the thing being twisted was not just wonderland but my values.

私は人生のほぼ10割を、ディズニー傘下の元でフラフラすることに費やしてきた人間だ。

私のディズニーの入り口は遡る事2X年前、WOWOWだかで放送されていた、ディズニー短編アニメーションの寄せ集めだかなんだかだったと思う。それから私は長い間、ディズニー傘下、ひいてはUSにて創られたコンテンツに触れる時間がほとんどだった。だから、国内アニメやゲームなどにはほぼ触れることがないまま大人になった。

ここ数年は特に、私が好きになるコンテンツが所謂"Woke culture"に属していることは多かった。Woke Cultureとは、社会的問題の認識がある、つまるところ「目覚めている」カルチャー全般を指す言葉で、日本語で近い表現だと「価値観がアップデートされているジャンル」だと思う。(今ではwokeという単語自体、右派から揶揄として使われたことが増えたけれど。)

私は社会の最先端を行き、世界で起こっている問題を取り入れていれながらストーリーを展開させるコンテンツが好きだったし、それを好きでいることも誇らしかった。いや、今も誇らしい。「ポリティカルコレクトネスのせいで世界は退屈になった」という言葉を、物語の深さと美しさ、そして面白さで踏み潰し、様々な人々に手を差し伸べる私の好きなコンテンツたち。それらは、白黒だった私の世界に色をつける事ができる可能性を教えてくれた。

しかしながら、同時に自分が知らないもの・見た事もないものに対する恐怖や嫌悪がどんどん増幅していたことも感じていた。特に、国内コンテンツに対する意識は、私の中で「woke cultureではない」というカテゴライズをし、あまり目にしないようにしていた。

それは、なにかの拍子に見たスクリーンショットに写っていた女の子の胸が異常に大きく性的客体化されていただとか、元ネタも知らないような二次創作にホモフォビア的言葉が使われているのを見かけたとか、ひいては好きなコンテンツが輸入された途端にジェンダーバイアス色の濃いマーケティングを打たれたとか、そんな事が積み重なったことがきっかけだったと思う。自分が生きている世界に蔓延した価値観の現実を目にするのが嫌で、見ないもの、としてカテゴライズして嫌悪していた。

そんな中で去年の冬頃にツイッターをウロウロしていた際、またま一つのツイッターアカウントを見つけた。「ディズニー Twisted Wonderlandの公式アカウント」とプロフィールにかいてあったと思う。

私はその時点でディズニーのゲームをほぼプレイしたことがなく、ツムツムだとかキングダムハーツは人伝の話でしか聞いた事がないし、その他のゲームに関しては全く実態を知らなかった。なんとなく気になってそのアカウントのツイートを遡ってみると、まだツイートは多くない様子だった。しかし、投稿されている画像を私は目にした際、状況を理解するまでに時間がかかった。

そこには、ディズニーヴィランズ(ディズニーの悪役たち)がリファレンス・またはインスパイア元となった、日本アニメ作画的な男の子(おそらく)が並んでいた。キャラクターの名前と、絵と、何か一言が添えられた画像が淡々とアップロードされており、思わず「ウケるんだけど」とRTをしたことも記憶に新しい。

契約を果たせなかった貴方が悪い」とか、「今に見てろよ」みたいなセリフとともにそこにいるアニメ作画のハンサムな子たちは、私に薄い恥ずかしさを覚えさせた。私がその薄い恥ずかしさを感じたのはこれが初めてではなかった。

それからツイステッドワンダーランドは頻繁に目にとまるようになった。東京駅に大きい広告が出ているのを見かけたり、ディズニーストアで買い物をした際、丁寧にほぼフルカラー印刷されたしっかりとしている本を無料で渡されたりもした。その度に、Cringeのような気持ちを覚えていた。 (Cringe・・・見ていて恥ずかしい気持ち が近いかも)

友達にも「あのディズニーの悪役のゲーム知ってる?」と聞かれる事が増えた。面白おかしく茶化して、ウケるよね、みたいな話をしていたと思う。

そんなことをしているうちに、知らない間にツイステッドワンダーランドがローンチされていた。友達が既に始めていて、「思ったゲームと違った、乙女ゲームではないようだ」と教えてくれた。

ツイッター上でも「シナリオがしっかりしている」という意見を散見するようになった。私は正直、嫌悪するにしても知ってから嫌悪するか、みたいな気持ち半分、どんなトンチキが出てくるんだろうという好奇心半分でダウンロードをし、プレイしてみることにした。

先述した通り、スマホゲームに触れずここまで来た私にとって、「ソシャゲ」は未知の世界であり、1ミリとして想像のつかない世界だった。ぼんやりと、なんか 「俺にしろよ・・・・」みたいなハンサムが四方八方から壁ドンをしてきて、誰とデートするか選ぶみたいなゲームだろう、みたいな予想だけを胸にゲームを始めた。

このゲームは、私の名前と、私が操作するキャラクターの名前を別々に決めることができる。システムがそうなっている理由は未だにわからないが、私は自分の名前が呼ばれたら恥ずかしいな、と思い私が好きなスターウォーズのキャラクターを主人公の名前にした。

結果としておそらくインストラクションであろうチュートリアルの部分を終わらせるだけで何日も何日もかかったし、チュートリアル部分が終わっても、システムのことは2割も理解できなかった。

とりあえず、この学校はディズニーヴィランズどもを崇拝しており、おそらく彼らの存在は伝説レベルで昔であること。

また、私のおかげで高校生の子二人は退学を免れ、ビューフォード(from フィニアスとファーブ)と同じ声を持った猫は私と一緒に行動することになり、私も学校に通えることになるらしい。

そこに通う子達は、元ネタであるディズニーヴィランズの擬人化でもアニメナイズでもなく、別人格であり、直接的に子孫であるわけでもない。それがひとまず私がわかったことだった。チュートリアルを通し、青い髪の毛の子と赤い髪の毛の子は、私のおかげで少し仲良しになったみたいだった。私は喧嘩ばかりしていた二人が仲良くなってくれたのが、純粋にうれしかった。

そのまま「想像していたよりもデートに誘われたりしないんだな、へえ」とか思いながら適当に画面をタップをしていたら、知らない曲と一緒に映像が流れ始めた。おそらくオープニングタイトルで、知らないキャラクターたちや、何かで見た事のあるキャラクターたちがアニメの絵で動きまわる。ディズニーはこのゲームに本当に力を入れている、此処まで辿り着くのにどれだけの人が苦労してローンチまでこぎ着けたんだろう。

その時にふと、「私は何故、画面の中にいるハンサムたちが私に話しかけてくる事を恥ずかしく思うんだろう」と考えた。ロジックとしては、「ミッキーマウス クラブハウス」でミッキーマウスが世界の子どもたちにテレビの中から問いかけるのと何ら変わらないはずなのに。

私はなぜ乙女ゲームでないことを聞いてプレイする気になったんだろう。なぜ私は最初から薄い恥ずかしさを覚えていたのだろう。なぜ私は、ツイステッドワンダーランドが乙女ゲームでないことを「評価してやる」という気持ちなんだろう。私は最初に何を嫌悪し、何に好奇心を持ったんだろう。

私は、今までのこの薄い恥ずかしさを覚えたことがある瞬間に、思いを巡らせていた。2.5次元舞台を初めて観に行った時、某テーマパークで男の子達だけが出るショーを観た時、別の某テーマパークで某アトモスフィアが始まった時など、数えたらキリがない。私の中にこびりついて離れない、一定の何かを見ると覚えるうすら恥ずかしさ。それは、なんなんだ。

”それ”はおそらく、いや、確実に、心底ではわかっていながら無視してきた、ミソジニー、つまり女性蔑視だ。私の心の底にこびりついて離れない、恐ろしいミソジニー。

幾度となく覚えた「薄い恥ずかしさ」は、別にキャラクターに名前を呼ばれる照れから羞恥を覚えたのではないのだ。

つまりわ自らが該当コンテンツの一部になることで、世間で固定的な価値観から揶揄されてしまっている「夢を見るオタクの女性」になってしまう可能性、対する羞恥心であり、それは紛れもなく「ハンサムなアニメのキャラクターに夢を見る女性」という存在を、私が蔑視していたということになる。

あまり調べてもないのに、心の片隅で「Woke Cultureではないだろうから、だから別に、」というもっともらしいをつけて嫌悪していたくせに、自分は内在的ミソジニーに気づけてもいなかったじゃないか。

一層ではなく、何層にも積み重なり確実に私の心底に根を生やしていた、自らのグロテスクな偏見と目を合わせることがあまりにも久しぶりで、なかなか事実を飲み込むことが出来なかった。

私はファンガールという存在を知ってから、ファンダム文化が大好きなつもりだった。

ファンは、信じられない力でどんなことでも可能にする魔法のようなパワーを持っている。18歳になるくらいまで二次創作の存在さえ知らなかった私にとって、見た事のない熱意を持って好きな事を話すファンが私は好きだった。けれど、その「熱意が好き」という気持ちは私の中であくまで「知的好奇心」の範疇であり、存在自体をイコールとして自分が見ていなかった事が、ショックだった。自分が今まで支持してきた思想と対局の意識が私の中でどんどんと芽吹き、自らで視野を捻ってたなんて。

しかしながら、自分の内在的差別心や偏見に対する気づき、軽蔑と嫌悪を覚えたのと同時に、不思議と心が軽くなった事も事実だった。私はこの恥ずかしさを覚える必要はないし、覚えるべきでない。偏見に塗れた私の羞恥を捨てることは、私自身への肯定でもあり、私が好きなファンダム文化への真の賛同なのだから。

ツイステッドワンダーランドは、私の捻れ切きった価値観を全く予期しない形で再度捻ることで、別の新しい世界を見せてくれた。

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毎日、ツイステッドワンダーランドについて様々な意見を目にする。上記した考えは私の中だけであって、当たり前ながら意見の数だけ様々な考えがあると思う。私も、ゲームの中で描かれている価値観に対して疑問を投げたくなることは幾度とあるし(何度も言っているアズール・アーシェングロッドさんへのBodyshamingなど)少し前の自分であれば、もしかしたら目にもしたくなくて、単語を片っ端からミュートにしていたかもしれない。

原作にはなかったヒューイ・デューイ・ルーイに個を加えたダックテイルズや、シュガーラッシュ2で描かれたOhmidisney上のディズニープリンセスと同じで、エンターテイメント界のサノスだと言われているウォルト・ディズニー・スタジオ社が広げた大きすぎる傘の下にいる以上、きっとこれからも類似したケースは断続的に起こるのではないかとも思う。

その度にきっと、ファンを失ったり、得たりしながらも、それは続いていくのだろう。もしかしたら私もまた、壁にぶつかるかもしれない。けれど、それと同時に、こうやって何か新しいことに気づく瞬間があるかもしれない。そう思うと、私はワクワクする。

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この私の内在する差別心に気付かせてくれたソースの一つに、私の好きなファンガール文と、それに対する社会についてのTEDTALKがある。

「イヴ・ブレイク;熱狂的なファンの女の子たちのために」

「なぜ彼女たちは 控えめにすべきなのか? 頭がおかしいから? それとも『理にかなった』態度の定義が、「男性に受け入れられるための行動」に基づいているから?興奮して全身で叫ぶ若い女性を目にしたときに感じてきた批判的な考えを見直してみてはどうでしょう?その喜びを表現するのに用いる言葉を見直してみては? 女の子たちを貶めるのをやめてはどうでしょう?彼女たちの知性や関心や能力を過小評価するような言葉を 使うのをやめるのです 」(同サイトより翻訳引用)

”We can all die tomorrow, so why not love things while we're still breathing? ”

明日死ぬかもしれないんだから、息をしているうちに好きなものをめいいっぱい愛そう。

自分にかけられた呪いに対峙しないと、その呪いを解く事は難しい。ツイステッドワンダーランドを初めて知ったあの日とは全く違う気持ちで、ディズニーストアでだいぶ前にもらった、適当にほったらかしていた公式アンソロジーを引っ張り出してきて開いてみた。表紙の端は折れているし、しっかりしている紙なはずが適当に保管していたせいか、よれよれになってしまっている。そうか、あの「今に見てろよ」みたいな台詞は、ジャミルくんの台詞だったんだ。あの時開いた際に感じた恥ずかしさは私を襲ってこなかった。

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