1.新羅本紀
朝鮮の正史『三国史記』新羅本紀に西暦57年に即位した新羅第四代国王の脱解(だっかい)は「もと多婆那(たばな)国の所生なり。その国、倭国の東北一千里にあり」と書かれている。脱解記事は一世紀の倭国に関する貴重な証言である。
多婆那国の所在地を丹波国、肥後国玉名郡あるいは辰韓の諸小国とする説や近年、古田武彦氏の関門海峡の関(下関と上関を含んだ地)付近とする説がある。しかし、多婆那国とは北九州の田川市付近にあった国で倭国の拡大によって滅ぼされた国であると考える。
2.新羅第四代国王の脱解
新羅本紀には脱解を次のように書く。(井上秀雄訳)
「脫解尼師今(にしきん)が即位した(吐解ともいう)とき、その年は六十二歳であった。姓は昔(せき)氏で、王妃は阿孝夫人である。脫解はむかし多婆那(たばな)国で生まれた。その国は倭国の東北一千里のところにある。むかしその国王が女国の王女を娶って妻とし、妊娠して七年たって大卵を生んだ。王は言った『人でありながら卵を生むというのは不祥なことです。捨ててしまいなさい』王妃は忍びず、絹の布で卵を包んで宝物とともに箱の中にいれ、海にうかべ、その行先をまかせた。最初に金官国の海岸に流れ着いたが、金官国の人たちはこれを怪しんで、とりあげようとしなかった。そこでまた辰韓の阿珍浦(あちんぽ)の海岸に流れ着いた。(略)このとき海辺の老婆が繩で海岸に引きよせ、その箱をあけて見ると、一人の少年がいた。その老婆がこの子をひきとって養ったところ、壮年になるにしたがい、身長九尺にもなり、その風格は神のように秀でて明朗で、その知識は人々にぬきんでていた。(略)母がいった。『おまえは常人ではありません。その骨相がとくに異なっている。どうか学問をして功名をたててください。』(略)南解王五年(八)になって、(王は)彼が賢者であることを聞き、王女を彼の妻とした。同七年(10)になって、(彼)を登用し、大輔の官職につけ、政治を一任した。儒理王が臨終のとき、次のように遺言して後事を託した。〔『自分の死後は自分の子供と娘婿とのわけへだてなく、年長でかつ賢者である者が王位を継ぐようにしなさい。』と先王が言われた。この遺言によって私が先に王位に即いたが、今度はその位を(脱解)に伝えるのがよろしかろう。〕」
3.風土記逸文にある多婆那国
風土記逸文に次の記述がある。「豊前の国の風土記に曰はく田河の郡。鹿春(かはる)の郷。(略)昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りて、此の河原に住みき。便即ち、名づけて鹿春の神と曰ふ」この逸文から「多婆那国」とは田川と思われる。
(1)田川は「田河」と書かれ、日本書紀では「高羽」とある。古くからある地名であり、その音は多婆那(タバナ)に通じている。
(2)地理的に田川を流れる遠賀川は日本海に注ぐ。田川と新羅とは脱解以前から交流があった。それが風土記の「新羅の国の神が自ら渡来し、鹿春の神となった」と、あと一つ、新羅本紀の脱解即位前の次の倭国の記事である。「前20年、弧公(ここう)はもともと倭人で、むかし瓢を腰にさげ、海を渡ってきた」とある。
4.日本書紀に書かれた多婆那国の滅亡
『日本書紀』景行天皇12年の条に高羽の川上に居る麻剥を滅ぼした記事がある。多婆那国が滅亡したときのことと考える。(山田宗睦訳)
「(十二年)九月五日、周芳の娑麼に到着した。そのとき天皇は南の方を望みみて、群卿に詔して、『南の方に煙が多く起こっている。かならず賊がいるだろう』といった。(略)そこに女人がいて、神夏磯媛(かんなつそひめ)といった。その仲間ははなはだ多く、一国の長であった。(略)参向してきて『どうか派兵しないでください。わが同類には違反する者などけっしておりません。今すぐ帰順します。ただ、残虐な賊があります。
一を鼻垂(はなたり)といいます。君の名を僭称して、山谷にがやがや集まり、菟狹(「宇佐」)川の上に群居しています。
二は耳垂(みみたり)といいます。殺傷したり貪欲にむさぼって、しばしば人民を略奪します。これは御木川(中津市の山国川)の上におります。
三を麻剥(あさはぎ)といいます。ひそかに徒党を集めて高羽川(田川の東、彦山川)の上におります。
四は土折猪折(つちおりいおり)といいます。緑野川(紫川)の上に隠れ住み、ただ山川の険をたのんで、おおいに人民を掠めています。
この四人はその拠点がみな要害の地です。おのおの手下を支配して、一処の長となりました。四人とも『天皇の命にしたがわない』と言っています。どうか急いで撃ってください。機を失しないように」と申しあげた。そこで武諸木らは、まず麻剥の徒をさそった。赤い衣、褌、さまざまのめずらしい物を与えて、それによってまだ服しない三人を招かせた。三人はその衆をつれてやってきた。ことごとく捕えて誅殺した。天皇はついに筑紫に行幸して、豊前の国の長峡県に到着し、行宮をつくって居た。それでその処を京と名づけた」
この記事から、次のことが判る。
(1)田川(高羽川)の王は仲間の王と一緒に誅殺された。殺された場所は不明であるが、周防付近と思われる。当然、田川の王が殺されたことは本国に伝えられた。訃報を得た田川の王女は王子を避難させ、周防の反対側である遠賀川を利用し、国外の朝鮮半島へと向かわせたのである。
(2)『三国遺事』に、新羅に到着した脱解の船に二人の奴婢がいたと書かれている。単に流れにまかせただけでなく、人力で操っていたことを記している。
5.後漢書に書かれている一世紀の倭奴国
この頃のことを『後漢書』が書いている。「建武中元二年(57年)倭奴國、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。」とある。
『三国史記』では婆那国は倭国の東北の千里にある。婆那国を田川とすると、倭国は田川郡の南西の千里にある。千里は短里では約77kmとなる。田川郡の南西77kmとは筑後川河口付近となる。その時の倭国は筑後から肥後近辺にあったことになる。
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