愛することはゆるすこと。
口数の多い人や、感情表現の豊かな人ほど、周囲からの関心を集めたり、先生や大人たちから可愛がられたりする。口数の少ない人や、感情をあまり表に出さない人は、疎んじられたり、軽んじられたり、存在そのものを認められなかったりする。賑やかな人や、有名な人や、わかりやすい人気を集めている人に、意識を向けることは難しくない。だが、口数の少ない人や、感情をあまり表に出さない人の方が、深い物の見方をしていることもある。真理は叫ばない。囁かれる。動的なだけでは半分で、心許ない。
普段は明るく楽しそうに生きている人も、誰にも言えない悩みを抱えている。誰にも悩みを話せないと言うことは、誰のことも信じていないと言うことと、同じだろうか。違うだろうか。喜びや楽しさなどのポジティブな感情は歓迎され、悲しみや苦しみなどのネガティブな感情は敬遠される。あたたかな太陽の光に救われることもあれば、眩し過ぎる太陽の光に打ちのめされる時もある。雨が好きなのは、頑張らなくてもいいよと言われているように感じるからかもしれない。作物を育てるのは、太陽だけではない。雨が降らなければ、作物は枯れてしまう。
自分の状態が悪い時、自分一人だけ、世の中から切り離されているように感じることがある。自分が異教徒みたいなものになり、周囲の環境に馴染めず、疎外感を抱き、奇妙なのは世界なのか、奇妙なのは自分なのかわからなくなる。「自分だけ」と思うと苦しくなる。あの人にもさみしさはある、あの人も痛みを抱えながら生きているのだと思うと、繋がりが生まれる。ポジティブな感情は歓迎されるが、ネガティブな感情は連帯の礎になる。同じ底辺を共に持つ。あらゆる感情の奥に光がある。さみしさは、同じさみしさに出会った時、ぬくもりに変わる。
誰かを否定している時は、自分も一緒に否定をしている。自分を否定している時は、誰かも一緒に否定をしている。自分を否定することは、自分を責めるためではなく、自分を守るためにある。自分だけの弱さを守ったままでは、誰とも繋がることができなくなる。分かり合えなくても、分け合うことはできる。同じものを食べて「美味しいね」と言うことはできる。同じ炎に囲まれて「あたたかいね」と言うことはできる。内側を分かり合えなくても、外側なら分かち合える。分かり合えないと言うことを分かり合いながら、同じ命を分かち合える。信じるとか、信じないとか、そんなこととは関係のないところで、一緒に、同じものを見つめている。
愛することは許すこと。一度や二度ではなく、何度も何度も許すこと。許すことと、諦めることは違う。許すとは、諦めないこと。人間を見捨てないこと。自分や他人を見限らないこと。誰一人置いて行かないこと。全員連れて行くこと。愛することは、生かすこと。生かすとは、殺さないこと。人間を殺さないこと。自分や他人を殺さないこと。支配ではなく、解放すること。閉じ込めるのではなく、解き放つこと。命を守ること。すべての美しいものは、悲しみを内包している。それは「永遠には見ていることができない」という悲しみだ。一人一人の内面には、太陽だけではなく、孤独な月がある。静かな悲しみを湛えた湖がある。孤独の中に愛がある。神は、愛を孤独に詰め込んだ。愛することは、許すこと。許すとは、諦めないことだ。
おおまかな予定
10月5日(木)宮崎県宮崎市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
バッチ来い人類!うおおおおお〜!
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