前回は→その⑥
彦島江ノ浦町6丁目の三菱重工業(株) 下関造船所のドックと巌流島の海底を いつも移動している岩があり、進水式のたびにその岩が泳いで来て邪魔をするので。
~以上~
願いを叶えてくれる岩とも言われているはずだ。なのに何故庭に置いたり、進水式で呪われたような出来事が起きる人が居たんだろう?要するに正反対な体験をした人が居たという事になります。はっきり私の考えを述べておきます。
【私は呪いは実在すると思っています】
何故ならこの岩は呪術をする時代のものだからです。日本各地に有ります。※呪いについては後述します。
私はおかしなことに気が付いた。それだけいわくつきなのに、説明が無いし、実はこの様に正面から見ると見えない位置に置かれているという事を後から知った。
↓こちらは彦島八幡宮様のhPより引用しました。泳ぐ石
あっそうか!この事が書いて有る一般の方の日記をやっと一つだけ見つけて気が付いたのですが、この泳ぎ岩は、私が撮影したこの写真だと赤い↓つまり岩の影にあるから真正面から見学した人には見えないようになっている!って事
私はこれを読んでピンときた。三菱ってそもそも地下家か、どっかの誰かさんと関係が有る家系の人間ではないのかな?と・・その訳はずっと私のブログを読んできた人達なら言わなくても何となくピント来ると思います。それでは私の直感が有っているかどうか?下記で検証していきます。
【ウィキペディアより引用まとめ】※青字はタカチホのツッコミです
岩崎家(いわさきけ)
称・清和源氏(河内源氏)武田氏流
種別:地下人 華族(男爵)
>既にビンゴですね【地下家】ってキーワード私は何度も出してきました。
日本の氏族で三菱財閥の創業者一族。創始者・岩崎弥太郎とその弟で2代目当主の岩崎弥之助の2家系からなる。
【①まずは弥太郎さんの方の系譜についての解説】
岩崎家の起源岩崎家は、俗に三井、住友とともに三大財閥家系であるが、三井、住友が300年以上の歴史を持つ御用商人なのに対して、三菱は、岩崎弥太郎が幕末・明治の動乱期に政商として、一代で巨万の利益を得、その後に繋がる礎を築いたという違いがある。
※政商とは?政府つまり政治家(政治)や官僚(行政)とのコネや癒着(官民癒着)により、優位に事業を進めた事業家、あるいは企業グループのこと。
弥太郎は天保5年、土佐国(現・高知県安芸市)の地下浪人(半農半士)・岩崎弥次郎とその妻・美和の長男として生まれた。地下浪人とは、郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曾祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。弥太郎が生まれた時代には、相次ぐ飢饉と一揆の影響を受け没落していた。岩崎家は甲斐武田家の当主武田信光の五男の一宮信隆(武田七郎)の子の岩崎貞隆(五郎貞経)が甲斐国山梨東郡(東八代郡)岩崎(現・山梨県甲州市勝沼町)を本拠に岩崎氏を称したことからはじまるというが、実際は、四国の土豪である山祇族の流れを汲む久米ないし三好との同流だったとする説がある。岩崎家が土佐に移った時期は不詳だが、当地では安芸氏、長宗我部氏、次いで山内氏に仕えた。弥太郎の上には姉・はつ、下には妹・さき、弟・弥之助がいる。本名は敏(のちに寛)というが、一生を通称の弥太郎で通した。母美和の実家が医師の家だったことから、幼少の頃から学問的環境に恵まれ、土佐藩随一の学者・吉田東洋の知遇を得、その門下生である後藤象二郎らとの交際を経て、坂本龍馬率いる海援隊での経理を担当し、出世の糸口となった。
※坂本竜馬と言えばグラバー邸:一説ではどのような疑惑が有ったのか?考えて見て下さい。
三菱財閥における岩崎家三菱財閥の本社たる三菱社(三菱合資会社、三菱本社)の社長の地位は、弥太郎→弥之助→久弥→小弥太と、兄弟家の長子系男子が交互に就いていた(久弥の長男・彦弥太も、一旦は小弥太に代わる三菱本社社長就任が内定していた)。このように、弥太郎、弥之助の兄弟家系で世襲し、同族で発展したことから、「独裁政治」と言われる。ちなみに三井は「番頭政治」、住友は「法治主義」と言われている。
岩崎家の同族主義が強かった三菱財閥に対し、有能な人材を多く配したことから三井財閥は、「人の三井」、住友家長・住友吉左衛門を財閥の象徴として、総理事を筆頭に傘下企業社長が実務を執り行った住友財閥は、「結束の住友」と言われている。これに対して、岩崎両家当主が常に実権社長としてリーダーシップを維持し、本社役員や傘下企業社長がその下に結集し、一丸となって事に当たるという特徴から、三菱財閥は、「組織の三菱」と言われている。岩崎弥太郎婚姻・家族関係弥太郎は喜勢夫人(高芝玄馬の次女)との間に長女・春路、長男・久弥、次女・磯路の1男2女をもうけ、さらに郷純造(実業家・郷誠之助の父)の四男・昌作を養子とした。昌作は岩崎家の養子となると同時に豊弥と改名し、後に分家した。豊弥の姉・幸子は2代目川崎八右衛門に嫁いでおり、郷家を通じて三菱財閥と東京川崎財閥は姻戚関係となった。豊弥の妻・武子は旧大和国郡山藩主・柳沢保申の三女で、豊弥・武子夫妻の長女は長く昭和天皇の侍従長を務め、エッセイストとしても知られる入江相政(藤原北家の支流御子左家の流れを汲む入江為守子爵の三男)に嫁いだ。入江の姉は高木正得子爵に嫁いだが、その次女・百合子が三笠宮崇仁親王と結婚して三笠宮妃となったので、岩崎家は入江家・高木家を通じて皇室とつながった。郷純造の異母妹の息子に帯広市議会議長を務めた中島武市がいるが、武市の孫娘がシンガーソングライターの中島みゆきなので、みゆきは岩崎豊弥の従弟の孫ということになる。春路はのちに内閣総理大臣となる加藤高明に嫁ぎ2男1女をもうけた。長女は岡部長景に嫁ぎ、長男は早世、次男・加藤厚太郎は東明火災海上保険(現・日新火災海上保険)の取締役を務めた。加藤厚太郎の義兄弟には九州朝日放送(テレビ朝日系列局)の会長を務めた團伊能(團遥香の曽祖父)、セイコーホールディングス創業者・服部金太郎の長男・服部玄三、旧公爵の佐佐木行忠がおり、團伊能の係累から鳩山一郎・鳩山威一郎・鳩山由紀夫・菊池大麓・
美濃部亮吉→美濃部達吉の身内
佐佐木行忠の係累から安西正夫・住友吉左衛門・堀田庄三・上原明・三木武夫・串田和美などがそれぞれ登場する。
磯路はのちに京都府知事となる木内重四郎に嫁ぎ3男2女をもうけた。そのうち次男は経済評論家の木内信胤である。また次女の夫は渋沢栄一の孫で、第一銀行副頭取・日本銀行総裁・大蔵大臣を歴任し、民俗学者でもあった渋沢敬三である。
※日本の近代資本主義の父とも言われる渋沢栄一の嫡孫。あれ渋沢栄一と言えば・・・
そう新一万円札の顔です
のんためニュース様より引用
なお木内重四郎・磯路夫妻の長男・良胤とその長男、すなわち重四郎の孫で岩崎弥太郎の曾孫にあたる昭胤はともに外交官で、元衆議院議員・木内孝胤は昭胤の次男で、岩崎弥太郎の玄孫にあたる。この他に弥太郎は6人の妾との間に6人の子供をもうけている。庶子のうち弥太郎の四女にあたる雅子は外務大臣・内閣総理大臣・衆議院議長を歴任した幣原喜重郎(幣原外交方針は欧米も評価。米TIME表紙を飾る初の日本政治家)と結婚した。喜重郎の兄は東洋史学者の幣原坦で、坦の孫が天体力学者で文化功労者の古在由秀(群馬県立ぐんま天文台名誉台長、東京大学・国立天文台・総合研究大学院大学名誉教授)である。また、喜重郎・雅子夫妻の次男は野村財閥の野村元五郎(初代野村徳七の子・2代徳七の弟。財閥解体時の野村合名会社代表社員)の娘と結婚した。同じく庶子で弥太郎の三男にあたる康弥は慶應義塾医学所の初代校長を務めた医師・松山棟庵の四女・としと結婚した。康弥の次女・喜代子は工作王と呼ばれた武田恭作の次男と結婚し、太田清蔵や櫻内義雄などと縁戚関係になった。地球科学者で熊本大学の教授を務めた岩崎泰頴は康弥・とし夫妻の嫡孫で、弥太郎の曾孫にあたる。また、泰頴と同じく地球科学者で京都大学名誉教授の鎮西清高は泰頴の妹を娶っており、鎮西は康弥の孫娘、すなわち弥太郎の曾孫と結婚したといえる。なお康弥・とし夫妻の三女・和歌子は市川毛織(現・イチカワ)の専務を務めた杉本甫に嫁ぎ、四女・寿々子は日本電子計算の社長を務めた勝田正之に嫁いだ。児童文学作家の勝田紫津子は勝田正之・寿々子夫妻の長女であり、康弥の孫娘すなわち弥太郎の曾孫にあたる。杉本家の係累には小川平吉や宮澤喜一、石橋正二郎などがいる。また、野村家の係累には高橋龍太郎や伊吹文明などがいる。
弥太郎の長男で三菱財閥三代目総帥となった岩崎久弥は寧子夫人(旧上総国飯野藩主・保科正益の長女)との間に長男・彦弥太(元三菱地所取締役)、次男・隆弥(元三菱製紙会長)、三男・恒弥(元東京海上火災保険常務)、長女・沢田美喜(エリザベス・サンダースホームの創立者)ら3男3女をもうけた寧子の実家・保科家の係累には戦後の三菱グループを代表する経営者である田実渉や牧田與一郎らがいる。なお、隆弥の長女と三女は船舶工学者・元良誠三と三菱商事の社長を務めた槙原稔(元経団連副会長、ダボス会議共同議長)にそれぞれ嫁いでおり、恒弥の妻は海軍中将・清河純一の長女である。また、長女・美喜の夫は元国連大使の澤田廉三で、その次男澤田久雄は歌手の安田祥子の夫、すなわち由紀さおりの義兄となる。
久弥の次女・澄子は甘露寺受長の弟・方房に、久弥の三女・綾子は福澤諭吉の孫・堅次に嫁いでいるが、甘露寺受長と保科正昭(正益の三男で岩崎久弥の義弟)はともに北白川宮能久親王の王女と結婚しているため、岩崎家は甘露寺家及び保科家を通じて旧皇族の北白川宮家と二重の姻戚関係にあるといえる。また福澤堅次・綾子夫妻の長男・雄吉は山武ハネウェル(現・アズビル)の社長・会長を歴任した山口利彦の長女と結婚しているが、山口の妻の甥すなわち雄吉の妻の従兄に作家の藤島泰輔がいる。藤島の妻はメリー喜多川で、ジャニーズ事務所創業者・ジャニー喜多川の姉にあたり、岩崎家は山口家・藤島家を通してジャニーズ事務所の創業家である喜多川家と縁戚関係になった。藤島家の係累には下河辺孫一や下河辺の孫で元フリッパーズ・ギターの小沢健二らがいる。
三菱財閥五代目総帥の岩崎彦弥太は佐竹東家(旧出羽国秋田藩主佐竹氏の分家)当主・佐竹義準男爵の次女にあたる操子夫人との間に、財閥解体がなければ三菱財閥七代代目総帥となるべき長男・岩崎寛弥ら1男3女をもうけた。寛弥は元三菱銀行取締役で、2008年7月23日に78歳で没するまで小岩井農牧の親会社・東山農事の社長を務めていた。建築家の国広ジョージは彦弥太の長女の長男であり、彦弥太の孫にあたる。また彦弥太の三女は元博報堂取締役の高島孝之に嫁いだが、高島家は三菱鉛筆(企業自体は三菱グループとは一切の資本・人的関係がない)と縁の深い一族である近藤家(後述する近藤廉平の一族とは無関係)や数原家、さらにその外戚である増岡家や大昭和製紙の創業家・斉藤家と繋がっている(このことについては別に1節を立てて後述)。麒麟麦酒執行役員の高島義彦は孝之の長男で彦弥太の孫にあたる。なお高島孝之の父方の祖父は心理学者の高島平三郎である。寛弥の妻は清水建設の前身・清水組の副社長を務めた清水俊雄の孫で、その係累からはトヨタ自動車の豊田家や住友銀行元会長の堀田庄三(加藤高明の係累でもある)、ヤマタネの創業者・山崎種二、森永製菓の創業家・森永家などが登場する。
なお、操子の兄・佐竹義利は三菱重工業を経て東洋製作所(三菱重工業とニチレイの合弁で設立。後に三菱重工業の完全子会社となる)社長に就いたが、義利の妻・厚は天文学者・平山信の三女である。平山家は坪井家(学者一族)
正田家(日清製粉グループのオーナー一族)※某皇后の実家ですよね
川上家(元東京電気保全社長家)と姻戚関係にあり、岩崎家 - 佐竹家 - 平山家は坪井家を通じて箕作家(日本最大の学者一族)と、川上家を通じて中曽根家(政治家一族)と、正田家を通じて皇室と繋がっているといえる。また、前述のように岩崎家は入江家および高木家を通じて現皇族の三笠宮家と姻戚関係にある上、甘露寺家及び保科家を通じて旧皇族の北白川宮家と二重の姻戚関係にあるので、岩崎家と皇室は四重に結ばれているといえる。また、中曽根家・川上家の係累には福田赳夫・福田康夫親子や、元フジテレビアナウンサーの千野志麻、前述の斎藤家、さらに斎藤家の外戚である豊田家や前述の清水家などがいる。 また、操子の姉(義準の長女)・高子は泉高勅に嫁いだが、泉は三井十一家の一つ「伊皿子家」の7代目当主・三井高寛の次男であり、ここで、三菱と三井という二大企業集団の創業家が姻戚関係で結ばれた事になる。
また岩崎家は佐竹家を通じて岩崎豊弥の実家・郷家とも姻戚関係で結ばれている。岩崎彦弥太の義父・佐竹義準は肥前国平戸藩第12代藩主・松浦詮の四男として生まれ佐竹東家の養嗣子となったが、松浦詮の三男、すなわち佐竹義準の三兄・稲葉正縄(山城国淀藩12代目藩主・稲葉正邦の養嗣子)の三女・英子が豊弥の末弟・郷朔雄(純造の九男で朔雄の次兄・誠之助の養嗣子となる)に嫁いでいる。すなわち彦弥太の妻と豊弥の弟の妻が従姉妹同士という関係であり、岩崎家と郷家は二重の姻戚関係にあるといえる。
~以上~
歌手の中島みゆきさんの名前も出てきたり有名事務所の社長の名前が出てきたり非常に興味深い家系でありますが、突っ込みどころが実に沢山有りますね。長くなるのでそこは後回しにします。
さて、スピ族さん。陰謀論者さん。貴方の言う批判の的にしたい上級国民てどこのどの関係をさすんだか?改めて考えて見てほしいです。
次回は、岩崎家の二大人物:弟で2代目当主の岩崎弥之助さんの家系についてご紹介したいと思います。
続きは→その⑧
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