らかに「師匠への不遜の念」が感じられる。そもそもが、不祥事と言える「横死」の実態を暴くなど、師匠の恥をさらけ出すことになる。なぜ、そこまでするか。
前出の実録小説の筆者は、河辺の心理をこう読み解く。
◇
法主の無残な焼死体を直接見た体験は、河辺に大きな衝撃を与えた。しかも、日恭法主は河辺の師僧であった。その師が、たとえ法主でも地獄の業火に焼かれて死ぬこともある。果たして日顕の最期はどうなるのか。「C作戦」に深くかかわった自分もその罪を受けるのか。そんな底知れぬ不安のせいだろうか、河辺は、客殿の火事の悪夢を繰り返し見ていた。(前出『転落の法主』)
大聖人の誡めに違背し謗法を犯せば、法主であろうと横死に遭う。この厳粛な事実を目の当たりにした河辺には、もはや師匠への畏敬の念は消えていたのであろう。
宗門の側では、当時の消防団員の証言等をもって反論する。だが、法主の遺骸に実際に立ち会った関係者の多くは鬼籍に入っている。河辺の話を聞いた者で名前の挙がった後藤隆一氏も、近年(二〇〇九年十二月末)逝去した。歳月が流れ過ぎた今、これ以上の話が進展することはない。
宗門が学会破門等、破仏法の行為に及ぶことが無ければ、宗史における不祥事、ことに法主焼死の真相を聞いた者は、墓場まで持って行ったことであろう。だが、宗門が破和合僧の大罪を犯した上は、真実を明かし糾弾しないわけにはいかない。
我らとしては、一山の謗法の責めを負うべき法主に下った、因果律の果報の厳しさに慄然とするのである。
聖人御難事(一一九〇㌻)にいわく、
「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」
(過去および現在の末法の法華経の行者を軽蔑したり、賎しんだりする国王や臣や万民は、はじめは何事もないようであるが、必ず最後には滅亡の悲運に堕ちないものはない)
軍部政府に迎合し、難を避けるために、徹底して謗法を犯し大聖人に違背、あまつさえ大聖人の正義を訴えた真正の法華経の行者たる学会を破門・信徒除名とした宗門。世法は騙しおおせても、仏法の因果律からは逃れられない。
本山の大火災に加え、法主が焼死。この厳然たる罰こそ、宗門の諸悪を証明するものであった。
(続く)
妄説:96 「不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違(たが)ふ時は(中略)即身成仏の血脈を承(う)くべき資格消滅せり」(有師化儀抄註解・富要 1-176頁)
〔御文証の解釈〕
御本仏への信心が、不善・不浄の邪心・迷信となり、仏意に背く姿となったときには、御本仏からの法水は、通路がふさがってしまい流れません。根本に信順しなければ、迷いの衆生となり、即身成仏の血脈・信心の血脈を受ける資格が消滅してしまいます。
〔創価学会の解釈〕
○日顕(上人)は、仏意仏勅の学会を破門し、仏意に背(そむ)いた邪信の徒であり、「即身成仏の血脈」を受ける資格を失っている。よって御本尊を書写し、下付する資格も消滅した。(聖教新聞 H五・九・一九 取意)
〔創価学会の解釈に対する破折〕
この御文は「信心の血脈」についての一段ですが、学会は「学会こそ仏意仏勅の団体」という前提に基づいて、その学会を破門した日顕上人と宗門こそ「悪」であり「仏意に背いた邪信の徒」と解釈しています。
しかし、仏意とは御本仏日蓮大聖人のお心であり、それは血脈相承として御歴代上人に受け継がれています。
創価学会は昭和二十六年、宗教法人を取得する時に宗門と約束をしました。それは、
①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
②当山の教義を守ること
③仏法僧の三宝を守ることの三ヶ条を遵守(じゅんしゅ)することです。
以来、総本山大石寺を根本と仰ぎ、この大原則を守りつつ宗門外護と、広宣流布への前進があったことは周知の事実です。
しかし正本堂建立のころから、徐々(じょじょ)に仏法上の逸脱が現われ始め、ついに「昭和五十二年路線」で当初の三ヶ条の約束を完全に破棄し、学会は「仏意に従う団体」の資格を自ら放棄したのです。一度(ひとたび)は日達上人に謝罪し、反省をしたうえで正道に進むことを誓いましたが、平成二年の末に至り、その反省が虚偽であったことが明らかになりました。
宗門から仏法の道理に基づく教導を受けながらも、「仏意に違う」姿となって反目し、誹謗を繰り返し、自らの団体が定めた基本原則をも捨て去ったために、学会は破門となったのです。
「即身成仏の血脈」を受ける資格を失ったのは創価学会なのです。
この御文の真意は、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人血脈相承を「仏意」と拝さなければ正しく理解できないのです。
破折:
12.大石寺炎上
日蓮大聖人の正義を奉じたゆえに、官憲の咎めるところとなった牧口会長は、昭和十九年十一月十八日、巣鴨拘置所で七十三年の死身弘法の生涯を閉じた。
その翌年、昭和二十年六月十七日の午後十時半ごろ、大石寺の大奥対面所の裏より火災が発生した。それは大奥・大書院・六壺・客殿など五百余坪を焼失し、翌朝四時ごろまで続く大火となった。
火がおさまって後、大奥(法主の居室)の焼け跡から、二階に泊まっていた管長、鈴木日恭の焼死体が発見された。大石寺の火災で死亡したのは、日恭ただ一人であった。
(1)火災の原因
① 宗門の公式記録 ~〝朝鮮兵の放火〟と捏造
火災の原因は何であったか、どうして法主は焼死したのか。宗門の公式記録文書には次の通り綴られる。
◇
先づ其の出火から言えば、大石寺大奥の管長居室は二階建の座敷であつて、其の三間程距てた所に応接室の對面所という建物があつた。世界大戰も漸く苛烈になつて來て、陸軍では朝鮮の人達を悉く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめて居たが、大石寺も其の宿舎となつた為め数百名の朝鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊して居つた。そして此れを訓練する將校が二十数名も對面所に宿泊していたのである。
丁度静岡市空襲の晩に此れ等の兵隊がガソリンを撒布して、將校室となつていた其の對面所の裏側の羽目に火を付けたのである。其の為め火は一瞬にして建物の全部に燃え上つたのである。其れが為めに將校は身の廻りの者(ママ)を持つて僅か三尺の縁側の外に逃げるのが漸くであつたのである。火はやはり殆ど同時に管長室に燃え上つたのである。侍僧は階下に寝ていたが、反対側の窓を破つて、之れまた漸く逃れたのである。此時には一山の者が駆けつけたが、最早や、手の施し樣もなかつたのであつて、忽ちのうちに二階建は焼失して了つたのである。一同は其れよりも延焼を防ぐべく努力したが、遂に客殿、書院、土蔵を灰燼に帰せしめたのである。
(『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』日蓮正宗布教会〈代表・細井精道〉昭和三十一年発行)
だが、この公式記録文書は極めて信用し難い。
◇
同書は大石寺の出火の原因を朝鮮兵農耕隊になすりつけ、それも放火によるとした。これは、まったく許すことのできない捏造である。
捏造のボロは出るもので、静岡空襲があったのは六月十九日深夜から二十日にかけてであり、大石寺に大火があったのは、同月十七日夜から十八日未明にかけてである。日時が違っている。
(『暁闇』北林芳典著 報恩社 発売日:2002.12)
日時を誤るなど記録書として杜撰であり、また放火と断定し、犯人を特定するが、何の証拠も挙げていない。
1.放火現場を目撃した者は、誰か。
2.ガソリン散布の痕跡・証拠物件等は、確認されたか。
3.警察の検証結果に、どう記されたか。
本書の記載とは裏腹に、その様に決めつけた意図が問われる結果となっている。すなわち犯人は「内部以外の者」でなければならぬ、との宗門の意向が読み取れるのである。
② 河辺慈篤の証言 ~〝所化の寝タバコ〟から類焼
火災現場に居あわせた者からの証言を聞き取った者が複数いる。証言者の名は、河辺慈篤。火災当日に、六十二世鈴木日恭法主の奥番の勤務にあった。
◇
河辺はこの時、出火の原因についても言及し、
「ともにいた所化の増田壌允が自分のところに来て、『今、押入れの中で煙草吸ってて、ボヤを出しそうになった』と言ったので、『ちゃんと始末したか』と聞いたら、『小便かけて火は消した』と答えたので安心して寝ていたところ、一時間くらいして火事になった」
と述べた。河辺の分析では、布団の綿についた火は消えにくいので「小便」くらいでは消えなかったのだろう、ということだった。
(前出『暁闇』)
出火の原因は、所化による「タバコの火の不始末」であったと言う。もとよりオフレコであるが、火災当日の法主の侍僧の発言には、説得力がある。
寝タバコが火元ならば、兵隊やガソリンの出番はない。しかし宗門としては、「宗門在籍者の不祥事がもとで管長を焼死させてしまった」と、宗史に載せることはできず、〝見てきた様な嘘〟をつくしかない――。
作り話で他人に罪をなすりつけ、事件を取り繕うとしたことは、宗教者として決して許されない。だが、これが宗門の体質である。
ともかく「唯授一人血脈相承」は、法主の死亡で断裂してしまったことは間違いない。
(2)法主の遺体
① 宗門の公式記録 ~「法主は自決」
公式記録の続きである。
◇
夜が明けて、さっそく管長室のあたりを調べたところ、日恭上人の御遺骸を灰の中に見出したのであった。一山の大衆はじめ村人も、ただただ涙にくれるばかりであった。それで、その御遺骸を、慎んで御墓所に埋葬申し上げたのである。何にせよ、夜を日についでの空襲に、戦火相次ぐ時、葬送は一山と近隣の村人で虔修したのである。
その後、話は、その日一日の上人の御様子のことが折りにふれて語られるのであるが、各人の語る結論は、上人が覚悟の上で焼死をなされたということである。(中略)
また灰燼の中から上人の御遺骸を見出したのであるが、それは御寝所の部屋でなく、御内仏安置の部屋であり、その御内仏の前あたりにうつ伏せになっておられたと思われる姿勢が拝せられたこと、その他いくつも話はあるが、いずれ上人が戦場のごとき大石寺に於て兵火の発するのを見て、ついに力の及ばざるを御考えなされて、むしろ自決なされたと拝せられる。
(前出『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』)
② 河辺慈篤の手記 ~「法主の覚悟」
もう一つ、公式記録ではないが、法主の焼死を物語る者の手記がある。記載者は、前項で火災原因を打ち明けた河辺慈篤である。
◇
その内に、背中の方が熱いので目を覚ますと、部屋の周圍のガラス戸が燃え、寝ている布団に燃え移っていた。私はビックリして飛び起き、大坊中庭を突っ切り、大奥階下に駆け付けた。O師と大奥階下東端の雨戸を蹴破ると、既に階下は猛煙に包まれ、入れる状態ではなかった。それでも何とか中に入ることが出来ないものかと、階下の周圍に右往左往しているところへ、誰かが「御前様は無事避難された」という声が聞こえたので、O師と私は「では御宝蔵だ」と、御宝蔵に駆け付けてみると、既に戒壇の御本尊と御宝物は無事避難された後だった。(中略)
火災が下火になった頃、誰かが「御前様の姿が見えない」と云い出した。全員が上人を必死になって捜したが上人を見つけることができなかった。私はそれでもと思い、大奥焼け跡の焼棒杭(やけぼっくい)をどけながら、上人を捜していると、大奥二階の内仏安置の部屋の処に、上人が、お姿の上体を御宝蔵の方向に向かわれ、お頭は大腿部の間にお俯せになり、「覚悟の死」と思われるお姿で御遷化されておいでになった。この時、私は「もし御前様が避難しようと思えば、寝室の隣の部屋(内仏様御安置)に行くことが出来たくらいなのだから、北側のベランダのある部屋に御宝蔵側はガラス戸と欄干があり、そこから空襲時の用意に常備してあった非常梯子を使って避難出来たのに」と思った。しかし、今にして思うと、上人は當時の幾つかの決意を覚悟するものがあったと拝するのである。(中略)
上人が戒壇の大御本尊に向かわれ、お詫び申し上げる姿勢で御遷化されていたことは、その御覚悟の姿と拝するものである云云。
(「日恭上人第五十回遠忌御逮夜法要」の折、遺弟代表の大橋慈譲〈神奈川・正継寺〉の追憶談において紹介した河辺慈篤の手記より〈『大白法』H6.7.1〉)
宗門の公式文書と、法主の奥番(侍僧)であった河辺慈篤の手記とは、内容がほぼ一致する(一致しないと具合が悪い)。
③ 『地涌』からの通信 ~ 峻厳なる罰の姿
ところが、宗門による一方的破門通告(1991年〈平成3年〉11月28日)が出された後、それまでの日恭焼死の公式記録内容を覆す出版物が発刊された。
◇
「昭和二十年六月十七日、大石寺は炎に包まれた。対面所裏より出火した炎は対面所、客殿、六壺、大奥などを焼き尽くした。朝四時まで燃え盛ったといわれる炎は、第六十二世日恭の生命を奪った。焼け跡から発見された日恭の焼死体は、仏法の厳しさを示して余りあるものであった。日恭は、客殿一階部分の、主に従業員などが食事をしていた食堂の一角にあった竈(かまど)で発見されたのである。日恭は竈の中に下半身が嵌まり込み焼け死んでいた。しかも無残なことには、下半身と腹わたは焼けず、生身のままで上半身のみ黒焦げとなって死んでいたのであった。
日恭は前日、静養先の隠居所からたまたま大石寺に戻り、火事の夜、客殿二階にあった管長室に泊まった。日恭は巨躯と病気のために歩行困難であった。
その日恭が火に巻かれ、速やかに逃げることができなかったのは無理からぬことであった。恐らくは火事のため客殿二階の床が焼け落ち、日恭は一階に落ち、意識のあるまま竈に嵌まり込み、逃げるに逃げられないまま焼け死んだと思われる。上半身のみ焼け、下半身と腹わたが残った死体が、そのことを物語っている。
時の法主が本山で無残な焼死をしたことは、仏法の因果からして当然のことであった。軍部の猛威を前にして恐怖し、御書削除、御観念文の改竄、そして神札甘受と大聖人の教えを次々と打ち捨て、その上あろうことか、仏意仏勅の団体である創価学会(当時・創価教育学会)を自己保身の故に見捨てた宗門に、厳罰が下ったのだ」(筆者注 日恭は大奥に隣接する「奥台所」の竈にはまり込み焼け死んだと、後に判明した)
(「『地涌』からの通信・別巻(1)資料編」著者:不破優 はまの出版 1993年3月22日初版発行 引用:『地涌』第679号 1993年7月15日)
宗門側の反論に対し、『地涌』はこう書いている。
◇
この文について『慧妙』は、「読むも汚らわしい文章だが、『文は人なり』とはこのことであろう。学会の御歴代を貶(おとし)めんとする体質がにじみ出ているではないか」と、反論の冒頭に書いている。
まず、念を押しておきたいのは、「『地涌』からの通信・別巻(1)資料編」の発行者は、日蓮正宗自由通信同盟の不破優で「学会」ではない。今後ともくれぐれも間違わないよう気をつけてもらいたい。
では、本論に入る。この文章は、「御歴代を貶めんとする」目的で決して書いたのではない。仏法の因果律の厳しさを読者に知ってもらおうとしたものである。したがって、この文章それ自体が汚らわしいのではなく、日恭の死が汚らわしいのである。
この事実を、まず明確に認識する必要がある。竈に嵌まり込み、上半身が焼け焦げ下半身と腹ワタが焼け残った死体について、耽美的な文章をもって表現できる人はいない。
(前出『地涌』第679号』
前述の記事内容につき、後日に判明した事実は次の通りである。
◇
日恭がはまり込んだ竈は、日恭が寝所として使っていた二階建ての建物に接する平屋の奥台所(対面所とは三尺の廊下を隔て、向かい合う)の竈と思われる。おそらくは寝所二階より奥台所の屋根づたいに逃げようとして、屋根を踏み抜き、竈にはまり込み逃げるに逃げられず、生きながら焼かれ死んだものと推測される。
(『地涌』第888号 1995年11月5日)
日恭焼死の真相を明かした者、それは前述の「日恭上人第五十回遠忌」において、遺弟代表の大橋慈譲が読み上げた手記を書いた人物、すなわち河辺慈篤である。
④ 河辺が法主焼死の真相を語る
河辺慈篤から日恭焼死の様子を聞いた人物による証言である。
◇
所化として当時、現場にいた河辺慈篤に私は、鈴木日恭の死の真相を聞いたことがある。
「日恭上人が亡くなられた時は、どんな様子だったんですか?」
河辺からは思いもよらぬ言葉が発せられた。
「ありゃー、二回、焼いたんじゃ」
河辺は、火災がおさまった後、鈴木日恭の姿が見当たらないので、必死になって探し灰燼の中から発見したと話した。河辺によれば、発見された鈴木日恭の遺体は凄惨を極めており、大奥の大釜の中に太った身体がずっぽりとはまり、はらわたが生焼けとなり、上半身黒焦げだったという。河辺の目撃談を私は東京・新橋の第一ホテルで聞いた。(中略)私が河辺から鈴木日恭の焼死について聞いた時は、後藤隆一(元(財)東洋哲学研究所所長)も同席していた。
(前出『暁闇』)
河辺の目撃談を聞いた人は、他にもいたらしい。
◇
所化時代、この焼死体を現場で目撃した河辺は近年、瞼に焼きついた衝撃のもようを、
「アレ(日恭)は二度、焼いたんじゃ……」
と、改めて半焼けの死体を荼毘に付したことを述べ、前記した日恭の死体のもようを知人に語っていたということである。
(前出『地涌』第888号)
この峻厳なる事実から導き出されること、それは御書の仰せをあだおろそかにする者は、法主と言えど臨終の際、恐ろしい相を現ずるということである。
顕立正意抄(五三七㌻)にいわく、
「我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず等云云」
(我が弟子らのなかにも、信心薄い者は臨終のときに阿鼻地獄の相を現ずるであろう。そのときに日蓮を恨んではならない)
⑤ 河辺の脳裏に刻まれた悪夢
当時の状況を再現した実録小説から、火災現場での緊迫した様子がうかがえる。
◇
紅蓮の炎が空に向かって咆哮しながら客殿を覆った。
その炎は野に放たれた獣のように暴れ狂い、大石寺を飲み込もうとしていた。顔を向けるだけで皮膚が焦げ付く火炎の熱さに誰も近づけない。その地獄の業火の如き炎が蛇のように頭をもたげ、自分に襲いかかってくる。叫び声をあげる気管が熱で焼かれ、その苦しさから自分で自分の首を掻きむしる――そんな悪夢に何度もうなされた河辺慈篤は、宗門の秘史として自分が目撃した生々しい光景を何人かだけに語ったことがある。
「御前さんは、竈の中に下半身がはまり込んだまま焼け死んでいた。上半身だけが黒焦げで下半身と腸は生焼けだった。逃げ遅れたんだ。そして、大奥の二階が崩れ落ちた時に、御前さんも一階の食堂に落ち、そのまま竈にはまったに違いない……」
初めて話を聞いた者は、その酸鼻な情景を思い浮かべ、文字どおり息をのんだ。竈にはまって動けないまま焼け死ぬ。まるで地獄絵図だ。聞いてはいけない話を聞いてしまったと後悔する者もいた。
昭和二十年六月十七日、午後十時半頃、大奥対面所裏の部屋から出火した炎は翌朝四時まで燃えつづけ、大奥対面所だけでなく客殿、書院、六壺などを焼き尽くした。この時、河辺は所化として本山にいた。
「火事だ!」という誰かのわめき声に驚いて寝床を飛び出した河辺や本山の僧侶たちは慌てて、日恭法主を捜し回った。日恭法主はその火事の前日に静養先の隠居所から大石寺に戻り、大奥に泊まっていたのだ。
河辺ともう一人の所化が大坊の廊下を走って大奥へ行こうとしたが、生命を持ったように暴れる炎が彼らの行く手を阻んだ。二人はいったん外に出て、大回りをしてようやく大奥に駆け付けた。しかし、大奥の雨戸は閉まっており、中からカンヌキが掛かっていて開けることができない。
河辺は「御前様はどちらに!」と叫んだ。本山の僧侶たちは混乱していた。ある者は「学寮にいらっしゃるはずだ」と言い、またある者は「きっと寿命寺に避難されたに違いない」と言う。河辺らはやみくもに本山の中を走り回った。蓮蔵坊にも行ってみたが、そこにも日恭法主の姿はなかった。
ある僧侶は付近の檀家の家の、玄関の戸を叩きながら、「御前さんを見かけませんでしたか?」と尋ねて歩いた。そのただならない様子に檀家たちも何か大変なことが起こっていると感じた。
木造の建物は一度燃え出すとその火の勢いは時間とともに増していく。消防団が駆けつけたが消火作業は遅々として進まず、とても誰か人を捜索できる状態ではなかった。あとは火がおさまるのを待つしか手立てはなかった。
六時間にも及んだ火の手の勢いは本山の東側の建物すべてを焼き尽くし、ようやく満足したかのように弱まった。そして、夜が明けてから現場検証が始まった。ところどころで火はまだ踊るように揺れ、息をするとむせるほど煙は充満していた。
本山の役僧たちは消防団員と一緒に、まだくすぶっている残骸をよけながら、まっすぐ大奥に向かって足を急がせた。しかし、大奥があった場所のすぐ手前まで来たところで、皆、足がすくんで動けなくなった。そこはちょうど大奥の食堂があったところだ。そしてそこには大きな竈が焼けただれてはいたが、その形状のまま残っていた。そしてその竈の中から黒い物体が木が生えたように突き出ている。役僧たちの後に付いてきた河辺は煙でしみる目をこすって視線を凝らした。それが人間の屍骸だと気づくまで数秒かかった。
「ああー」
河辺は言葉にならないうめき声をあげた。
焼け跡から発見された日恭法主の焼死体の詳細な状況は長い間、ごくわずかな者しか知らなかった。それは、あまりにも無残な姿であった。
(『転落の法主』青年僧侶改革同盟 渡辺雄範著 エバラオフィス 2004年4月)
⑥ 河辺発言の真意
河辺慈篤が洩らした六十二世鈴木日恭法主の焼死の有り様は、「日恭上人第五十回遠忌」の折に読み上げられた、河辺本人の手記内容とは大違いである。同一人による証言が、ここまで異なるものか。
河辺の打明け話は、もとよりオフレコである。宗門にはすでに公式記録が存在する以上、一個人として何を表明できようか。
宗門はこの話を「毒々しい作り話」「与太話」「頭の中で作り上げた、妄想の産物」等と言う。しかし、「法主の奥番」という目撃証言者として最重要の立場にあった僧、河辺慈篤から聞いた話とあれば、与太話では済まない。
現場にいた者でなければ、誰もが耳を疑う衝撃的な言葉が、妄想だけで出るわけがない。
だが、河辺の話しぶりには明らかに「師匠への不遜の念」が感じられる。そもそもが、不祥事と言える「横死」の実態を暴くなど、師匠の恥をさらけ出すことになる。なぜ、そこまでするか。
前出の実録小説の筆者は、河辺の心理をこう読み解く。
◇
法主の無残な焼死体を直接見た体験は、河辺に大きな衝撃を与えた。しかも、日恭法主は河辺の師僧であった。その師が、たとえ法主でも地獄の業火に焼かれて死ぬこともある。果たして日顕の最期はどうなるのか。「C作戦」に深くかかわった自分もその罪を受けるのか。そんな底知れぬ不安のせいだろうか、河辺は、客殿の火事の悪夢を繰り返し見ていた。(前出『転落の法主』)
大聖人の誡めに違背し謗法を犯せば、法主であろうと横死に遭う。この厳粛な事実を目の当たりにした河辺には、もはや師匠への畏敬の念は消えていたのであろう。
宗門の側では、当時の消防団員の証言等をもって反論する。だが、法主の遺骸に実際に立ち会った関係者の多くは鬼籍に入っている。河辺の話を聞いた者で名前の挙がった後藤隆一氏も、近年(二〇〇九年十二月末)逝去した。歳月が流れ過ぎた今、これ以上の話が進展することはない。
宗門が学会破門等、破仏法の行為に及ぶことが無ければ、宗史における不祥事、ことに法主焼死の真相を聞いた者は、墓場まで持って行ったことであろう。だが、宗門が破和合僧の大罪を犯した上は、真実を明かし糾弾しないわけにはいかない。
我らとしては、一山の謗法の責めを負うべき法主に下った、因果律の果報の厳しさに慄然とするのである。
聖人御難事(一一九〇㌻)にいわく、
「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」
(過去および現在の末法の法華経の行者を軽蔑したり、賎しんだりする国王や臣や万民は、はじめは何事もないようであるが、必ず最後には滅亡の悲運に堕ちないものはない)
軍部政府に迎合し、難を避けるために、徹底して謗法を犯し大聖人に違背、あまつさえ大聖人の正義を訴えた真正の法華経の行者たる学会を破門・信徒除名とした宗門。世法は騙しおおせても、仏法の因果律からは逃れられない。
本山の大火災に加え、法主が焼死。この厳然たる罰こそ、宗門の諸悪を証明するものであった。
(続く)
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